猫を起こさないように
栗本薫
栗本薫

アニメ「薬屋のひとりごと」感想(5話まで)

 薬屋のひとりごとをすすめられたので、5話ほど見てみる。ひどくなつかしい昭和の物語類型で、特に女性がこれにハマるのはよくわかる気がします。もし本作が同人小説で栗本薫が存命なら、たちまち小説道場でベタ褒めされて段位がついて、角川ルビー文庫で書籍化されそうな内容です(道場主がカセットブックの声優をワチャワチャ妄想する様が、テキストで目に浮かぶよう)。出自的には、「現代人の自我と衛生観念を持った主人公が、作者の薬学知識を使って前近代で無双する」ことから、擬似中華っぽい舞台設定ーーナーロッパならぬ、なんのこっチャイナ?ーーもふくめて、異世界転生モノの亜種に分類できると思います。この作品がうまいのは、「美と生殖が至上の価値にある場所で起きる事件を、知識と推理と行動力によって解決する」仕組みになっている点で、かつて美容ではなく勉学に青春を全振りした高学歴女性たちが、本作のプロットを通じて大きく溜飲を下げており、それがヒットにつながった理由だと推測します(余談ながら、女子の人生において「いつ色気づくか?」というのは、生涯年収にも影響をおよぼす、きわめて重要なのにアンコントローラブルでもある命題ですが、長くなるのでここでは省きます)。

 「美に価値を見出さず、知識に全幅の信頼を置く奇人のたぐいだが、ある種の人々を魅了する美しさを備えていないわけではない」というのは、高偏差値女子にとって人生の遅くになって満開に咲く花、さらに下品な言い方をすれば、キャリアという名の豚骨ラーメンに美男子のチャーハンがついてくる「オンナの欲望まんぷくセット」となっていて、総体としてハーレクインロマンスを複雑骨折させた後の自然治癒みたいな作品だなーと感心しました(ほめてます)。あと、最近のテレビアニメは「このシーンの動き、すげえ!」みたくSNSでバズらせるために、両肩でゼイゼイ息をしながら、使用者も求めていない36協定を無視した労働を自発的にやってる感じが見ていてつらいのですが、本作は適度に手を抜いて枚数をセーブした9時5時のサラリーマン労働からできており、管理職が見ていてしんどくならないのはいいなーと思いました。

雑文「『鵼の碑』刊行に寄せて(少しストリングス)」

 きょうは18年ぶりのアレについて話そうと思う。おぉん? まさか野球がお好きだとは知りませんでした、だと? バカモノ! 18年ぶりのアレと言えば、「鵼の碑」の刊行に決まっておろうが! 発売日に天尊(アマゾン)から届いたものの、誇張ぬきでレンガを2枚はりあわせたようなシロモノであり、書見台に乗せても開かず、寝ながら読むには重すぎ、通勤カバンに入れるには分厚すぎるという、ドラゴン殺しもかくやという凶器的存在なのだ。おまけに、家にいる時間はずっとスターフィールドをやっているものだから、日常生活のどこにこれを挿入(デビルワールドの擬音)すればいいのかサッパリ見当もつかず、アレを抱えたまましばらくウロウロしてから、とりあえず本棚に収めてしまった。まず電子書籍版を買い、充分に面白ければ物理的な実体を入手するという読書スタイル?になって久しいため、リアルな紙の塊をどう楽しめばよいのかわからず、モノリス周辺に集う類人猿のように困惑している次第である。よって、これ以降は最新作を1ページも読んでいない人物による京極堂シリーズ本編への雑感だととらえていただきたい。

 まず自己紹介をしておくならば、いまは無き京都の書店で処女作を手にとって以来、「邪魅の雫」までをほぼリアルタイムで追いかけてきたが、それ以降の派生作品はまったく読んでいない程度のファンである。令和の御代ならば NPO団体から断罪されるだろう、桜玉吉をはじめ陰キャのオタクどもが「ほう」と嘆息をつき、「酷く羨ましくなつてしまつた」みつしりハコヅメ少女(not婦警)に脳を焼かれ、生涯にわたり消えない印を額に刺青されたことは、本シリーズをとりまく事件のうち、最大のものだと言えよう。いまは亡き栗本薫が、「作者は処女作において、風采のあがらない小男に己を仮託していたのに、売れっ子作家となるにつれて作中のヒーローへ自意識を同化させていった。(中略)私は、見えすぎるこの目を封印した」と指摘したのは、本シリーズのことだったと確信しているが、作者が京極堂という虚構内のハイパー書痴と自意識を融合させていった結果、ついには外見も含めてその人物へと完全にメタモルフォーゼし、「本好き、妖怪好きにとってのヒーローを彫刻する」という本シリーズ執筆につながる初期動機を失ったがゆえに、18年という長い中断につながったのだと分析する。

 かようなメタい話をわきに置いて、作中の情報だけでシリーズ本編が頓挫した理由を考えるとするなら、初期のほうでも例の探偵の「ほとんど漫画」な言動でリアリティラインがグラつく傾向はあったが、あくまで脇役だったために本筋への大きな影響はなかった。それを、京極堂の宿敵としてモリアーティ教授に当たる人物を登場させ、さらに男女2人の美児童を助手としてはべらせた時点で、作品の虚構度がついに漫画方向へと雪崩れてしまったのである。いったいどう立て直すつもりかと続刊を手に取ったら、教授との対決はどこへやら、「姑獲鳥の夏」の裏バージョンが始まってしまう。さらなる続刊を読み、登場人物の名前に盛大な誤植があって混乱させられながらも、「ああ、これまでの事件の陰陽表裏となるセット部分を描く2周目に突入したんだな。ということは、モリアーティ教授との対決は刊行ペースから逆算して10年後かな」と予想していたら、そこでプッツリと続きが途絶えて、ファイナルファンタジー16ばりの「18年後ーー」な現在へといたるわけである。シリーズの慣例として、続刊タイトルも巻末に予告されているものの、「作品の完結と作者の寿命がチキンレースを始める」段階の物語群に入ってしまったなというのが、いつわらざる実感だと言えるだろう。「鵼の碑」は熱心なファンが読み終わり、だいたいの感想が出そろってから手をつけることになりそうだ。なんとなれば、いまは空いてる時間すべてをスターフィールドに使いたいからである。

 最後にぜんぜん話も口調も変わるけど、最近「東洋の若い物理学者や数学者の女性が西洋の有名な団体から賞を与えられた、なぜなら超弦理論をサポートする分野での貢献があったから」という記事がたて続けにタイムラインを流れてきたけど、ひどく政治的な動きに思えるのは、うがった見方すぎるかなー。「若い世代」かつ「男性ではない性別」で「西洋ではない場所」の人物が受賞するのって、「たとえ粒子加速器で超対称性が見つからなくとも、スーパーストリングスは中絶させない。世界各地の次世代へ向けて、これを研究すれば名誉もカネもポストも約束されるというメッセージを伝えたい」っていう西洋の年老いた物理学者や数学者の男性による強い意志とプロパガンダを感じるんだけどなー。同じ成果なら女性に与えた方が、企業や団体に対する世間の印象はよくなるしねー。アタシ、ザビーネウォイトのせいで、よごされちゃった?

アニメ「推しの子」感想(第1話)

 推しの子、第1話拡大版?を見る。艦これの最終海域ゲージ破壊から気をそらすために再生したのですが、後半は画面に目が釘づけとなり、終盤はあまりの面白さに腰が抜けました。ちなみに、イベント海域は試聴に邪魔なので、丙に落としてクリアしました。ナヒーダとか瞳の中に星のあるキャラが好きなので、漫画版も「うちの子、きゃわー!」みたいな回だけ目を通したことがありましたが、スマホ読みに特化した最近の作品ーーコマ割とふきだしと台詞のフォントが不自然に大きく、背景は小さな画面に見えないので無しか簡素ーーだったため、原哲夫がデフォルトの昭和オタクはそこで読むのを止めたのでした(エヴァ・フォロワーとしてタイムラインに上がってくる怪獣8号も、同じ理由で読まなくなった)。

 最初はアイドルマスターかラブライブ、あっても「底辺アイドル残酷物語」ぐらいだろうと思って見はじめたので、私の常として予想を外されたことへの驚愕が高評価につながっている側面は否定しません。きわめて言語過剰な作劇であり、シェイクスピアみたいに死ぬ寸前の人間がいつまでもしゃべり続けたり、親を亡くしたばかりの子どもがネットの書き込みへ作者の憑依したような罵倒を延々と述べたり、バランスが悪いと感じる部分は確かにあります。しかし、以前どこかで書いたように「品質の違いを平均でならして、下限との差で上限を浮かび上がらせる」集団アイドルの楽しみ方がわからない人物には、星野アイの描き方はかなり深く心に刺さりました。「欠損への給餌によって地獄から輝くカリスマ」こそが人々の欲望をあおりたてるのであり、今西良や森田透を至高の存在とする者にとって「いかなる現世の汚辱を経ても穢れざる聖性」が死によって完成するのは、じつに見事なアイドルの「解釈」であると、大いに首肯させられたのです。

 最近、若年男性アイドルへの性被害がネットでのみ取りざたされていますが、栗本薫のやおいで育った私にとってそんなことは当たりまえの前提すぎて、何が悪いのかわからないくらいです。「だれからも性的に求められる至天のチャームなのに、セックスによってたわめることも支配することもかなわない」という事実に身を焼く地獄の焦燥が、アイドルへ向ける感情の正体なのではないですか? ともあれ、「アイドルもの」としては90分で完全にテーマを昇華させたので、2話以降に語られるだろうサスペンス要素へ興味が持てるかについてはなはだ疑問ですが、推しの子、第1話だけは本当にオススメです! それと、露国みたいにそろそろ「転生もの」は法律で禁じられるべきではないでしょうか。過剰に生産されすぎていて、特に若年層の自殺の何パーセントかを、確実に後押ししてると思いますよ。

雑文「原神の文学性について(近況報告2023.3.6)」

 原神の最新ストーリーを読む。ディシア編については演出の一部が破綻しており、定期的なバージョン更新の弊害を強く感じさせる仕上がりで、物語としてもビルドアップとその解決に雑な部分が見られました。いくらでも待てるーー探索しても探索しても、達成率100%にならないーーので、納期よりもブラッシュアップを優先してほしいと思います。その一方、魔神任務「カリベルト」は叙述トリックを交えた描写で原神世界の深奥に迫るばかりか、SF的なセンス・オブ・ワンダーにも満ちあふれていました。大胆に予想しておきますと、テイワットは2重地下世界の上部構造なんじゃないでしょうか。ナヒーダ編とあわせて考えると、もう1つ上に本当の世界があるーーいま冒険しているのは、ドラクエ3で言うところのアリアハンにすぎないーー3層構造になっているような気がします。

 このストーリーで語られているキャラの心情についても、ほとんど文学の域に到達していると言えるでしょう。我々がカタカナで無益さを揶揄するときのそれではなく、かつて帝国大学文学部が重々しく教授していたときの、大文字の「文学」です。nWoの更新において幾度もリフレインされてきた「醜い肉塊にすぎない私が愛されたいと願うとき、貴方は私を愛することができるのか?」という究極の問いに、「できる。それが我が子ならば」と親の立ち場から断言されてしまったことに、いまは少し愕然とさせられています。この問いは本来なら肉親に向けられるべきところを、肉親との関係性からそれがかなわず、他者へと向かうがゆえにいつも無効化されてしまう性質を持っており、例えば栗本薫を創始とする「やおい」作品群などは、なんとかしてこの無効化を乗り越えて他者へ届こうとする力学が、特定の人々にとって極めて切実な「文学」でした。ある種の悲鳴とも言えるその問いかけに対して、まっすぐ目をのぞきこみ、「まず、親との関係をちゃんと精算しろ。そうすれば、我が子がどんな存在であれ、おまえは抱きしめることができる」と、たかだかゲームぐらいに言われてしまったことへ、ある種の敗北感がこみあげてくるのです。

 さらに自分語りを続けるならば、かつて「虚構における美少女キャラの白痴性を消費することに、罪は無いのか?」と問いかけた小説を書いたことがありました。「見た目が愛らしく、性的な視線を許容してくれ、簡単にセックスできる」という男性の古い欲望を、2次元に投影する過程で希釈したのがエロゲーの美少女であり、泣きゲーにおいて「見た目が儚く、深く傷ついていて、簡単に依存してくる」へと変奏されたのち、現在の萌え絵へと遺伝子を継承されていく。おそらくは自己嫌悪から発した、このほとんど神学的な問いにさえ、原神はこちらの両肩へ手を置いて「罪は無い。一個の人間として描写されるならば」と断言した上でショウ・アンド・テルにまでおよんでくるのが、本当におそろしい。国家と世代の双方にまたがるゲームを通じたこの異文化体験のさなか、長く依怙地に保持してきたアイデンティティをキャンセルされる瞬間があり、油断しているとプレイ中にしばし茫然とさせられてしまいます。

 先日、タイムラインへ流れてきた大陸の「寝そべり族」に関する記事を読みました。興味深くはありましたが、場の衰退と個の加齢をオーバーラップさせて、本邦の精神性の正体である「寂滅」に訴えるのは、読者を獲得する戦略としては正しいのでしょうが、社会批評として早々に結論を出そうとするのはイージーに過ぎます。少なくともこれから20年を定点観測して、彼らが思想未満のそれを老いていく過程で成熟させ完遂できるのか、その行く末までを含めてこの記事は完成するような気がしました。原神になぞらえて言うなら、死をゼロとした衰えの時間軸に精神を「摩耗」させられない強靭さを、いったいどのくらいの数の魂が維持できるのでしょうか。個人的には、「最後の世代」を政治的に標榜する若者の内面などよりは、世界最大のアプリに携わる人々が抱く「もちろんゲーム制作に、社会を維持するための生産性なんてない。しかし、これこそが我々の存在理由であり、いまを生きる意味そのものだ」という熱量に進行形の時代を感じます。それに原神を愛好する若いファンたちは、熱を失うばかりの世代の諦念とは、離れた場所にいるように見えるのです。

 最近では、先に退場する者たちが「世界はどんどん悪くなっていく」と口に出すことの無責任さを、強く意識します。特攻隊員の生き残りがテレビの生放送に呼ばれ、司会者がなんとか戦後の若者たちへの批判を引き出そうとするのに、「彼らは教育も受け、私たちよりずっと賢い。きっと、世界は良い方向に進んでいくと思う」と答えたというあの逸話を思い出すのです。余談ながら、いまはなきマイナー球団のホームラン打者についてのドキュメンタリーを偶然に見てしまったのですが、全編にわたって昭和のイヤな部分が濃縮された内容で、あの時代に感じていた「生きづらさ」を生々しく追体験させられました。二度とあそこへ戻りたくないと心の底から言えることは、多少の行きつ戻りつはありながら、人類が総体としては良くなっていくことの証左であるようにも感じます。上の世代を憎む者たちの作り出した文化から、憎しみだけを取りのぞいた遺伝子が、異境の若者たちを通じて世界中へと伝播し受け継がれていくーーこの未来はもちろん、我々にとって愉快ではありませんが、それほど悪い顛末ではないような気がしてなりません。

漫画「チェンソーマン第2部1話」感想

質問:えー、小鳥猊下いつも全ての事象を重く煩わしい肉に閉じこめられた哀しいボクらの言葉で解体し尽くしてくれるのにチェーンソーマン2がまだってやばくなーい?

回答:また君か。降臨より20年が経過し、もはや君くらいしか気安くはからんでこないので、相手をしよう。サイバラ女史に言及した記事あたりから、noteの閲覧数とスキがグッと増えて気をよくしていたのだが、「ヒトvsハチ」を境としてどちらも激減した。フォロワー数も減った、というか元にもどった。たぶん、ある表現が一部の読者を傷つけたのだろうと想像するが、自分の感情を的確に表現できる文章を、書かないという選択肢はずっと持ちあわせていない。インターネットで発信するというのは、様々な誤解や曲解を道連れにするということで、過去には面識も交流も無い人物から、一方的にメールで絶縁を宣言されたことがあった。私の文章を長く読んでいる向きは、まるで自分だけに親しく語りかけてくる友人だと思うようになるのかもしれない。しかしながら、私の主観を言えば、だれからの反応も無いという一点において、独房や駅のベンチで床に向かってするキチガイのつぶやきと何ら変わることはない。なので、こんな通りすがりの軽口さえ、1ヶ月ぶりにおとずれた干天の慈雨、極乾の砂漠をひとりかちゆく者へのよく冷えた水と感じられる。要望に応えよう。

 チェンソーマン第2部1話を読む。「タコピーの原罪」と「さよなら絵梨」を下敷きに、「ゲットバック」と「フツーに聞いてくれ」を深刻に受け取った読者の後頭部を、ゲラゲラ笑いながら蹴りとばしてくるような中身で、本当に人を食った書き手だなあと、改めて感心しました。作品”のみ”を使って、読み手とリアルタイムに交信できるというのは極めて稀有な資質であり、盤外戦の過剰なゴム人間の作者あたりに、ぜひ見習ってほしいものです。今回の話は、栗本薫の小説道場だったら「あいかわらずキミのセンスはブッとんでるねえ! 田中脊髄剣には、へんへー思わず爆笑してしまった。ただ、先生と生徒の不倫関係という、考えれば考えるほど重いテーマを、物語のギミックとして表面だけスーッと流してしまうのは、こう言ってはなんだがキミの悪癖だと思う。この話を描くとき、父であり夫である田中先生の苦悩や、姉であり娘である優等生の悲哀に、ほんの少しでも思い至ることができたのかどうか。いいかい、それを描けと言ってるんじゃないよ、一瞬でもそこへ意識を向けたかを聞いているんだ。耳の痛い指摘をするでしょう、ねえ? 永井豪ちゃんあたりなら、こんなもの豪放に笑いとばしてしまうんだろうけど、タツキは見かけよりずっと繊細(これ言われるの、イヤでしょう?)で、ひどく軽薄なようでいてドシリアスだから、表面上は平気なふりをしながら、心の奥ではものすごく気にすると思うね。貴方がここで停滞せず、さらにひと皮むけるのに必要な視点だと思うので、よかったら考えを聞かせて下さい」とか評されそう。そして、他ならぬ”戦争の”悪魔を1話へ持ってくるあたり、彼がこの時代にいったい何を考え、何を語ろうとしているのか、心の底から楽しみでなりません。今回は乞われたので印象を話しましたが、基本的には第2部完結まで黙ろうと思っています。

雑文「小説道場・月姫編」

 続いては門弟志望、那須キノコ(このペンネームなんとかならんかね)『ツキヒメ』。五千枚(長い!)の力作である。
 いまは懐かしい「吸血鬼モノ」(ときめきトゥナイト!)なのだが、アニメと私小説がごっちゃになったような不思議な読み味の作品だった。キャラクターの描写もほとんどマンガで、登場人物が多いわりに三人ぐらいまでの書き分けしかできていない。世界観は魅力的なので、いいイラストレーターと組んで挿絵がつけば、若干、印象はマシになるのかもしれないとは思う。
 文章について指摘すると、ところどころに光る修辞はあるものの、全体的に表現が冗長で硬い。へんへーにはすごく、だれかから批判されることを恐れてわざと難解にした、防衛的な硬さに思えたね。ただ、この硬さがバシッと決まる場面もあるので、もっと読者に対するガードを下げて、短くて平易な文章を意識して増やすといい。そうすれば、ずっととっつきやすくなるだろう。
 キツイことを言うようだけど、いまの君にはまだ、この規模の群像劇をキチンと書き上げるだけの地力はない。もっと登場人物を減らして、いちばん書きたい関係だけにしぼってごらん。そうして、少しずつ書ける範囲を広げていったほうがいい。ほんとうは、先輩なんかとではなく、もっと妹との関係を掘り下げたかったんじゃないの? たいせつなのは、物語がどう動きたがっているかの声をじっくりと聞いてあげることだ。それは同時に、自分の心を知る作業に他ならない。
 そして、ひとつ私が大きな瑕疵であると感じるのは、不死身の吸血鬼をそれと知らずに殺害してしまうくだりだ。夢の中で人を殺してしまい、汗びっしょりに目を覚まして、夢だったことにホッと安堵する。そんな経験はだれにでもあるだろう。着想の原点はそのあたりじゃないかと思うが、殺人(この場合、殺バンパイアか)を肯定するために「天涯孤独の粛清マシーン」みたいな設定をひねりだしたところで、主人公の動機が「快楽殺人を目的とした通り魔」のそれであることは決して消えやしないのだ。もちろん、小説に書いてはいけないことなどない。しかし、君があつかおうとしているのは、死ぬほどデリカシーのいる、極めてセンシティブな内容だ。君にその覚悟があったとは、とうてい思えない。力量もだ。自分の娘を通り魔に殺された両親の気持ちが、いったい君に想像できるのかね?
 なるほど、君は自分の苦しさのために書いたのであって、その人たちのために書いたのではないと言うのかもしれない。だが、小説を世に問うというのは、そういうことなのだ。娘を殺された両親の元へこの作品が届き、彼らの感じることに対していっさいの申し開きが許されないということなのだ。かように、書くことは地獄だ。けれど、先生はこの地獄が嫌いではないのだよ、那須。もしかすると君はまだ若く、切実に自分が救われることを願っていて、そんな親の苦しみなんて薬にもしたくないと思っているのかもしれない。君に必要なのは、おそらく時間であり、人生経験だろう。しかし、あせって大人になることはない。愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。きっといつか、私の言うことがわかる時が来ると思う。
 最後に辛辣なことを言ったが、世界観や造語のセンスにはキラリと光るところがある(ような気がする)。いちど吸血鬼モノから離れた別の作品を見せてください。四級。

 ……そして、次作の『Fate/stay night』で、大絶賛から初段へ昇格するイメージ。

 うーん、ツギハギって感じで、似ないなー。これでシンエヴァ批評やりたいのになー。

ゲーム「FGO第2部6章」感想

 FGO第2部6章の感想、まずは謝罪から。5章終了後の感想で、「すでに語りつくされたブリテンとアーサー王をどうも再話しそうな感じ」とかシャバゾーがチョーシこいて、本当にすいませんでした。ファンガスの野郎、無印Fateのセイバーの話と第1部6章を下敷きに、現代社会の戯画を織り込んだファンタジー世界をまるまるひとつ構築する(しかも、壊すために!)という離れ技をやってのけやがりました! Fateシリーズって、基本的に「キャラクターの物語」であり続けていると思うんですけど、アヴァロン・ル・フェはそれを維持しながら「社会と関係性の物語」へと進化しているのには、口はばったい言い方ながら、ファンガスが「成長する書き手」であることをあらためて強く感じました。彼の作劇が優れている点は、まず物語全体を結論まで鳥瞰して、構成の骨格をキッチリ組んでから、キャラを配置していくところでしょう。行き当たりばったりの「神待ち」シンエヴァとは違って、作り手が「神その人」であることへ常に自覚的なのです。その上で、「どの部分を厚くして、どの順番で提示すれば、もっとも効果的に読み手の感情をゆさぶることができるか?」を計算半分、センス半分でやっている。第2部6章も、ひとつひとつのモチーフだけで別の作品が作れそうな内容をぎゅうぎゅうに詰め込むことで、第三村のようなスカスカの書割とは違う実在する世界が、眼前で本当にどうしようもなく壊れていくのを当事者として読み手へ体験させるというすさまじさです。妖精国って、昨今のインターネット界隈と現実社会の醜悪なリンクを比喩的に描いている側面があると思うんですよね。だから、このストーリーを読んだ誰もが自分をどの登場人物かの境遇に仮託してしまう作りになっていて、世界全体を俯瞰的に見下ろす傍観者の立ち場へ逃げ込むことを許さない。市井のモブにも目配りを忘れず、「破滅が迫る中、恩人の元へ駆けもどって、二人で抱き合いながら地割れに呑まれて死ぬ」とか、読み手を信頼して背景の想像を預けてくれる感じが常にあり、それが奥行きを作り出している。シンエヴァの「受け手の読み方をコントロールするため、クダクダ説明してゴテゴテ描写するくせに、肝心なところは盲のような空洞になっている」とは真逆の態度です。「地割れに呑まれる二人」のくだりを読んで、栗本薫がトーラスのオロの話を何度も自慢していたのを、ふと思い出しました。グイン・サーガの1巻で死んだ端役が、その後いかに長きにわたって読者の心を離さなかったかという話です。小説道場の文体模写やってる人をどこかで見かけたけど、あれで栗本薫のシンエヴァ批評やってくんないかなー。

 あと、マーリンとオベロンを別人物として表裏の存在に置こうとしているのは、スキルの効果説明から理解できましたが、作中のテキストのみでは同一人物にしか感じられず、けっこう混乱しました。以前、「マーリンはFGOにおける作者アバター」という指摘をしましたが、オベロンもやはり虚構内のキャラというよりは、ファンガスのアバター色が強く出ていて、それが混乱を招いた原因だと思います。マーリンが「人間から距離を置いた、酷薄な虚構摂取ジャンキー」であるのに対して、オベロンは「人間へ積極的に関わり、世界への失望を深める信頼できない語り手」の配置になっていて、前者はFGOを始める前のファンガス、後者はFGOがメガヒットした後のファンガスなのではないかと邪推してしまいます。「もっとも高貴な者が、もっとも卑しい者に救われる」モチーフーーこの構文、6章にも出てきましたね! イエーイ、ファンガス、見てるぅ? 生けるネット呪詛だぞぅ!ーーは以前からありましたが、「高貴な者が救われるとき、卑しい者を疎んじる」視点がそこへ生じたのが、今回の大きな変化でしょう。じっさい、インターネットを通じて眺める人間や世界というものは、地虫のクソ溜めとなんら変わるところはないですからね! イヤな言い方をしますけど、オベロン視点の「虫」は最後のアレを含めて、FGOファンの暗喩だと思いますよ。愛憎が常にぐるぐる回転していて、どれだけ魅力的な世界を紡いでも、ファンの底なしの欲望へと吸い込まれて、すべて消えていく。

 けれど、現実とインターネットが互いに照射しあえば、ときに掃き溜めへ白い鶴がすっくと立ち、ときに泥の内から蓮の華が薄紅色に咲く。ダビンチちゃんが刺し殺されるフラグーー偉大な英雄の功績が、その情けによって生まれたモンスターに中絶させられるーーをさんざんに立てておきながら、最後の最後で「彼をそうさせない」(オーロラと美醜の対比になっているのが、また素晴らしい)。先日、ネット局所で話題となった「怒りをこめてふりかえれ」と同じ問いかけでありながら、回答が異なっている。これはしかし、正誤ではなく資質の違いとしか言いようがありません。真摯に書かれたあらゆる表現は、書き手の人格のすべてをあますところなく他者に読み取らせてしまうものなのです。「作品と作者は切り離すべき」という話は、法律とか社会というレベルでは「是」なのでしょう。けれど、作者と読者が一個の人間として互いに向きあうとき、その命題は絶対的に「否」なのです。本当に作品と作者が切り離せるとしたら、虚構を紡ぐという営為は、人工知能が自動生成したテキストと何ら変わらなくなってしまうでしょう。同じ時代の、同じ世界で、同じ空の下、同じ大地を踏み、同じ空気を吸って、違うできごとに笑い、違うできごとに励まされ、違うできごとに絶望し、それでも生きていくのを選ぶだれかが、心から真実に発する言葉にだけ、語られる意味がある。私はそれを聞きたいし、それを知りたいと思う。

 FGOは過去の神話や英雄譚に依拠した本質的に荒唐無稽の物語で、幕間の物語などを読むとき、その拙さ、もっと言えば幼稚さが浮き彫りとなって、暗澹たる気分にさせられます。しかし、いったんファンガスが筆をとれば、FGOは現在進行形の「いま」を鮮やかに描き出す至高の物語装置へと変化するのです。他の書き手が調べた設定をキャラに落とし込むのに四苦八苦する段階なのに対して、唯一ファンガスだけが設定を利用して「いま」の深層をえぐる物語を紡ぐことができる。第2部6章ではオベロンが特にそうで、シェイクスピアの劇中設定を使いながら、現代社会の在り方への批判とフィクションを紡ぐ者の覚悟が平行して描かれている。第2部4章では、おそらく現実の事件に寄せて、有益と無益で生命の価値を弁別することへ向けた猛烈な反発を描いたファンガスが、今回はいまの時代に漂う欺瞞に満ちた空気に対する強烈な違和感を表明している。「過去の人間のマネゴトをして、過去の人間に依存しなくては生きられない」妖精たちは、いったい何の戯画なのかを考えてみて下さい。キャスターの足の指が凍傷で何本か欠損していることがサラッと書いてあったり、見えなければ他者の痛みを無視できる我々の無自覚性への批判も痛烈です。主人公の脳内にリフレインして、窮地を伝えたペペロンチーノの言葉も、「死んだ者は、生者の中でカッコつきの『死者』として生き続ける」を今日的に表しており、あの一連の展開は年齢の順に人が死なない世界における、ある種の「しるべ」に思えました。これらの表現を、意識的にやってるか無意識的なのかはまったく不明ながら、ファンガスの書くFGOこそ、いまの時代を生きる人々がリアルタイムに追いかけるべき作品であることは間違いありません。

 生活感情を物語へと翻訳できるのは、たいへんな異能力だと思いますし、たぶん社長のジャッジで遠ざけてると思うんですけど、ツイッターとか(例の日記も少しそう)やりだしたら、メッセージ性が極限にギュッと濃縮されて特異点化したこの感じが薄まる気は、すごくしています。なのでファンガスには、「生きながらフィクションに葬られ」た者として、今後も最果ての塔(タイプムーン本社?)に幽閉されたまま、すべての感情を余すところなく物語にだけ落としこんで欲しいと思います(最後の2行はルーン文字についた日本語キャプションとして読んで下さい)。