猫を起こさないように
昭和
昭和

ゲーム「ドラクエ3リメイク」感想

 ロマサガ2リメイクのベリーハードを最終皇帝で放りだし、ドラクエ3リメイクに鞍がえしてプレイ中。個人的なことから言うと、オリジナルのファミコン版は、人生ではじめて発売日前日の深夜行列にならんだ作品であり、シリーズの中でも特に思い入れが深い。冷静に考えれば、6千円ほどをにぎりしめた小中学生が、オモチャ屋の前に大挙してならんでいるのは、強盗やカツアゲの養殖漁場みたいなもので、その野放図さが昭和だと言われれば反論の余地はないが、令和の感覚に照らすと、なぜ親たちがあれを許可したのかわからないし、教師や警察や補導員もいったいなにをしていたのか不思議に思う。そして、朝日の差す社宅の居間で、興奮にふるえながらカセットをさしこんで電源を入れると、真ッ黒な画面に白抜きで「DRAGON QUEST III」とだけ表示されたときの気持ちを想像してみてほしい。当時、全国の母親たちがとまどいをもってゲームを「ピコピコ」と表現したように、ファミコンの隆盛は多くの良識ある大人にとって、理解不能の病原体に我が子の精神を狂わされてしまうような経験だったと推察する。さらに、個人が経営する町のゲームショップなどは、つど流行りものに便乗するだけの、まっとうな仕事につけない悪い大人がする商売という感覚も多分にあったため、「だまされて、パチモンをつかまされた?」という考えが、まずはじめに脳裏をよぎった。あとからふりかえれば、カセット容量をギリギリまで捻出するための「ロムの伝説」だったのだが、背後に流れるかすかなノイズを聞きながら、しばし茫然とした時間を過ごしたことは、いまでも忘れられない。そんなわけで、ファミコン版ドラクエ3は現実での経験や感情と強くひもづいた、魂の深い部分へ不可分に癒着する、良性だか悪性だか判然としない腫瘍みたいなものなのである。余談ながら、もっとも印象的なドラクエ音楽のひとつであるこの「ボー」というノイズが、どのCDにも収録されず、ドラクエコンサートで演奏されたためしがないというのは、どうにも信じられない。ただ観客席に「ボー」というノイズが流れ続けるのを、「4分33秒」ばりにシレッとやってほしいところだ。

 さて、思い出ばなしはこのくらいにして、ファミコン版は数十周、スーパーファミコン版は数周、ゲームボーイカラー版は1周だけした程度のドラクエ3ファンの中央値から、今回のリメイクの気になる点(穏当な表現)を順にあげていこうと思う。まず、36年という長い歳月を経て、スーファミ版がドラクエ3の定本のようなあつかいを受けているのに、一抹の寂しさを禁じえない。本リメイクもご多分にもれず、システムの根幹部分はスーファミ版のガワを巻きなおしたものになっていて、より正確なタイトルは「SFC版ドラクエ3リメイク」であろう。正直に言えば、辛辣きわまる性格診断の導入があまり好きになれなかったし、もしかすると近年の若人の目にはどの結果も、異様なネガティブさで響いてしまうのではないかと危惧している。なので、勇者の性格はほぼ唯一、精霊ルビスがベタ褒めするところの「ごうけつ」一択であり、仲間には「きれもの」と「セクシーギャル」しかいなかった(ところで、セクシーギャルって性格なの? ホーリー遊児の性癖じゃないの?)。ロマサガ2リメイクと同じく、本作でも3段階の難易度が用意されているのだが、あちらはオリジナルの超難度をどうにか現代に再現するための、やむをえない措置だった。万人むけのバランス調整で鳴らすドラクエでこれをやるのは、高級料亭へ入ったはずなのに、卓上に塩・胡椒・醤油・ケチャップ・マヨネーズ・ニンニクのすりおろしなどが置かれており、ゴシック体でデカデカと「ご自由にご調味ください」と印字された黄色いテプラが、ベッタリ貼られているようなものだ。料理人がギリギリの、これ以上はない調整を行った最善と信じるものが客に出され、各自の口腔にて一期一会のケミストリーを起こす。それは接待の席かもしれないし、なにかの記念日かもしれないし、はたまたフラッとのれんをくぐっただけかもしれないが、至高の品々とそれぞれの人生が交錯するからこそ、一晩かぎりの唯一無二な体験が起きあがるのである。ゆるい軟便のようなイージーや、骨を抜いた魚のようなノーマルは言うにおよばず、ハードでさえファミコン版に比べるとプレイヤーに有利な要素が多すぎ、オリジナルのドラクエ3体験を再現しているとは言いがたい。レギュレーションが選手全員に対して同一であるからこそ、自由度の高さから工夫の余地が生まれ、その試行錯誤から達成感やドラマが生じるのであって、難易度をいつでも変更できる本作の仕様は、誤解を恐れず言うならば、パラリンピックと同じ競技性に堕しているのである。つまり、「車椅子ホニャララで生涯無敗って、ギアが高価すぎて競技人口が限られていて、そもそもまともな対戦相手がいないだけじゃないの?」みたいな疑問を投げかけられた選手のような気分にさせられるのだ(絶対に勝てるニッチ分野を探しだす嗅覚はすごい)。

 つい興が乗って言い過ぎてしまったが、難易度変更以外の部分でも、「ダンジョンの奥深くで半壊するパーティ」「体感蘇生率30%以下のザオラル」「枯渇するMPと1回の使用で砕ける祈りの指輪」というヒリヒリ感はのぞむべくもなく、「魔法以外の多様で多彩な全体攻撃」「体感蘇生率80%以上の謎呪文ザオ」「レベルアップで全快するHPとMP」というぬるま湯のような仕様になっているのである。ファミコン版のドラクエ3は、「とぼしいリソースを管理して、なんとかやりくりする」ゲーム性だったのに、本作は「豊富なリソースを、好き放題に蕩尽する」方向へ、その本質を変じてしまっていると指摘できるだろう。次にゲーム全体のルックス(笑)ーーリメイクを重ねるごとに戦士の価値が減じていくが、その問題はまた別の機会にするーーへ触れていくと、精緻に描きこまれたグラフィックは、「光と影の明暗」「水のきらめき」「そよぐ風」「大気のゆらぎ」までもが豊かに表現されており、全体的な縮尺が上がったーー建物の壁が高すぎる問題はあるーーのもあって、壮大な冒険”感”を演出することに、成功しているとは言えるかもしれない。ただ、「HD-2Dリメイク」という珍奇な表現で先行的に言い訳が成されているのだろうが、3D空間なのにいっさいカメラを回すことができず、おまけに障害物の背後に移動しても透過しないため、慣れないうちは町中でしばしば自キャラを見失うハメになった。いきおい、ミニマップばかりに目がいくようになり、おまけに初めて訪れるロケーションにおいても、完全に踏破された状態の地図が表示される(なんで?)ものだから、探索の喜びとグラフィックの価値は大幅に毀損されてしまっている。

 また、自キャラとモンスターは、だれのどういうジャッジか、解像度の高い背景から浮きまくりのドット絵で描写されており、「オリジナルの持つ暖かみを大切にした」みたいに喧伝しているのだが、これを喜ぶのは36年前に小中学生だったオッサンとオバハンだけだろう。あらゆる仕様において、親切を大きく越えたプレイヤーへの甘やかしを敢行し、令和の新規層へバチバチと目くばせを送りながら、肝心かなめの部分で安易な昭和レトロ(笑)に逃げているのである。例えるなら、ラップも容器も使わず素手でじかに握っていた当時のオニギリを「オフクロの味」と表現するみたいなもので、令和の衛生観念からすれば、とても口に入れられるようなシロモノではない。「ばあちゃんのオニギリはあったかくて、特別な味がした」ってそれ、ボットン便所で用を足してから八切りの新聞紙で尻をふいたあと、モンペを引きあげた手を洗わずに握ったため、手の常在菌と黒インクと大腸菌が米の表皮に付着しているだけですからね(ちなみに、うちのオニギリは化粧水の味がした)! バトルに関しても、モンスターのドット絵による動きを作りこんだ時点で力つきた感じで、制作中の画面でだれもが期待したような、プレイヤー側の攻撃や魔法がクォータービューでとびかうことはなく、コマンド入力時にキャラの背中だけを見せる「予告編詐欺」みたいな仕上がりになっている。正直なところ、ドラクエ11の素材とデータをそのまんま流用して、適宜2Dと3Dを切りかえられるあのシステムで作ったほうが、はるかに安あがりで工期も短くすんだのではないかと真剣に疑っている。

 さらに細かい点をあげれば、ルーラが天井無視でMPゼロの単なる「どこでもファストトラベル」ーーダンジョンを含めたすべてのロケーションがリスト登録されるのも気にくわないーーと化したせいで、キメラのつばさとリレミトの役割が完全に死んでいたり、バシルーラの効果が「酒場へ強制送還」ではなく「その戦闘のみ離脱」になっていたり、ガイドマーカーと「おもいで」の機能が完全にカブッているのに閲覧頻度の高い「つよさ」を押しのけてウィンドウの上位階層に入っていたり、ゲーム性の核の部分を変更しておきながら何の調整もせず放置された残骸が散見され、「本当に日本人はゲームを作るのが下手になったなー」と、思わずため息がもれてしまった。追加要素も首をかしげるものが多く、テドンの新規ボスは3回以上攻撃しないとたおせない高体力なのに仲間を無限呼びーーアルファベットが一巡してAに戻ったときは、コントローラーを投げつけそうになったーーしたり、サマンオサ初回訪問時の印象的な葬式シーンになぜかボイスがついていなかったり、おそらくホーリー遊児がこれまで担っていた「ゲーム全体を見通す一貫的な視点」が欠けているように感じられるのだ(1メッセージ中に「時」と「とき」の表記が混在するのを見つけたときは、暗澹たる気持ちになった)。これだけブツブツと文句を重ねながら、3日ほどでネクロゴンドまで進行しているのだから、ここまでに指摘した部分以外(どこやねん!)は、もしかするとよくできているのかもしれないことは、最後に付記しておく。

 昭和のやっかいなオタクによる、陰鬱なダウナー批評という印象を結部で弱めるため、当時、関西局所で流行っていたドラクエ3のフィールド音楽の替え歌を披露しようと思う。冒頭部分から、いっしょに歌ってほしい。さんはい、「ナワでーしばりー、ムチでーたたく、これがほんとのーマゾなのー、おねがいー、おねがいー、すてーえなーいでー……(ドラクエとは似ても似つかぬ転調)ってなこと言われてその気になって、女房にしたのが大まちがい! 炊事洗濯まるでダメ! 食べることだけ3人前! ひとこと文句を言ったなら! プイと出てゆき、はい、それまーでーよー……ぼーくーは泣いちっち、横むいて泣いちっち」。脳内で勝手に転調したあとの歌詞の正体がなんなのか、いまだにサッパリわかっておらぬのだが、記憶の澱として記述して終わ……なに、シルエトだと? バカモノ! 女戦士の乳当てなどより、こっちのほうがよっぽど大問題だわ! 変更することで、逆に「ホログラム幽霊」以上の意図があったように思われるだろうが! いっそ、バーン・ゼム・オールとかに改名してやろうか(ゼムの指すものを答えよ)!

アニメ「葬送のフリーレン」感想(4話まで)

 葬送のフリーレン、アニメ版を4話まで見る。金曜ロードショーでの一挙公開と聞いていたので、推しの子1話拡大版みたいなリッチさを期待していたのに、マンガ版の絵の密度と動きをそのままトレースしたようなプアさで、「これをゴールデンタイムで流すなんて、よくぞそんな大バクチをしようと思ったな」と逆の意味で感心しました。原作のストーリー展開については、まだベターになる余地がけっこうあると感じていたんですけど、本作は近年における「人気作品のアニメ化」のご多分にもれず、ストーリー展開はもちろんのこと、セリフまで一字一句たがわず(たぶん)、そのまま再現されています。昭和時代のアニメには、全共闘くずれのアニメーターが「原作をグシャグシャに換骨奪胎して、己の思想を表現する道具として使う」みたいな作品がよくあったじゃないですか(ミスター味っ子のアニメが面白かったので原作を読んだら、キャラと設定以外はまったくのベツモノで首をかしげたことを昨日のように思い出します)。他者の創造へ対するレスペクトにあふれた「お行儀のいい」アニメ化ばかりを目にしていると、ああいう原作無視の大狼藉をまただれかにやってほしいなー、などと無責任に考えてしまいます。

 ドラゴンクエストの世界観ーーなぜかファイナルファンタジーが用いられることはないーーを剽窃して、物語のビルドアップをそこへ丸投げする例の作品群を見ていていつも思うのは、「魔王」はゲーテかシューベルト由来、「エルフ」や「ドワーフ」はトールキン由来の概念として、広く人口に膾炙しているのだろうと百歩ゆずっても、「勇者」という単語だけは個人のテンポラリーな状態に対する賞賛の形容に過ぎないわけじゃないですか。古典的な教養の段階に達するほど年月を経ていない若い文化の用語の、さらに特殊な定義を読み手へと押しつけて、まっさらな物語を始めるのに必要な説明をスッとばす横着な感じは、説明なしの「勇者」概念を見るとき、いつも気になります。その疑念は同じくあるにせよ、後発のフリーレン(notダジャレ)が、雨後のタケノコのごとく乱発されている「転生ドラクエ大喜利モノ」をじっくりと観察した上で、「人生の終わりが彼方に見え始めたドラクエ世代」へ向けたボールを投げたのは、オタク文化の成熟を意識した慧眼だったと言えるでしょう。

 しかしながら、「正しい看取り」というテーマと「週刊誌の連載」はまったくの水と油になっていて、この2つを両立させることはきわめて難しいバランスであると感じざるをえません。なんとなれば、すでにハンターハンターの念を彷彿とさせる魔法バトルの挿入による引きのばしが始まっており、「他ならぬ原作者が、原作の持つ魅力の本質を理解していない感じ」がある種の不安として、ずっとつきまとっているからです。最新刊においては、ついに過去の勇者と現在のフリーレンが互いの肉体に触れたり、意思疎通のできる状態での追想編が始まってしまいました。人生も後半戦に入ると、だれしもが「二度とくつがえせない過去の悔恨」を大なり小なり、何かしら抱えているものでしょう。多くの場合においては、アルコールの力を借りた曖昧化による回避などが行われるのでしょうが、良質なフィクションがつむぐ「別の手段、別の機会、別の相手によって痛みをやわらげ、その一部をいやす」という成熟の処方箋は、きっと現実に対しても有効だろうと私は信じているのです。「死者と直接に対話して、後悔をやりなおす」なんてのは、凡百のループものとまったく同じ、幼稚きわまる大ウソの解決じゃないですか。「フリーレンが、新たな旅の仲間を看取る(あるいは、看取られる)」のを真正面から描くことでしか、この物語が正しく閉じることはないと、ここに断言しておきます。

 今回、マンガの朗読劇みたいなアニメを見ながら頭の片隅に浮かんだのは、血を分けた盟友の最期を看取った82歳の宮﨑駿が、常のごとく原作を完全に無視した2時間の劇場版で葬送のフリーレンを作れば、おそらく私がもっとも見たい形で作品のテーマは昇華されるだろうという妄想でした。そこまではのぞめなくとも、5話以降はバトルシーンをすべてオミットして旅を進めて、最終話でフリーレンの死が語られるぐらいはやってほしいものです。本来、マンガとアニメは別々のジャンルなんだから、全体の1%にも満たない狂信的かつ偏執的ファンなんてガン無視して、ぜんぶ昭和アニメみたいな「アナザー」や「イフ」をやればいいんじゃないですかね、もう。

 

雑文「神里綾華日記(近況報告2023.3.24)」

 現人神たるパーフェクト雷電将軍を擁する我が陣営において、その守護者たる神里家のご令嬢を引かないという選択肢はあらかじめ奪われているのである。各地を駆けめぐって集めた原石は優に1万5千個を越え、育成素材もレベル90に必要な数量を準備し、モラも600万ほどは耳をそろえて預金してある。禁治産者たる「宵越しのカネは持たない」凡百のテキストサイト管理人のようではなく、昭和の資産運用ーー「100万円を定期預金に入れておけば、10年後は200万円になってるんだ」ーーリテラシーに忠実なコツコツ型のフルタイマーであるため、2ヶ月に渡る備蓄など20年に渡る無視を耐えしのぶことに比べれば、はるかに容易であった。そしてついに、神里家ご令嬢の降臨日を迎えたわけであるが、その元素的相棒である異能・申鶴まで無償石の内側で引けてしまったのである。これを喜ぶのは原神インパクトの提供する間断のないクリエイティブに対して、ルンペンのようにーー「右や左の旦那様、哀れな乞食でございます」ーー失礼な態度であると言えよう。

 そこで新たに課金を行い、神里家のご令嬢にふさわしい正装である「霧切の廻光」を献上しようと思いたった。正直なところ、星5武器は少々過剰な戦力で、かならずしも入手する必要はない。しかしながら、3ヶ月近くを無償でプレイしてきたことへの感謝と負い目を、生来の貴族精神が看過できなかったのだ。もはや暗記してしまった原神専用クレカの番号を高速タイプで入力して、穏やかな春の陽射しのような微笑でガチャを回す。するとどうだろう、すり抜け2回と天井3回の絵に描いたような大爆死を遂げる結果となった。眉間に手斧が深々と刺さった状態で、アゴにしたたる鮮血を手の甲でぬぐいながら、「危なかった」とつぶやく貴人がそこにはおり、コツコツ型のフルタイマーで持ち家がなければ、本当に生活が危ないところだった。気をとりなおして、神里家のご令嬢と献上武器をレベル90まできたえ、軽く厳選済み(当然)の聖遺物を5つともレベル20にし、天賦のひとつをレベル8まで上げたあたりでモラが尽きた。素材もすべて底をつき、文字通りの素寒貧となったのである。俗に言う「エリクサー症候群」とは昭和の定期預金を知る層ーー「年利で言えば、8%くらいかな。高くはないよ」ーーのみが罹患する精神疾患だと思うが、リヤカーが横づけされたバラックのトタン屋根の下で、「明日は今日よりもきっと良い日」を信じられた時代の気風をテイワットにおいても感じられるとは、夢にも思わなかった。

 いや、それにしてもこのゲーム、ちょっと育成が重すぎません? レベル1の星5と星4が地平線の彼方まで列をなして待機してるんですけど……。ディシアも好きなキャラなので手元に置いておきたかったのに、「引いたところで、少なくとも1年以上は育成の手が回らない」からガチャを控えるような状況がソシャゲで訪れるなんて……いやいや、「父ちゃん、明日はホームランだね」!

雑文「いつも心にデンジ君を」

 チェンソーマンのアニメ見とるけど、漫画のほうはパワーの顛末から始まる後半戦の印象が強烈すぎたさかい、なんやデンジ君のキャラがどんなんやったかすっかり忘れとったわ。ええか、おなごども、これだけはゆうとくで、男っちゅうもんはな、みぃんなデンジ君なんや。博士や大臣から大卒のカシコから中卒のトビまで、男の人生にはまちがいのぉデンジ君やった時期があんねん。心の中のデンジ君とどう向きおうたかが、男の一生を決めると言い切ってしまってもええと思うわ。よろしか、どんなごっついべべ着てカネをぎょうさん持ってようと、男はすべからく心のどこかにデンジ君を飼ぉとんのや、それだけは忘れんとってや。

 しかし、なんや、あれやな、「食欲が満たされたら、次は性欲」ゆうんは、昭和やったら恰幅のええ背広のオヤジが金むくの指輪をはめた手ぇで歯にはさかったイタメシを楊枝でせせりながら、同伴のワンレンボデコンおミズをねっとり眺めるようなイメージやったやんか。いやいや、そうやったって、記憶を美化したらあかんて、駅のホームは痰壺から黄色い痰がはみでとったし、街の道路は吸い殻とプルトップでおおわれとったって。チェンソーマンのアニメ見ててな、令和の「衣食足りて性欲を知る」っちゅうのは、こんなにもつよぉ貧困のイメージとむすびつくんやなって思たら、なんや切のうなってきてしもてん。ワシがおなごやったら、デンジ君みたいのがおったら、なんぼでもタダでオメコさせたるけどなあ。デンジ君からただよう悲しみはな、男であることの本質的な悲しみや。おなごどもは最近、ちょっと自分をたこぉ売りすぎとちゃいまっか。そんなん、ぼくらデンジ君には買われへんで。

ゲーム「原神」感想

第1章

 ブルアカは早々にリタイアしたが、原神のプレイは続いている。最終的にスタミナ消費のログインゲーになりそうな予感はするものの、どこぞの続編詐称JRPGとは比較にならないほど世界が作りこんであるし、それに由来する探索の物量が単純に膨大なため、しばらくはこれ1本で遊べそうだ。最初期の印象は西洋風ファンタジーなのにプレイを進めるうち、地理の形状に始まって、使用漢字、固有名詞、シナリオ、そしてキャラの思考形態に至るまで、ことごとくが大陸文化から発したものであることがわかってくる。基本的にフルボイスだが、ネイティブ日本語話者が聞くと、ところどころおかしな表現が出てくるのも、奇妙なレスペクトを感じさせて逆に味わい深い。また、ゲーム内に出てくる食材の種類が異様に豊富で、回復と補助に料理が最重要であるのも、「四本足のものは、テーブル以外ならみな食べる」食文化を感じさせる。

 いま第1章を終えたあたりで、ときどきプレイフィールに小さな違和感は生じるものの、国家と仙人(仙人!)たちで魔神を迎撃する展開にはちょっと、いや、かなり感動してしまった。本邦クリエイティブの持つ特性が「百花繚乱のオリジナリティ」だとするなら、このゲームが体現するのは「模倣からの物量による一点突破」であり、細部だけでなく大枠での文化比較になっているのも、じつにおもしろい。原神、とても新鮮なのにどこかなつかしい感じを持つのは、昭和時代のテレビが私の原体験にあるからだろう。あの頃の番組と言えば、生放送、アニメ、そして香港映画であり、記憶からは薄れても身体性として刷り込まれているのかもしれない。ホニャララ真君やキョンシーなどの固有名詞には、「うわー、あったなー」と思わず声が出てしまった。やがてテレビから香港映画が消え、アニメが消え、そして生放送とポロリが消えたが、それは経済成長と技術革新、そして文化の成熟と連動していたように思う。いま界隈を大陸産ゲームが席巻しているのは、半世紀をかけた栄枯盛衰の円環を見るようで、状況を楽しむ反面、一抹のさみしさを抱いている。

雑文集

雑文「創造暴走特急」
雑文「原神の超越、あるいは獣の本性」
雑文「虚構時評(FGO&GENSHIN)」
雑文「PEOPLE‘S GENSHIN IMPACT(近況報告2023.2.21)」
雑文「原神の文学性について(近況報告2023.3.6)」
雑文「神里綾華日記(近況報告2023.3.24)」

第2章

 原神、第2章4節まで読む。稲妻国の永遠を見せたあとにこれを持ってくるかという内容で、その対比の見事さに感心してしまいました。繰り返しますけれど、この中華ゲームはシナリオと世界構築に手抜きがなく、つたない部分もあることは否定しませんが、それを承知した上で自分たちの全力を尽くしているのがひしひしと伝わってきます。「永遠を永遠たらしめないのは肉体と魂が摩耗するため」とか「神々の呪いは人の魂よりも高位なので解呪不能」とか、原神世界の根幹を成す真理が章の終わり毎に提示され、世界の見え方を一変させるのはすごい仕掛けだと思います。特にヒルチャールの正体については、貴方がおたくであるならば涙なしに読むことはできないでしょう。「仮面をつけているのは己の醜い姿に驚いたせいで、拠点にある水鏡はその悪夢より醒める朝を待っているから」とか、「長い年月に魂の摩耗した彼らは光を嫌うようになり、暗闇に身を横たえて己の体が闇に溶け去るのを待つ」とか、「最後の最後には、火による温もりを求める」など、まるで自分の来し方と末路を言われているような気がして、同情と共感に知らず嗚咽がもれました。そして、「洞窟に住むネアンデルタール人たちは、同胞の亡骸に花をたむけた」を連想させるシーンと、消えゆくかつての部下に国は滅びていないとウソをつくシーンには、「死者の尊厳」を丁寧に取り扱っていて、はたしていまの本邦にこの感覚は失われずあるだろうかと強く疑う気持ちになりました。

 原神のシナリオに対する評価が気になって検索してみると、全体として「良い悪い」「好き嫌い」ぐらいの感想ーーあと、「文章が長すぎる」ーーしか見当たらず、大陸産のクオリティをかつての経験から低しとあなどって、だれもこの黒船級の衝撃を正面から受け止めることができていないのではないかと考えると、暗澹たる気持ちになってきます。そして、「日々を食べること」「他者と商うこと」「やがて死ぬこと」といった人の当たり前に寄りそった物語を通じて、いまや本邦において失われてしまった感覚が身内によみがえってきます。それは「夏休みに訪れる田舎の本家での一週間」の記憶であり、そこには大地に根差した人の生活の当たり前が体現されていました(第三村みたいなこと言ってる)。いや、体現していたのは満州で敗戦をむかえた祖母その人だったのですが、彼女が世を去ったあとにただの家屋と化した場所が持っていた、少年時代の記憶の残滓や残り香が原神の端々から立ちのぼっているのを感じます。これは初老美少女の、きわめて個人的な感覚にすぎないのでしょうか。タイムライン在住の美少女ディレッタントたちに、ぜひ意見を聞いてみたいものです。

 原神、諸手をあげてほめる一方で少し疑っていることは、自分がネイティブの日本語に飽きてしまっている可能性でしょうか。意味理解に間の必要な「滞空時間の長い」テキストが好きなので、中国語の翻訳による文章の硬さが個人的にちょうどよい塩梅で、シナリオに対する高評価の理由なのかもしれません。でもさー、書かれていることの端々に古典文学への教養を感じるんだよなー、いま第3章を読み中だけど、比喩のことを「既知の情報を使って未知の情報を説明する方法」と指摘したのにはハッとさせられたなー、JRPGで教養を感じたり気づきを得たことなんて、この十年でとんとないよなー。原神、ここまでの弱点らしい弱点をあげるなら、男キャラが全員CLAMP作品みたいな肩幅棒手足人間で、女キャラほどには造形にフェチを感じないところぐらいかなー。

第3章前半

 原神の第3章、花神誕祭編を読了。「スメール人は、夢を見ない」のフレーズより始まった森の民と世界樹というドファンタジーの見かけから、世界五分前仮説やシミュレーテッド・リアリティを彷彿とさせる、文字通りの「電脳」を取り扱ったハードSFが語られることになるとは夢想だにしていませんでした。いまは良質な掌編映画を見終えたような読後感に浸りながら内容を反芻していますが、押井守のイノセンスを少し思い出しましたね。また、新たな草神を心に傷を持った都合よく依存するクソチュッチュ幼女ロリータと「描かなかった」のもすばらしい判断です。彼女の造形を見た瞬間、本邦のライターどもなら間違いなくそういうキャラクターにするでしょうからね!

 祭りの主役である踊り子も、最初は頭の弱い美少女みたいな描き方で、ちょっと原神にしてはキャラが立ってないなーと考えていたら、ストーリーの最後の最後ですべて持っていかれました。花神の誕生に捧げる踊りについて、いつものように絵画風ゴージャス紙芝居でやるのかと思っていたら、3Dモデルのまま見事な振り付けのコンテンポラリーダンスを始めたのには、度胆を抜かれました。指先にまで感情が乗った優美な舞で、この踊りをもって彼女のキャラクターが完成したと言えるでしょう。第1章で演劇シーンの音声が中国語のまま残っているところがあるんですけど、調べてみたら京劇の第一人者が演じているので、他言語での代役は立てられないという話でした。踊り子の振り付けもそうですが、これこそがユーザーから貢がれる課金の正しい使い途じゃないでしょうか。本邦で唯一、原神に対抗できる稼ぎ頭であるFGOにも、新聞広告や外部イベントや多くが興味のないアーケード版やしょうもない自社作品リメイクに浪費するのではなく、これを見習ってアプリ本体のクオリティをただただ高めるためだけに、我々のカネを使ってほしいものです。

 あと、女傭兵が木人椿?につけた無数の刀傷について、そのどれをも「いつどんな技を使ってできたものか、抱いていた感情まで含めてすべて思い出すことができる。武人の技とはそういうものだ」と説明する場面に、深い感銘を覚えました。私にとってのテキスト書きが、それに近いものだからです。記述された一文一文について、どのような場所でどのような生活状況でどのような気持ちで書いたのか、すべて思い出すことができます。虚構内のキャラと「一流は一流を知る」をやるときが来るとは、思ってもみませんでした。ここ数年、「過去の資産を食い潰す焼畑」としてのJRPG続編が数多く発売されましたが、そのどれひとつとして原神に勝るものはないと断言できます(エルデンリングぐらい?)。もう失望するのにも飽きましたので、向こう5年ぐらいーー神一柱1年の計算ーーRPGは原神だけをプレイすることに決めました。

第3章後半

 原神の話をするたびにフォロワーとnote記事の閲覧数が減っていくので、もう言及はすまいと決意するんだけど、プレイを進めるとやはり私にとって記述して残すべき心の動きが生じてしまいます。のちにプレイアブルへ昇格するネームドとモブ専用のキャラではモデルの作り込みが違っているのに、JRPGによくある主人公サイドの引き立て役としての「かませ犬」にはせず、丁寧に内面から造形してあくまで対等の存在に描写することで、世界に奥行きを作りだしているのは見事だなあといつも思います。

 いまは新たに更新された第3章の後半部分を読んでいるところで、キチンと訓練を受けた脚本家の重要性をひしひしと感じています。冷静にふりかえれば私をイラつかせ、ときに大激怒させてきたのは、本邦の長編アニメ映画と大作ゲームばかりであることがわかるでしょう。プロの脚本家をないがしろにしてシロウトが好き勝手やるのに大きな資金が与えられ、興行収入や売り上げだけが評価のモノサシとなり、内容への批判は建設的なものさえ、わずかのフィードバックもされることがない。本邦の漫画作品にそれを感じたことは少ないので、やはり両業界が抱える構造上の問題なのかもしれません。そして、その誤ったシステムはどこに起因するかと言えば、それらの発祥に根を持つと考えています。詳しくは私のnote記事のどこかに書いてあるはずですので、ぜんぶ読んでください(宣伝)。

 話を原神に戻しますと、璃月が中華の栄光を描いた物語だとするならば、スメールは中華の暗部をえぐりだした物語であることが、いよいよ第3章の後半で明らかになってきました。脚本家の身を案じるほど、ちょっと危険なくらいストーリー全体を中華の現状に向けた厳しい批判へと寄せているのです。「正しい知識と世界観」を常に与え続けるアーカーシャとは何の暗喩なのか、与えられた知識に現実認識を歪められる大賢者とはだれの暗喩なのか、「いま、ここ」で「これ」を書く覚悟とみなぎる強いテンションに身ぶるいがします。そして、長くアーカーシャからのみ知識を得つづけた者がどんな人間になるかという指摘は、若い世代から老いた世代への痛烈な諫言に他ならないでしょう。また、体制から無価値と断じられた芸術からのカウンターによる鮮やかな一撃は、まさに同じ渦中にある製作者たちの反骨精神の表れとも受け取れます。本邦での弛緩しきった一億総放言(おまえが言うな!)とは正反対の状況が、意志の伴った強度を言葉へ与えているのかもしれませんね。

 みなさんご指摘のように、原神は行った課金ごとアプリが取り潰される危機をはらんでおり、そこまでいかずとも検閲による大幅な書き直しの可能性は常にあるでしょう。今回の話を読んで、ユーザーからの強い要望にも関わらず、バックログが長く実装されなかったというのも、当局の検閲を恐れているからかもしれないと思うようになりました。もし、七神全員の登場を待たずに外的状況から本作が中絶するようなことがあれば、「シミュレーテッド・リアリティの終焉」として現実批判を交えた描かれ方をするだろうと予想しておきます。ともあれ、リアルタイムで体験すべき緊張感をはらんだゲームであることが、最新バージョンで明らかとなりましたので、いますぐ仕事のデータから独立した専用PCと、生活の資金から独立したクレカ口座を用意して、指導部がこの危険因子に気がつく前に、原神のプレイを開始しよう!

 あと、救出された草神の「いま少し怒っている」という言葉に、主人公が「貴方はもっと早く怒るべきだった」と応じる場面には、涙が出ました。私が人生のある局面でかけられたかった言葉であり、対象が消滅したことをもって二度と解消しえない感情になってしまったからです。

 原神、メインストーリーの実装分までをクリア。育成素材を集める時間コストの重いゲームなので、なかなか複数キャラを並行して育てられないことに加え、我が陣営の風元素キャラは飽和状態にある。雷電将軍ピックアップへ向けた備蓄を進めるいま、放浪者を引く気はさらさらなかったにもかかわらず、関連ストーリー読了後にすぐさまガチャを回して、1体を手に入れてしまっていた。このテキスト描写による課金への誘引力は、かつてのFGOが持っていたものと同質の中身である(同ゲームにそれを感じなくなって、ひさしい)。もちろん、物語の演出にはつたない手つきもあるし、他所からの孫引きゆえに理由が欠落して見える設定もなくはない。けれど、「あれ、世界樹内の情報は自分で消せないのでは?」みたいな疑問を抱かせてから、しばらく間をおいてキチンとそれに回答する脚本の組み立ては、近年のJRPGには求めるべくもない精度へ達していると言えよう。

 「摩耗」という単語は、原神のストーリーテリングにおけるキーワードだと確信しているが、神々の語る台詞のいずれにも人の過ごす時間を超越した者の重さを感じられるのは、シンプルに驚嘆すべきことだと思う。登場人物のだれもが「家族より大事なものはない」と繰り返し、「人類の歴史で最重要なのは人情」となんのてらいもなく明言する様子は、私の中へ敗北感にも似た感情をかきたててくる。なぜ、この当たり前を語ることを「ダサい」、もっと言えば「悪い」とさえ考えて生きてきたのか、いまさらながらの疑問にとまどっている。洗練やスタイリッシュさとはほど遠い、大陸由来のこの泥くささが原神の魅力を形づくる本質だと指摘できるだろう。このゲームを通じて、現指導体制になってからの報道やネットでの言説に影響された心情の以前にあった、大陸の文化が表現するものへ向けた好意的な気分(カンフーレディー!)をひさしぶりに思い出している。長い断絶から来る「新鮮さ」が理由の半分を占めていることを自覚しつつも、原神は本邦の生みだした過去からの逆ハック、防御不能のカウンター文化侵略そのものだ。

 ともあれ、これから本作をスタートできる幸運な諸君は、パイモンという謎の知性体に対して気づかれぬよう薄く薄く伏線が張られていくのを、見落とさないよう読み進めてほしい。たぶん、この子がラスボス。