猫を起こさないように
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ゲーム「FGOサバフェス2023」感想

 サバフェス2023の前半?までクリア。肩の力を抜いたファンガスの筆に、ところどころ他のライターによる文章ーー同人誌制作パートとかーーが混ざるので、読み味はいまいちスッキリとはいきませんでした。しかしながら、尽きせぬ揶揄の源泉たる「シャチョーのハンコ絵」をひらきなおってネタにするふてぶてしい態度は、「6体の水着キャラ」という重課金要素こみで意図せぬ押入り強盗ぽいふるまいになっており、思わず笑ってしまいました。8周年記念で配布された石と札だけでハンコ絵バーサーカーの宝具は4まで重なったのに、欲しかった方の星4キャラ(どっちかはヒミツ)が1体も手に入らず、毎度のことながらじつに排出バランスの悪いガチャになっていて、乱数をまともに組める人間がいないんじゃないのかとカンぐってしまうほどです。ここまでのストーリーについて感想を述べるならば、主人公格の通称アルキャスについては、本編である第6章から引き続いて「過酷な生育環境を経たため、他者が抱く負の感情へ敏感になってしまった子ども」のような描かれ方ーー設定的には「あらゆるウソを見抜ける」だそうですーーをされており、「高潔なる英雄」である無印セイバーのネガとして配置されているのは重々に承知ながら、茨木童子とのやりとりなどでは大の大人に「アイタタタ……」と目をおおわせてしまうような痛々しさを覚えました。また、今回のイベントテキストも例年どおりオタク界隈の最新トレンドをふんだん取りいれていて、特にブルーアーカイブ方面への目くばせはなんだか強めに感じましたねー。でも、「ガネーシャ不在のカルデア・ゲーム部」みたいな、かゆいところへ絶妙に手の届かない”雑さ”ーーおそらくファンガス以外のライティング・パートーーこそ、半島や大陸のつむぐ物語によって少しずつ本邦のオタク業界が版図を押しこまれている遠因となっているのではないでしょうか、知らんけど。本イベントのライティングがいつなされたのかはわかりませんが、山火事や台風上陸など現実のディザスターとのシンクロニシティが偶然に生じてしまうあたり、まことに不謹慎ながら「稀代の巫女、神おろしの自動書記」であるファンガスの有様を再認識する気分にはなりました。

 最近、他者への想像力を欠くブンガク畑出身の人物に向けた批判がタイムラインを下ってきましたけれど、あの界隈の文字列が本来の意味での「文学」だったことはついぞなく、ヒューマンロストの昔からひとつ残らず「私小説」の範疇にとどまり続けることが、あらゆる問題の大元であり根源でしょう。世界と何の接点もない個人の感想が公の場で取りあげられるのは、「大文字の文学」と「単なる私小説」が賞レースという枠組みの中でずっと混同され続けてきたからだと指摘できます。ひと昔前なら面相のうるわしい若きアイドル文士たちに冠が与えられていたところに、近年では「ゲイ」「レズ」「クリップルド」などの属性がその対象となってしまったことへ、表層的な時代の変化だけは否応に感じざるをえません。これは「私小説」の「わたくし」部分が、あえて言いましょう、「一過性のトレンド」によって首をすげかえられている状態であり、この意味で本邦の「ブンガク」は「文学」とほど遠い場所でマニュファクチャリングされた、「値段のつく感想文の集積」と同義になってしまっているのです。この類の問題を考えるとき、どこで触れたのかは忘れましたが、「私たちは一見、たがいに異なっている。けれど、その皮一枚の下は、だれもがみな同じだ。そして、さらに少し先で、やはり私たちはみな異なっている」という言葉がいつも頭によぎります。ゲイがゲイの、レズがレズの、クリップルドがクリップルドの生活実感を記述したものは、2段階目までの中身がせいぜいで、下手をすれば1段階目の表明に満足しているケースさえあります。私の言う「文学」とは、このフレーズの3段階目にある普遍的かつ荒涼とした孤独のことなのです。

 例えば、どんなアングラな場所でのささやきであっても「ペドフィル的な愛」が手ひどく糾弾されるのに対して、いまや「ゲイのファック」や「クリップルドの性欲」は大っぴらにしていいばかりか、あまつさえ大量の紙に印字されて全国の津々浦々へと配られてさえいる。この状況を目のあたりにして私が思いうかべるのは、冨樫義博のレベルEに描かれた「愛する者の肉を食べる欲求を隠して生きる宇宙人」の話です。結局のところ、社会や法律の枠内であるからこそ発信をゆるされている事象には、それらを気どったところでなんの叛逆も孤絶もふくまれません。もしFGOのつむぐ物語が文学たりえるとするならば、最も重要なファクターのひとつは語り手たるファンガスの「無属性”性”」なのかもしれません。SNS上で外形的な個人情報の列挙から始まり、果ては知りたくもない性自認までをもストリーキングのごとくひけらかし、ジャンルを問わず生活感情の延長たる私小説にしかならない書き手は、普遍的な人間の苦しみとは一生涯、なんの連絡も持てないでしょう。神話の匿名性を保つため、公の場から遠ざかり、容姿を隠し真名を伏せた、ゲイやレズやクリップルドであるかもしれないファンガスのテキストを、ゲイやレズやクリップルドであるかもしれない小鳥猊下が読むーーこの営為の鳥瞰にこそ、私は深い文学を感得します。現在の暗澹たる社会状況を眼前にしながら、ファンガスがなお筆を止めないことへの感謝を表すため、追加の大きめな課金で水着クロエたんを引かんと試みたのですが、結果は大爆死に終わりました(だれか、星4の引き方を教えてほしい)。やはり、本邦はロリコンには生きづらい社会なのですね……正しい性嗜好の在り方を拡張していくため、小鳥猊下はこれからも徹底的に戦っていきますよ!

雑文「文学とラノベについて」

 質問:文学とラノベの定義って、どうお考えですか?

 回答:確か以前も同じような話をした思うが、いちど語られれば再び語りなおす必要の無い非更新性が文学であり、同じテーマや筋立てを異なる書き手が時代に応じて幾度も語りなおさねばならないという切迫性がラノベである。

 しかし、この質問はそもそも前提がおかしい。つぶ餡とこし餡の優劣ならば激論も交わせようが、餡子と生クリームの比較を問われても、好みを答えるしかできないのと同じだ。ラノベは歴とした日本の文化だが、本邦には私小説こそ腐るほどあれ、文学が存在したことは一度もない。文学とは、いつでも止められる精神病めいた繰り言を指すのではなく、どうしても逃げられない世界の不条理と四つ相撲を組む肉体そのもののことだ。つまり、ソルジェニーツィンは文学だが、太宰治は文学ではない。この意味では、ラノベの方が真の文学により近いと言える。

 個人的なことを言わせてもらえば、小鳥猊下を許容できなかったという時点で、どちらも不十分なジャンルであり、さしたる興味はない。ちなみに「非更新性」というのは俺様の造語だ。あらかじめ権利は放棄してあるので、好きに使ってよい。