猫を起こさないように
庵野秀明
庵野秀明

書籍「還暦不行届」感想

 安野モヨコの還暦不行届を読む。Qアンノとその周辺に関して、無駄に解像度が上がってしまったので、ここへ忘備録的にしるしておく。女史のことはハッピーマニアの当初から、あからさまな岡崎京子フォロワーであると感じていた(調べてみると、アシスタント経験等の親交がある)。以前、「近年、クリエイターがクリエイターに向けて作品を作るようになった」と指摘したが、その走りのような存在のひとりだと言えるかもしれない。演劇にせよ、漫画にせよ、アニメにせよ、それぞれの黎明期は参照すべき既存作品にとぼしく、かつてはムラの外部にいるクリエイターではない一般大衆に向けて、娯楽から啓蒙までの振り幅はあれど、「何かを伝える」ために物語は物語られていたように思う。そこから長い年月が過ぎて、各ジャンル内に作品の点数が積みあがり、多くの傑作や駄作のうちから古典が生まれ、単純な物量の裾野が業界の基盤を形成するようになると、あとから来たクリエイターは全創作物の中での己のポジション、すなわち「どの系譜に連なる者か?」を一種のアイデンティティとして、否応に示さなければならなくなる。これは同時に、オマージュやサンプリングが創作の手法として機能しはじめる段階でもある。前述したように、安野モヨコの漫画には岡崎京子とそのファンへの目くばせがあるし、最近はやりのぢぢちゅ回銭(原文ママ)も冨樫義博とそのファンをどこか意識しているのがわかるだろう。この段階においては、ムラの外にいる非クリエイターへとメッセージを送ろうとする力学は弱まり、懐から取りだした骨董品を好事家にチラ見せしながら、「アナタ、わかるでしょ、これ?」とささやいて、2人きりで忍び笑う楽しみ方が創作の小さくない部分を占めるようになる。我々のたどりついたこの現在の様相こそが、「いまは、クリエイターがクリエイターに向けて作品を作っている」という発言の真意である。

 本作の内容に話を戻すと、昔からのファンにとっては周知のことなのだろうが、女史が親から虐待を受けていたことをサラリと述べているのには、おどろきと同時に腑に落ちる感じがあった。理由は後述する。また、女史がクリエイターという職業を「人類史のうちで最も高い位置にあるもの」とみなしていることが、文章の端々から伝わってくるのである。いくらか年齢を重ねてゆくと、日々の生活をただ平穏に過ごしていく裏に、一言も発さないまま世界の基(もとい)たるインフラを黙々と維持する人々の気配を近くに感じ、己が連綿と続く「生命の鎖」の一部である事実へ自然とこうべを垂れる気分が勝ちそうなものだが、その鎖から外れた一個のビカビカの金の輪であることこそ、「正しく、ありうべき姿だ」という考えがどこかにじむのは、興味深いところだ(これ以上はゲスの勘ぐりになるので、書かない)。このエッセイは、20年にわたるQアンノとの関係性の変化によってたどりついた先であるが、交際をはじめるようになったきっかけは間違いなく「旧エヴァンゲリオンを見たこと」だろう。岡崎京子フォロワーを自認し、サンプリングの手法でモノを作ることに悪びれず、「創作って、そういうもの」とうそぶいて、売れっ子漫画家としての人生を軽やかに駆けていたところ、同時代に存在する圧倒的なオリジナルと、ほとんど出会い頭の事故にも似た邂逅をはたす。そうして、過ごそうとしていたトレンディドラマのような日常から、かつての欠損家庭という出自に襟元をつかまれて、彼女はグイと元いた場所へと引きもどされてしまったのだろう。それは、ほとんど改宗に近い人生のパラダイムシフトだったのではないかと想像する。

 結婚生活に限らず、人間関係などというものは”必ず”どちらかが多く支払っており、多く支払ってる側に納得感のあることが関係の長続きする理由だろう。本作を読んでつくづく思ったのは、安野モヨコの方がはるかに多くを支払い続けているにも関わらず、2人が破局へと至らないのは、「クリエイターの才能へと向けた畏敬」と「人間になれなかった者の育てなおし」という2つの業病が、創作者を最高の職業と信ずる、虐待を生育史に持つ者の歪みにピッタリとハマったからなのかもしれない。唯一無二のオリジナリティをしてコピーだと自虐する才能を前にして、「自分の漫画が書けなくなる」のは表れて当然の反応だとさえ思う。Qアンノと旧エヴァに出会い、「岡崎京子のいる世界で、そのサンプラーが表現をする意味とは?」に再びブチあたった結果、ただひとつ最後に残ったのがオチビサンだったとするならば、なんだか息苦しいような気持ちにもさせられる(以前、「スヌーピーのポテンシャルはない」などと放言したことを少し後悔している)。キューティハニー実写版の怪人デザインをQアンノから依頼された女史が、何を提案しても徹底的にダメ出しをされて、最終的には激昂して相手にモノを投げつけるところまでいく話が、これまたサラッと書いてあるのだが、見方を変えればこのやりとりは、「真作からオマエは贋作だと言われ続ける」という残酷な図式になっており、「そら、こんなことを無自覚にくりかえされたら、書けなくもなるわ……」と深く同情した次第である(さらに言えば、女史がQアンノの世話に人生を捧げようとまで惚れこんだ、旧エヴァから受けた衝撃のほとんどが、彼以外のクリエイターの手による要素だったとシンエヴァで判明してしまったことは、限りなく喜劇に近い悲劇だろう)。

 あと、ずっと謎の存在だった「庵野の母ちゃん」が、偏食で口うるさい神経質な義母として登場しており、「父親との対立で始まったはずの物語が、退行して無形の母なるものにからめとられる」という旧エヴァの構図の答えあわせをした気になりました。例えば、アル中で暴れまわる父親は子どもにとって明確な敵ですが、その状況のベースを作りだしているのは、せっせと酒類を買い足し続ける母親だったりするわけです。実家を離れてはじめて理解できた、「荒ぶる犠牲者」としての父親とは和解できても、「尊大なる甘やかし」で間接的に家庭内のトーンを決めていた母親とは、元より対立のステージに立つことさえできないのですから! それと不謹慎ながら、本作を読むと「宮村優子と結ばれた庵野秀明」という世界線のことは、どうしても考えちゃいますねー。本人が後書きで言っているように「奥さんに生活の世話をしてもらっていなかったら、もっと早くに糖尿病とかで死んでいた」でしょうから、MIYAMOOとの結婚生活を早々に破綻させた彼が、シンエヴァみたく健康な還暦オヤジのヌルい泣き言を垂れ流すのではなく、キャラデザの人と地球外少年少女の監督に土下座でゆるしを乞い、余命宣告を受けてから彼らのサポートの下に、病に失われゆく視力の中でこれでもかと絶望をたたきつけた「真のエヴァンゲリオン」を完成させていたかもしれないーーそんな、せんのない妄想です。

映画「夢と狂気の王国」感想

 最近は思うところあって、ジブリに関するドキュメンタリーをいろいろと見返している。もののけ姫の大ヒット以降、スタジオへ頻繁にカメラが入るようになった結果、Qアンノがカズ・シマモトを評して言うところの「つくる作品よりも本人のほうが面白いのが問題」という問題、つまりジブリ映画そのものよりも「白髭のおんじ」の言動のほうが、ずっと魅力的で興味深く感じるという呪いを、私たちはかけられてしまっているのかもしれないーーそんな感慨にふけりつつ、買ったままずっと積んであった夢と狂気の王国のディスクを再生したのだった。全体的に、ジブリが大好きな若い女性ファンがトシオあたりにだまくらかされて、おずおずとカメラを回している腰の引けた感じが伝わってきて、この人物でなければ撮れなかった場面や引きだせなかった台詞というのは、いっさいありませんでした。本来まとうべき批評性は皆無であり、全身小説家あたりを教材にドキュメンタリーのなんたるかを勉強しなおすべきでしょう。元々がジャケット買い、タイトル買いだったことを思い出しましたが、パッケージのコラージュ写真は若い女性ファンではなくハヤオの手によるもので、タイトルにしても「風立ちぬ制作秘話」ぐらいが適切な内容なので、バイヤーに錯誤を起こさせるための誇大広告として、たぶんトシオあたりがあの手書き文字でネーミングしたのにちがいありません。

 なんとなれば、このタイトルで多くの視聴者が期待する、イサオとハヤオの濃厚なカラミやトサカの突きあわせがいっさい収められていないどころか、イサオがカメラの前へ姿を現すのは全体でほんの3分ほど、話すシーンはそれこそ1分もありません。イサオの冷徹にビビッてしまった若い女性ファンがハヤオ側のスタジオに引きこもって、カメラを向けるだけで勝手にしゃべりだすサービス精神旺盛な2人の老人を撮り続けているだけの中身になってしまっているのです。言語と演技の過剰なハヤオとトシオが作り出すスタジオジブリの虚飾部分を、スタッフや関係者からの証言で浮き彫りにするのがドキュメンタリー作品の本来というものでしょう。この点において若い女性ファンに協力してくれたのは、「人生は顔に出る」という言葉を想起させる、泣き顔がデフォルトの表情になってしまった作画スタッフのお姉さんだけでした。2人の狂人男性に翻弄され、画面の外から質問未満のかぼそい発語を繰り返すばかりの若い女性ファンを見るにみかねて、声をかけてくれたのかもしれません。彼女が泣き笑いでハヤオについて語るその内容だけが、本作の中で唯一ドキュメンタリーな瞬間として立ちあがっていました。この類の証言を求めて、イサオを含めた強面の男性スタッフへ図々しく切り込んでいかなければ、すでに無数の映像ドキュメントが存在するジブリを題材として、あらためて取りあげる意味はありません。

 もっとも老獪なトシオのことですから、「腰が引けて切り込めない」ことまでも見越して、この若い女性ファンに白羽の矢を立てた可能性は充分にあります。2人の巨匠の長編が同時進行する裏側に、たとえば原一男みたいなホンモノを放りこんで真の混沌を引き起こす勇気は、さすがになかったのでしょう。全体的に「『もののけ姫』はこうして生まれた。」や国営放送の過去の密着取材を見ていれば、わざわざ手にとる必要のない中身ーーニ十年以上にわたって変わらぬハヤオの日々には、揶揄ではなく、心からの敬意を表します。まさに「延々たる冴えない日常を送るのが労働」を実践しているのですーーですが、印象に残った場面をいくつかあげておきましょう。ハヤオはなんだかんだ言いながら、人間としてのヒデアキを心の底から無条件で愛していて、エヴァが壊れる遠因となったことは差し引いても、その関係性をうらやむ気持ちにはなりました。一方で、息子のゴローは本当に他罰的でどうしようもない恫喝型のパーソナリティであり、親の威光によって映画を撮らせてもらったことに対する今さらの恨み節を聞かされて、「おまえ、ル・グウィンの遺族を前にしても同じこと言えんの?」と思わず大きな声を出してしまいました。そして、トシオが後継者と目していたノブオがゴローの不機嫌に気おされ、甲高い声で早口になってキョドる様子を見て、「ああ、こらハヤオも最新作で塔を崩壊させるわ」と妙に得心する気分になりました。

 個人的なことを言えば、「何の才能も持たないハヤオやトシオ」みたいな人物たちーーいずれも定年をむかえるか、すでに現世から退場するかしたーーと仕事をする時期を経てきましたので、あの類の全共闘くずれなレフティたちが職場でかもしだす雰囲気というのをひさしぶりに思いだして、どこかなつかしい気持ちになったのは自分でも驚きでした。あと、ちょっと気づいちゃったんですけど、最近トシオとタイ人女性との適切とは言いにくい関係が週刊誌にスッパぬかれたことがあったじゃないですか。この若い女性ファンを監督として抜擢するときも、あの件と同じ心の動きーー老いて現世の権威となった自分から、若い女性へ何か無形の遺産を残したい気分ーーがトシオの中に生じていたと考えたら、失敗したドキュメンタリー作品である以上の意味あいをもって、本作を視聴できるような気がしてきました。それにしても、「年齢を重ねて気難しくなった老人には、若い女性をあてがうとうまくいく」という処方箋は、いつでもどこでも身もフタもなく有効すぎて、笑ってしまいますね。

書籍「プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン」感想

 プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン、電子書籍で購入して、イヤイヤななめ読みする。客観的な数字に基づいた外部監査と思いきや、主観的な言葉ばかりの関係者によるお手盛り調査で、完全に予想通りではあったものの、ガッカリする気持ちをおさえきれませんでした。旧劇での「私たち、正しいわよね?」「わかるもんか」に延々と紙幅を割いてやっている感じと言えば、伝わる人には伝わるかもしれません。一見すると誠実そうなこの仕草は、新劇の抱える根本的な瑕疵から関係者全員が暗黙のうちに視線をそらし、言及を不可能にしている社内状況を如実に表すものでもあります。「思ったよりちゃんとプロジェクトしてた」みたいに印象操作を受けてしまっているアカウントも見かけましたが、このレポートの持つ性質は共産主義国家における全国人民代表会議であり、全体主義国家における国民総選挙であるという事実は最低限、ふまえておかなければならないでしょう。大本営発表へのカウンターとして、もうただの義務感から繰り返しますが、エヴァ破の予告からエヴァQへの変質について、東日本大震災に言及した反省が無いかぎり、現れる様々の症状から悪性腫瘍の存在に薄々は気づいていながらも、切除ではなく薬物療法のみを選択し続けるのと同じ結果になります。このまま病巣を放置すれば、エヴァンゲリオンというIPはますます痩せ細っていき、ついには取りかえしのつかなくなる地点にまでたどりつくにちがいありません。

 ステークホルダーまみれで構成された本冊子の中に外部的な視点があるとすれば、それはジブリの鈴木翁が寄せた原稿だけだと指摘できるでしょう。他の人物たちのものは、忖度たっぷりの筆致へさらに当局が検閲とリライトを重ねており、まったくの無味無臭へとロボトミー的に脱色されているのです。アニメ界での権威を完成させたがゆえに、旧エヴァのときのスキゾ・パラノにおける「庵野の母ちゃん、パイオツでけえのかなあ」みたいなざっくばらんさで、カラーのスタッフが語るインタビューを読むことは、もう決してかなわないのだと知り、どこか寂しい気持ちになったのは確かです。唯一、検閲からまぬがれた鈴木翁の文章を読みながら、庵野秀明の能力は「昭和アニメと特撮の完璧な脳内データベース構築」に双璧を成す、「ジジたらし、ババたらし」の人間的な魅力だったんだなあと、あらためて気づかされました。これも自戒をこめて書きますが、「ジジババたらし」の才覚でうまうまと組織や業界の上に昇ってしまった人物は、そのジジババの引退や現世からの退場を迎えてはじめて、等身大の中身と能力を部下や若い世代から検証されることとなり、精神的に厳しい立ち番へ置かれることとなります。本冊子には、その有形無形のプレッシャーに対して防壁を立てたいという気分が、全編にわたって横溢しているように感じました。もし巻末に、匿名Aと匿名Mの対談がノンタイトルで収録されていて、

「宮さん、もうぶっちゃけて言いますけど、なんであのとき、ボクを福島に連れていったんですか。あれからエヴァがおかしくなって、昔からの友人ともケンカ別れになっちゃった。予定してた会社の事業計画はもうグチャグチャで、クリエイターとしての円熟期を十年以上もエヴァで食いつぶすハメになるし、もうマジでシッチャカメッチャカな状況っすよ……」
「正直、一見チャランポランで、オレにもズバズバとモノを言うオマエが、じつは先生の言うことを真面目に受けとめる優等生タイプで、何の気なしの放言をあそこまで作家人生の宿題にしてしまうとは、思ってもみなかったんだよ。すまなかったな、ヒデアキ。だが、人生に無駄なことなどひとつもない。大事なのは、ここから君たちカラーという会社がどう生きるかということなんだな」
「なんかいい話ふうにまとめようとしてますけど、Qとシンはやっぱり余計な苦労だったと思うっす……」
「ハハハ、終わったことをクヨクヨするな! さあ、しみったれた顔してないで、飲め飲め! 若者は元気がいちばん!」
「宮さん、ボクもう還暦っすよ……」

 などのやりとりが赤裸々に交わされるのを見ることができれば、私はきっとシン・エヴァンゲリオンという大いなる駄作をゆるす気になれたでしょう。終わります。

映画「すずめの戸締まり」感想

 すずめの戸締まり、愛最大(アイマックス)で見てきた。nWoからおずおずと提案させていただいた持続可能な創作目標であるところの「地方行政と結託したご当地巡り」を素直に受け入れた九州を舞台とするオープニングから、四国・神戸・東京を順に旅していくロードムービー感がたいへんにすばらしく、何より女子高生からスナックのママまで女性の描き方があらゆる年齢層で過去最高に気持ち悪くない。おそらくよくできた奥さんと、たぶん中高生になった娘さんと日々むきあう中で、彼の中にあった「おたく特有の女性に対する偏見」が希釈されていった結果なのでしょうね。カタカタ椅子の走り回る奇想天外な序盤も、奥さんが娘さんに読み聞かせた「ふたりのイーダ」なんかが着想の原点なのかな、などと微笑ましい気持ちで眺めていました。じっさい、物語の中盤までは「新海誠の集大成にして最高傑作!」というタガの外れた宣伝文句に同調していく気分さえあったのですから。それを、民俗学をフレーバーとした類似ケースの匂わせに止めておけばいいものを、突如「ボクは覚悟を決めました!」と絶叫するやいなや、懐メロをバックにフルスロットルで不可触ゾーンへと特攻していったのです。これには、前半の好印象がすべて蒸発・気化するレベルで吃驚仰天しました。東京が水没していないことからもわかるように、本作は意図というより結果として「君の名は」「天気の子」と舞台やキャラを継続させた「東京3部作」ではなく、テーマだけを引きついだ「震災3部作」の完結編であることがここで明らかとなります。

 新海誠が公には言えないほど重度の「異常福音戦士偏愛者」であることは「ほしのこえ」の昔から有名な話で、本作もミミズ消滅の演出など、映像的にはエヴァ序破ーーと、たぶんシン・ゴジラーーの強い影響下にあります。しかし、それは表層だけの話であり、根深いのは空虚な駄作にすぎないエヴァQから、真剣に意図を読み解こうとする過程で被った思想的な侵蝕です。彼はエヴァリブート第3作目が無惨にも大失敗した理由を真摯に考え続け、同作が東日本大震災との関連を明示しなかったために「依拠する現実を失った荒唐無稽な作りごと」へ堕したのだという結論に至った。そして、エヴァQができなかった東北の災禍と震災孤児を真正面から描くことを「逃げずに」やらねばならないと、真面目な監督はついに「決意して」しまったのでしょう。商業サイドからの要請に過ぎない、いくらでも回避できる外挿的な圧力を、例えば「作家の宿業」などといった言葉で内在化して、自己陶酔的に「覚悟を決めた」様子が物語の後半からありありと伝わってきます。さらに指摘しておくと、本作は九州から東京までがエヴァ序破の映像的オマージュ、東京から東北までがエヴァQが隠蔽した裏テーマへのアンサーという構成になっているのです。

 「天気の子」の感想に、「フィクションなんだから街のひとつやふたつ壊したって構わない」と書きましたが、それはその災害がフィクションだからこそです。「この世のすべての問題の当事者であり、いずれにも関与して解決することができると信じる」のは極めて少年漫画的、もっと言えば幼児的、あるいは昨今のSNS的な誇大妄想に過ぎません。人の世を生きていけば否応に立ち位置は生じてくるもので、この作品のメッセージを受け止めた上で肯定的なまなざしを送れるのは、陰キャのクリエイターを焚きつけて理性のネジを外させた陽キャのプロデューサーか、現世のあらゆる事象から等距離を保つ独居ディレッタントぐらいしか思いつきません。「批判は覚悟の上で、被災児童と里親との関係性を鋭くえぐりだした」みたいな言い方は、この世には軽々に部外者が踏み込んではいけない場所があることを意識的に無視した暴挙であり、人としての無神経とデリカシーの欠如について、興行収入を盾に「作家の覚悟」と読みかえる傲慢さのあらわれでしょう。昔からのファンが「異常性欲者」なる言葉で揶揄するように、嬉々として「あの場面の力点は適齢期を逃した叔母の心情ではなく、どれだけ女子高生の心を深く傷つけられるかというサド的性癖によるチャレンジだ」などと語れる規模の作家ではもはやなくなっているのを、他ならぬ当人が自覚すべきでしょう。

 物語の終盤、震災孤児へと送る励ましのメッセージがでてきますが、医者に呼ばれた親族だけの病室へ見知らぬ人物が闖入し、「それでは、健康優良かつ五体満足かつ赤の他人である私から、末期ガンで名前も知らない病床の君へ、心づくしのエールを送らせていただきます!」と叫んでフレーフレーとやりだしたとき、親族の一員である貴方の行動がどんなものになるか想像してみてください。それと同質のものを、美麗な映像と壮大な音楽で逃げられない劇場の椅子へ押さえこまれて聞かされる怒りと失望ったらないですよ。エヴァQへの批判に「けたたましい鎮魂があるものか」と書きましたが、本作の終盤はまさに「ひどく神経にさわる、けたたましい鎮魂」となっていて、もはや作家性という言葉では擁護できないほどの、現実のだれかに対する厚顔無恥な狼藉の域にまで達しています。

 さらに最悪なのは、真面目で小心な監督が自ら選んだ結末へどんな非難が向けられるか不安になったのでしょう、来場者全員に同人誌を配布して等身大の己を見せることで、観客へのエクスキューズとしたことです。冊子のタイトルが「すずめの戸締まり読本」ではなく「新海誠読本」となっているのがミソで、これはシンエヴァが本邦の創作界隈に残してしまったバッド・イグザンプルの最たるものでしょう。作品に語らせるのではなく、作家個人に対する共感を観客に引き起こし、瑕疵のあるーーと本人が疑っているーーフィクションへの強い風当たりをあらかじめ弱めようとする無様な試みで、もっと言えばクリエイターの敗北なのです。どうも舞台挨拶で「本作がこうなったのは、皆さんにも責任がある」とか言ってるみたいで、真面目すぎる性格の人物が身の丈を大きく越えた題材を扱ってしまった結果、それに潰されないための精神的高揚と攻撃性を無理に作りだしているように見えます。人為的な躁状態は簡単に反転しますので、彼を焚きつけた周囲の大人たちはちゃんと精神状態をケアしてあげてくださいよ! マコト、大丈夫だから、震災孤児とその里親以外は、だれも本作を正面から受け止めて「世の悲惨をエンタメ化する手つきの、なんという醜悪さか」なんて言わないから(言ってる)! 問題作を世に問うてしまったことへの鬱状態から回復した監督の次回作は、間違いなくコロナ禍を題材としたものになるでしょうし、シンエヴァで庵野秀明から送られた目配せに頬を赤らめながらウインクを返す内容になるだろうと予言しておきます。おい、こんなのは二人で喫茶店とかでやれよ! おたくどうしの気持ち悪いやりとりを、全国の劇場を占拠してやってんじゃねえ(幻視)!

 しかしながら、「ほしのこえ」のときにはこの世におらず、「君の名は」にドはまりしてノートに「お前は誰だ?」と大書きし、「天気の子」にはさして興味を示さず、いまはもうここにいない人へ想いをはせると、同じアニメ作家を20年以上追い続けることの普通でなさを客観的に自覚させられますねー。

カウンセリング「シンエヴァ・ファイナル呪詛」(2021/5/11~2022/8/22)

承前:カルテ「シンエヴァ・リカリング呪詛(2021.3.26~5.8)」

2021年5月11日

 noteで絶賛公開中のFF11雑記「ヴァナ・ディールの癒し」ですが、お気づきのことでしょう、あの名著「ターンエーの癒し」からタイトルをいただいています。適当にしゃべりますけど、エヴァ新劇は監督が新訳Zガンダムを見たことがきっかけでスタートした企画らしいので、もしかするとシンエヴァの展開はターンエーガンダムの影響下にあったんじゃないでしょうか。ハウス名作劇場を思わせるロボット物とは水油の牧歌的な前半と、ガンダムの旧作がまとめて「黒歴史」として語られる後半を思い出して、なんとなくそう感じました。

2021年5月12日

 ごめん、またシンエヴァの話になるけど、NHKの例のドキュメンタリーで気になっている監督の言葉があって、それは屋上でインタビュアーにポツリと漏らした「アニメを作るの苦手なんですよね」というものです。何を聞かれても「言わない」「教えない」人ですけど、それは自分の根本的な薄っぺらさを隠そうとする無意識の動きで、言葉として発されたものには劇中の人物の台詞を含めて、ギョッとするほど素直な加工されていないものが多いと感じています。「アニメを作るのが苦手」というのも、韜晦や照れ隠しではなく、その時点での正直な気分を吐露しているように聞こえました。おそらくシン・ゴジラの制作を通じて、これまでずっと抱えてきた棘のような違和感をはっきりと意識してしまったのでしょう。そして実写に寄せた「手法」だけを追求した結果、シンエヴァの肝心の「中身」がゲロを吐いた床を雑巾で掃除するのをキメキメのアングルで撮影するだけの要介護作品になったことは許せませんが、「アニメが苦手」なことを自覚した雰囲気だけは確実に伝わってきました。監督が現在とりくんでいる題材は「他所様の作品で」「ストーリーが決まっていて」「実写である」ことを考えれば、アニメ制作の何を苦手と言っているかが見えてきます。この中でも特に、実在の人間とモノに向けてカメラを回すことがもたらすワンダー、全く予期していなかった、しかし頭の中にあるものよりベターな素材が上がってくる興奮、過去のどこにもない、確実にオリジナルと呼べるものを進行形で作っている実感は、非常に蠱惑的だったのだろうと想像するのです(でも、シンエヴァのアフレコはほとんど別撮りだったみたいだし、人と人との芝居で生じる化学反応は嫌ってたのかな)。つまり、己の本質を「コピー人間」と自虐する人物の内側に芽生えた「オリジナルへの希求」がシン・ゴジラからシンエヴァ、そしてその後に来る作品たちに底流する見えざるテーマになっているのではないでしょうか。監督は、ハプニングの生じにくい自家撞着の極みであるアニメ制作で、完成品を見てもすべて過去のどの作品が出典なのか自分にはわかってしまうことを「閉塞感」と表現していたのかもしれません。逆に「オタクの王様」はすべての元ネタがわかることへ強い喜びを感じていて、これがクリエイターと批評家を分ける決定的な差なのだろうなと思いました。おそらく監督にとって実写とは「リソースを伴わない無限個(に思える)の試行」を許してくれる遊び場であり、アニメ制作の「つどリソースを消費する有限個の試行」に戻ったとき、ひどい窮屈さを感じたのではないでしょうか。それが第三村を含めた前半部の奇矯な手法を生み出してしまい、基本的に自分のカネ(パチンコ)を使っているのと、ジブリの鈴木翁のようなプロデューサーがいないため、だれも費用対効果を言えないまま、無尽蔵の浪費が放置(9ヶ月かけた制作物を「頑張りが足りない」の一言でご破産にする)された。そして、その試みはカネだけでなく時間をも空費してしまい、「神殺し(イコール実写の手法)がもたらした神様のいないDパート」、すなわち独裁者による制作マネジメントの大失敗を、あの偉大なるエヴァのメタフィクショナルな結論として、永久にフィルムへ熱転写するはめになってしまった。

 また何を勝手な憶測を繰り広げているのかと呆れておられるのでしょうが、大切な人を凄惨なやり方で殺された遺族が、「目には目を」の復讐ではない、法に則った手続きを踏もうとするならば、これは必ず通る被告の心理と動機を理解しようとする許しへのプロセスに他なりません。エヴァを壊された事実は消えませんが、どうにかそれを受け止めることができないか苦闘しているのです。いつまでも終わらない私のシンエヴァへ向けたテキストは、平穏な人生に突如として訪れた極大の不幸への受認へ向けた日々の軌跡なのだととらえ、いま少し暖かい目で見守っていただければ幸いです。

2021年5月13日

 それにしても、シンエヴァの前半もアホみたいな農村で時間を使うくらいなら、これくらい性的な願望充足モノとして、シンジと女性陣の四角関係だか五角関係だかを描くでよかったんじゃないですかね。後半は後半で、月にいる実体の無い神様をカヲル君に受肉(悪魔将軍!)させて、シンジが泣きながら初号機でブッ倒すとかでも、あんなクソミソのラストを見せられるよりは、ぜんぜんマシな気分で帰れたと思います。

 著名な漫画家が「中学生ぶりに『男の戦い』を見たら、記憶よりもすごかった」とツイートしてるのが流れてきてて、おそらくシンエヴァへの失望を遠回しに表明していると思うんですけど、美化されがちな、しかも作り手の記憶よりもすごいって、すごくないですか(貧困なる語彙力)。2度目の完結から25年をふりかえれば、エヴァって「男の戦い」がすべてでしたね。多くのファンが期待していたのは、シンジが初号機で人類を救う「男の戦い」を再び戦うことだったと思います。

質問:違ったら申し訳ないですが、自家撞着を一般的な意味(自己矛盾)とは別の用法で使ってませんか。

回答:フッ、そこに気づくとはさすがアオイね。たしかに、この文章では「自家撞着」を「自家中毒」の意味で使ってるわ。アタシが「王道」って言葉を使うとすぐに「御用だ誤用だ!」とスッとんでくるトッツァンがいるんだけど、それと同じでnWo語というか、栗本薫語なのよ。「自家中毒」より「自家撞着」のほうが言葉として摩耗してないし、何より響きがカッコいいじゃない? だから、「ハプニングの生じにくい」という形容で補助して、文脈でなんとなく「自家中毒」の意味で読ませるという高度なテクを使ったまでのことで、けっして誤用なんかじゃないのよ? なによ、その目は! ほんとなんだから! あら、アナタのサムネイル、どこか見覚えがあるわね? まさか、まえにアタシのことを老害よばわりしたりしてないわよね?

2021年5月15日

 例の声明に「すわ、成就か!」と色めきたつも、海外のドぎつい「ラースと、その彼女」(婉曲表現)たちが副監督のひとりにネチネチからんでいただけで、ガックリする(まあでも、はやめに読んどいたほうがいいよ)。海外のエヴァファンって、本当にキャラの話しかしませんね(Be careful, 
@evansjellylion! They are watching you!)。

 んで、炎上したインタビューに興味が出てきて、アマゾンでサクッと掲載誌を購入しようとしたら、早くも転売価格になってて倍ぐらいの値がついてんの。「ほんと、アマゾンは使いにくくなったなー」なんてひとりごち(笑)ながら、近所の本屋……は軒並み潰れたので、幹線道路沿いの大型書店へと愛車の軽トラを疾駆(sick)させるのであった。そしたらフツーに売ってて、「やはり転売ヤーは滅ぼすべき人類悪」などとひとりごち(笑)ながらレジに持ってこうとすんだけど、その、表紙の絵がすごくアレなんです。ボデーの曲線を際立たせるピッチリスーツを着た3人が、女の子座りでこっち見て微笑んでるっていう、フーゾクの呼びこみみたいなイラストなんです。おまけにレジが女性店員だったものだから、表紙を胸元へ隠すように店内をウロウロしながら、「ここはスポーツ誌と経済誌でサンドイッチして購入するべきか? いやいや、それ、転売価格で買ったほうが安くなるやつですやん!」などと自問自答による逡巡を繰り返すハメになったのです(思春期かよ!)。最後には、「えい!」と叫んでそのフーゾク誌を裏向けにレジへと叩きつけてやりましたが、マスクをしていなければ動揺を隠しきれた自信はありません。「ありがとうございましたー」の声を背に受けながら、マスクの下に上気した頬で、「実店舗での購入にはこのはずかしめがあるの、20年くらい忘れてたなー」と、なつかしくも情けない気持ちになりました。

 さて、長すぎる前置きでしたが、件の炎上インタビューに目を通したところ、アスカとケンスケの関係を老夫婦として演出をつけたという話でしかなく、「ラースと、その彼女」たちは本当にめんどくさいなーと思いました。しかしこれは、いっさいコミュニケーションしようとしない監督の意図を副監督が勝手に想像しただけの話で、海外ファンのひとり相撲と言えましょう。もっと深刻なのは、監督がMIYAMOOの演技につけたぶつかり稽古、ブンダー直下でケンスケにカメラを向けられる場面を「ラブシーン」のように演じてほしいという発言です。はい、言質いただきました、これで監督が例の裏ビデオを見ていたことが確定しました。アスカファン(LAS)のみなさん、安心してください。これは劇中のキャラクター同士に向けた演出意図ではありません。リアリティで別の男に想い人を奪われてしまった古傷に指をつっこむことで、エヌ・ティ・アール的ライブ感をフィルムへ熱転写しようとしたのでしょう。いやー、シンエヴァを私小説にしたことは絶対に許さないけど、己の人生に生じたあらゆる感情を克明にフィルムへと刻みこもうとする執念は、ホントすごいわ。

 他の関係者のインタビューを読んでも、「まぶたの線の位置」を1ミリだか1センチだか修正させたり、それが作品のクオリティを高めるはずだと信じる偏執狂(編集狂?)的な介入の足跡を、そこここに見ることができます。どのインタビュイーも必ず監督のことに言及してて、まさにエンペラーとでも形容しましょうか、現場での影響力の大きさをうかがわせました。エヴァだからできた贅沢な作り方ーー「他の作品だったら10本は作れるデザイン量ですよ」ーーみたいな表現も散見され、「100の制作物を出させてから1だけを採用し、その1に自分のハンコを押す」やり方が徹底的に貫かれていることがわかります。シン・ゴジラの全記録全集で盟友のひとりが「本当にすごいし真似できないとは思うけど、同時にああなったらおしまいだなとも思う」みたいな発言をしていたことを思い出しました。つまり、己の主観による判断が絶対であり、それは裏を返せば、対立する別の主観は間違っているということになります。「両雄ならび立たず」の言葉通り、同じ力量を持ちながら常に意見をねじふせられた結果、だれかとの「友情にヒビが入って」しまったことは、想像に難くありません。

 そして、かつてはシナリオについてもこの手法(他人の100から1を拝借)が取られていたのに、エヴァQ以降ーーまだ3作しかありませんがーーは「自分で100を作って、ぜんぶ使う(書き直しはある)」ようになってしまいました。突然の路線変更から、シナリオをすべてひとりで書かなくてはならなくなった結果、エヴァQが大失敗に終わったことは記憶に新しい(さほど新しくもない)ですが、そのリベンジをシン・ゴジラで果たしてしまったのは、エヴァにとっては大問題でした。この作品が多方面からの激賞を集めてしまったせいで、おじいさんは「ホッとして」しまい、自分に脚本の才能があると勘違いしてしまったのです(うーん、「大きなカブ」は副読本として最適ですね! ゴツゴツしたカブもするする飲みこめちゃう)。「個々人の感情に焦点を当てない、綿密な現実の取材に元づく群像劇」が見事に監督の特性にハマッたことがシン・ゴジラ成功の理由であり、「人間ドラマに興味がなく、素(ス)の語彙選択がおかしい」という欠点は手つかずで放置されました。なので、「依拠する現実が存在せず、各キャラの感情に焦点が必要である」物語をもういちど語らねばならなくなったとき、再び盛大に破綻してしまったのです。つまり、シン・ゴジラの成功が「エヴァQは失敗ではなかった」という依怙地なまでの思い込みを補強したことで、オプションとして存在していたはずのエヴァQ世界の放棄に踏み切ることができないまま、2時間を迷走したあげく、最後に完成だけを目途とした自己模倣へと逃げこんでいくことになるのです。それは「この結末しかない」という強い意志による決定ではなく、時間に追われてどうしようもなくなってEOEを引っ張り出したようにしか見えず、エヴァという稀代のSF作品にとって最悪の選択がなされてしまったと、公開以来ずっと思っています。初回を視聴したときの加工の無い感情は、「もうそれ、20年前にやったじゃん! 同じことやるためにわざわざリブートして、15年近くも時間かけたの!」でしたもの!

 あと、このフーゾク誌にはスタッフだけでなく声優のインタビューも多く収録されているのですが、もっとも話を聞きたいマリ、冬月、ゲンドウ、カヲルの分は掲載されていませんでした。でもなぜかキャラ紹介だけは用意してあって、トビラのしらこい(関西弁で「白々しい」の意)アオリ文もふくめて、「情報統制きいてんなー」という感想を持ちました。

2021年5月16日

 あ、ども。ピンク色のロボットから海岸近くの海に膝を抱えて飛び込んで、浅瀬なのにメッチャ潜行してから浮上して、長髪を獅子舞みたいスローモーションでバッと水切り(足の立つ深さじゃん!)する女の、ビールのCMみたいな光景がトラウマになってるところの、小鳥猊下です。

 シンエヴァ視聴後、私が深く後悔していて、心から謝りたいと思っているのは、テレビ版と旧劇に関わったかつてのスタッフたちに対する自分の態度です。これまで折に触れて、かつてのスタッフたちが「あの設定は私が作った」とか「あの台詞は私が書いた」とか発言してるのを見かけるたび、「ハア? エヴァの骨格を作ったのは監督だろ? 小指の先の肉付けみたいな話で、ブランドの威光にタダ乗りする後出しジャンケンしてんじゃねえよ!」などとモニターの前で、まさに狂信者としか形容できない反応をしていたことを告白します。しかしながら、シンエヴァを経て、「小指の先の肉付け」をしていたのは監督のほうだったことが、痛いほどにわかりました。

 昔、どこだったかは忘れましたけど、監督が「ラブ&ポップ」映画化の許諾をもらいに行ったときの様子を村上龍がインタビューで語っているのを読んだことがあって、「ふつう、作品使用の許可をもらいに来る人は、どれだけ思い入れがあるかを滔々と語るんだけど、そういうのがまったく無かった。ロケはこんなふうに考えていて、ハンディカムを使うので費用はこうでとか、淡々と撮影の話しかしない」みたいな内容だったと記憶しています(このインタビュー、旧劇の直後なので20年くらい前のものだと思うんですけど、どこかに収録されてませんかね?)。当時これを読んで、愚かな私は「すげえ、カッケえ!」などと感動してましたけど、シンエヴァを見終えた現在から振り返れば、この頃から監督の本質は1ミリも変わっていないことがわかります。村上龍はその態度に感心して、できあがった作品を気に入ったようでしたが、興味関心のある「手法」の実現こそが優先されるべき第一で、表現される「中身」は常に二の次なのです。「思い入れは?」「ない!」「伝えたいことは?」「ない!」人が、ひとりで脚本を書いたらアカンのとちゃいますか? なぜ、元ファンの若手スタッフたちや旧エヴァを作った功労者たちに、せめてストーリーだけでも任せなかったのか、それが悔やまれてなりません。

 ともあれ、私が好きだったエヴァンゲリオンは、今回スタッフロールに名前の無い、貴方たちが作り上げたものだったのです。これまでの軽視と非礼に対して、謝罪させていただきます。本当に、申し訳ありませんでした。そして、エヴァという素晴らしいSFを生んでくれたことに、あらためて感謝いたします。

2021年5月23日

 シンエヴァ、例の声明が出てからネットの動向を観察してる。わざと固有名詞を出した強い言葉で罵倒ツイートを連発して中2病的にイキッてみたり、公開時に人物攻撃や批判の記事を書いたきり忘れてたのに言論封殺されていないことを示すために単発のマイナス言及をしたり、ささやかな抵抗を示している方々もいるにはいるようです。けれど大勢は「こら、もうさわらんほうがええな。さわらぬカミにたたりなしや」という感じであり、最初からシンエヴァという作品自体が存在しなかったようにふるまっています(これがもっとも「賢い」やり方でしょう)。そして私はと言えば、当該のツリーに並んだ「信じられない」「ひどいです」「がんばって」「負けないで」「応援してます」等の言葉の群れを半ば呆然と眺めながら、胸中にわきあがるオーウェルのごときディストピア感ーー狂っているのは自分の頭ではないかーーにさいなまれつつ、現在の「清潔なインターネット」において例の声明が殺虫剤か殺鼠剤を噴霧するような劇的効果を発揮したことを、ジワジワと実感させられているところです。好きだった作品のひどい完結編ばかりでなく、意に染まぬ反応をするファンをやっかいなハエかネズミのように追いはらい、「だれも触れない」という意味でのケガレをまとわされた末の実存的消滅を眼前に見せられて、いまや私の心の一部は永久に停止したようになっています。この苦しみはもうだれとも共有されないのだ、いや、初めからこの気持ちはどこにも存在しなかったのだと感じるとき、脳の血流が弱まって視界を暗い闇が覆ったようになります。そして、心も死ぬことがあるのだなと無感動に受け止める自分を、別の自我が離人症のように斜め上から見下ろしているのです。たぶん、客観的に己の状態を分析すれば、「深く傷ついている」と言えるのかもしれません。こんなにもひどい仕打ちが人生に起こることがあるなんて、想像もしていませんでした。

 ……などと、深い孤立感から鬱っぽくなっていたところ、「はてブ!コメント全レス祭り」にはてなの長老みたいな人物から「最高でした!」 と投げ銭されてるのを発見しました。とたん、鬱気は吹きとんでテンションはアゲアゲになり、ジュリアナ東京のお立ち台でタワシを見せながら扇子を振るアーパー女子のマインドセットへと強制的に切り替わりました。オレはアーティファクト「純粋少女」を召喚、攻撃表示でターン終了するゼ! いやー、もう感謝の一言しかありません。フォロワー3ケタのアカウントなんて、公式のサービスからもガン無視ーー悪いなゲイ太、このスペースは600人用なんだーーされてるネット泡沫で、いくらキメキメのツイートを連発してるように見えようとも、座敷牢の壁に向かって正座してブツブツつぶやいている以上の実感なんて得られませんからね! もっと小鳥猊下をフォローして、愛を表明して、課金していいのよ! ウマ娘と違って見返りのある、生きたカネの使い途だからね! もちろん萌え画像の寄贈も、オジサン大歓迎しちゃうナ!

 あと、村長以外にも実名アカウントぽい方から「:呪」に課金があったことにいまさら気づきました(集金まわりのユー・アイがわかりにくいのは、裏の意図を感じさせて最悪ですね)。添付されたメッセージの内容は「初見の時に同じ思いで見てました。ありがとうございます」というもので、気になってその人のアカウントを見に行ったら、「シン・エヴァンゲリオン、良かったよ」みたいなタイトルの短い記事が置いてあって、いろいろ察しました。あと、おキレイな同調圧力に満ちた本邦のインターネットはマジでクソだな、と思いました。

2021年6月6日

 FF11で3アカウント目の星唄を機嫌よく進めていたのに、ツイッターのトレンドに「シンジ」とあり、イヤな気分でクリックする。そしたら案の定、「6月6日は碇シンジの誕生日です。おめでとう!」みたいなツイートが並んでて、ゾッとしました。あのね、監督はキャラの誕生日を考えるのが面倒で、声優の誕生日をそのままアニメ誌に投げただけですよ。それがいつのまにか公式みたいな扱いになってしまったわけで、どのキャラがいつ生まれたかなんて、あのひと興味ないと思いますよ。もっとも、全キャラの命日が3月8日なことだけは公式に確定してしまいましたがね! 命日つながりで話をすると、第三村の墓参りのシーンを見て気づいたんですけど、あれぜんぶ土葬してますね。墓の形状もそうですし、文明の崩壊した世界で「遺体を骨になるまで焼く」なんて余剰に使える燃料はないでしょうから。え、あの世界では死んだらLCLになるんじゃないかって? そのへんの設定は(核心なのに)もうグチャグチャで、監督に聞いても答えは返ってこないと思いますよ。シンエヴァ、自称・現代アートの専門家が京都の千年家の大黒柱にノコギリ入れて外壁にペンキ塗ってベニヤ板で建て増しして、ついには家屋全体を傾けて住めなくしたようなもんですからね。そんなふうに、ドリフのコントで最後に倒壊するセットみたいにすべてのエヴァンゲリオンへさようならしたはずなのに、コラボ商品やキャラグッズ(しかも、破までの設定)の販売だけはますます盛んで、もう嫌悪感しかありません。公式ストアで「貴方にとってシンエヴァを漢字一文字で表すと?」みたいな企画やってますけど、アカウント持ってる人は「呪」って送っといて下さい。1位を取れたら痛快ですね! もっとも、公開後の広報の手口はほとんどノースコリアかビッグブラザーなので、確実に握りつぶされるでしょうけど! あと、ロボット2台と奥さんと昔の想い人が右上から出現するカットばかりの見にくい中盤の戦闘シーンですけど、落下の臨場感をリアルに表現させるために社費で若手スタッフをスカイダイビングへ行かせたそうですよ! Qでは数千万円かけてピアノの内部構造をCG化したり、死に金を使うことにかけては、まったく日本一ですね! 我々ロスジェネのドカチンがツメに火をともして貢いできたカネを、いったいなんだと思ってるんでしょうね! チクショウ、せっかくいい気分でしばらくはエヴァを忘れて過ごせていたのに、チクショウ!

2021年6月8日

 シンエヴァの広報、本当になりふり構わなくなってきましたね。旧劇のときはファンから何を聞かれても「もう終わった作品だから」とそっけなくつっぱねていたのが、今回は嫌がるファンの足下に「行かないで!」とすがりつく感じで、みっともないったらありゃしない。「きれいなジャイアン」なるネットミームがありますが、今回の顛末を例えるなら「きたないエヴァンゲリオン」ですね。たぶん、最後のアニメ作品で興収100億を達成したいという思いがムクムクと頭をもたげてきて、生来のパラノイド気質によりその執着から逃れられなくなってるんでしょう。作品への評価が割れてるものだから、数字で己の決断の正しさ立証しようと躍起になってて、まさに「ブザマね」の一言です。新たな特典の前日譚マンガにしても、本来ならふつうに携わるべきキャラデザの人はノータッチで、この人物との友情が壊れてしまったことを、改めて満天下に知らしめる結果となっています。あと、本編のカットを追加だか変更だかするとか言ってますけど、ミリ単位の画角の修正とかエフェクトの追加ばかりで、何が変わったかは絶対に気づけないでしょう。エヴァQの3.333をわざわざIMAXで見た私が言うんだから、間違いありません。そしてバージョン表記ですけど、「3.01+1.0」でも「3.01+1.01」でもなく「3.0+1.01」なの、きっとだれも理由を説明できないと思いますよ。Qの変節から、確実に存在した最初の定義は壊れてしまっているでしょうから! それにしても、同一の公開期間中なのに新バージョンを堂々と宣言してるけど、明らかに古いのを見た人が不利益を被る変更なわけじゃない? これ、なんか民法とか商取引法とかに抵触しないの? こんなボッタクリ商法が今後もまかり通ると困るから、法律に詳しいフォロワーはキチンと問題提起しといて!

2021年6月13日

 うん? シンエヴァの3.0+1.01は見ましたかって? まあ、その話はまた後日。短く言えば、1,800円で公式の薄い本を買った感じかな。

2021年6月14日

 エヴァQの初回を見た因縁の映画館で、シンエヴァ3.0+1.01を見る。狭いハコへ特典目当ての客がスシ詰めになっており、感染症への配慮は絶無でした。気づいた変更点は、第三村の描写がほんの少し厚くーー静止画の「仕事」追加とアスカの腰のグラインドなどーーなっていたのと、補完計画に入る直前がちょっとだけ丁寧ーートウジ、ケンスケのモノクロ・バストアップ挿入などーーになっていたくらいでしょうか。もっとも、第三村の住人をどうフォローしようが結局は消滅させられるし、補完計画にしても肥溜めに突き落とされるか、つま先から入って肩までつかるかの違いでしかありません。「1,500円相当の同人誌をタダで配ってるから、実質は無料上映」みたいな言い逃れのためについてきた薄い冊子にしても、海外のドぎついキャラ萌え勢(ラースと、その彼女)への目配せだけで、空白の14年間に何があったのかは少しも語られていませんでした。

 あと変更点ではないですが、ゲンドウの「子どもは私への罰だと考えていた」というセリフの直後に、明らかにこれまでとキャラデザの違う、少しふっくらした子どもシンジ(一瞬、だれかわからないくらい)が出てきて、初回の視聴から違和感はあったんですけど、ずっと言語化できずにスルーしていました。今回ふと思いあたってゾッと背筋が寒くなったのは、このふっくらシンジを安野モヨ子が描いている可能性に気づいたからです。だとすれば、「子ども(がいること)は私への罰だと考えていた」というセリフの意味が反転し、監督自身の独白として読み直されてしまいます。意図を告げずに絵だけ描かせたのだとしたら、まさに作品のために私生活のすべてを捧げる悪魔の所業で、奥さんへ向けたこれほど残酷な仕打ちはありません。

 また、「オタクの王様」が「マリ=安野モヨ子」であると指摘したことを、同社の広報が「間違った教科書」なる言葉で否定したと聞きました。すいません、もっとも大きい「風説の流布」の元凶を叩いたつもりでしょうけど、彼の話に関係なく、肯定派・否定派に関わらず、視聴した者の90%以上が独力でそのメッセージを受け取っているんですよ。見当違いもいいところです。あれだけシンエヴァを肯定的に語ってくれている人物を、たったひとつ意に染まぬ解釈があるだけで、自分で言うのでも命じるのでもなく、部下に忖度させて盤外で攻撃する。これこそが、業界内で不可触の「天皇」と化した監督の現在を余すところなく表しています。言うまでもないことですが、「だれかの感じること」に正しいも間違っているもありません。特定の個人にとって「都合の悪い」感情はあるかもしれませんが、それを否定しにかかるのは、全体主義国家の支配側の手口と何ら変わるところはありません。タイムラインに「倍速で映像作品を見る、オタクになりたい若者」みたいな記事が流れてきました。最近の若者たちは教条主義と言いますか、非常に素直に物事を吸収しますので、公式による特定の解釈の否定は、洗脳と同じレベルで危険だと感じます。そして、いまネットに広がっている「シンエヴァにまつわる不自由な言論空間」は、ファンではなく社長の方を見つめた不誠実な広報の結果であり、どこかで正式に糾弾されるべきだと思います。

2021年7月8日

 映画「トゥモロー・ウォー」感想(少しエヴァ呪)

2021年7月27日

 アニメ「トップをねらえ2!」感想(だいぶエヴァ呪)

2021年8月1日

 アニメ「スタートレック:ローワー・デッキ」感想(かなりエヴァ呪)

2021年8月14日

 「31分後にカヲル死亡」「1時間21分後にアスカ補完」みたいな、クソどうでもい小ネタを仕込んできた監督ですが、シンエヴァの上映時間2時間37分が何かと問われれば、「日本のいちばん長い日」のそれと合わせたいだけでした。神経症で強引に表層だけ符号させるの、作品に何の価値も加えてませんからね!

質問:なるほどと思わせてくれる指摘も多々あるのに、結局エヴァにどうなってほしかったのか見えてこなかった。ガンダムになってほしかったの?違うでしょ?エヴァは私小説でいいんだよ
回答:いまさら「はてブ!」への追加コメント。いや、書いてること読めてます? まあ、脳内の結論へと向けて読解する態度から自由な人間なんて、この世にはいないのかもしれません。「人間を嫌いになる」という営為は底無しで、絶対零度の存在しないマイナス温度みたいなものですね。

質問:ガンダムと富野監督好きな立場からすると、あの独特すぎるセリフと観客を置きっ放しで進行するストーリーを富野監督以外の人がおそらく本人以上に本物っぽく創り上げてる事に喝采を送っている、というのもハサウェイの高評価の一因かと思います。原作小説が世に出て四半世紀以上、ガンオタの脳内にしかなかった物を納得のいく形で補完、補強するなんて!某作品と対照的なのか、それとも似ているのかはよく分かりませんがヒロインのエロさがガンダム史上最高なので100点です。
回答:なるほど、よくわかりました。禿頭の御大って言葉は辛辣ながら、基本的に他者への信頼があると思うんです。自分が生きる百年を越えた先に視点があって、次世代の幸福と人類の未来を、たぶん本気で考えてる。ご指摘の某作品の人物は、もはや己の作家人生をどうクローズするかにしか視点が無い。以前も書きましたが、2人の姿勢の違いが子どもの有る無しにしか帰着しないとすれば、現実に対するフィクションの明確な敗北だと思うのです。それにつけても萌え画像の欲しさよ。

質問:アマプラで劇場以来見たのですけど、「アスカ好きだった」の後マリ出してきて「姫、お達者で」って俗悪すぎやしませんかね?何これキモすぎる
回答:「オマエはシングルマザーとして、オーストラリアで生きてゆけ」という意味なんですかね。部分部分の不快を指摘することは無限にできますけど、「東日本大震災で新劇の前提が曲がった 」ところまで戻らないと根本的に解消されないと思いました。

2021年8月21日

 映画「エイト・デイズ・ア・ウィーク」感想(またもエヴァ呪

2021年9月21日

 雑文「親ガチャ、魂の座」(しつこくエヴァ呪)

2021年11月25日

 ボンヤリとエゴサしていたら、アマゾンのシンエヴァ本レビューに『申し訳ないが小鳥猊下に感想を聞きたくなる「評論」』などと書かれているのを見つけ、のけぞる。あのさあ、そういうのいいから、本アカウントでフォローして、全発言をリツイートしてくれます?

 否定派の勝利条件である「全記録全集の発売阻止」を達成したばかりか、本丸である円盤リリースの遅延にさえ成功しており、これはもう敵方の無条件降伏を引き出したと言えよう。

2021年12月20日

 映画「マトリックス・リザレクションズ」感想

2022年1月18日

 スパイダーマンNWHの感想を読み返してて思ったんですけど、「アナキンを助けるべくオビワンがスターウォーズ1から4をループする話」って、面白くなりそうだから読んでみたいなあ。もしかして私が知らないだけで、海外のファンジンや公式のスピンオフとかですでに存在するんでしょうか。

 シンエヴァでは同じ世界を繰り返していることがゲンドウの独白で示唆されながら、肯定派と否定派のどちらも従来の「ループもの」としてとらえていないのは、「エヴァの搭乗が2周目のシンジ」ではなく、「エヴァの制作が2周目のヒデアキ」になってるからでしょうね。

2022年1月30日

 エヴァ旧劇について、赤い砂浜の話は何度もしてきたように思うが、他にもうひとつ、いつ思い出しても涙がにじむシーンがある。人類補完計画が進行するさなか、「甘き死よ、来れ」のイントロから歌詞へと入る直前、シンジが「ココにいてもいいの?」と問いかけるのに対して、「(無言)」のテロップが表示される展開がそれで、ここには決して逃れえない人なる孤独の本質が、骨と肉から皮膚をはぐようにして凝縮されている。恋人がいようが結婚しようが子どもができようが決して変質しない何か、互いに焦がれた末の心中にしてさえ、別々の死を同時に死ぬだけのことであり、このくだりは我々のだれもが一個の死をひとりで死ぬしかないことに、何度も気づかせてくれる。ヒリヒリするような剥き身の真理へと到達しながら、配偶者ごときでそこへ背を向けたシンエヴァのなまくらな退行を、どこまでも認めることができない。

 またぞろ、エヴァ旧劇のこれをなぜ思い出したかといえば、だれかの能力を自らのそれと錯誤する馴染みの妄想が、再び粉々に砕けたゆえである。この「(無言)」を繰り返しくりかえし忘却し続けることができるという一点の冷厳な事実のみにおいて、小鳥猊下なるは才覚どころではない理由において、未だに生き汚くインターネットから消えずにおられるのだったと、数年ぶりに思い出した。そしてまたすぐに、忘れてしまうのだろう。

2022年2月5日

 アニメ「地球外少年少女」感想

2022年2月17日

 ゲーム「ヘブン・バーンズ・レッド」感想

2022年3月8日

 雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

2022年4月3日

質問:質問というかエヴァ一周忌に寄せた自分語りで恐縮なのですが、公開後すぐに「エヴァ呪」を公開して頂いて本当にありがとうございました。ネット上では旧作からのファンを含めて絶賛がほとんどで、「こいつらはちゃんと旧作見たのか? それともこっちの頭がおかしいのか?」と自問自答する中で偶然にも猊下のnoteに辿り着き、私の力では言語化できずに消化できないでいたあれやこれやが全て指摘されていて、どれほど精神的に助かったか分かりません。今は「呪」を笑いながら読めるほどには回復しました。どうもありがとうございました。
回答:見落としてました。確かに、公開後の一週間くらいは監督の労をねぎらう肯定的な感想ばかりで、作品の内容に触れたものはほとんど無かったように思います。「最終回の雰囲気」に流される程度のファンが多いことへガックリすると同時に、かつては亜インテリや批評家の卵による大卒高偏差値のサロンだったエヴァが、パチンコ参入から大量に発生した中卒低偏差値の遊技場と化していることを実感したのです。新劇が旧劇の「知恵の獲得に由来する孤独の発生」からは遠い場所で、ヤンキーどもへ仲間と家族の大切さを説く作品になったのは、もしかすると緻密な市場調査の結果だったのかもしれませんね! もちろん、皮肉で言ってるんですけどね! あと、ベジタリアンであることを理由に監督のストイックさを語る方々がいるようですけど、食生活で人格がはかれるというなら、彼が大酒飲みのアルコール耽溺者であることもちゃんと付け加えてくださいね! 机上に置いてある器へ犬のように顔を近づけて、直に日本酒をすするような品性のね!

2022年8月22日

『あと、「イスカリオテのマリア」なんて最高にアタマの悪い単語を言わされて、これが声優としての最後の仕事になるかもしれないなんて、冬月の役者さん、かわいそう。』

ジブンら、清川親分の大往生にからめてシンエヴァを持ち上げようとすんの、死者に対する冒瀆やで。

質問:恐れながら、今日訃報に接し最初に浮かんだのが猊下のその一文でありました。過去にイスカリオテのマリアとか研究室で呼び合う教授と学生たちの風景を考えるとゾッとしますが、そんなものが結局答えとして残されたわけですから。
回答:いやー、この呼び名はねー、不死のオーバーロードである3人のゴルゴダ星人(ユイ、マリ、冬月)の間で「フッ……君は我々にとって裏切り者だが、人類にとっては救いの聖母というわけだ。彼らの宗教になぞらえて言うなら、さしずめ『イスカリオテのマリア』といったところか。ユイ君のようには不死を捨てず、人間を見守らんとするか」みたいな会話(サブイボ)が交わされてたと思うんですよねー。でも、恥をかきたくない星人であるカントクが、ファッション鬱の習い性で陳腐になりそうな箇所の情報をすべて伏せたせいで、意味不明な残骸だけが残っちゃってるんじゃないかなー。