猫を起こさないように
少女保護特区
少女保護特区

映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」感想

 過去の日記を見返したのだが、前作については何も触れていないようだ。しかし、今回は言わずにはおれない。ネットの片隅で細々と書き継がれておる少女保護特区という更新は、旧作が与えた命題を極めて私的な形で解消したいという願望に端を発している。十余年を繰り返していれば、圧倒された体験は時間へ風化するし、同時に己の、主に精神面での力量が向上するため、完全にそれを無化する段階に達したと、直近の更新では感じることができた。読み手の感想はおくとして、個人的には確かにある種の克服にたどり着いたと思った。

 しかし、実のところ、またしても先回りされていたのだ。少女保護特区最新の更新で提示された、世界よりも手の届く一人の少女を、という構図である。誰にも求められないという点で究極に内的な作業を経て同じ場所にたどり着いていた、同時代性への嗅覚を内輪褒めする気には到底なれない。なぜなら、相手方のそれは結論ではなく、未だ途上に過ぎないからだ。そして、旧作で最後までもつれた個人の内面を精算する段階を早々と終えて、物語は世界の謎へと飛躍してゆきそうな気配である。追い越したと思えば、また先にいる、実体を伴う蜃気楼の如き、時代を象徴する化け物としか形容できない作品である。少女保護特区のエピローグを更新しようとしていた手が完全に止まったことは事実だ。無論、蟻が象へ向ける執着との指摘に反論する言葉はない。だが、少なくとも私にとって、少女保護特区は旧作と完全に等価だったことだけは記しておきたい。

 日記的な蛇足を少々。第17話から第19話までの流れがコンマ秒刻みで身体に染み付いているため、後半、旧作と同じ構図の絵が多用されるあたりで、生理的な違和感が没入を妨げる格好になった。そして、Quickeningは胎動初感の意であり、次回予告に知的な背負い投げを感じて驚いた。あと、次はアカペラバージョンになると予想した。