猫を起こさないように
室井慎次
室井慎次

雑文「THE ODORU and DQ3 LEGEND ALREADY DIED」(近況報告2024.11.28)

 映画「室井慎次・敗れざる者」感想
 ゲーム「ドラクエ3リメイク」感想

 ようやく室井慎次・後編を劇場で見る。ほとんど邦画を見ないため、長く動かなかったnWoオールタイム・ワーストの1位が陥落し、ついに本作へとってかわられたのであった。予告編で観客へ錯誤を起こさせるために挿入された、旧エヴァ・イコール・実相寺アングルっぽい特殊部隊の突入シークエンスはほんの数分だけで、残りの時間はすべて、前編で語り終えたはずの3人の里子に関する話を延々とやる。詳細に書きだすとキリがないため、「北の国から」で例えておくと、「東京へ行く息子に父親が手わたした一万円札に、畑の泥がついている」みたいな、”お涙ちょうだい”昭和小話のパッチワークになっているのである。わざわざ劇場版1と2の犯人たちを引っぱりだしてきたのだから、前編は後編で起こる事件のビルドアップに過ぎず、東北に端を発した小さなできごとが、東京の警視庁を巻きこんだ「大捜査線」へと拡大し、かつての湾岸署の面々とモリアーティたる小泉今日子との冷厳な知能戦を、今度こそ本庁と所轄の垣根を越えた熱い共闘で打ち崩すような展開が、多くのファンによって期待されていたことと思う。それが、まちがったハコに入ってしまったのかと何度も疑うような、ほとんど前編となにも変わらない、どうでもいいエピソードが執拗に蒸しかえされるのである(あのアダルトビデオに出てきそうな女子高生との失恋話、なんなん?)。きわめつけは、20年を追いかけてきた室井慎次の人生の結末が、「寒さに強い秋田犬を冬山で追いかけていたら、ウッカリ遭難して凍死する」だったことで、カネもうけのための本質的に不要な続編によって、大切な作品を汚されるという意味においては、さすが旧エヴァの熱烈なフォロワーだけあって、旧作を台無しにする以外の効能を持たない、シンエヴァ級の「そびえたつウンコぶり」だと言えるだろう(警察無線に涙声で流れる「犬が……犬が、遭難者を離れません!」は大爆笑の、最高にアタマの悪い演出で、ここだけは聞く価値あり)。

 じつは、前編で「踊る熱」が高まった結果、わざわざテレビ版をすべて見返すまでしたのだが、最終話が記憶よりもだいぶひどかった。エヴァ様のテロップふくめ、映画好きの大学生が編集したようなアマチュアっぽい場面のつなぎ方で、警察トップのお歴々の前でする室井と青島のやりとりなどは、織田裕二の大根演技ーーホアキンがフリーザとするなら、ユージはバクテリアンーーとあいまって、支離滅裂で意味不明なものになっている。全体的に「エヴァの影響を受けた軽薄なテレビマンによる、若いセンスだのみの編集と借り物の音楽で、ストーリーが成立しているような雰囲気だけを醸成している」感じで、室井慎次・後編を見てしまった現在、この評が踊る大捜査線シリーズの正味ではないかと思いはじめている。大手テレビ局の元社長をかこむ、元スタッフによる「踊る同窓会」でついつい酒をすごして、当初の予定通り配信ドラマでお茶を濁しておけば、まだ傷も浅かったものを、「興収200億の夢、ふたたび」と盛りあがってしまったのだろう。結果、軽薄なテレビマンが軽薄なふるまいに無自覚のまま、20年をかけて映画スキルの獲得も精神的な成長もなかったことを全国的に披露する、「虚無の出がらし」みたいな映像の集積体ができあがることとなる。室井慎次・後編は、ファンの記憶と俳優の晩節をともに汚しにくる空前の駄作であり、特にすみれさんが劇場版2で銃撃を受けた後遺症に苦しんで警察を辞めたみたいな挿話は、劇場版3と4の存在がスッポリと抜け落ちており、アルコール性の記憶障害か若年性の痴呆症を疑わせるほどのひどさだった。室井慎次が訥弁で家族愛を語ると、あらゆる不良や半グレや犯罪者がみるみる改心して、魔法のように「完落ち」することから、本作のジャンルは広義の魔法少女モノと言えるかもしれない(言えない)。

 ついでにドラクエ3リメイクの進捗も報告しておくと、ゾーマとしんりゅうをかるくやっつけて、現在は試練の神殿を進行中である。またぞろ懐古的な昔話をするが、ファミコン版のゾーマはあざやかな色あいで登場し、ひかりのたまを使うと全身が青白く褪色するという演出になっていた。子どもながらに、これを「闇(夜)の世界における色あざやかさは、すべてマガイモノである」という深い人生訓として受けとっていたため、スーファミ版で変化の順を逆にされたことには、いまでも納得がいっていない。本リメイクにおいても、青白いボディがひかりのたまで色づく仕様になっており、「またニセモノのゾーマか」と画面の前で思わず毒づいてしまった。もっと言えば、スーファミ版以降のゾーマは、鳥山明のデザインに寄せすぎているため、カブトこみで頭部がデカすぎ、プロポーションが悪いと感じている。ファミコン版はもっと頭が小さく、逆三角形に近いシルエットになっていて、無そのものの白い目ーー三白眼で黒目が描きこんであるのは、ひどい解釈ちがいに思えるーーでこちらを見つめてくるのが、最高にカッコよかった。

 話をリメイクにもどすと、クリア時のレベル平均は40台前半で仲間の転職も1回ほどだったので、ゾーマにいたるボスラッシュ3連戦には死闘感があり、すばらい体験だった。ただ、バラモスゾンビの攻撃力は調整に失敗していると思うし、「プレイヤーが死なない」という、RPGのゲーム性を全否定する驚愕のイージーモードは、パラメータ上限を思いつきで255から999に変更したせいで生じたインフレを、制作側が御しきれなかったゆえの苦肉の策であることが、ストーリーの終盤へと進むにつれてわかってきた。きわめつけはクリア後に訪れる試練の神殿で、指定された武器種を装備しないと、複数回の転職をくり返してフルパラメータに近いパーティでも、1000近いダメージーープレイヤー側のHP上限は999ーーをくらうという思考放棄のザルみたいな調整なのである。最悪なのはパンドラボックスの存在で、バカ体力とバカ回復に加えて仲間を無限よびするという、「テドンの悪夢、ふたたび」になってしまっている(ねえ、アタマと性格、どっちが悪いの?)。たびたび書いているが、「最強装備をすべて集めて、キャラをカンストまで成長させて、ようやく敵味方の戦力が均衡する」という調整は、制作側の怠慢ーーくわしくは、メガテン5あたりの評を読んでほしいーーであり、レベルデザイン・イコール・数値の調整だけで世界観と冒険の旅を演出できる「本邦にスペシャルなお家芸」の喪失だと言えよう。いい加減、ファミコン版ドラクエ2などもむずかしかったと思うが、試練の神殿の難易度はドラクエのそれとはあきらかに性質を異にしており、こと最終局面にいたって本リメイクからドラクエである必然性すら消えてしまうのは、とても悲しい。ドラクエシリーズの本質とは、言葉にできない「冒険の手ざわり」であり、この感覚を本リメイクの制作者と共有できているという信頼は、もはや絶無である。

 リメイクを重ねるごとに漸減する戦士の価値についても触れておくと、新たに導入される職業を使わせるため、既存のそれとのバランス調整をいっさいせずに、強力なアドバンテージのみを与えるという措置が、スーファミ版に引き続いて本作でも行われてしまった。だれでも全体攻撃と複数回攻撃ができる世界で、ダメージ量が特につきぬけているわけでもない単体攻撃の戦士を使うインセンティブはもちろん、どこにもない。さらに追いうちをかけるように、強力無比の「まものよび」によって戦士のとくぎはすべて無意味化し、転職先として経由するわずかのメリットすら消滅してしまっているのである。おまけに、発売前に物議をかもしたように、女戦士のルックス(笑)さえダウングレードされており、この職業を選ぶ理由は、もはや1ミリも存在しないのである。パラメータ上限を255から999に変更したせいで制作者の頭が「こんらん」したのだろう、なぜか武闘家の会心率まで目に見えて下がっており、「日本人はゲームを作るのが、本当に下手になったなー」と、プレイを通じて、何度も何度もくり返し落胆させられている次第である。

 古参の愚痴ばかりになって申し訳なかったが、昔からのドラクエ3のファンならだれでも思いつく、「オルテガが仲間になる」や「クリア後に勇者が転職できる」ぐらいを雑に放りこんでおけば、勉学やスポーツではなく、ピコピコに青春をささげてきた氷河期のロースペック人材たちは、みんな文系の単純なアホばかりなんだから、他のすべての不満に目をつむって、手のひらがえしの絶賛をしたにちがいないんですよ。その最低限すらもやらずに追加した新要素がなにかと言えば、「まもの使いのせいで、戦士が死んでてやべーな……そうだ、オノしばりの超高難度ダンジョンを用意しよう!」であり、脳ミソがフットーしちゃってるとしか思えません。意味深にホーリー遊児がほのめかしたエンディングの仕かけにしたところで、「1のラスボスであるりゅうおうの養育者が、2の準ラスボスであるハーゴンだった」という、もうアトヅケ感しかない残念なものなのです(「りゅうおうのひまごじゃ!」と、どう整合をつけるんでしょうね? 「竜の血筋に見切りをつけて、破壊神に鞍がえした」みたいな意味不明の文脈が、すでに発生してしまっていませんか?)。

 あと、室井慎次・後編でスタッフロールのあとに青島君が出てくるんですけど、ドラクエ3リメイクのハーゴンにせよ、「虚無の出がらし」の「氷河期ホイホイ」はどれも似たような、古いファンに対してウワメづかいの哀願みたいな仕草をするなーという感想をいだきました。この青島君が、例のダッフルだかアーミーだかのコートを着て東北に現れるのを見たとき、平成前期のルックス(笑)と大根演技はそのままに、ユージの顔だけがメチャクチャ老けてて、それが本邦の変化できなさと低成長の時代を象徴しているようで、ひどく情けない気分になりました(エリが出演していないことだけは、本当によかったです)。

映画「室井慎次・敗れざる者」感想

 室井慎次・前編を映画館で見る。踊る大捜査線シリーズについての印象を言えば、非実在警察署の捜査現場で起こる小規模なできごとをコミカルに描く小品ーー大上段な「大捜査線」とのギャップを笑うーーだったものが、映画版の1と2が空前の超ヒットとなり、それまではフレーバーにすぎなかった「本庁と所轄の対立」「警察機構の腐敗の是正」という、フィクションでは解決しようのない問題へと本格的に着手せざるをえなくなり、2の撮影後にいかりや長介が亡くなってからは、3と4でキャラクターの成長とテーマの前進が完全に停止して、同じ棒の周辺をグルグルと回る犬のようになり、おそらく制作者にとっても不本意な形でシリーズを頓挫させるハメになってしまったのです(もううだれも、2以降なんておぼえてないでしょ? 当時、いっしょに映画館へ行ったはずの家人にたずねたら、「え、3なんてあるの? 4も?」という返答でしたからね!)。

 そして、なにより忘れてはならないのが、大捜査線シリーズは脚本・撮影・音楽などの多岐にわたって、これ以上ないほど明々白々とした、旧エヴァの初期フォロワーだったという点でしょう。話はそれますが、シン・ゴジラにおいて、テレビ版エヴァの象徴である「でん・でん・でん・でん、どんどん」ーー加齢のせいで曲名を思いだせないーーを使ったのも、かつて踊る大捜査線に許諾を与えたことが、Qアンノの一線を越える決断を後押ししたのかもしれないなと、ふと思いました。フィクションの新旧を判断する個人的な基準として、旧エヴァをゼロ地点に置いているため、踊る大捜査線シリーズにはかなり新しいイメージをいだいていたのですが、もう20年以上前の作品であるという事実を前に、あらためて衝撃を受けておる次第です(じっさい、当日の劇場に座っていた客層は中高年ばかりであり、若いカップルなどは一組たりともいませんでした)。

 オープニングで過去作のダイジェストをラッシュで見せることで、脳ミソにウロの来はじめた観客たちに内容を思いださせ、本編終了後には作品内にちりばめられた小ネタの元となる旧作の場面を提示し、エンドロールの末尾で後編の予告をドンと打つーー全体を通じて、きわめて正しいパッケージングで作品が包装されており、さすが腐っても大手テレビ局の仕事だと感心させられました。かつてスタイリッシュで鳴らしたはずの演出も、令和の視点でながめると、スローテンポな浪花節みたいになっていて、演歌が古びていったのと似たような時代の推移を痛いほどに感じます。おしむらくは、私自身が本シリーズの熱心なファンでないことはない(二重否定)ため、完全新規の観客にとって、「はたして1本の映画として、成立しているのか?/おもしろいのか?」に回答できる立ち場にないことです。しかしながら、同行した家人の言を借りれば、「登場人物が役者としてではなく、ちゃんと物語内のキャラクターとして出てくる」ほど、作りこまれた世界観を楽しんだ劇場版第2作までのファンにとって、本作が120点の仕上がりであったことは、やはりお伝えしておくべきでしょう。

 大捜査線シリーズはスピンオフをふくめて、「すでに語りつくされた物語」であり、さらに言えば、劇場興収の誘惑から着地点を見いだせないまま、蛇足的に続編を重ねた「正しく終われなかった物語」でもあります。室井慎次・後編において、現在の「青島君」や「すみれさん」を登場させ、彼らの人生の変遷を描きつつ、「解決はまだ遠いものの、警察の状況はベターにはなった」ことを、現実社会の変化と重ねあわせて語る最後のチャンスを逃さず、今度こそ大捜査線シリーズが真の大団円をむかえることを切に願います。仮に本作がスピンオフの位置にとどまり、5などの本編がのちにひかえているとするならば、それは相当に厳しいと指摘せざるをえません。20年後からふりかえってみれば、このシリーズはいかりや長介の最晩年にレッドカーペットを引いた功績が最大のもので、それを証拠に彼の死による退場と物語の失速は完全に同期しています。いろいろ言いましたが、邦画史上、最大級のヒットとなった作品の末路が4のアレでは、どうにもしまらないじゃないですか。リブートへの余計な色気を廃して、今度こそ大捜査線シリーズを「正しく終わった物語」のカテゴリで上書きしてくれればと、いまは祈るような気持ちでいるのです。

 あと、本作の回想シーンを通じて、ひさしぶりに小泉今日子の怪演を目にしたのですが、昭和のピン・アイドルって「若さに由来する普遍的な美しさ」が消えたのちに、「美しい生き物として愛でていたら、その正体はおそろしい”けもの”だった」とでも言うような、「ほとんど怪物性に近い本領」の立ちあがる人物が少なくない気がします。近年のグロス販売なアイドル集団の中に、長い歳月に耐える怪物性を持った存在がはたしてまぎれているのか、むこう20年を楽しみに待ちたいと思います。