猫を起こさないように
宇宙戦艦ヤマト
宇宙戦艦ヤマト

雑文「シン・ヤマト(仮)制作発表に寄せて」

 ごくごく一部のみなさんは知りたがるかもしれませんので、スタジオ・カラーが宇宙戦艦ヤマトの制作を発表した件にまつわる私的な感情について、イヤイヤお伝えさせていただきます。以前、「シン・ウルトラマンシン・仮面ライダーときて、シン・ヤマト、御大が旅立つのを待ってからシン・ガンダムを作れば、昭和のオタクにとって完全なアガりですね」みたいなことを冗談みたいに書きましたが、これまでのところ、Qアンノの動きは忠実にこの予想をトレースしてきています。さっそく話はそれますが、シン・エヴァンゲリオン最大の功”罪”は、「シン」という接頭辞を同作のフォロワーであるクリエイターたちばかりか、一般企業や官公庁までが、アホみたいに使いだしてしまった点にあるでしょう。一時期、ビートルズ・ソングがテレビCMを席巻したことがありましたが、あれから十数年、組織内の世代交代はさらに進み、いよいよ数少ない氷河期世代の生き残りたちが現場の実権をにぎりはじめたようです。旧エヴァ当時ならば、上長に鼻で笑われて却下され、お追従の取り巻きに社内イジメのターゲットにされたようなオタク事案について、スーツ(吊るし)の居ならぶ大マジメの会議で決定するという「ギーク・ストライクス・バック!」な舞台裏が、まざまざと目にうかびます。

 個人的に、「”シン”を嬉々として使うヤツは、絶望的にセンスと審美眼の欠如したカス」であると心中に断じており、リトマス試験紙的に機能することだけが、唯一のメリットだと言えるでしょう(余談ながら、呪術廻戦で「シン・陰流」の表記が出た瞬間、反射的に電書のブラウザを閉じました)。だいたい、サラリーマンが電車で漫画雑誌を読んでいることが批判的な論調で話題となり、中高生になってもテレビゲームをやめようしないことを親に泣かれた経験がある(やだなあ、例え話ですよ!)昭和世代のオタクの感覚からすれば、還暦を越えたいい大人たちが、衆人環視の壇上で「ガンダムは1話が最高で」なんてニチャクチャしゃべってるのは、たいへんに「情けなくも、気味の悪い」光景として映るわけです。令和の御代において、オタクがウッカリ市民権を得てしまったことに、いつまでも戸惑いが消えない同世代の方々は、ご自身に内在化した古いオタク批判に照らして、このエゲツない物言いにも多少は共鳴するところがあるでしょう。

 おそらく、Qアンノが左脚を複雑骨折した件と密接な関わりを持つだろうこのたびの顛末は、原作者が亡くなるのを待ってから権利者に許可をとりに行っている事実からも、「好きなクリエイターに嫌われたら泣いちゃうけど、ただの権利ホルダーならエヴァの看板で遠慮なくブンなぐれる」という思惑が見え隠れするところが、最高にキモチワルイです。きっと、シン・ガンダムの企画も「天気待ち」ならぬ、御大の「死亡待ち」をしているんでしょうし、すでに公私ともズブズブにとりいることによって、口頭での約束を得ているシン・ナウシカと、どちらの制作へ先に入れるのかが、エヴァを壊した手腕から、作品の中身にはいっさい興味のない外野にとって最大の関心事であり、昭和オタク史の終着点をながめるがごとき無責任の娯楽であると言えるでしょう。「宮崎翁にはシン・ナウシカを見てほめてもらいたいが、富野翁にはぜったいにシン・ガンダムを見られたくない」というオトコゴコロの決着は、「両御大のうち、どちらが先に鬼藉に入るか?」への回答に、あらかじめ結論をブン投げているのです。そして、Qアンノが作りたい順番は、まずまちがいなくガンダムが先でしょうから、後者のケースがもっとも彼のオタクゴコロを利することになるでしょう。

 業界における不可侵のスメラミコトと化した人物に、私たちが観客席からできる最大の嫌がらせは、ハゲの御大が白髭のおんじより1日でも長生きするよう、神に祈ることだけです。ロングリブ、トミノ! ゴッド・セイブ・ザ・ハゲ!

小説「三体(第2部)」感想

 小説「三体(第1部)」感想

 三体第2部、上巻の後半から加速がついて、一気に読了する。正直、第1部から想像していた内容とは大きく異なった、怒涛の展開と破格の面白さでした。作中で言及のある銀英伝を始めとして、ヤマト、ガンダム、エヴァなど本邦の想像力を下敷きに出力されている感じが伝わってきて、やはり水滸伝や封神演義のようなフィクションとしてチューニングを合わせるべき作品だと思います。SFとしてとらえた場合、「黒暗森林」という概念がラストの謎解きを含めた世界観の骨格になっているので、これに充分な説得力を感じられるかが評価の分かれ目になるでしょう。まあ、私は「民明書房刊」ぐらいの感じで楽しみましたけど、エンタメ目的の理論やさかいに、スーパー・ストリングスの学者センセたちよりは、よっぽど罪がおまへんなあ(ウワメ遣い)。個人的には理論そのものより、「猜疑連鎖が宇宙の律だけど、やっぱ地球から愛を広めなくちゃね!」みたいな台詞に、思わず米粒を噴き出しました。中華思想にどっぷり浸かった人物が日本のアニメに衝撃を受けた様子(ヤック、デカルチャー!)を、何の加工もなく素直に表現しているんですかねえ。

 セカイ系をなぞると思わせながら、森雪のイビツな造形に代表される「童貞男性の中でボッコボコに発酵した女性のセクシャルな魅力」を連想させる文章表現は、第1部に引き続いてそこここに散見されるものの、ヒロインとの関係性に問題の解決を集約しなかったのには、己がいかに少女へ世界の命運を背負わせる本邦の虚構群に毒されていたか、恥じ入る気持ちにはなりました。そして、本作をエンタメとして楽しんだ以上に私を落ちこませたのは、「四百年先の未来」という視座から同胞の存続を我が事として真剣に考えることのできる者が、はたしていま本邦にいるのかという疑問と、遅れてやってくる諦念です。「己の人生と、願わくば子の代がマシな時代を逃げ切れればいい」ぐらいの祈りまでがせいぜいで、そんな長大な未来を現実の地続きとして思考する人物が本邦にひとりでもいるとは、まったく信じることができません。

 しかしながら、今期のFGO夏イベにも顕著な、個人的に”刃牙問題”と呼称している「文系の想像力が最上かつ最良の価値だという妄想」ーーオレの宇宙社会学による呪文は、スーパー水爆より破壊力バツグンだぜ!ーーが、本作にも中華思想さえ凌駕する作者の自我としてシミのように表出しているので、現実とフィクションの間に、何か実効的な相互作用を見出さないのが賢明だなと、いち社会人として正気に戻りました。あれ、でもまだ第3部が残ってるけど、ストーリーはきれいに終わってない? もしかして、「黒暗森林」の思想を前提に、地球の宗教が変容していく話とかをするのかしら?