猫を起こさないように
ベルセルク
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漫画「ベルセルク42巻」感想

 ベルセルク42巻を読了。本作の熱心なフォロワーではなくなってひさしく、特に単行本の刊行に1年以上の間が空くようになったあとは、前巻までのストーリーを忘れたまま流し読みして終わりくらいの温度感でいました。新たな体制によるベルセルクへの雑感を述べますと、台詞が少なくなり、コマ割りが大きくなり、背景ではなく人物が中心の作画ーーほぼほぼマシリトの指摘どおりーーになったなあぐらいのもので、狂信的な方々がツバをとばしておっしゃる「まったくのベツモノ」やら「ほとんど同人誌レベル」やらの指摘には、まだ本作に対してそんな熱量が残っているファンが存在したことへ、純粋に驚く気持ちが先に来ました。すでに「絵画作品」と化していた原作のストーリーがこの速度感で畳まれていくのなら、まことに不謹慎な言い様ながら、むしろ作品にとってよかったのではないかとさえ感じております。つくづく思うのは、特に10年を越える連載期間を持つマンガは、作者にとっては次第に人生そのものと癒着して不可分になっていくのに対して、読者にとってはどんどん人生と乖離してどうでもいいものになっていくということです。

 かつての長期連載マンガとは、「美味しんぼ」とか「ゴルゴ13」とか「浮浪雲」とか、”大人としての個”がすでに確立した者へ向けた、青年誌のものばかりだったように思います。「マンガやゲームなどは文化未満の、くだらないもの」と断じて一顧だにしなかった世代が現役をしりぞき、現世からも退場することで、人生のステージが変遷する際に、「マンガを帯同して持ちあがること」への抵抗感が社会全体で薄れ、徐々に「一定の年齢でかならず卒業すべきポンチ絵」から「一生涯にわたって楽しむことのできる文化」へと変質していったのでしょう。ことほどさように、社会の変化とは旧世代の死によってしか引き起こされないものなのです。個人的には、スケートボードやブレイクダンスがもてはやされる近年の風潮を、唾棄すべきものとして心の底から嫌悪していますが、私の世代の死によってそれらの文化は「社会が当たり前に受け入れるもの」として完成するにちがいありません。

 それた話を元へ戻しますと、マンガが社会に受け入れられる過程で失われたのが「少年マンガ」というカテゴリであったのだと、あえて断言させていただきます。いまや10年を越える連載も珍しくはなく、20年になんなんとする作品が雑誌の看板をはっているーーこの状況に、私は「少年マンガ」なるものの消滅を見るのです(「クリエイターがクリエイターに向けて作品をつくるようになった」ことも影響していると考えていますが、長くなるので割愛)。偉大なるコロコロコミックが小学生のみをターゲットにしぼり、「児童マンガ」のカテゴリを堅守し続けているのに対して、「週間少年ジャンプ」はもはや大人相手の商売に変わってしまっている。私の定義する「少年マンガ」とは、「コロコロコミックを卒業した中学1年生が、受験や就職をむかえる高校3年生までに体験し終えるもの」であり、これを満たすためには連載期間は長くとも5年以内に収まらなくてはなりません。近年では「鬼滅の刃」がこの定義に該当し、中学1年生でキメツに出会った少年は、少年という属性を失う前に物語の終わりまでを体験できたがゆえに、彼の心の中でその後に通過するあらゆるマンガとは異なった、特別な場所を与えられることになるのです。

 因果を逆にして言えば、我々の社会が「大人」を喪失して、ネオテニー的な未成熟を許容するものに変質していっているのは、20年を越える長期連載マンガがその元凶であると指摘できるでしょう。不惑を過ぎたオッサンが、毎週月曜日に「ゴム人間の展開、アツい!」とか言ってるんじゃあないぞ! むしろオマエの尻のほうに火がついて、人生が熱くなってるんじゃないのか? みんな、マンガ連載の長期化には、これまでのように消極的な黙認ではなく、ガンガン積極的な「ノー」を編集部へ突きつけていこう! 興味はあるけど、寿命とのレースが怖くて、「じゅぢちゅ廻戦」に手をつけることができない、舌の短い美少女オジサンとの約束だぞ!

ゲーム「FGO第2部6.5章」感想

 FGOの6.5章を読み始めたけど、またアガルタなの? ホームズやダビンチのキャラを崩壊レベルで書き間違えてるし、プレイヤーの分身であるマスターへ無遠慮にベタベタと触ってくる手つきも相変わらずで、密室で無許可のペッティングを受けている気分です。サロメの描き方も5章前半のコルデーそっくりで、フィクションに感じることのできる気持ち悪さとしては、ほとんど最大限に近いものがありますね。新キャラもたくさん投入されてるけど、この書き手のお遊戯に貴重なリソースを割いてほしくないなあ。どこかでファンガスの筆へ切り替わることだけを唯一の希望として、本当にイヤイヤ読み進めています。

 FGO6.5章、そろそろ終盤に近いと思うが、いっこうに読み進まない。少し読んでは、深刻な怒りの発作でアプリを強制終了してしまうからだ。5章前半と同様に言葉があまりに汚すぎるし、ファンガスと同じ日本語を使っているとは思えないほど、すべての文章が冗長なくせに説明不足かつ上滑りしている。登場キャラ全員が「マジ」を連発し、あいかわらずネットスラングとツイッター構文を内省なく手クセで使い、描かれているのは英霊たちというより、もはやチンピラどもである。三国鼎立の設定にも、結局テーマ的にまったく意味が無かった(マツリゴトと戦争を群像劇で描写する実力が無いのに、キャラと設定だけをブチあげるのが大好きだからこうなる)。男女関係がすべて肉の恋愛へと収束していくのも、このシリーズの本質を少しも理解しておらず、率直に言って穢らわしい。

 偽物が描写した偽物のホームズが妖精国の「論評」を始めやがったときには、あまりの不快感に思わずリアルで絶叫がほとばしりました。前にも書きましたけど、ファンガスはこの、たぶん女性に、どんな弱みを握られているんでしょうか(愛人関係とかだったらイヤだなあ)。これ本当に、栗本薫が存命なのにグイン・サーガ本編を別の人物が書くような狼藉で、賞賛と無視しかない昨今のネットがこのクオリティを許し続けた結果、FGOの客離れにつながっていると老婆心から指摘しておきます。たいていの良心的な常連客は、店主に向かって「味がおかしいよ」とは言わず、黙っていつも通り食事をすませてから、ただ二度と来店しないことを決めるのですから。

 唐突にベルセルクの話をしますと、とうの昔に完結をあきらめて離れた常連客だったのですが、皮肉にも作者の死によって物語の終わりが大幅に繰り上がって、生きているうちにそれが見られそうだという流れになって、俄然、関心が高まってきております。願わくば、ファンガス以外が手がけるFGO本編や、作者没後のグイン・サーガーーアルド・ナリス復活って、鷹の団がみんな生き返るのと同じやでーーみたいにはなりませんように!

 FGO6.5章、艦これイベント海域の片手間に読了。世界設定もストーリー展開もキャラ描写も、何から何まで納得がいかず、イッライラしてる。おまけにリンボ、コヤンスカヤに続いて、ホームズまで雑に処理される始末で、数年をかけてあれだけ丁寧に積み上げた情感を、盛大に中折れさせてくれやがりました。もしFGOの運営に疲れ果てて、さっさ終わらせたいと思っているのでなければ、ファンガスを目の前に正座させて、この内容で本当に納得しているのか問い詰めたいレベル。ねえ、スピンオフでの顔見せ程度の扱いならともかく、なんで本編のメインキャラの、触らせちゃいけないとこまで他人(愛人?)に触らせるの? この書き手は、どうでもいいところはゴテゴテと厚塗り描写するくせに、ホームズが目の前で死んでいるのにダビンチの述懐が何の悲嘆もない2行のみだったり、自分の持ちキャラを活躍させたい一心だけで、FGOという言わば正史に対して、何の敬意も愛情も抱いてないですよ?

 ファンガスの書くFGOは堂々たる世界文学なのに、この人物の書くFGOは週刊少年ジャンプ以外に掲載された二線級のパクり漫画なんですよ。6.5章に感じる私の憤りを少年漫画で例えるなら、「幽遊白書10巻の続きをなぜか烈火の炎の作者が描いてて、おまけにポッと出のオリキャラに飛影を殺された」みたいなもんですよ。涙目の少女が組み伏せられながら、「ホームズはそんなふうに死なない!」ですよ。最後の展開も、筆がまずいこともあるでしょうが、「ああ、ここまで引っ張っといて、異星の神ってその程度の話なのね」という感想です。この6.5章によって、FGOという物語の総体が大幅に毀損されたのは間違いありませんし、SNSを通じてこのゲームのファンであることが皆様に伝わってしまっている事実を、あらためて恥ずかしく思います。せめて次の章でホームズが死んでなかったことにしません? あまりにひどいわ。

 あとさあ、「ファーストサーヴァント」って呼び方、急になんなん? いちばん絆レベル低いくせに、筆おろしみたいな意味なん? 「そのままハメこんで、私のシールダー」なん?(さいてい)

アニメ「範馬刃牙」感想

 ネトフリに範馬刃牙が入ってるのに気づいて、見る。「貴方との対決をもって、オレという物語の幕引きとしたい」という前章での宣言から、そこへ至る紆余曲折が描かれるのですが、アニメで見てもやっぱりゲバルをどうしたかったのかは、わからないままでした。刃牙世界における三大不遇キャラを挙げるならば、順に天内、アライ、ゲバルとなりましょう。いずれも強キャラ匂わせから、主役級の持つ作者補正を越えられずに惨敗するという展開が共通しています。本作ではチェ・ゲバラよりセルジオ・オリバへの思い入れが勝ったということかもしれません。

 いまでこそ、ネットによるミーム汚染でネタ漫画あつかいされている刃牙ですが、幼年編終盤の勇次郎との戦いは、少年漫画における頂点のひとつだったと言えましょう。妊娠、出産を経ても「愛する男の女」のままだった朱沢江珠の母性が、瀕死の我が子を眼前にして目覚め、「地上最強の生物」へ徒手で敢然と挑みかかる。犯し、孕ませ、生ませ、屈従の下に置いたはずの存在が、母なるものに化身するのを目の当たりにし、「おのれ以外のすべてが凌辱すべきメス」としか見えぬ世界で、彼はその未知の何かを「いい女」として殺す以外の選択を持たなかった(そしてたぶん、そのことをずっと悔いている。息子からの「なぜ母さんを殺したの?」という問いかけへの返答に、それがかいま見える)。その後、息子が母親の遺体を背負い、警官に追われながら商店街を駆けるシーンは、まさに情動のクライマックスであり、そのテーマ性は世界文学の高みにさえ到達していたと言えましょう。

 範馬刃牙における父親と息子の戦いは、この妻イコール母親の死を下敷きにしているからこそ、厳密に物語を編んでいくのならば、「父殺し」か「子殺し」以外の結末を持てないのです。そんな中で、父子の対決は両者の会食からそろりそろりと始まりました。「どんな強敵にも主人公補正で勝つ」と揶揄され続けてきた刃牙が、作者の思い入れがもっとも強い勇次郎へと挑むのです。おそらく、どちらの結論にするか作者自身にも決められぬまま、父親と息子の戦いは進んでいきます。途中、作中の人物にネットでの感想へ反応させたり、突然ユーイチローなる人物を登場させたり、迷走ぎみに着地点を探る展開が続きました。そしてついに、決着のときがやってきます。少年誌に掲載されている漫画なのですから、普通に考えるのなら「父殺し」で終わるのが至当でしょう。しかし、長期連載の果てに作者自身が父となり、何より範馬勇次郎をあまりに魅力的に描きすぎてしまった(どこかのヘタれ司令とは大違いですね)。当時、掲載誌の立ち読みで展開を追っていましたが、かつて勇次郎が江珠にしかけた両手で鼓膜を破壊する技を食らう刃牙の大ゴマを見た瞬間、幼年編の終盤とストーリーがつながって、コンビニで周囲に人がいたにもかかわらず、思わず嗚咽が漏れたのを思い出します。グラップラー刃牙にはじまったこの長大な父と子と母による三位一体の物語は「子殺し」で幕を閉じるのだと考え、その結末までを一瞬で脳内に幻視してしまったからでした。この象徴的なコマは、作り手自身も抗うことのできない「大きな物語」が憑依的に描かせたものだと、いまでも確信しています。

 さて、少し話はそれます。「何が起こるか作者さえ原稿に向かうまではわからない」展開が本作の魅力を作り出していますが、連載初期には人気の低迷から打ち切りの危機を経験したそうです。仕方なく、そこまでのストーリー(花田)を放棄して、とっておきのとっておきだった「俊敏なジャイアント馬場による回転胴まわし蹴り」カードを切ったら、次々と新たなアイデアが浮かんでくるようになって、人気はたちまち回復し、連載を継続することができたという話をどこかで聞いたことがあります。これは、創作を志す者にとって考えさせられる逸話で、使われない良いアイデアはときに新たな思考が発生するのを妨げるということです。ちなみに、nWoのフィクションが頓挫し続けているのも、MMGF!の終わりに至るストーリーラインがそのアイデアの座ともいうべき場所を占拠しているからです。

 話を範馬刃牙へ戻しますと、父子対決の結果はみなさんがご存知の通り、大きな物語の要請を意志の力でねじふせ、作者その人が行司役となって「どちらも生かす」ジャッジが最終的に下されました。その是非を判断することは私にはできませんが、いずれにせよ、刃牙世界の背骨であったテーマはそこで閉じ、以後に語られている内容は余生とでも呼ぶべきものでしょう。この物語はもうどこで終わっても、大往生と呼べる段階に達しているのです。ベルセルクもこの段階に入ってから、絵画作品へと移行すればよかったのにと、悔やまれてなりません。どこかで読んだ「キャスカは鞘当てに過ぎず、ガッツがグリフィスを抱けば、この物語は過不足なく終わる」という指摘はまさに至言で、あのデビルマンにおける善と悪のアルマゲドンも、アキラがリョウを組み伏すことで終わったのですから(だから、阿部定的な情念を背景に、此岸の浜辺でアキラの下半身が喪われた)。

漫画「ブルーピリオド」感想(10巻まで)

 ありそうでなかった、美大受験漫画。しかも、大阪芸術大学や武蔵野美術大学みたいなシリツとちゃいまっせ、泣く子も黙るコクリツ様の東京藝術大学や! タイトルだけ見て、なぜか音楽漫画とカン違い(たぶん、ブルージャイアントのせい)してて、最近まで手に取っていませんでした。既存画家の贋作ディーラーを取り上げたりとか、作品ではなく芸大での学生生活を描いたりとか、最終回でハチミツを塗ったパンでクローバーを挟んだものを食わせたり(ネオンジェネシスばりの強引な伏線回収で、何より不味そう。犬の小便かかってそう)とかに「逃げて」ないんです。ガチで正面から、美大受験の作品制作にフォーカスしてるんです。なぜこのテーマがこれまで実現しなかったかと言えば、音楽漫画なら読者の経験におんぶだっこで、「この漫画、ページから音楽が聞こえる!」とかなんとか適当なことを言ってもらえますが、他ならぬ絵で実作品を描いて説得力ーー「たしかにこれは、東京藝大に現役合格する油絵だ!」ーーを持たせなくてはならず、いっさいのごまかしがきかないからでしょう。これまでの同系統の作品が、絵そのものは見せなかったり台詞だけで処理したりして、かわし手を使って読者の評価を避けてきた要素へ、正面から画力で組みに行っているのには「ブラヴォ!」の一言です。

 そして、描かれている物語がまた素晴らしい。「複数の人生の全長版が別々の場所に存在していて、それらのどこを切り取って並べれば書き手の伝えたいメッセージがいちばん伝わるか」という手法で作られており、美術に魅入られた人々が抱える本物の葛藤や人生の航跡にグイグイと引き込まれます。あと、女性の書き手に多いと思いますが、作者がキャラクターたちへ「適度に」優しいのも、物語にポジティブな印象を与えています。本作の主人公も闇堕ちみたいな方向へ進む分岐がいくつもあるんですけど、さりげなく作者が介助していって、彼にとって正しい人生のレールへと戻してくれる。この「愛」の量が作品の質を決めると思っていて(この語尾、大キライ)、これが増えすぎて「溺愛」になると、死ぬべきキャラが死ぬべき瞬間に死ねず、物語の停滞を招いてしまう。後期のグイン・サーガとベルセルクがまさにそうでしたね。イシドロがコルカスみたいになったり、シールケがキャスカみたいになったりするかもという読み手の緊張感は絶無でした(もしかすると、ブルーピリオドは現代劇で生き死にの問題にならないので、このくびきから逃れているのかもしれません)。

 シンエヴァ(またなの!)のストーリーテリングは本作の真逆で、「描きたい場面」と「言わせたい台詞」のために、キャラの自我をミートチョップでバラバラにしてから縫い合わせてて、死体を操演線であやつる死霊魔術みたいなものでした。ケンスケから釣竿を渡そうと声をかけられて、シンジがちょっと間をおいてから「そんなのできないよ」みたいな台詞を言う場面がありましたけど、ぜんぜん芝居がつながってるように聞こえなくて、初見のときになんだか異様な感じを覚えたんですよね。自我のミートチョップの例えから、声優の台詞を別撮りにするのは、素材として切り貼りの容易な音声データを作るためなんだといま気づきました。声優どうしでかけあいとかさせると、台詞と台詞に関係性が生じて芝居を分離できないから、コラージュの死霊術師にとって使い勝手が悪くなっちゃう。監督にとって最後のアニメ制作が、まさにネクロマンシーの秘術となってしまったことは、いつまでもいつまでも残念です。

 話をブルーピリオドに戻します。いま大学生編の文化祭のところを読んでますけど、学生生活の描写はあくまで箸休めで、ガチの作品作りとその苦悩にまた戻ってきてほしい。群像劇で長編化せず、主人公の苦悩へだけフォーカスしたまま、多くとも20巻くらいで終わってほしい。教授会が定刻通りに始まったことはなく(音楽学部は定刻10分前には全員そろうらしい)、卒業生の半数以上が就職せず行方不明になるという、一般人が畏敬の念を抱き、妄想をたくましくする東京藝大の魔性を見せてほしい。また勝手なことを放言しましたが、「これが終わるまでは生きる」リストへ、ひさしぶりに新たな作品が加わったことは事実です。でも、才能ある友人の悩みには、「もう大学生なんだから、家を出て下宿しろよ。それで解決する問題だろ」って、オジサン少し思っちゃうな。

雑文「マシリト&ウラケン対談」感想

 雑文「ベルセルク未完に寄せて」

 先のツイート群でちょろっと紹介したマシリトとウラケンの対談ですけど、ベルセルクのファンを自認するなら読んでおいた方がいいですよ。これ、ウラケンから対談を申し入れたんですけど、「大好きな『北斗の拳』を手がけた名物編集者から話を聞きたい」「新しい代表取締役から『ベルセルク』がどう処遇されるか探りたい」「だれも意見をしなくなった自作品の客観的な評価が知りたい」の3つの欲望がないまぜになった、玄妙極まる空気感が行間からビンビン伝わってくるのです。社長とチョクで面識を持つことで、懐に入りこむ意図もあったと思うんですけど、マシリトは白泉社の大看板としての商品価値を微塵も忖度せず、漫画作品としてのベルセルクをド正面から唐竹割でまっぷたつに切り捨て、「とっとと終わらせて、次の作品を書くべき」とまで言い放つのが痛快きわまりない。数少ないホンモノの「深海魚」であるマシリトの凄みと、蝕という一発芸だけで30年におよぶ連載を無批判に許してもらっていることをどこか後ろめたく思う「殿様(PDF)」の怯懦が対比され、思わず口元がほころんでしまうバツグンの読み味なのです。これを読んだあと、もしかするとベルセルクが絵画作品から漫画作品へと回帰するのではないかと一瞬だけ期待しましたが、まあ気のせいでしたねー。

 きのう紹介したマシリトとの対談を読み返したんだけど、まー強烈ですね。「なんで蝕なんか描いたの?」「漫画家として寿命が伸びると思ったので」「僕と出会っていれば(蝕を描かなければ)もっと寿命が伸びたのに!」ってやりとり、すごくないですか? つまり商品価値は認めるものの、漫画家として「お前はもう死んでいる」と正面から宣告してるようなもんじゃないですか! 白泉社の会長になってからのインタビューでも、キャスカ復活のことをふられて、「読んでないし、興味ない。ベルセルクは蝕で終わってるから」みたいなそっけない返答をしてて、ウラケンとの対談がオブラートに包んだ会話(あれで!)だったことがわかります。カイチョー、自社の商品でっせ! あんさん、どこまで自分に正直だんねん!

 でもまあ、ほとんどのファンが薄々は感じていたことですよね。いま「惜しまれて去るレジェンド」みたいな空気ありますけど、私を含めて13巻までを思春期に体験した者たちの思い出補正が強くて、漫画としての客観的な評価はマシリトが正しいのかもしれません。

 ベルセルク20巻くらいまで読んでる家人にウラケンの訃報を伝えたら、第一声が「だれ? 俳優?」でした。漫画家であることと同作の未完を伝えたら、「え、まだ終わってなかったん?」でした。うーん、温度差。小鳥猊下です。

 訃報に寄せたみなさんの嘆きとか読んでるんですけど、「死ぬまでに頭の中にあるものを描ききれるかわからない」という作者の言葉を真に受けてる人がけっこう多いのに驚きます。あれ、映画監督が最高傑作はどれか聞かれて、「次の作品だ」と答えるのと同じリップサービスだと思いますよ。あと、グイン・サーガ方式で別の書き手に続きをゆだねる案も見かけましたけど、カイチョーが許さないんじゃないかなあ。

 「ベルセルクは20年前に終わっています。どうしてもファンタジー作品を掲載したいというなら、次のベルセルクを探すか育てるかしてください。41巻は欠番になっている話を巻末に収録して、最終巻として発売します。私からは以上」くらいの感じでシンパの編集者たちを封殺してそう。知らんけど。

 「もっと言うと、背景はいらないです」。ここ20年のベルセルク全否定! チ、チビシーッ! 小鳥猊下であるッ!

 あのインタビュー再読してて感じたんですけど、自分よりも辛辣なことを言ってくれる人がいると、自分が言わなくてもよくなるっていうか、それこそちょっと擁護側にまわったりしていい人ぶれるっていうか、すごく気持ちが楽になりますね! 私の「:呪」も、そんな感じで広まったのだろうことが、なんとなくわかりました。

雑文「ベルセルク未完に寄せて」

 訃報にふれた第一声は、「ば、馬鹿ッ! 本当に死ぬヤツがあるかッ!」でした(関西弁だったけど)。私にとってのベルセルクは、スペースシャトル(様の宇宙船)だったかなー。ノロノロつたない導入部からグングン作画力と演出力が加速し、「蝕」と重なったそのピークの爆発力で重力をふりきって成層圏まで一気に垂直上昇、「ロストチルドレン」で機体が平行に戻ったあとは衛星軌道に乗って、遠くでゆっくりと時間をかけて同じところをグルグル回っている、そんなイメージです。

 ドクター・マシリトが作者との対談で、「僕が担当なら蝕のシーンはぜったいに描かせない。若いうちにあれを描いてしまったら、作家として終わる」みたいなことを語ってて、本当に慧眼だったなーと改めて思わされました。ドラクエで例えると、レベル50ぐらいまでの到達とラスボスの打倒をバランスのいいテンポと長さで語るのが、良い少年漫画の基本系だと思うんですよね。昔の作品ならダイの大冒険あたり、最近の作品なら鬼滅の刃がそれに当たるでしょう。ベルセルクって、過去編というかなり早い段階で「蝕」を出してしまい、つまり一足飛びにレベル99へ到達してしまい、運営5年目のアプリゲーぐらいの煮詰まり方から現代編を語らなければならなくなってしまった。これに対する作者の回答は、「物語の失速を、画面の密度を際限なく高めていくことで相殺する」であり、運営10年目のMMORPGみたいに「レベル上限をさわれないので、装備数値の小幅な更新で成長を演出する」のと同じ袋小路に入りこんだ感がありました。少年漫画の歴史は長くないーー老舗のジャンプさえ50年ほどーーがゆえに、これまで顕在化してこなかった「連載の長期化と作者の寿命」という問題が、主に高齢化する読者側の不安として近年は浮上してきており、今回はそれが現実のものとなってしまいました。

 いち時代を築く作品というのは、作者がそれを受け止めるだけの充分な研鑽と才能の器を持っていることを大前提としながら、やはり「選ばれて与えられ、語ることを許される」特別な物語だと思うのです。それを語ることは古代のシャーマンがする神おろしのトランスであり、生命を燃やして歌い踊ることで日常を越えた何かの存在を、我々凡夫にもわかるよう伝えてくれるのです。そして同時に、神の依り代となった者は神が身内を満たしているうちに、与えられた物語を語り終える義務があるとも思うのです。長すぎる物語の語り手が、この義務を果たしたケースを私は寡聞にして聞いたことがありません。道半ばに生命を燃やし尽くして倒れるか、もう身内の神は失せているのに、神が共にあるふりをして踊っているかのどちらかしかない。古い世代の例えで言うなら、ベルセルクはまずデビルマンとしていったん短く苛烈に終わるべきだったのに、どの時点からかバイオレンスジャックへと語り方が移行してしまった(脇道であるギガントマキアの世界も、連載が続けばおそらく枝葉として統合されていったと思います)。

 少し話がそれますけど、こないだチェンソーマンをぜんぶ読んだんです。まー、これがものすごい速度の漫画でした。本当ならだれもついていけないような速さなのに、読者側の漫画リテラシーというか、フィクション受容能力が昔に比べて格段に上がっているので、作品側が読み手の読解へじかに融合してくるような形で行間を補完させて、わずか11巻という短さであの規模の話を強引に語り切る終わり方をしていて、少年漫画の文化的成熟を前提にした全く新しい作品が出てきたなと思いました。これだけ短いのに、チェンソーマンがハンバーガー屋に客で来るギャグみたいな小噺も混ぜてあって、従来の文脈から登場したのではない、異質の凄みを感じました。「速すぎて短すぎるのにちょうどいい長さ」って、ほんと良い少年漫画の定義を真正面からブッ壊すようなイレギュラーだと思います。

 え、紆余曲折あったけど、ちゃんと物語を終わらせたシンエヴァはえらいですね、だって? バカ、シンエヴァなんかをベルセルクといっしょにするなよ! たしかに狂戦士の甲冑はあからさまにエヴァ初号機のイメージをパクッてたけど、あれはテレビ版19話までの影響で、新劇はぜんぜん関係ないだろ! 完結まで25年もあったけど実働は5年ぐらいのものだろうし、神おろしの巫女が見事に舞台を務めて去ったあとの神社で、境内を掃いていただけの下男のオッサンが脱ぎ捨てられた巫女服をひろって身に着けて、キショク悪いアンコウ踊りをクネクネ踊っていただけだろ! だれかのレビューを読んでからしか作品の評価ができない貧相な感性を振り回すの、もういい加減にしろよ!

 まあでも、初老をこえたら前触れなく死ぬことはふつうにありますね。最近、私が(nWoなりに)頻繁にツイートをしているのは、現世からカネをかすめとるために90%以上の時間、自我を消滅させて生きているため、私の内側にある何が外で起きても変わらない本質をどこかへ残しておきたいという欲求がさせているのでしょう。そしてその欲求は、「ある日、突然に死ぬ」ということが思春期の甘い妄想ではなく、中年の生々しい現実として実感されてきたからです。頭の中にしかない、「こういう文章で感情を表現しておきたい」というモヤモヤしたものが吐き出されないまま死んだら、地縛霊にでもなりそうな気さえします。

 いまの夢は半世紀ほど経って、テキストサイトムラの住人たちがことごとく死に絶えてから、最後のひとりとして小鳥猊下の権威を高めるためだけに、あることないこと語りまくってやることです。アンタたち、せいぜい長生きしなさいよ! アタシより先に死んだりなんかしたら、アンタたちの悪口をふきまくってやるんだから!(アスカ? いいえ、ダイワスカーレットです。なぜかアスカは、私の中からいなくなってしまったので……)

質問:「ば、馬鹿ッ! 本当に死ぬヤツがあるかッ!」ここ、どんな関西弁だったんですか?
回答:「アホか、なに死んどんねん!」です。関西弁、あったかいナリ……。

 雑文「マシリト&ウラケン対談」感想

漫画「ギガントマキア」感想、あるいはベルセルクについて

 みんな蝕のシーンにやられて、ここまでついてきた。あれは後にも先にも無い、絶望を描き切ったアンチクライマックスの極北だった。

 彼の復讐劇の果てに、蝕の対となる真のクライマックスが訪れるはずだと、だれもが期待した。そして、十年近くが経った。キャラは増えに増え、描きこみの緻密さに比例するように、掲載の頻度は間遠になっていった。みんなもうどこかで気づいていながら、間違いなくかつての愛から、この物語の最期をどうにか看取りたいと願ってきた。

 だれもが完結を待つそのファンタジーを中断してまで描きたかったとのふれこみに、よほどのことかと手にとった。プロレスと少女と飲尿、そして既視感を伴う人体模型デザインの巨人。過剰な固有名詞はあるが、物語の中心はからっぽだ。テーマを失い、設定だけがふくれあがる近年の例のファンタジーと、それは相似を為していた。

 そして、悲しみとともに知る。もう二度と、蝕はやってこないことを。