ブルーピリオド11巻、読む。読み終わるのが惜しくて、ことさらにゆっくり読む。それにしても、優しい物語です。あの乱暴な男の子も、あの繊細な女の子も、現実にはいくらでもいて、ほとんどが「よい大人」に出会わぬまま、説明のつかない不全感を抱えたまま、大きくなっていく。以前の感想に、「才能ある友人の母親は裁いているので、今後どう扱うかは気になる」と書きましたけど、「あふれる善意によって壊れる子ども」の描き方が本当に真に迫っていて、この作品ではもう親にまで目くばせする必要はないような気がしました。金銭をふんだんに惜しまず、時間をたっぷりとかけて、気持ちにどこまでも寄り添い、そうして壊された子どもの心は、いったいどのように救われるのでしょう。
最近、頻繁にエル・ジー・ビー・ティーの話題を目にするようになり、そのたびに心がざわめくのを感じます。私の人生の履歴書は、「昭和の幸福」をトレースしたようなものであり、周囲から眺めれば、その外殻には傷ひとつ無いように見えるでしょう。なのに、こんなにも苦しい。この苦しみは、ほとんど実体を伴っているようにさえ思えるのに、パッケージ化され、ラベルを貼られ、他者が理解でき、行政が取り扱うことができるそれらとは違って、どこにも存在しないのです。世に言う児童虐待が「子ども”に”復讐する」ことなら、この巻で描かれている教育虐待は「子ども”で”復讐する」ことであり、かけられた期待を裏切ったことで生じる子どもの苦悩は、やはりどこにも存在しないのと同じなのです。
ピカソの挿話が暗に示すように、親に「心砕かれた者」がその傷を昇華させたものが作品だとするなら、芸術の本質とは先に壊されただれかが、後から壊されただれかをケアするカウンセリングであり、始まりと終わりが同じ場所にある、尻尾を喰う蛇を想起させます。「心砕かれた者」は「心健やかなる者」にこそ救ってもらいたいと願うのに、「心健やかなる者」は芸術や心理学のような体系には、おそらくたどりつかない。だれから聞いたのだったか、「人生で本当に救えるのは、ひとりだけ」という言葉が、いまさら胸に迫ります。ここまで書いて、ブルーピリオドは「心砕かれた者」たちの群れに飛び込んだ、「心健やかなる者」を描いているような気がしてきました。藝大という魔性の城で、主人公がたどりつく芸術のカタチは何なのか、あるいは芸術にはたどりつかないのか、どのような結末を迎えるにせよ、最後まで見守りたいと思います。
『氷のように枯れた瞳で、僕は大きくなっていく』