ケイト・ブランシェット引退の報を聞きつけ、急遽ターの円盤を購入して見る。酷薄なコーケイジャン女性の顔面が大好きなことは、もはや認めざるをえないでしょう。ブルージャスミンで証明されたように、彼女は見事な「人格憑依型」の俳優であり、本作においても監督の考える「ぼくのせかいさいきょうしきしゃ」を完璧に演じてみせました。映画の冒頭からシアター、レストラン、階段教室と、一流の手品師がトリックを見破られない自信があるときのように、アンチョコもプロンプターも存在しないことを示すためのステージと長回しの撮影から、クラシック音楽にまつわる難解な長広舌がマシンガンのごとくとびだしてきます。才能にあふれた美形をしか愛せないレズビアン、愛情と愛着の区別がわからない冷徹な人非人、他者の感情と人生までをコントロールできると信ずるその傲慢さによって、虫ケラと断じて切り捨てたはずのつまらない存在たちに逆襲され、ついには王位を剥奪されてしまう。音への過敏にはじまる不眠と神経症から、首席指揮者としての自我に亀裂が生じ、そこから坂道を転がり落ちるように壊れていく様は、ケイト・ブランシェットでなくては成立しえない圧巻の演技だと言えましょう。特に、プエルトリカン学生の「進歩的な態度」を粉々に打ち砕くために行った「あらゆる価値判断を放擲し、楽譜に従属する奴隷として、魂さえ捨てた空の器たれ」という講義は、最近の私の気分にぴったりと当てはまるものでもありました。
本作をして、女性やLGBTQ差別への批判を読む向きもあるようですが、まったくそれには同意できません。むしろ極めて深刻なのは、漏斗状に上から下へと濃縮していく人種差別の構造であり、おそらく監督自身がそれに無自覚である点でしょう。降板させられた主人公がコンサート会場に現れ、演奏中の男性指揮者へ殴りかかるシーンで終わればよかったものを、そこから大蛇足の30分を追加したために、クラシックの歴史と業界の現在に対する批判へと内容に強いエッジがかかってしまったことが、それへ拍車をかけています。ベルフィンフィルを追い出されたあと、放浪の末に中国人のパトロンを見つけ、最後はモンハンのコスプレをした観客が会場を埋める中で、アジア人のオケを相手になんと「英雄の証」の指揮をするところで物語は幕となります。これは、「白人男性によって築かれたクラシック音楽はカビの生えた古典となって死に瀕しており、いまやアジア人のゲーム音楽にこの分野の新たな萌芽がある」という無邪気な批判のつもりなのでしょうが、以前にグラン・トリノで指摘したものと同じ「西洋的な差別意識の類型」を露わにしているのです。すなわち青い目の視界の外、石の文明の埒外で、もっとも取るにたらぬと侮蔑していた存在が偉大な欧州文化の精髄を継承するがゆえの衝撃であり、「差別構造の最下層にいるアジア人」が対偶に存在しなければ、最大級に痛烈な批判としての機能をこの結末が持たないことが、我々にとっての大問題なのです。逆ピラミッドの最上部にいる白人男性から、白人女性、中南米男性、中南米女性、黒人男性、黒人女性と順に階位が下がってゆき、その「人種漏斗」のいちばん細くなった部分から濃縮されて垂れ流れているのがモンゴロイドへの差別意識であり、この映画の体現する侮辱に対して我々は怒らねばなりません。
本作は、ケイト・ブランシェットのファンがケイト・ブランシェット最後の演技を愛でるために見るのでなければ、まったく1ミリもおススメできません。全面協力したベルリンフィルは、たいそうなババを引かされたものですね。ああ、最後の30分さえなかったらなあ! 白人至上主義者がアジア人差別を無自覚に利用した、けったくそわるいクソ映画で引退を表明させられるなんて、ケイトがかわいそうだ!