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ゲーム「ドラクエ3リメイク」感想

 ロマサガ2リメイクのベリーハードを最終皇帝で放りだし、ドラクエ3リメイクに鞍がえしてプレイ中。個人的なことから言うと、オリジナルのファミコン版は、人生ではじめて発売日前日の深夜行列にならんだ作品であり、シリーズの中でも特に思い入れが深い。冷静に考えれば、6千円ほどをにぎりしめた小中学生が、オモチャ屋の前に大挙してならんでいるのは、強盗やカツアゲの養殖漁場みたいなもので、その野放図さが昭和だと言われれば反論の余地はないが、令和の感覚に照らすと、なぜ親たちがあれを許可したのかわからないし、教師や警察や補導員もいったいなにをしていたのか不思議に思う。そして、朝日の差す社宅の居間で、興奮にふるえながらカセットをさしこんで電源を入れると、真ッ黒な画面に白抜きで「DRAGON QUEST III」とだけ表示されたときの気持ちを想像してみてほしい。当時、全国の母親たちがとまどいをもってゲームを「ピコピコ」と表現したように、ファミコンの隆盛は多くの良識ある大人にとって、理解不能の病原体に我が子の精神を狂わされてしまうような経験だったと推察する。さらに、個人が経営する町のゲームショップなどは、つど流行りものに便乗するだけの、まっとうな仕事につけない悪い大人がする商売という感覚も多分にあったため、「だまされて、パチモンをつかまされた?」という考えが、まずはじめに脳裏をよぎった。あとからふりかえれば、カセット容量をギリギリまで捻出するための「ロムの伝説」だったのだが、背後に流れるかすかなノイズを聞きながら、しばし茫然とした時間を過ごしたことは、いまでも忘れられない。そんなわけで、ファミコン版ドラクエ3は現実での経験や感情と強くひもづいた、魂の深い部分へ不可分に癒着する、良性だか悪性だか判然としない腫瘍みたいなものなのである。余談ながら、もっとも印象的なドラクエ音楽のひとつであるこの「ボー」というノイズが、どのCDにも収録されず、ドラクエコンサートで演奏されたためしがないというのは、どうにも信じられない。ただ観客席に「ボー」というノイズが流れ続けるのを、「4分33秒」ばりにシレッとやってほしいところだ。

 さて、思い出ばなしはこのくらいにして、ファミコン版は数十周、スーパーファミコン版は数周、ゲームボーイカラー版は1周だけした程度のドラクエ3ファンの中央値から、今回のリメイクの気になる点(穏当な表現)を順にあげていこうと思う。まず、36年という長い歳月を経て、スーファミ版がドラクエ3の定本のようなあつかいを受けているのに、一抹の寂しさを禁じえない。本リメイクもご多分にもれず、システムの根幹部分はスーファミ版のガワを巻きなおしたものになっていて、より正確なタイトルは「SFC版ドラクエ3リメイク」であろう。正直に言えば、辛辣きわまる性格診断の導入があまり好きになれなかったし、もしかすると近年の若人の目にはどの結果も、異様なネガティブさで響いてしまうのではないかと危惧している。なので、勇者の性格はほぼ唯一、精霊ルビスがベタ褒めするところの「ごうけつ」一択であり、仲間には「きれもの」と「セクシーギャル」しかいなかった(ところで、セクシーギャルって性格なの? ホーリー遊児の性癖じゃないの?)。ロマサガ2リメイクと同じく、本作でも3段階の難易度が用意されているのだが、あちらはオリジナルの超難度をどうにか現代に再現するための、やむをえない措置だった。万人むけのバランス調整で鳴らすドラクエでこれをやるのは、高級料亭へ入ったはずなのに、卓上に塩・胡椒・醤油・ケチャップ・マヨネーズ・ニンニクのすりおろしなどが置かれており、ゴシック体でデカデカと「ご自由にご調味ください」と印字された黄色いテプラが、ベッタリ貼られているようなものだ。料理人がギリギリの、これ以上はない調整を行った最善と信じるものが客に出され、各自の口腔にて一期一会のケミストリーを起こす。それは接待の席かもしれないし、なにかの記念日かもしれないし、はたまたフラッとのれんをくぐっただけかもしれないが、至高の品々とそれぞれの人生が交錯するからこそ、一晩かぎりの唯一無二な体験が起きあがるのである。ゆるい軟便のようなイージーや、骨を抜いた魚のようなノーマルは言うにおよばず、ハードでさえファミコン版に比べるとプレイヤーに有利な要素が多すぎ、オリジナルのドラクエ3体験を再現しているとは言いがたい。レギュレーションが選手全員に対して同一であるからこそ、自由度の高さから工夫の余地が生まれ、その試行錯誤から達成感やドラマが生じるのであって、難易度をいつでも変更できる本作の仕様は、誤解を恐れず言うならば、パラリンピックと同じ競技性に堕しているのである。つまり、「車椅子ホニャララで生涯無敗って、ギアが高価すぎて競技人口が限られていて、そもそもまともな対戦相手がいないだけじゃないの?」みたいな疑問を投げかけられた選手のような気分にさせられるのだ(絶対に勝てるニッチ分野を探しだす嗅覚はすごい)。

 つい興が乗って言い過ぎてしまったが、難易度変更以外の部分でも、「ダンジョンの奥深くで半壊するパーティ」「体感蘇生率30%以下のザオラル」「枯渇するMPと1回の使用で砕ける祈りの指輪」というヒリヒリ感はのぞむべくもなく、「魔法以外の多様で多彩な全体攻撃」「体感蘇生率80%以上の謎呪文ザオ」「レベルアップで全快するHPとMP」というぬるま湯のような仕様になっているのである。ファミコン版のドラクエ3は、「とぼしいリソースを管理して、なんとかやりくりする」ゲーム性だったのに、本作は「豊富なリソースを、好き放題に蕩尽する」方向へ、その本質を変じてしまっていると指摘できるだろう。次にゲーム全体のルックス(笑)ーーリメイクを重ねるごとに戦士の価値が減じていくが、その問題はまた別の機会にするーーへ触れていくと、精緻に描きこまれたグラフィックは、「光と影の明暗」「水のきらめき」「そよぐ風」「大気のゆらぎ」までもが豊かに表現されており、全体的な縮尺が上がったーー建物の壁が高すぎる問題はあるーーのもあって、壮大な冒険”感”を演出することに、成功しているとは言えるかもしれない。ただ、「HD-2Dリメイク」という珍奇な表現で先行的に言い訳が成されているのだろうが、3D空間なのにいっさいカメラを回すことができず、おまけに障害物の背後に移動しても透過しないため、慣れないうちは町中でしばしば自キャラを見失うハメになった。いきおい、ミニマップばかりに目がいくようになり、おまけに初めて訪れるロケーションにおいても、完全に踏破された状態の地図が表示される(なんで?)ものだから、探索の喜びとグラフィックの価値は大幅に毀損されてしまっている。

 また、自キャラとモンスターは、だれのどういうジャッジか、解像度の高い背景から浮きまくりのドット絵で描写されており、「オリジナルの持つ暖かみを大切にした」みたいに喧伝しているのだが、これを喜ぶのは36年前に小中学生だったオッサンとオバハンだけだろう。あらゆる仕様において、親切を大きく越えたプレイヤーへの甘やかしを敢行し、令和の新規層へバチバチと目くばせを送りながら、肝心かなめの部分で安易な昭和レトロ(笑)に逃げているのである。例えるなら、ラップも容器も使わず素手でじかに握っていた当時のオニギリを「オフクロの味」と表現するみたいなもので、令和の衛生観念からすれば、とても口に入れられるようなシロモノではない。「ばあちゃんのオニギリはあったかくて、特別な味がした」ってそれ、ボットン便所で用を足してから八切りの新聞紙で尻をふいたあと、モンペを引きあげた手を洗わずに握ったため、手の常在菌と黒インクと大腸菌が米の表皮に付着しているだけですからね(ちなみに、うちのオニギリは化粧水の味がした)! バトルに関しても、モンスターのドット絵による動きを作りこんだ時点で力つきた感じで、制作中の画面でだれもが期待したような、プレイヤー側の攻撃や魔法がクォータービューでとびかうことはなく、コマンド入力時にキャラの背中だけを見せる「予告編詐欺」みたいな仕上がりになっている。正直なところ、ドラクエ11の素材とデータをそのまんま流用して、適宜2Dと3Dを切りかえられるあのシステムで作ったほうが、はるかに安あがりで工期も短くすんだのではないかと真剣に疑っている。

 さらに細かい点をあげれば、ルーラが天井無視でMPゼロの単なる「どこでもファストトラベル」ーーダンジョンを含めたすべてのロケーションがリスト登録されるのも気にくわないーーと化したせいで、キメラのつばさとリレミトの役割が完全に死んでいたり、バシルーラの効果が「酒場へ強制送還」ではなく「その戦闘のみ離脱」になっていたり、ガイドマーカーと「おもいで」の機能が完全にカブッているのに閲覧頻度の高い「つよさ」を押しのけてウィンドウの上位階層に入っていたり、ゲーム性の核の部分を変更しておきながら何の調整もせず放置された残骸が散見され、「本当に日本人はゲームを作るのが下手になったなー」と、思わずため息がもれてしまった。追加要素も首をかしげるものが多く、テドンの新規ボスは3回以上攻撃しないとたおせない高体力なのに仲間を無限呼びーーアルファベットが一巡してAに戻ったときは、コントローラーを投げつけそうになったーーしたり、サマンオサ初回訪問時の印象的な葬式シーンになぜかボイスがついていなかったり、おそらくホーリー遊児がこれまで担っていた「ゲーム全体を見通す一貫的な視点」が欠けているように感じられるのだ(1メッセージ中に「時」と「とき」の表記が混在するのを見つけたときは、暗澹たる気持ちになった)。これだけブツブツと文句を重ねながら、3日ほどでネクロゴンドまで進行しているのだから、ここまでに指摘した部分以外(どこやねん!)は、もしかするとよくできているのかもしれないことは、最後に付記しておく。

 昭和のやっかいなオタクによる、陰鬱なダウナー批評という印象を結部で弱めるため、当時、関西局所で流行っていたドラクエ3のフィールド音楽の替え歌を披露しようと思う。冒頭部分から、いっしょに歌ってほしい。さんはい、「ナワでーしばりー、ムチでーたたく、これがほんとのーマゾなのー、おねがいー、おねがいー、すてーえなーいでー……(ドラクエとは似ても似つかぬ転調)ってなこと言われてその気になって、女房にしたのが大まちがい! 炊事洗濯まるでダメ! 食べることだけ3人前! ひとこと文句を言ったなら! プイと出てゆき、はい、それまーでーよー……ぼーくーは泣いちっち、横むいて泣いちっち」。脳内で勝手に転調したあとの歌詞の正体がなんなのか、いまだにサッパリわかっておらぬのだが、記憶の澱として記述して終わ……なに、シルエトだと? バカモノ! 女戦士の乳当てなどより、こっちのほうがよっぽど大問題だわ! 変更することで、逆に「ホログラム幽霊」以上の意図があったように思われるだろうが! いっそ、バーン・ゼム・オールとかに改名してやろうか(ゼムの指すものを答えよ)!

ゲーム「FGO奏章III:アーキタイプ・インセプション」感想

 FGO奏章III:アーキタイプ・インセプションの後編を読了。ファンガスと制作陣のハワイ慰安旅行がルルハワへと化けたように、我々の課金をふんだんに使用したドバイへのお大尽ツアーが今回の水着イベントへと結晶したのだろう現実に微苦笑していたら、物語はいつのまにか奏章に変じたかと思えば、急激に加速しながらグングンと上昇してゆき、ついにはブルジュ・ハリファをはるかしのぐ高い位置にまで到達していました。エジソンやバーソロミューという、記号でしか内面を造形できない他ライターによるトップクラスに「悪い見本」である死にキャラたちを、彼らの生き方へと優しくよりそうことで見事に再生してみせた手腕は、ファンガスにしかできないと信じさせてくれるものです。「ビーストを見逃したことが、結果として人類を救う」展開は、指輪物語における「ゴラムを殺さなかったビルボの慈悲が、長い年月をへだてて、すんでのところで世界の破滅をふせぐ」の変奏になっていて、もうそうなることは半ば以上わかっていながら、いざその場面をむかえる段になると、「ずるいよー!」などと言いながら、泣き笑いに嗚咽するハメになるのでした。BBドバイなんて、ふざけた名前の過去資源再利用キャラに向けた小さな嫌悪感からはじまった旅路が、他ならぬ彼女の「あれだけがんばってるんだから、まちがうに決まってるじゃないですか!」という直球のセリフーークリプターのリーダーが言う「人間はみんな、がんばっているんだよ」に呼応しているーーにガツンとやられて、号泣させられるところへまでたどりつくとは、「稀代のストーリーテラー」という称号に恥じぬ書き手であることを、再確認した気持ちになっております。

 ファンガスの作家として特異な点を挙げるならば、「英霊システム」という、おそらくファミコンを「ピコピコ」と吐き捨て、蔑視の対象としていた我々のひとつ上の世代にとって、完全に理解の範疇外にある荒唐無稽の狭小な設定を用いながら、あらゆる人間に通用する高い普遍性を描いていることでしょう。「なぜかわからないが、泣いてしまう」という評は、弱き者たちへ向ける優しいまなざしと、意図せず大きな責任をあずけられた者が見せる気高いふるまいに、その理由の一端があると考えています。名も無き人々が粛々と生活を積みあげた先で、時に選ばれただれかが名をあたえられ、人類を救う仕事をするーーふだんの生活では決してたどりつかない、「世界のために善行をなしたい」という巨大な感情を自覚させられ、登場人物たちのそれに強く共鳴することによって、涙が流れるのにちがいありません。これは推測にすぎませんが、奏章IIIは過去の持ちキャラを動かしていくうちに、昨今における人工知能の急速な発展に対する思考と強い化学反応が起きてしまい、作者のつもりを越えて「書かされてしまった」物語なのではないでしょうか。ストーリー全体を通じて、あまりにFGOという作品の、もっと言えばファンガスという作家の集大成的な内容になっていて、ここまで世界の秘密を語り尽くした上で第2部の終章をどうするのか、外野ながら心配になるほどです。

 そして、人間を人間たらしめているのは、同時代を生きる他者とつながるための「仕事」であり、「仕事」の本質とは、後世と後生にたくす「継承」であるーー半世紀を創作にのみ捧げてきた人物が、なんのてらいもなくこれを正面から言えることに、わたしは軽い驚きを禁じえません。ゲームアプリという一過性の娯楽に、彼/彼女の才能が費やされていることを嘆く声もあるようですが、いったいなにを読んでいるのだろうと不思議に思います。FGOがなければ、ファンガスの生涯テキスト生産量は現状の10分の1にも満たないでしょうし、このような高潔の思索へと至ることはなかったと断言できます。創作のみで口を糊していける幸運な方々の予後は、あまりよろしくないというのが個人的な観察で、虚構排出を人間の営為の最上に置いてみたり、作品を通じて特殊な政治信条をたれながしはじめたり、”既存のものではない”宗教的な考えにとりつかれだしたり、人生のどこかで世界との接続が曲がるか外れるかして、深く静かにくるっていく。ファンガスの実像がどうなのかはおくとして、書かれているものにそれらの「濁り」が寸毫も、一文たりとも混入しないのは、じつのところ、すさまじい克己によるバランシングなのです。

 今回、死者の訪れなくなった冥界を比喩として、「終わらない物語」「終わろうとしない物語」「終わったことに気づかない物語」の”醜さ”に対する嫌悪感をあらわにした彼/彼女が今後、「終われない物語」となってしまったFGOアプリをどのように定義していくかは、非常に気になります。キリシュタリア・ヴォーダイムの名前が、作中で美しく想起されるのは、彼がFGOという進行形の物語において、ほとんど唯一「終わることをゆるされた存在」だからであると指摘できるでしょう。きわめて重要な奏章IIIが時限イベントにとどまり、結果として主人公の記憶からさえ抹消されてしまうのは、経済と大人の理屈で「死を喪失して」存続していかざるをえなくなったゲームアプリが、「美しく終わることもできたこと」を我々に覚えていておいてほしいからであるような気がしてなりません(蛇足ながら、「喪失の美しさ」と「生き続けることの汚さ」は、我々の心性に歴史がエンベッドした潔癖な倫理感であるやもしれず、そうなれば「英霊システム」の”英霊”も、異なった意味あいをもってひびいてきます)。

 奏章IIIにおいて語られた、いくつもの印象的なエピソード群のうち、個人的にもっとも大きな感銘を受けたのは、エジソンの冥界通信に関する挿話でした。亡くなった妻と話をしたいという欲望は、「死んでから、はじめて大切だったことに気づく」のではなく、ある種の人々にとっての「死んだあとでしか、大切にならない」という宿業、つまりは人外の冷徹さを描いているのではないかと、我が身に引きよせて感じられたからです。BBドバイへと仮託されたファンガスの悲鳴は、「生きているものを、生きているうちに愛したい」という、オタクたちの祈りにも似た願いなのかもしれません。

映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」感想

 ゼルダ最新作の発売を目前にひかえ、タイムラインがグツグツと沸騰しつつあるのを、ひどく憂鬱な気分でながめている。なんとなればブレワイはシリーズ中、唯一クリアに至らなかった作品だからだ。「人類史上最高のゲーム」みたいなタガの外れた激賞を目にするたび、なんだか自分がゲーム不具なのではないかと、劣等感でいっぱいにさせられてしまう。短くはないゲーム人生をゼルダとともに振りかえれば、ゲームウォッチのドンキーコングJrでうぶ湯をつかい、デビルワールドで華麗なファミコンデビューを果たし、初代ゼルダの伝説でディスクシステム書き換えバージニティを失い、リンクの冒険で東西の位置関係ーーナボールノズットヒガシニカミガスムーーをはじめて把握し、神々のトライフォースにそれほどの思い入れはなく、時のオカリナを「最高のゼルダ」としていまだに崇拝の対象としている。その後、ハードの変遷に伴って発売されたフラッグシップ級の作品ーー携帯機版はほぼ手つかずーーはすべてクリアしているし、悪名高いスカイウォードソードも棒振り操作しかない当時に、両腕が上がらなくなりながらエンディングまでたどりついた。そんな比較的コア寄りのファンであるにもかかわらず、ブレス・オブ・ザ・ワイルドはゾーラの里で最初のボスを倒したあたりで中断してしまっているのだった。

 その理由を分析してみると、ニンテンドーの作るゲームはゼルダに限らず、ゲームのみに没頭することを強く求めてくることが大きいように思う。いまゲームに触ることができるのは一日の終わり、文字通りの「ア・フュー・アワーズ」だけしかなく、ニュース番組と配信アニメを並行して見ながら、艦これとスマホゲーのデイリー消化を同時に行えることが、コンシューマー・ゲーム(古い?)に求める条件である。さらに、ほぼ確実にアルコールを入れながらのプレイになるため、高すぎるアクション要素がないことも重要になってくる。この不自然的な淘汰の結果、これらの条件にピッタリと当てはまるゲームだけが日常へ残っていくことになるのだった。ブレワイのパチモンと批判されがちな原神も、しっかり育成さえしていれば、見た目の派手さのわりに求められる反射神経はきわめて少ないため、とてもとても具合がよろしい。最近リリースされた崩壊スターレイルはさらにすばらしく、アクション要素が絶無なため、倍速オート戦闘の合間に積んでいる漫画まで並行して読めてしまう。すなわちこれ、ニュース・アマプラ・ネトフリ・艦これ・スマホデイリー・原神・崩スタ・コミック同時消費おじさん系美少女の爆誕である(たいがいにせえよ)。若者のするタイム・コスト・パフォーマンス仕草をまったく笑えない状態であり、ティアーズ・オブ・ザ・キングダムも引退後まで取っておく作品になるだろうことは、すでに火を見るよりも明らかなのだった。

 日本三大しげるーー内訳は割愛するーーの一人が提供するクリエイティブへ向けた背信行為に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、彼とニンテンドーへの敬意と恭順を示すため、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーを見に行ってきました(ここまでが前置き)。あまりの申し訳なさから、映画本体にアイマックスと3Dメガネまでトッピングした金額を上納する始末です。感想を述べる人物のステータスをさらに紹介しておくと、ドンキーコングに始まったマリオ遍歴は実質サンシャインで終わっており、ギャラクシーと2とオデッセイはさわりだけプレイして、放置したままになっています。きっと「USJのアトラクションみたいな作品」なんだろうなと、かなり冷めた期待値の低い状態で見始めたのですが、けっこうな序盤から涙が止まらなくなり、90分間ほぼずっと泣きっぱなしでした。本作を「6歳児向けで評価不能」と述べた映画評論家の炎上もむべなるかな、文脈依存度の非常に高い作品であるのは間違いなく、私にはその人物と真逆の意味で正しい評価を下す資格がありません。人生の40年をともに生きてきたマリオとルイージは、カズ・シマモトーーヒデアキ・アンノとは言わないーーにとっての仮面ライダーへ相当するキャラクターだと、いまさらに気づかされたのですから!

 「マリオがマリオになる」という意味でザ・ファースト・スーパーマリオブラザーズとでも命名すべき内容で、全篇を通してアトラクションどころか「かなり映画なのに、すごくマリオ」になっていて、画面に映しだされるすべての要素がかつてのゲームプレイと紐づいてスーパー・ハイコンテクストに「わかる」なんて体験、今後の人生で二度と起こる気はしません(ネコマリオだけは、知らなかった)。「うわー、マリオが配管工の前は解体工をやってたの、ひさしぶりに思いだしたなー。レッキングクルーでゴールデンハンマーを持ってるときの音楽が、ファミコン時代にマリオが登場する作品の中でいちばん好きだったなー。あれ、でもスパイク? ブラッキーじゃなかったっけ?」……ことほどさように、すべての場面で半ば走馬灯のごとく過去の記憶がよみがえり、それはほとんど臨死体験を先取りしていて、個人的に「イキかけ」るような作品だったことをお伝えしておきます。くしくも炎上した映画評論家が態度で示してしまったように、かつてゲームというものは大人になる前に卒業しておくべき、「一頭地劣った、程度の低い文化」とみなされていた長い長い期間があったわけです。ずっと虐げられてきたゲームを、母親にACアダプターを隠されても隠されてもーー針金2本を直にコンセントへつっこんで死にかけたことさえあるーーやめなかったピコピコ少年たちを、彼らの過ごしてきた人生ごと抱きしめて称揚してくれるような、そんな映画でした。

 あと、ピーチ姫の造形がCGなのに「生き生きとイビツ」なところにすごくフェティッシュを感じて、途中から目が離せなくなりました。左右非対称な表情の作り方の感じとか、まるで……と思っていたら、エンドロールで中の人はアニャ・テイラー・ジョイだったことが判明しました(私の審美眼も、まだまだ捨てたものじゃないようです)。ともあれ、日本三大しげるの一人にあらためて感謝の意を表しつつ、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーにもし点数をつけるとしたら……病めるときも健やかなるときも40年間ゲームを続けてきた人物にとっては、三百七十八京三千二十三兆六千八百六十九億点ですね(わかりにくいネタ)!

 ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー追記。皆様の感想を追いかけていると、昨今の映画の常として薬にもしたくないポリティカル・コレクトネスの話が、ポコポコ出てくるわけです。あのね、日本三大しげるの一人であるミスターMの、その世界的な名声を取り除いた内実は、まごうことなき「昭和の関西に住んでる近所のオッチャン」なので、作品の面白さへ優先させるようなポリコレ的意識だけは、ぜったいに持ってないと思いますよ! しかしながら、ただ一ヶ所だけ、この視点による疑う余地のない改変があり、それはレッキングクルーに登場した現在で言うところのワリオに相当するキャラが、ブラッキーからスパイクへと改名させられてしまったことです。この名前の英語表記はBlackyであり、ジャングル黒べえとか、ちびくろサンボとか、ダッコちゃん人形とか、那智黒飴(ナチで、クロ!)のCMが、もはや公共の電波へ乗せることができないのと同じジャッジが、残念なことに裏でなされたのでしょう。でもボクは、これからもキミのことを以前の名前で呼び続けるよ! サイコクラッシャーの使い手がバイソンではなくベガであるように、ボクにとってのキミはずっとブラッキーだったんだから!

質問:三百七十八京〜の元ネタ以外は「わかるわかる」と頷きながら読みました。 ブラッキーの名前改変をネタに、鈴木みそ先生に一本描いてもらいたいです。 (あの漫画も初代PSのFF7を「まるで映画だぜ?!」と言っているのを見るともう25年以上前?!となります)
回答:三百七十八京の元ネタは、「トーキョーゲーム」です。麻雀漫画版アキラと形容してまったく過言ではないSF作品で、キャラ・構図・台詞のカッコよさはいま読み返しても、現在のフィクション群に対して何ら劣るところはありません。いまだにだれかが「星の数ほど」と言うたび、「肉眼で見える星の数はたかだか六千個に過ぎぬ。文学的感傷に酔うのはやめたまえ」というフレーズが脳内へ自動的に復唱されるほど、深刻な影響を受けています。鈴木みそ(ファミ通!)、なつかしいですね! 個人的には桜玉吉が「しあわせのかたち」を「そねみ」に変じたあたりが雑誌として最もトガッていたように感じています(いまは……)。

雑文「GENSHINとSTARRAIL(近況報告2023.5.3)」

 崩壊スターレイル、第1章クリア。シリアスのテキストは原神に軍配が上がりますが、ギャグ・小ネタ・設定のテキストはこちらの方が好みです。そうそう、また冒頭から盛大にレイルを外れますが、原神の最新イベントはまさにそのシナリオが持つ魅力を臨界にまで凝縮した内容でしたね! 崩スタの終始ツッコミ不在の感じに比べて、パイモンの狂言回しとしての優秀さもあらためて理解できました。「性格は運命になる」ーーボーイズ・ラブにおわせの目的で唐突に投げこまれたように思えた「CLAMP型金髪美青年」がここまで大化けに化けるとは本当に、想像だにしていなかったです。これだけ多くのキャラを動かしながら、NPCを含めてだれひとりとして下げずに語りきるのは、原神の特筆すべき美点と言えるでしょう。余韻としての後日談は「かゆいところ」をあらかじめマッピングして、ひとつも余さず順にかゆみを消していったばかりか、「失われた手紙」という将来への伏線までキッチリと用意されているのは、もう脱帽という他ありません。本邦における近年の創作界隈で特に顕著な、「特定のキャラをアホか悪役にして、主人公が作者の化身となってそれを一方的に断罪してスカッとする」作品群が、いかに精神的な未成熟から発したものであるかを、原神の成熟は教えてくれます。

 さて、強引に崩スタのギャグ・小ネタ・設定の方へとレイルを戻しますが、特にゴミ箱とか公衆電話とか、街の設置物を調べることによって次第に明らかとなる主人公の狂気じみた内面(ピエロ方向)は、本作のユニークな見どころだと言えるでしょう。皆さんの感想を読みたくて、ツイート検索しようとしたらサジェストに「微妙」というワードが出現し、「おッ、キッズ諸君、元気にやっとるねえ!」と愉快な気持ちになりました。確かにこのゲーム、プレイ入口の手触りはJRPGの窮屈さを完璧に擬態しながら、それ以外すべての要素が湯水の如く金銭を投じたハイパーさという異常な作り方になっているので、本質を見抜くにはある程度まで長く触ることが必要でしょう。繰り返しになりますが、この世界観を原神のマップとアクションで再現「できる」のに、あえてそれを「しない」選択が意識的になされているのが、おそろしいのです。例えるなら、歩行の不自由なヒョロガリ(JRPG)がよろめいて転倒するのを、筋肉質の大男が指さしてゲラゲラ笑っていると思った次の瞬間、そのマッチョは真顔になって五体投地から額を地面に擦りつけ、ウラナリ(JRPG)を伏し拝み始めるみたいな異様さが、全編にわたって横溢している。また、模擬宇宙を始めとするテキストにかつてのゲームブックを想起させるものが多くあり、「ファミコン世代の生き残りが、人生におけるアナログとデジタル双方のゲーム体験をふりかえりながら、JRPGの衰退を歴史的な文脈で鳥瞰する」ときに、本作の面白さは最大化される気がします(私だけ?)。

 あと、課金をためらわせないためにプレイヤーへ与える納得として、なにが最も重要だと思います? ワクワクするストーリー? 魅力的なキャラクター? 高精彩なグラフィック? 戦略性にあふれたバトル? いやいや、正解は「自分の興味が無くなるまでは、サービスの継続が約束されていること」です。崩スタは、少なくとも6年先までの運営とアップデートが明言されており、加えて原神の世界的な成功がその実現性を担保しているのです。本邦のスマホゲーの多くが大陸と半島に負け続けている理由がまさにこれで、調子のいいときはエコノミック・アニマル的な下品さが全面に出てくる一方で、いったん負けがこんでくると敗北の受忍を「引き際の潔さ」に読みかえた破滅を、逍遥と受け入れる傾向が我々の根っこに横たわっている。それは、彼らの「生き汚なさ」と真逆の位置にあるモーメントで、単なる資金繰りや経営の話がいつのまにか哲学や美意識の話へとすりかわってしまう(そして、負ける)。

 さて、最後に再び大脱線した話を元のレイルへと戻して終わります。原神のアクションをタッチパネルでプレイすることは、親指5本の中年にとって文字通りの「無理ゲー」でしたが、崩スタはコマンド制なので切迫的なアクション要素がなく、外出先でのスマホプレイに向いている点がすばらしいです。それとよく見ると、「崩壊スターレイル」のタイトルロゴのデザインが、まんまファイナルファンタジーなのは笑いました。あのな、キミたちのレスペクト、ちょっと重ためのメンヘラ片想いみたいになっとるで? 悪いけど、ウチ(以下、語尾あがり)らにはもう、そんなふうに想ってもらう資格なんかないねん……だって、ウチらは、ウチらは……ヤリーロ・セックス(韜晦帝翁真君)!

雑文「ファミコン世代と『ループ』『転生』の病理について」

 きょうは”May fourth”だから、”May the force be with you.”とかけてスターウォーズの日らしいですけど、タイムラインではまったく見かけませんね。まあ、「最後のジェダイ」だけで過去の7作品をまとめてブッ壊しちゃったから、しょうがないよね。我々はこれを他山の石とするべきだったのに、シンエヴァのクソ野郎めが……いや、もう言うまい。小鳥猊下です。

 きのう放流したツイート群の一部が、少々バズっているようですね。文脈が切り取られて理解されるのはツイッターの常ですが、いちおう意図を補足しておきましょう。

 ループものと転生ものは、過去に失われた選択に対して自分は「もっとうまくやれたはず」で、「どこかに正解が存在するはず」だという人生を物語に見立てた希求であり、さらに言えば、唯一の主体である自分の「正しい入力」を待っている世界への希求なのですね。私たち初老オタクの正体とは、つまるところ毒親からゲームへと避難したピコピコ少年たちの末路であり、正しい入力には正しい反応を返してくれる(そして、間違った入力には正しい罰を与えてくれる)はじめての存在に育て直された人たちが我々なのです。昨日と同じ入力をしたのに今日は同じ反応が返ってこない毒親って、最初にして究極の他者であり、長じては別に珍しくもなんともない、世間にありきたりに転がっている不条理と同じ存在だとわかるわけじゃないですか。だから、そういった人々の願望をあずかって描写される「時間ループもの」や「異世界転生もの」って、どれだけガワを違えても根幹にあるのは幼少期に与えられたその恨みなので、都合の悪い他者ーー毒親と同じく、己の都合で悪役のようには視界から排除できないーーの存在しない、正しい入力があれば正解が導かれる8ビット的深度の世界にしかならないのでしょう。

 シンエヴァでいちばん笑った感想ーーアスカでオナニーしないことをシンジの「成長」と呼ぶーーは紹介しましたけど、いちばん感心した見解はなにかといえば、「大人には、充分に長く放置し忘却することで、問題の意味と枠組みを無化するという解決法がある」(必殺、イナーシャル・キャンセラー!)というものです。まあ、シンエヴァは無知で無謀で無邪気な無作為の結果うまれた大凡作なので、こういった高尚な人生訓を受けるには値しないと思いますが、この言葉は作品批評から切り離しても至言ですね。自分を嫌っている人物やこじれた状況へ、ワザワザつっこんでいって解決しようとする試みには、自分があくまで世界の主人公であり、必ず正解が存在することを信じる幼さを感じます。どこぞの戦国武将ではないですが、「相手が死ぬのを待つ」という戦略はじつに効果的で、それは世界の主人公であることを降りた「大人」にしかできないやり方でしょう。ループもの、転生ものが初老オタクを慰撫する物語でありながら、どこか未成熟で幼い印象をまとうのは、この世界理解の拙さに根があるのではないでしょうか。

 あと、オタクって基本的にロマンチストだから、虚構内や金銭の伴う多情の恋愛遍歴を経ながら、そのすべてを無意味にする運命のひとりが世界のどこかに存在しているはずだと、心の片隅で信じているんですよね。しかしそれは、ハヤオ翁あたりの個人的な妄念を集団幻覚としてインプリントされて(すごい人だ!)しまっているだけのことだと思うんです。つまるところ、ボーイ・ミーツ・ガールのフィクション構造がそうなっているだけで、現実には自分の心の形へフィットするようオーダーメイドされた異性なんて、どこにも存在しないのです(ひどいこと言って、すいません)。フィクションが苦手とするのは、表面的には動きの見えない長い時間の描写で、まったく別の形だったふたつが「互いを殺さない」という命題のためだけに、いがみあいながらも絡みあってひとつへと融合していく、気の遠くなるような時間を使ったプロセスこそが、現実での関係性に近いと思うんですよね。でもそんなのって正直しんどいから、「ひとめぼれ」や「運命の出会い」みたいに、パッと燃焼する瞬間を処方箋として虚構に求めてしまう心性が、ループや転生を作り出しているのだと思います。さて、いかがでしたか? 最後にここまでをまとめると、「時間ループもの」と「異世界転生もの」は痛みを和らげるためにファミコン世代の初老へと処方される終末期ケアのモルヒネであり、「実現しなかった可能性未来としての過去」という痛みを持たない青少年にとっては、中毒を引き起こす麻薬でしかないということを、このツイート群で証明させていただきました。みなさまのご参考になれば幸いです。

 ……とかふざけて書いてたら、ロシアで「異世界転生もの」が法律で禁止されたというニュースが流れてきました。理由は「輪廻転生の思想を植えつけ、現世よりも良い来世があると若者に信じさせるから」だそうで、極東のテキストサイト運営者の懸念が、社会主義国家のお墨付きをもらっちゃったなー。

 「オイオイ、だれだよ、異世界転生ものが青少年に悪影響があるなんて得意げに語っちゃってるの! オレじゃあないぜ? プーチンさ!」

 ほんと日本人って未来に生きてるよなー、ってこれ、未来に生きちゃダメだっていう、独裁者からのまごころあふれるメッセージですよね。セイズ・ザ・デイ!

漫画「ピコピコ少年1巻」感想、あるいはファミコンの記憶

 タラムイーン、アズ・ノウン・アズ貴様ら陸貝どもの粘液トラック、あるいは排泄痕を日々薄目で眺める情強の俺様は、いま話題のピコピコ少年とやらをキンドルでサクッとダウンロードし、ビジネスにつきものである移動中の無聊を慰めるべく閲覧してみた。

 唐突に話はそれるが、電子書籍にキンドルと名づける欧米人のセンスはすさまじい。これすなわち「焚書」の意であり、貴様ら有肺類にもわかりいいよう例えるなら、エロゲーを円盤メディアからフリーにする大統一ハードにカストレート、これすなわち「去勢」と名前をつけるような感じだ。すさまじい。

 作者とは、おそらく同世代に近いと思う。土地とゲームの固有名詞こそ違えど、驚くほど似たような少年時代を過ごしてきた。言ってみれば、ここ半世紀ほどで最もクソみたいな時代をだ。ちょうど地方の大家族で居場所を失った次女・次男坊以下が、故郷から放逐される形で都市へと出て、核家族化していった最初の世代の子どもだからだ。父親は週6日午前様で働いて日祝は得意先とゴルフ、母親は会社のヒエラルキーを日常にそのまま移した社宅での人間関係に神経をすり減らし、子どもへの教育を考えたところで、商業高卒の若妻に将来への明確なビジョンなどは求めるべくも無い。そんな弱みをゆすられての押し売り上等、クーリングオフの存在しない時代の訪問販売に馬鹿高い百科事典などを買わされて、ただただ泣き寝入りの末、子どもへ怒鳴り散らすみたいな、クソみたいな日々。

 教育的な定観が無いものだから、ファミコンが流行れば近所で仲間はずれにされては大変とすぐさま買い与える。大人の感情、時々の気分に支配される毎日を過ごしてきた子どもが、人生で初めて入力に間をおかず答えを返す存在、一貫したその世界観に依存し、深く耽溺していくのは理の当然だった。得手ではない教育、好きではない我が子から逃避するために出かけるパートタイム・ジョブでの長い不在が、その傾向を加速させる。気がつけば、ファミコン漬けの子どもの一丁あがりだ。子どもを黙らせる良質のベビーシッター、その恩恵を得ていたにも関わらず、たちまち手のひらを返したように始まるゲームへの非難。何が良いか、何を大切にすべきか、何が正しいかを示すのではない、すでに存在する何か、起こってしまった何かを理屈抜きで否定することが、核家族の教育方針である。

 もちろん、彼らにも同情の余地はある。家名と血脈の存続という自明の命題を取り上げられているのだから。食って排泄して性交する以上の何かがなければ、人は生きていけない。男たちは残らず社畜と化すことで偽りの命題を得たが、女たちは我が子のゲーム狂いを否定することしか残されていなかった。教育観もなく、人生観もなく、世界観もない。なぜならそれらは一家一族に一つだけ継承されていく無形の何かだからだ。そこから切り離された個人はどう狂おうと、どう野垂れ死のうと、だれも省みることはない。ただ、犯罪だけがその例外だ。

 いろいろとしゃべったが、本作から「あの頃ゲームがなければ、死んでいたかもしれない」という一文さえ引用すれば、何の説明も必要ない。あの時代を過不足なく回顧する、素晴らしいフレーズだと思う。一筋の灯りも無い暗闇を手探りで生き延びた者たちの、偽らざる実感がここに込められている。

 えー、先ほどの内容はマット・デイモンがカウンセリングのカウチに横たわって早口でしゃべっていたと考えて下さい。