猫を起こさないように
バーチャファイター
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ゲーム「鉄拳8」感想

 鉄拳8のストーリーモードをクリア。「なぜ、小鳥猊下が格闘ゲームを?」とのクエスチョンが、諸君の脳裏を龍虎乱舞していることだろう。ストリートファイター2ダッシュ時代、関西各地のゲーセンにおいて、主に「見る専」として出没し、対戦には怖くて1コインも投じたことのないカワードであるからして、格闘ゲームとは浅からぬ”えにし”があると言っても過言ではないのである。お行儀のいい令和のオンラインとちがって、昭和のゲーセンは試合の勝敗が近隣の愚連隊とのリアルファイトに発展することもしばしばであったため、小生をふくめた多くの賢明な君子は危うきを避けるべく、スーパーファミコン版の無印を自宅でプレイするにとどめていたのだった。いまでも鮮烈におぼえているのは、近場の家族経営のゲーセンーー当時はそれほどめずらしくなかったーーで、スト2ダッシュの対戦台を背後から腕ぐみして、軍師の表情でながめていたさいのできごとである。プレイアブルとなったばかりで調整の甘い四天王のうち、居住地の近隣ではベガーーバイソン将軍? だれそれ、こわーーが猛威をふるっていたように記憶している。飛行機のサウンドでカッとぶサイコクラッシャーの執拗な往復に、ときどき投げとダブルニーの2択みたいな、キャラ性能へ寄りかかった雑きわまるプレイングに、リュウで負け続けていたガタイのいい兄ちゃんが突如、椅子を蹴って立ちあがり、アストロ筐体の画面をリアル正拳づきでたたき割ったのである! 奥に座っていたオバチャンの、血相を変えて路上にとびだしてくるビジュアルが頭に残っているため、冤罪をきらった他の観客といっしょに、それこそ蜘蛛の子を散らすように、その場から逃げだしたのかもしれない。この逸話からもご理解いただけたように、昭和のゲーセンはきわめて治安の悪いヤンキーどもの溜まり場であり、筐体に置かれているだれも掃除しない灰皿ーー分煙なんて概念は、オヤジの毛ほども存在しないーーが宙を舞うことも頻繁だった。

 そのため、個人的な鉄拳シリーズの体験はコンシューマー版(すでになつかしい表現)の内側にとどまっており、1と2を初代プレステのCPU対戦で楽しみ、3と4と5はまったく記憶になく、6と7はハードの変遷にともなって無料かセール中にダウンロードはしたものの、ほぼ手つかずといった具合である。もっとも時間を費やしたのは2で、持ちキャラの三島平八を使って「アッパーで浮かせてから崩拳をたたきこみ、起きあがりにダッシュ浴びせ蹴りを重ねる」みたいな戦法が、いまだ手に残っている感じがある。そんな酷薄(こくすい)プレイヤーが、なぜ鉄拳8をプレイしているのかと問われれば、nWoはいまもなおテレホーダイ時代の回線速度56Kbpsを生きており、情報の取得に大幅なタイムラグがあるせいで、「無名のパキスタン人2名が鉄拳7の世界大会へなぐりこみ、なみいる強豪を下して優勝と準優勝を独占した。しかも、優勝者はパキスタンの国内大会で17位の選手だった」というみなさまが数年前からご存じのシンデレラ・ストーリーへいまさらに接して、メチャクチャ心を動かされたからなのであった。この実話に感動したポイントは2つあって、1つ目は「幽遊白書の魔界格付けランキング」をただちに連想したことである。「当局の手に負えない妖怪を便宜上はSランクとしているが、Sランク内にも天と地ほどの実力差がある」という、オタクのみんなが大好きなあの概念だ。本邦や欧米の鉄拳トッププロがAランクだとすれば、ビザの取得も困難な辺境のムスリム国家に、なんとSランク妖怪がひしめいていたというのである。2つ目の感動ポイントは、かつてネットが存在せず、交通網の貧弱さによって世間から分断されていた、地方の貧しい農村に生まれた人物が村民たちの期待を背負って送りだされ、豊かな都会の英俊たちを努力と才覚で屈服させて政界や財界でのしあがるという、立身出世の古い物語類型を幻視したゆえである。当該の大会における快進撃を時系列で追った動画、電力にとぼしくわずかな部品の交換にさえ難渋するパキスタン国内のゲーセンに密着したドキュメンタリー、そして優勝者が地元の人々へ感謝の辞を述べるインタビューを見て、「うわー、オレもこのPAKI(蔑称)どもみたいに、祖国を背負って戦いてー」などと、年がいもなく思ってしまったからなのだった。当然のことながら、ゲームをする時間帯には必ずアルコールが入っており、加齢による反射神経の衰えと生来の「親指5本」な不器用さに苦しむ人物にとって、中の人がいるオンライン対戦で勝利による愉悦を得られるはずもなく、いきおい、オフラインで楽しめるアーケードモードやストーリーモードを、本作から導入された簡易操作で楽しむことになるわけである。

 ここで、初期鉄拳シリーズに抱く個人的な印象を述べておくならば、バーチャファイターの超ヒットへ2匹目のドジョウをねらいにきた、品性に欠ける二流三流のパチモンであり、前者が高級レストランのコース料理なら、後者は小汚い商店街で立ち食いするB級グルメぐらいの差を感じていた。そこから30年ばかりを経た現在、大味の鉄拳シリーズが世界的なヒットで隆盛をきわめ、淡麗なバーチャファイターシリーズがe-sportsというガワでの巻き直しに失敗して完全にポシャってしまったのは、我々の本質である「求道的な潔癖さ」が、いよいよ袋小路のドンづまりを迎えていることの証左だとも思えるのである。しかしながら、3時間ほどをかけて鉄拳8のストーリーモードの全容を体験してしまうと、バーチャファイターを猛烈に擁護したい気持ちにさせられるのも、また事実なのであった。このストーリーモードの内容だが、1と2の時代に三島由紀夫の顔と姓をあからさまな下敷きにした主人公や、男塾塾長から剽窃したラスボスの名前と容姿や、バーチャファイターのオリジナリティにキャラ数で対抗するため、骨格の使いまわしでKUMAなんてふざけたキャラを出したり、そこから思いついたのだろうA-KUMAが海外向けにDEVILとなり、DEVILの2PカラーとしてANGELが登場するみたいな、質の悪い連想ゲームによるガッチャガチャにとっちらかった設定を大マジメに「正史」として、湯水のごとくカネを注いでビジュアル化した結果の滑稽さなのである。たびたび指摘している「本邦の大作ゲームと劇場長編アニメにおいて、プロのライター(脚本家と表記しにくい社会情勢)が常に不在である問題」を強く感じさせるシナリオで、ビジュアルの面ではきわめて高度なことを行っていながら、この激動の時代に対して何の批評性も持つことができない、例えるなら「キリスト教系の保育園でするアドベントお遊戯会」とでも表現すべき、旧来のオタク文化を聖典として孫引きしただけの幼稚で無思考なシナリオが、終始むりむりと軟便のごとく垂れ流され続けるのである。特に「聖闘士星矢の黄金聖衣から範馬刃牙の親子喧嘩」へと至るラストバトルは、勝利条件のいっさい不明なまま、ダメージ描写皆無のなぐりあい(シンエヴァ!)が延々と続くため、「神殺し・イコール・親殺し」をよろこぶ本邦の中2病的な精神性にいい加減、イヤ気がさしていることもあって、ファイナルファンタジー16ぶりに1時間くらい「もうええて」を連呼し続けながらプレイするハメになってしまった(原神の話は、もうしないでおきます)。

 最後に、格闘ゲームとしてのバランスをどうこう言えるレベルのプレイヤーではないため、登場キャラについての雑感を述べて終わりたいと思います。コスプレみたいな奇抜な服装のピンク頭が軍属なのにはめまいを禁じえませんが、実のところ彼女はロボットで、着脱可能な爆弾としての頭部(!)をオーバーヘッドキックし、敵の腹部で爆発させるアタオカな必殺技を見せられて、ガッチャガチャの世界観をほこる鉄拳らしい演出だと半笑いになりました。「『だれも思いつかなかったアイデアを思いついた』場合、『なぜだれもそれをやらなかったのか』の観点で、まず考えなおしてみましょう」という例の金言を思いだしましたね(16bitセンセーションかよ!)。しかしながら、すべてのマイナス要素を上書いてプラスへと変じる圧倒的な加点要素として、初代ラスボスの三島平八を時流にのってトランス・セクシャル転生させた(!)レイナたんの存在を無視することは、己のロウワー・ボディへ誠実なオタクには、とてもできません。30年来の三島平八使いーー28年ぐらい前に半年ほど使って、以後は未使用の意ーーとしては、鉄拳9でデビルと化す(ネタバレ)レイナたんを、イッツ・オートマティック、持ちキャラにせざるをえないのです。「カズヤが1と8だから、1引いて0と7でレイナ」みたいなガッチャガチャに安直な連想ゲームは健在ですが、「女子中高生にオッサンの趣味をさせる」からさらにふみこんで、「女子中高生にオッサンの自我を入れる」のは、小鳥猊下の性癖どころか、小鳥猊下その人を表現していると言っていいでしょう。終わります。

雑文「プレステ5雑感と革新的ゲームについて(近況報告2023.1.3)」

 昨年末の私的な大事件として、この2年間というもの、あらゆる抽選から外れてまくってきたプレステ5が今さら当選し、なぜかクリスマス当日に配送されるというミラクルの発生をまっさきに挙げたい。手に入った途端、それまで抑圧されてきた欲望が聖夜のINKEI(UNKEI・KAIKEIの弟子)の如くムクムクとエレクチオンしてきて、「まあ、専売ゲームもあるっちゃあるけど、基本はsteamのPC版で充分だよなー」といった態度が、「ブドウすっぱい」に過ぎなかったことを思い知らされたのである。もはや中身はパソコンと同じと分かっていながらも、やはりファミコン世代にとってのコンシューマー機は、いつまでも心の中で特別な場所を占め続けていることを、あらためて自覚させられたのだった。さっそく「ゴースト・オブ・ツシマ」と「ゴッド・オブ・ウォー:ラグナロク」をプレイして、この13年間でアバター2が技術的な最先端から追いやられてしまった場所の、相対的な位置を知ることができた。

 さて、プレステ5には「アストロズ・プレイルーム」という「同機でできること」を集約したショウケースのようなゲームがプリインストールされている。真のクリエイティブを地で行く宝石箱のような内容であり、これはこれですばらしいのだが、個人的にはPSVR専用の前作を思い出さずにはいられなかった。「次世代機」と呼ばれるコンシューマー機が次々と発売された90年代以降で、前世代の模倣ではない真性の革命となったゲームを3つ挙げるとするなら、1993年の「バーチャファイター」、1996年の「スーパーマリオ64」、そして2018年の「アストロボット:レスキューミッション」である。「ポリゴンによるキャラクターの3Ⅾ化」「カメラ導入による3Ⅾ世界の自由移動」「3Ⅾ世界におけるカメラ操作からの解放」が、それぞれを挙げた理由である。どうもPSVR2には後方互換が無いようで、他2作ほどには多くに知られないまま、この記念碑的な作品が埋もれてしまうことを口惜しく思っている。アストロボットのためだけにPSVRを購入してもまったく損は無いと断言しておこう。この作品はゲーム文化の成熟に伴って出現した大きな革命、まさに文化大革命なのだから!

 ……あれ、オレまたなんかやっちゃいました?

ゲーム「シェンムー3」感想

 発売されたことに1ヶ月近くも気づいていなかった。なんとなれば、私のアクセスするエス・エヌ・エスでは誰からの言及も無かったからである。「もーっ、みんななんで教えてくれないのよー! あたしが鈴木裕、大好きなの知ってんじゃんよー!」などと一人でモニターに向かってオドケながらダウンロードし、三時間ほどプレイして真顔になった。

 グラフィックがアレなのは、キックスターター発のインディーズゲームと考えれば、ご愛敬の範囲。アジアとクンフーのオープンワールドという点も、いまだ新鮮に映ります。何が問題かと言えば、プレイフィールがほぼそのまんま初代シェンムーなこと。

 モッサリとしたレスポンスに、スキップできない上に不気味なぐらい無感情で棒読みの会話、くるぶしほどの段差さえ越えられない移動制限だらけのフィールド。初見殺しのシビアすぎるQTEに、少し走っただけでfalloutのサバイバルモードなみに減りまくる腹イコール体力、さらにオマケどころではないプレイ必須で攻略性の薄いミニゲーム群。シラミつぶしの会話によるフラグ立てに、セーブの仕方さえ教えようとしない不親切なチュートリアル、かてて加えてブツ切りに入りまくるローディング。土間から座敷に上がるとき、靴を脱ぐムービーを見せるために二回ロードが入ったのには乾いた笑いが出た。

 この二十年、オープンワールドタイプのゲームがコツコツと積み上げてきたノウハウとかテクニックをガン無視して、二十年前の不便・不満・不都合をそのままに引き継いだのが本作なのだ。何年か前にファミコンのゲームが三十年ぶりに発売されるみたいなニュースを見たが、鈴木御大はそれと同じ制作姿勢で当たられたのだろうと思う。感性の摩耗とか、進取の喪失とか、そういった安易な批判をしてはいけません。正当進化ではない、かといって退化でもない、初代そのままのゲームをこの令和の御代に作ることを決め、実際そうされたのだ。初代ファンには恍惚の体験をもたらす仕上がりなのかもしれないが、一見さんにお勧めできる要素は絶無である。残念ながら、本当に、何ひとつ、ない。

 そして何より気になったのは、全8部作とブチ上げた初代・第二作から、二十年ぶりのシリーズ第三弾であるにも関わらず、ストーリーが1ミリも進まない点である。いよいよシェンムーシリーズも本作をもって、作者の死が物語の終わりとイコールになる例の作品群に繰り込まれたようだ。

 何度も引き合いに出して申し訳ないが、オールドクリエイターの諸氏はランス10の潔さを見習って欲しい。