猫を起こさないように
ドラゴンボール
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漫画「呪術廻戦」感想(27巻まで)

 連載終了が近いとの報を聞き、ようやく呪術廻戦に1巻から着手する。なんとなれば、遠くはグイン・サーガ、近くはベルセルクと、作者の死去による作品の中絶を幾度も経験してきたため、人生の残り時間を横目にしながら、「もう終わった物語しか読まない」との誓いを立てたからである。冒頭からさっそく話はそれますが、ブルーカラーへのナチュラルな差別意識を披露したゆえの炎上騒動を遅ればせに知り、中卒か高卒の両親を持つ昭和に生まれた人物は、「いい大学を出て、ホワイトカラーの高給取りになる」ことを、旧世代からの怨念に近い強迫として刷りこまれているため、ほんの少しだけ同情する気持ちにはなりました。結局のところ、時代の変遷にともなう「意識のアップデート」とは、古い世代にとって「公の場で口にしてはいけないことがらが増える」だけに過ぎず、心中に居座る「のちに間違っていると断じられた感覚」を完全に上書きするのは、ほとんど不可能に近いと言ってよいでしょう。そして、昭和生まれのオタクにとってさらに根深いのは、ホワイトカラーの上にクリエイターを置いてしまっていることです。このヒエラルキーは、現実社会に対する乖離度に正比例、貢献度へ反比例しているにも関わらず、おのれの仕事の価値をどこか相対的に低く考えてしまうという思考のクセから、いつまでも抜けだすことができません。呪術廻戦を読んでいるあいだ、この胸中にどよもしていたのは、少年ジャンプの歴史のうちで第5世代あたりの、「地方在住のパチンコ好き高卒ヤンキー」的な属性を持つ作者が、おのれの体験してきたオタク文化を悪びれずに剽窃しながら、ブルーカラーとクリエイターの「悪魔合体」を生き生きと体現している事実への感慨でした。毎週月曜日にエッキスのトレンドへと浮上してくるため、単行本に未収録のラスボスとの決着もうっすら知ってしまっているのですが、「高卒ヤンキーのまっすぐな善性」が、彼に主人公としての資格を取りもどさせるという展開は、人の減りゆく時代の問いーー「コンサルや投資家は、はたしてブルーカラーより価値のある仕事なのか?」ーーに対するひとつの回答のような気がしてなりません。

 さて、大上段な放言から、呪術廻戦の内容へと話をもどしましょう。古くからのマンガ読みとして、本作への印象をざっくり一言でまとめるなら、「孫悟空が主人公”ではない”ドラゴンボール」とでもなるでしょうか。じっさいに読むまで、なにかヒネリがあるのかと期待していた「呪力」は結局、「気」や「霊力」と同じエネルギーの言い換えにすぎず、戦闘を単調にさせないためのキモである「領域展開」も、「幽波紋」や「念能力」を変奏したものになっていて、あまり新しいアイデアとは言えません。バトルものとして最大の難点は、「新旧最強の呪術師と明言されている、五条悟か両面宿儺が関与する戦いに比して、その他は常に相対的に格落ちになる」ところでしょう。五条悟・イコール・孫悟空ーー偶然にも「悟」の字が共通ーーが戦うのを見たいのに、ヤムチャやクリリン、下手をするとギランやバクテリアンの試合に延々と紙幅を割いているーー「五条ー!!! はやくきてくれーっ!!!」ーーように感じたことは否めません。また、渋谷事変の途中くらいから、1ページあたり3コマ前後で描かれるバトルの筆致が荒れはじめ、作者の精神状態が心配になるのですが、ハンターハンターを彷彿とさせるネームと言いましょうか、コマを細分化した文字優勢の語りに変じることで面白さを回復させたのには、「参照する過去作品があって、本当に良かったな」と、メタフィクショナルな安心を得てしまいました。あらためて、先行作品のない地平を単独で切り開いていった鳥山明のすごさを、噛みしめておる次第です。

 呪術廻戦における戦闘のビジュアル表現は、「鬼滅の刃ほどわかりにくくないが、ドラゴンボールのわかりやすさには劣る」ぐらいの塩梅であり、描線の荒れ方が調子を崩しているときの冨樫義博ーーのちに慢性的な腰痛が原因と判明ーーソックリで、ある作者にとっての不本意をレスペクトすべき妙味として神格化している様には、ちょっと背筋の寒くなる感じはありました。そして、鬼滅の刃にも通ずることながら、「連載の初回からラスボスが登場していて、連載の最後までずっと変わらない」というのは、良し悪しではないでしょうか。ゴールと線路を最初に引いてしまえば、物語のフレームはカチッと決まるのかもしれませんが、週間連載を通じた作者の成長が敵キャラの魅力に反映される余地を、あらかじめうばってしまうことにもなりかねないからです(ハイキュー!!のネコマ高校を想起)。あらためて、ピッコロ、マジュニア、ベジータ、フリーザと、魅力あるボスキャラを変幻自在に登場させ続けたドラゴンボールの偉大さを、噛みしめておる次第です。さらに重箱の隅をつついておくと、「過去のフィクション群に全力でもたれかかった、ビルドアップのスッとばし」ーーこのキャラの設定(六眼など)は、あの作品のアレですよ!ーーも散見されます。もっとも顕著な例は「しゃけ先輩」で、作中でいっさい能力の来歴が語られない準主役級のキャラって、めずらしくないですか? 他に気になったのは、主人公の目標でありライバルでありバディでもある黒髪クールキャラの存在で、ハイキュー!!でも見かけましたけど、流川楓が源流なんでしょうかねえ(最近どの作品にも、ひとりはいる気がする)。

 さんざん過去作との比較で腐してきましたが、これまでの少年マンガと一線を画するビッカビカのオリジナルは、27巻での高羽史彦とケンさんによる「お笑い幽波紋バトル」であると断言しておきます。社会生活を営めるほどの軽度な鬱で、四角四面のドシリアスな内面を持ち、いつも生と死のはざまに引かれた白線の上を歩いている感覚があり、おもしろテキストをときどきインターネットへ記述することによって、死の側へとかしぎがちな身を生の側へと引きもどしているだれかにとって、永遠に倦みはてた者と一瞬の恍惚を去りがたい者、2つの魂が交錯する「やがて悲しき」顛末には、この上ない切迫感に胸を突かれて、顔をクシャクシャにした大笑いのまま大泣きするハメになりました。じつのところ、初回の読み味が忘れられなくて、いまでもここだけちょくちょく読みかえしてしまうほどです(まあ、幽遊白書の最終回パロディはどうかと思いますが……)。バカサバイバー編の存在で、呪術廻戦への評価が天井をたたいたため、評判のいいアニメ版も履修しようと、アマプラでゼロを冠した劇場版を再生して、ひっくりかえりました。エヴァQのキャラデザの人に加えて、シンジさんの声優を臆面もなく起用しており、「商業作家による、自作人気を利用した、他社作品の二次創作」というトンデモに仕上がっていたからです。乙骨憂太のセリフをノリノリのシンジさん演技で演じあげるのには、品行方正な勤め人としてのブ厚いペルソナを貫通して、リアルで「うっぜえ」と低い声が出ましたもの! これまで見聞きした中でも、最高(最悪)レベルの「クリエイターがクリエイターに向けて作った作品」になっていて、呪術廻戦への評価がたちまち底をうちました。

雑文「続・ドラゴンボールとはずがたり」

 雑文「ドラゴンボールとはずがたり」

 訃報を受けて、一時代の終わりを再確認するため、ドラゴンボールを最初からぽつぽつ読みかえしている。原作をどこまで熱心に追いかけたかは、前回お話しした通りで、アニメ版はZの途中くらいまで、後番組のGTは内容をいっさい知らず、数ある映画版は1本も見ていません。ちょうど引きのばしに入る前後ぐらいで離れており、言ってみれば、まさに少年漫画として理想的な時期での邂逅と別離をはたしたわけです。この黄金期の少年ジャンプに連載されていた作品の、二次創作かカーボンコピーにしか見えない近年のバトル漫画群に対して、本作が持つオリジナリティの優位性に再評価を与えるため、「やっぱ、ドラゴンボールはピッコロジュニアを倒すとこまでだよなー」などとツウぶった古参ムーブで1巻を読みはじめたところ、目をおおわんばかりの「悪い昭和」が全編にわたって横溢しており、のけぞった勢いそのままにひっくりかえりました。うっすらと記憶にはあったものの、有名な「ギャルのパンティおくれ」を代表として、あの時代の「エッチ」「スケベ」「ムフフ」ーー換言すれば、公の場で男性がゆるされると思っている性欲の吐露ーーが、風味づけのフレーバーをはるかに超えた、驚くほどに高い頻度でこれでもかと連発されているのです。

 令和キッズたちにヒかれないよう、ほんの一部を婉曲的にお伝えするならば、女性の外性器に男性が土足で接触したり、男性の頭部をあらわになった女性の胸部ではさんだり、識字教育と称して児童たちに官能小説を音読させたり、それらが作品から切除の不可能なレベルで癒着してしまっており、不適切にもほどがあるため、天下一武道会がはじまるくらいまでは、近年の品行方正かつ親の監視が厳しいキッズに対して、とてもおすすめできるシロモノではありません。それが、エロオヤジとしての自意識を亀仙人にあずけ、女子のパンツぐらいに過剰反応して、いちいち大量の鼻血をふきださせていたのが、物語の後半においてナメック星へと向かう宇宙船の中で、Tシャツとパンイチでうろつきまわるブルマの「もっとレディとしてあつかってよね」という台詞に、「だったら、パンツ1枚で歩きまわらないでくださいよ……」とクリリンがあきれて返すシーンには、結婚して娘を授かり、その女性の成長をひとつ屋根の下でともに過ごしていくうち、おとずれた成長と言いますか、変化と言いますか、人生の変遷を強く感じてしまうわけです。この「パンツに関する温度感の変化」は、「父としての悟空、母としてのチチ」とならぶ、本来フィクションにすぎないものへ漏れだしてしまった、作者その人の自我だと指摘できるでしょう。

 そして、ネットミームと化した「まだもうちょっとだけ続くんじゃ」の段階で、作者が物語の着地点をどこに定めていたかを推測するならば、主人公の出自が解明されるという意味でも、ベジータとの決戦までだと思います。これ以降、当初の予定を外れた引きのばしパートになっていったのだと思いますが、ナメック星でのストーリーテリングがそれを感じさせないほどよくできていたため、まるでひとつながりの美術品のように見えてしまったことは、もしかすると作者と読者と編集者の三方にとって不幸だったかもしれません。ここから入りこんでしまった迷路である、「攻撃手段は肉弾戦とエネルギー波の2つ」「強さの指標は物理的なパワーの多寡のみ」という、指数関数的かつ直線的なエスカレーションをどう回避するかという視点が、ジョジョやハンターハンターをはじめとする後発のバトル漫画を難解なギミックで複雑化させ、「永遠に語り続けること」を可能にしてしまい、結果として「少年漫画」というカテゴリを衰退させることへつながっていったのは、じつに皮肉なことです。

 ついでに、絵柄の変遷に関しても触れておくと、連載初期のアラレちゃん時代の延長上にある曲線によって構成された表現に始まり、ナメック星ぐらいからはあるアニメーターに影響を受けた直線中心の描線に変わってゆきます(世界中のファンが持つ鳥山明のイメージは、後者が優勢でしょう)。じつのところ、連載終了後にもう一段階の「変身を残して」いて、いま手元にあるのはジャンプコミックスではなく、2002年に刊行された「完全版」なのですが、新たに描きおこされた表紙絵は、どれもバードスタジオ所属の別人の手によるものと言われてもおかしくない、線に伸びやかさを失ったカチコチの自己模倣みたいになっているのです(自身の作風を3DCGに落としこむ過程だったのかもしれませんが、私の好きな作品とは何の連絡もない改悪なので……)。

 また、ドラゴンボールはかつての国民的RPGであるところのドラゴンクエストと、相互に影響を与えあってきました。アイコニックなパッケージデザインを順に見ていくと、「123がやわらかな曲線、456が力強い直線、7以降がCGのようなカチコチ」となるでしょうか。4のデスピサロが戦闘中に形態を変化させるのはフリーザからの逆輸入でしょうし、もしかすると6から導入された新たな転職システムーー「互いの苦手や弱点をおぎないあう」というパーティの概念をたたきつぶし、最終的に全員がなんでもできるスーパーマンになる、個人的に大ッキライな仕様変更(「ドラクエは5まで」派)ーーも、「スーパーサイヤ人のバーゲンセール」以降、強さの点でキャラクターの個性が消えてしまった状況に、少なからず影響を受けているのかもしれません。

 今回、ドラゴンボールをいちから読みかえして思ったのは、我々が訃報を受けて語っているのは「30年前に終了し、完成した作品」のことであり、その後の氏による細かい設定のつけ足しや、絵柄の好ましくない変遷のいっさいを見ない、「少年期の美しい記憶」をなつかしむような性質の言葉なのでしょう。この意味において、「ドラゴンボールは四十代、五十代のオッサンのもの」という若い世代から向けられる揶揄は正鵠を射ており、ぢぢゅちゅ廻銭(原文ママ)がそう呼ばれるようになる遠くない未来では、どんな少年漫画が流行っているのだろうかと、いまから楽しみでなりません。

雑文「ドラゴンボールとはずがたり」

 以前、一方的に好意を寄せていた面識のない恩人がご逝去された際、おずおずとお気持ちを表明したところ、「故人を利用して自分語りをすることの、なんという醜悪さか」みたいなエアリプを頂戴したことがありました。もう脊髄反射的な情動失禁は決してすまいとおのれを律してきたのですが、今回はゼロどころかゼット規模の訃報なので、すこしくらい昔話をしても太古の森の濡れ落ち葉くらいに目だたぬことでしょう。ドラゴンボールを読みはじめたのがいつだったのかは記憶にありませんが、リアルタイムで追いかけるのをやめた瞬間だけはハッキリとおぼえています。星ひとつを破壊するまでに至る、巨大なドラマツルギーの奔流を真正面から浴びる法悦のすぐ翌週、あれだけ苦労してたおしたはずの強敵がサイボーグになってシレッと復活しており、おまけに父親まで帯同して地球にやってきたかと思ったら、ポッと出の新キャラにたった1ページで斬り殺されてしまいます。これを読んだ瞬間、満面の笑顔は半笑いにはりつき、あれだけ毎週を心待ちにしていた気持ちが一瞬で冷めてーー昔から、そういうとこがあるーーしまい、週刊少年ジャンプの購読自体をやめてしまったのでした。

 その後の展開も友人や親戚宅の単行本などで読みましたが、意に染まぬ引きのばしを強いられているせいでしょう、次第に作者の生活感情が作品の内部へ混入するようになっていくのが気になったものです。具体的には、育児に関わらなかった父親が子どもの本当の気持ちに気づけないことをなじられたり、地球の命運よりも子どもの塾通いや学校の成績を気にする妻が夫をヒステリックに怒鳴りつけたり、週刊連載にかかりきりで莫大な稼ぎやファンから寄せられる思慕にも関わらず、家庭内では「いつも仕事でいない父親」として冷遇されているのではないかと、ひどく心配させられました(クリリンに「ひでえ、悟空だって苦労してるんだぜ」とかフォローさせたり、読んでてつらくなる)。長期連載による変節でいちばんワリを食ったのがこの牛魔王の娘で、男女の別なくオタクはみんな「感情的になってヒスる母親」を苦手としているため、かつて孫くんの冒険パートナーだった女性ーー「なーんだ、ぱふぱふとか、きょいきょいとか、いんぐりもんぐりとかされるのかと思っちゃった」「へ、へんたいだー!」ーーより、連載のある時期を過ぎてからは、二次創作などで取りあげられる頻度がずっと少なくなったように思います。マシリトの指摘するように、ナメック星で連載を終了できていれば、まちがいなく3作目の国民的ヒット漫画が生まれていたでしょうし、鬼滅の刃によって呪いを解かれるまで続いてしまった「固定ファンのついた人気作品は、物語の自走性やキャラクターの意志を無視して、10年でも20年でも連載を引きのばしてよし」という少子化時代の少年たちではなく大人たちのための、本邦の長い低迷を象徴するイビツな”勝利の方程式”を生む前例とならずにすんだのかもしれません。

 ともあれ、国家を越え、人種を越え、世代を越えた「精神のインフラ」とも形容すべき物語は、作り手の肉の実在から切りはなされた高い場所で、これからも地球人類が存続する限りは途絶えることなく、脈々と受け継がれていくことでしょう。そして、百年後の息子/父親も「このチチってキャラクター、なんだかママ/妻にソックリで好きになれないな……」という感情を抱きつづけるにちがいありません。

アニメ「鬼滅の刃・遊郭編」感想

 漫画「鬼滅の刃」感想
 映画「鬼滅の刃・無限列車編」感想
 雑文「鬼滅の刃・最終巻刊行に寄せて」

 鬼滅の刃・遊郭編、最終回の報を聞き、ネトフリでまとめて見る。劇場版と見まがう作画のクオリティは見事の一言ですが、「自分の状態、仲間の状態、敵の状態、周囲の状況をすべて余すところなく台詞で説明する」という原作のアンバランスな部分が、アニメ化によって改めて浮き彫りとなっています。ある回の前半パートなんかは、キャラのバストアップが台詞のたびに上下に動くのが延々と続いて、「オイオイ、いい加減くっちゃべってないで戦えよ」と思わずツッコまされるぐらいでしたけど、原作の単行本を見かえすと、その場面を忠実にアニメ化してあるんですよね。「ラノベの主人公の決め台詞が長すぎて、声優に音読されると不自然さが際立つ件」と同じ根を持っていて、これはFGOのアニメ化にも同じことが言えるでしょう。

 あらためてこの世界に戻ってみると、鬼殺隊の柱はどいつもこいつもサイコパスばかりだし、高速戦闘は酔っぱらってると何が起こっているのかわからないけど、最終話における鬼の回想には、やはり心の底から同情して泣いてしまうわけです。「鬼になった理由」が鬼滅という物語の本体であり、「同じ境遇に置かれたら、同じことをしただろう」と読み手に感じさせる点において、万引き家族ジョーカー半地下の家族と同じ作りになっているのです。それは同時に恵まれている者たちへ、いまの自分があるのは「環境と幸運」がそろっていたからだと気づかせ、強い者・富める者の責務を突きつけてきます。以前にも書きましたが、氷河期世代のサバイバーが持つ醜さの本質とはまさにこの点で、死屍累々の同胞たちを暖かい場所から眺めながら、「自分はあそこにいなくてよかった」と胸をなでおろす、その無意識の仕草にこそあるのです。鬼滅の刃・遊郭編の最終話を見て、私が「四十代の自分語り」へ覚えた違和感の正体が、「先のわかった者が明日をも見えぬ者を視界から外して語る、その口調」だと気がつきました。これはSNS時代の常ですが、暖炉に背中をあぶらせながらワインを片手にロッキング・チェアーを揺らす者の傲慢な言葉だけがネットに浮遊し、寒空に裸足でかけだして雪の中から同胞を抱き上げるだれかの行為はどこにも記述されないのです。

 だいぶ脱線しましたので鬼滅に話を戻しますと、テレビ版エヴァ(戻ってない!)の各話についている英語のサブタイトルが好きで、当時はさんざん考察とやらの対象になっていたと思うんですけど、いちばん印象に残っているのは第弐拾弐話の”Don’t be.”でしょうか。直訳すると「存在するな」となりますが、当時ネットだかどこかでこれを「あなたなんて生まれてこなければよかったのに」と意訳しているのを見かけて、ひどく感心したのを思い出します。遊郭編の最終話において、主人公がこの言葉を言わせないよう鬼の口をふさぐという行為は、彼の人物造形とピッタリ合致しており、短い台詞とあいまって余計に胸をうちます。回想のあと、鬼たちが光に背を向けて地獄の業火へと歩んでいくシーンで、あれだけ過剰な言葉の作劇だったのを兄に一言もしゃべらせず、妹を「抱えなおす」という芝居だけですべての心情を表現したのには、本当に感動しました。花の慶次で主人公が「自分のような者でもこれほど苦しいのに、馬や牛の苦しみはいかばかりのものか」と独白する場面が頭に浮かんだのですけど、やはり「重い、苦しい」を言わないのが私の中で美徳になっている側面はあると思います。たぶん時間が経過しすぎて、「重い、苦しい」がドラゴンボールの亀の甲羅みたいになってるんでしょうねー。

 あと、次の劇場版はどの話になるかの予想ですが、ズバリ無限城での猗窩座との戦いでしょう。無限列車編「だけ」を見た多くの観客を再び劇場に呼び戻すことができる種明かし編であると同時に、テレビ版1話「だけ」を見た人でも、例の共闘は劇中の長い時間を感じさせて心をゆさぶられると思うんです。え、最終巻はどっちになりますかって? テレビ放映でしょうね。転生後の話は映画のおしりにつけると長い蛇足になっちゃうし、何より無惨様がブザマでカッコ悪くて、劇場の大画面で見ると、きっとみんなイライラしちゃうから……(目をそらす)。

映画「マトリックス・リザレクションズ」感想

 マトリックス・リザレクションズ、見てきた。あまりに自己言及の多すぎる作品で、最初のうちは代紋TAKE2みたい結末になるんじゃないかとハラハラしました。マトリックス・シリーズって、「真にエポック・メイキングだったのは1だけで、2と3は設定を流用した大作アクション映画」みたいな言われ方をされることが多いように思います。あらかじめ絵コンテを作ってから撮影を行ったというのは有名な話ですが、映像とポスプロ技術の進化からマモルさんが予言した「すべての映画はアニメになる」を、おそらくはじめて実現したのが初代マトリックスでした。個人的には2がかなり好きで、特にアーキテクトがネオを言葉でガン詰めにするシーンは、いつ見ても最高にゾクゾクさせられます。これぞまさに、管理職が実施すべき評価面談の見本ですね(パワハラ)。そして、この人物がラスボスに違いないと思い込んでしまい、3で三下のスミス相手に実写版ドラゴンボールZをオッぱじめたのには、たいそうガッカリさせられました。物語としての終わり方も、主人公の自己犠牲は停戦協定を引き出したに過ぎず、機械による支配の構図は動かないままで、なんとも消化不良でカタルシスの薄い中身だと感じたことを覚えています。

 本作を見た人たちの感想を追ってみると、「行かなければよかった同窓会」とか評されてて笑いましたけど、私はこの同総会に参加してよかったと思いました。アーキテクト相当のキャラを主人公とヒロインでガン詰めにして機械側から主導権を奪う結末には、旧シリーズに抱いていた不満を大きく解消してもらった気分です。まあ、話の展開がスローかつ冗長だという指摘はその通りで、男性だったときの監督なら同じ内容を90分で撮影したことでしょう。しかしながら、全体的に長回し傾向だったり、アクションのカメラが寄り気味だったり、何よりCGではなく実在する人とモノを写そうとするのは、監督の明確な意志で行われていると思います。見ていて同じ感覚を持った作品にTENETがあるんですけど、先祖返り的な撮影方法をわざと志向していると言いますか、マーベルに代表される近年のポスプロまみれの作品群へ向けた一種の批評性を持たせようとしている気がしました。本作は、色彩とアングルの完璧に決まった画面を速いカット割りで見せていくのとは真逆の作り方になっていて、奇しくも初代マトリックスが先鞭をつけてしまった現代映画の方向性に疑問符を投げかけているように見えるのです。手かざし教の教祖と化したキアヌの下半身にボリュームが寄った鈍重な立ち姿や、50代を迎えたキャリー・アンモスのシワやシミや毛穴やうぶ毛をドアップでいっさい加工せずに写すのにも、それを感じました。つまり、撮影の手法で「マトリックス的なるもの」の解体を試みるのが本作の裏テーマだったかもしれないという見方は、うがちすぎでしょうか。

 ただ、スタッフロールの後に「ナラティブは死んで、いまはネコ動画の時代」みたいな寸劇を入れてきたのには、監督の精神状態が心配になりました。企画の通らない長い時間と、マトリックスの名前を引っ張り出したら、とたんに出資者が現れたことへの自虐のような感じは、作品全体に漂ってましたからね。

 あと、旧シリーズであれだけ強烈だった世界観が消滅して、キャラクターの関係性へと物語が収斂していく様は、シンエヴァっぽいなーと思いました。え、ゲンドウの出身校が筑波大学だと判明しましたね、だって? なに二次創作を元にして話をでっちあげとんねん! テレビ版・第弐拾壱話「ネルフ、誕生」の設定がエバーの本筋やろがい! ゲンドウは京都大学中退に決まっとるやろがい! 百歩ゆずったかて、吉田寮に転がりこんだ高卒の半グレやろがい! 息子の最終学歴は第3新東京市第壱中学校やろがい!

 考えれば考えるほど、マトリックス・リ(レ)ザレクションズとシン・エヴァンゲリオンって、よく似た性格の作品になってると思います。どちらも作り手の私小説なのに、前者を温かい気持ちで認められて、後者を冷たい気持ちで許せない(いわゆる絶許)のは、どうしてでしょうか。今回、旧マトリックスがサイファイ・陰謀論・思想哲学・神話体系と、あまりに制作者の手を離れて語られすぎてきたのを、ラナが「ちがうの、これは私が作ったお話しなの! 私の大切な、家族の物語なのよ!」と正直にぶっちゃけて作品を取り戻したのに対して、旧エヴァは終盤が私小説すぎたのを「やっぱ前のはちょっち自分語りしすぎたわ。今度はちゃんとエンタメにして、ファンに返すわ」と宣言してたのに、ヒデアキが「は? ちげーし、そんなん言ってねーし! エヴァは昔からずっとオレの私小説だし!」と居直り、作品を抱え込んで自爆したからでしょうね。マトリックスとエヴァンゲリオン、いずれも90年代を代表する一大フィクションだったのに、その最終作の比較が「正直者とウソつき、どっちが好ましい?」みたいな道徳の話になってるの、20年前の自分に言っても信じないだろうなー、アハハハハー……はあ。

 あと、トリニティのほうが先に空を飛べるようになる展開に、ポリコレの臭いをかぎとっている方がおられるようですけど、違いますよ。監督が性転換して女性になったために感情移入の対象が変わっただけで、制作の動機から何から、本作はどこどこまでも私小説なのです。

 昨日の続きだけど、マトリックス・リ(レ)ザレクションズってハッピーな蛇足と言いますか、鬼滅の刃の最終回みたいなもので、トーンがこれまでとぜんぜん違うけど、本編自体の解釈にはほぼ影響を与えていないじゃないですか。一方、シン・エヴァンゲリオンは旧シリーズまで侵食・融合して、作品を土台から歪めちゃったことが大問題なわけで、これ前も言いましたけど、スターウォーズ・シリーズのたどった軌跡と似てると思うんですよ。456から入ったファンは123を見て、「ルークの物語だったスターウォーズがダースベイダー・サーガになってしまった!」と嘆き、123から入ったファンは789を見て、「ベイダーの物語だったスターウォーズがパルパティーン・サーガになってしまった!」と嘆いたのです。そして、シンジの物語にゲンドウのそれを「上書き保存」したのがシン・エヴァンゲリオンで、夏には滅びを追体験するため必ず再生していた旧劇だったのに、もはや見返す気はまったく起きません。せめて、「名前を付けて保存」で別ファイルにしてくれいたらと、いつまでも恨みが消えないのです。