猫を起こさないように
ドラクエ
ドラクエ

雑文「そしてPC版へ…(DQ3R哀歌)」

雑文「THE ODORU and DQ3 LEGEND ALREADY DIED」(近況報告2024.11.28

 プラチナトロフィーをゲット。つまるところ、私はドラクエ3が大好きなのだ。最後に入手したトロフィーがブロンズの「しんでしまうとは なさけない!」(とてもレア|14.8%のプレイヤーが獲得)だったことに、本作の問題点が集約されている気はします。

ドラクエ3リメイク、グランドラゴーンを10ターンで撃破。すべてのじゅもんととくぎを習得したレベル99のキャラに、はやぶさのけんを装備させてビーストモードを発動したあとは、ほしふるやまびこラリホーとヒュプノスハント4連撃かける3が正しい順番で出つづけることを祈るだけのゲームなので、まだまだターン数は縮められると思います。しかしながら、「10ターン以内に撃破すると、グランドラゴーンとは2度と戦えない」という謎仕様ーー(白と紫の配色で)このおバカさんたちは、最後の最後までイライラさせてくれますねーーになっていて、かつての名作の残骸をストレスフルに遊ぶ日々から強制的に解放され、原神の新エリアのマップ埋めにもどったわけです。ナタの美麗な景色を上空からボンヤリとながめるうち、新要素におもねった不本意の”ゆまとあ”で踏破したアリアハンは、本当の意味でアリアハンと呼べるのか、”ととけけ”あるいは”とととと”がドラクエ最終パーティの「格」を有するのかなど、不思議な不完全燃焼感がふつふつとわきあがってきて、「そうだ、女勇者の”ゆせそま”で最初からやりなおすしかない!」と決意してしまったのでした。

 1周目はプレステ5版だったのですが、「最高のドラクエ体験」をみずからクリエイトするため、steam版を新たにフルプライスで購入ーー36年を日割りすれば1日1円ほどの支出にすぎませんーーして、導入するmodの吟味からはじめました。フォールアウト3スカイリムを魔改造しまくって、4ケタ時間は遊んだ身からすると、ドラクエ3リメイクのmod界隈は悲しいほど盛りあがっておらず、ユーザーインターフェース改善とわずかのバランス調整だけで、ゲームを抜本的に改変するようなものは、まだひとつもありません。それもそのはず、ドラクエ3を「伝説」としてあがめているのは日本人だけで、海外のユーザーにとって本リメイクは、出来の悪い残念な和製RPGのひとつにすぎないのですから! 小鳥猊下が導入したmodを以下に列挙しておきますので、年末年始で新たにドラクエ3リメイクを始める予定のFC版ファンは、参考にしてください。

・サードパーソンビュー(バトル全体を通じて自キャラの背中を表示)
・バトルUIの改善(HPMP表示バーを画面上部で横向きに配列)
・バトル時ボイスの削除(呪文の名前をさけぶのが、聞いてて恥ずかしいので)
・光源による明暗の強化(フレームレート関連と併用すると異様に重くなるので注意)
・ルーラの仕様変更(消費MPを0から8に変更し、迷宮内で使用不可に)
・レベルアップによるHPMP回復なし(リソース管理の楽しさが復活)
・「うんのよさ」と「かしこさ」の仕様変更(レベルが上がるほど弱体化する現状の是正)
・特定装備の持つ性別制限を削除(CERO対策の裏に残された、「男性の欲情を誘う性別が強い」という昭和の倫理観を撤廃)
・ハードモードから経験値とゴールドの減少を削除(ほんと、ゲーム作りのセンスがない……)
・ダンジョンの地図を削除(まあ、すべて記憶してるので、雰囲気の問題です)
・船とラーミアの移動速度を上方修正(言うまでもないでしょう)
・エンカウント率の減少(マップを拡大しているのに、これを変更しない気のきかなさ)

 あと、ゲーム用に調整されていないオケの垂れ流しが気にくわないため、音楽関係も少しさわってますが、権利の問題がありそうなので詳述は避けます(ほぼ言ってる)。ここまでやって、ようやくオリジナルのゲーム体験の背中が少し見える感じになりました。恥ずかしながら、mod入りの2周目にして、はじめて「やくそう」を使い、上と特の存在に気づいた次第です(あらためて、調整不足による多くの仕様の無意味化を実感しました)。でもね、多少なりとも原作への愛があって、ちょっとでも気のきく作り手なら、脳天ファイラーなイージーモードーーパンドラボックス戦で殺しも殺されも逃げもできぬ「千日手」となった話を聞いて、ハラの底から爆笑しましたーーではなく、上記mod群の修正にくわえて、「とくぎ」「せいかく」「とうぞく」「まものつかい」「ふくろ」「範囲武器」を削除し、「パラメータ上限を999から255に」「ルックス(笑)をおとこ・おんなに」「アカイライがさとりのしょをドロップ」まで組みこんだ、オリジナルモードを用意するはずなんですよ。クリア後のダンジョンにしても、SFC版ではFC版経験者にサービスするため、容量不足をやりくりした「本編グラフィックの使いまわし」をしていただけなのに、容量過剰な令和のゲームでそれを嬉々として再現するのは、原作レスペクトというより作り手の怠慢でしょう(冨樫義博の荒れた筆致をマネする呪術廻戦を連想)。

 さんざん文句ばかり言ってきましたが、本リメイクに対する不満の大きな部分を占めているのは、ゲーム内の様々な数値の調整不足と、「秘伝のタレ」たるダメージ等の計算式を変更したことであり、たとえ残骸を縫いあわせたものであっても、私にとってドラクエ3は、やはりドラクエ3なのです。なつかしい地名や固有名詞、定番の音楽や効果音へ身をゆだねていると、人生でもっとも悩みや苦しみからは遠かった日曜の午後へと心がもどっていくようで、さまざまな過去の記憶がよびおこされ、安逸そのものの気分にひたれるのでした。きょうは、ダンジョンの音楽がリピートに入る直前のフレーズにあわせて、小学生の自分が「なかとってーいー、なかとってーいー」と歌っていたのを思いだしました(神戸で幼少期を過ごしたので……)。あッ、ドラクエ3リメイクへの大きな不満をひとつ言い忘れていました! カギで扉を開けるときの「キュイキュイキュイ」という甲高い効果音を削除した担当者は、万死に値します! ほんとオマエら、ドラクエのこと、なーんもわかってねえな!

ゲーム「ドラクエ3リメイク」感想

 ロマサガ2リメイクのベリーハードを最終皇帝で放りだし、ドラクエ3リメイクに鞍がえしてプレイ中。個人的なことから言うと、オリジナルのファミコン版は、人生ではじめて発売日前日の深夜行列にならんだ作品であり、シリーズの中でも特に思い入れが深い。冷静に考えれば、6千円ほどをにぎりしめた小中学生が、オモチャ屋の前に大挙してならんでいるのは、強盗やカツアゲの養殖漁場みたいなもので、その野放図さが昭和だと言われれば反論の余地はないが、令和の感覚に照らすと、なぜ親たちがあれを許可したのかわからないし、教師や警察や補導員もいったいなにをしていたのか不思議に思う。そして、朝日の差す社宅の居間で、興奮にふるえながらカセットをさしこんで電源を入れると、真ッ黒な画面に白抜きで「DRAGON QUEST III」とだけ表示されたときの気持ちを想像してみてほしい。当時、全国の母親たちがとまどいをもってゲームを「ピコピコ」と表現したように、ファミコンの隆盛は多くの良識ある大人にとって、理解不能の病原体に我が子の精神を狂わされてしまうような経験だったと推察する。さらに、個人が経営する町のゲームショップなどは、つど流行りものに便乗するだけの、まっとうな仕事につけない悪い大人がする商売という感覚も多分にあったため、「だまされて、パチモンをつかまされた?」という考えが、まずはじめに脳裏をよぎった。あとからふりかえれば、カセット容量をギリギリまで捻出するための「ロムの伝説」だったのだが、背後に流れるかすかなノイズを聞きながら、しばし茫然とした時間を過ごしたことは、いまでも忘れられない。そんなわけで、ファミコン版ドラクエ3は現実での経験や感情と強くひもづいた、魂の深い部分へ不可分に癒着する、良性だか悪性だか判然としない腫瘍みたいなものなのである。余談ながら、もっとも印象的なドラクエ音楽のひとつであるこの「ボー」というノイズが、どのCDにも収録されず、ドラクエコンサートで演奏されたためしがないというのは、どうにも信じられない。ただ観客席に「ボー」というノイズが流れ続けるのを、「4分33秒」ばりにシレッとやってほしいところだ。

 さて、思い出ばなしはこのくらいにして、ファミコン版は数十周、スーパーファミコン版は数周、ゲームボーイカラー版は1周だけした程度のドラクエ3ファンの中央値から、今回のリメイクの気になる点(穏当な表現)を順にあげていこうと思う。まず、36年という長い歳月を経て、スーファミ版がドラクエ3の定本のようなあつかいを受けているのに、一抹の寂しさを禁じえない。本リメイクもご多分にもれず、システムの根幹部分はスーファミ版のガワを巻きなおしたものになっていて、より正確なタイトルは「SFC版ドラクエ3リメイク」であろう。正直に言えば、辛辣きわまる性格診断の導入があまり好きになれなかったし、もしかすると近年の若人の目にはどの結果も、異様なネガティブさで響いてしまうのではないかと危惧している。なので、勇者の性格はほぼ唯一、精霊ルビスがベタ褒めするところの「ごうけつ」一択であり、仲間には「きれもの」と「セクシーギャル」しかいなかった(ところで、セクシーギャルって性格なの? ホーリー遊児の性癖じゃないの?)。ロマサガ2リメイクと同じく、本作でも3段階の難易度が用意されているのだが、あちらはオリジナルの超難度をどうにか現代に再現するための、やむをえない措置だった。万人むけのバランス調整で鳴らすドラクエでこれをやるのは、高級料亭へ入ったはずなのに、卓上に塩・胡椒・醤油・ケチャップ・マヨネーズ・ニンニクのすりおろしなどが置かれており、ゴシック体でデカデカと「ご自由にご調味ください」と印字された黄色いテプラが、ベッタリ貼られているようなものだ。料理人がギリギリの、これ以上はない調整を行った最善と信じるものが客に出され、各自の口腔にて一期一会のケミストリーを起こす。それは接待の席かもしれないし、なにかの記念日かもしれないし、はたまたフラッとのれんをくぐっただけかもしれないが、至高の品々とそれぞれの人生が交錯するからこそ、一晩かぎりの唯一無二な体験が起きあがるのである。ゆるい軟便のようなイージーや、骨を抜いた魚のようなノーマルは言うにおよばず、ハードでさえファミコン版に比べるとプレイヤーに有利な要素が多すぎ、オリジナルのドラクエ3体験を再現しているとは言いがたい。レギュレーションが選手全員に対して同一であるからこそ、自由度の高さから工夫の余地が生まれ、その試行錯誤から達成感やドラマが生じるのであって、難易度をいつでも変更できる本作の仕様は、誤解を恐れず言うならば、パラリンピックと同じ競技性に堕しているのである。つまり、「車椅子ホニャララで生涯無敗って、ギアが高価すぎて競技人口が限られていて、そもそもまともな対戦相手がいないだけじゃないの?」みたいな疑問を投げかけられた選手のような気分にさせられるのだ(絶対に勝てるニッチ分野を探しだす嗅覚はすごい)。

 つい興が乗って言い過ぎてしまったが、難易度変更以外の部分でも、「ダンジョンの奥深くで半壊するパーティ」「体感蘇生率30%以下のザオラル」「枯渇するMPと1回の使用で砕ける祈りの指輪」というヒリヒリ感はのぞむべくもなく、「魔法以外の多様で多彩な全体攻撃」「体感蘇生率80%以上の謎呪文ザオ」「レベルアップで全快するHPとMP」というぬるま湯のような仕様になっているのである。ファミコン版のドラクエ3は、「とぼしいリソースを管理して、なんとかやりくりする」ゲーム性だったのに、本作は「豊富なリソースを、好き放題に蕩尽する」方向へ、その本質を変じてしまっていると指摘できるだろう。次にゲーム全体のルックス(笑)ーーリメイクを重ねるごとに戦士の価値が減じていくが、その問題はまた別の機会にするーーへ触れていくと、精緻に描きこまれたグラフィックは、「光と影の明暗」「水のきらめき」「そよぐ風」「大気のゆらぎ」までもが豊かに表現されており、全体的な縮尺が上がったーー建物の壁が高すぎる問題はあるーーのもあって、壮大な冒険”感”を演出することに、成功しているとは言えるかもしれない。ただ、「HD-2Dリメイク」という珍奇な表現で先行的に言い訳が成されているのだろうが、3D空間なのにいっさいカメラを回すことができず、おまけに障害物の背後に移動しても透過しないため、慣れないうちは町中でしばしば自キャラを見失うハメになった。いきおい、ミニマップばかりに目がいくようになり、おまけに初めて訪れるロケーションにおいても、完全に踏破された状態の地図が表示される(なんで?)ものだから、探索の喜びとグラフィックの価値は大幅に毀損されてしまっている。

 また、自キャラとモンスターは、だれのどういうジャッジか、解像度の高い背景から浮きまくりのドット絵で描写されており、「オリジナルの持つ暖かみを大切にした」みたいに喧伝しているのだが、これを喜ぶのは36年前に小中学生だったオッサンとオバハンだけだろう。あらゆる仕様において、親切を大きく越えたプレイヤーへの甘やかしを敢行し、令和の新規層へバチバチと目くばせを送りながら、肝心かなめの部分で安易な昭和レトロ(笑)に逃げているのである。例えるなら、ラップも容器も使わず素手でじかに握っていた当時のオニギリを「オフクロの味」と表現するみたいなもので、令和の衛生観念からすれば、とても口に入れられるようなシロモノではない。「ばあちゃんのオニギリはあったかくて、特別な味がした」ってそれ、ボットン便所で用を足してから八切りの新聞紙で尻をふいたあと、モンペを引きあげた手を洗わずに握ったため、手の常在菌と黒インクと大腸菌が米の表皮に付着しているだけですからね(ちなみに、うちのオニギリは化粧水の味がした)! バトルに関しても、モンスターのドット絵による動きを作りこんだ時点で力つきた感じで、制作中の画面でだれもが期待したような、プレイヤー側の攻撃や魔法がクォータービューでとびかうことはなく、コマンド入力時にキャラの背中だけを見せる「予告編詐欺」みたいな仕上がりになっている。正直なところ、ドラクエ11の素材とデータをそのまんま流用して、適宜2Dと3Dを切りかえられるあのシステムで作ったほうが、はるかに安あがりで工期も短くすんだのではないかと真剣に疑っている。

 さらに細かい点をあげれば、ルーラが天井無視でMPゼロの単なる「どこでもファストトラベル」ーーダンジョンを含めたすべてのロケーションがリスト登録されるのも気にくわないーーと化したせいで、キメラのつばさとリレミトの役割が完全に死んでいたり、バシルーラの効果が「酒場へ強制送還」ではなく「その戦闘のみ離脱」になっていたり、ガイドマーカーと「おもいで」の機能が完全にカブッているのに閲覧頻度の高い「つよさ」を押しのけてウィンドウの上位階層に入っていたり、ゲーム性の核の部分を変更しておきながら何の調整もせず放置された残骸が散見され、「本当に日本人はゲームを作るのが下手になったなー」と、思わずため息がもれてしまった。追加要素も首をかしげるものが多く、テドンの新規ボスは3回以上攻撃しないとたおせない高体力なのに仲間を無限呼びーーアルファベットが一巡してAに戻ったときは、コントローラーを投げつけそうになったーーしたり、サマンオサ初回訪問時の印象的な葬式シーンになぜかボイスがついていなかったり、おそらくホーリー遊児がこれまで担っていた「ゲーム全体を見通す一貫的な視点」が欠けているように感じられるのだ(1メッセージ中に「時」と「とき」の表記が混在するのを見つけたときは、暗澹たる気持ちになった)。これだけブツブツと文句を重ねながら、3日ほどでネクロゴンドまで進行しているのだから、ここまでに指摘した部分以外(どこやねん!)は、もしかするとよくできているのかもしれないことは、最後に付記しておく。

 昭和のやっかいなオタクによる、陰鬱なダウナー批評という印象を結部で弱めるため、当時、関西局所で流行っていたドラクエ3のフィールド音楽の替え歌を披露しようと思う。冒頭部分から、いっしょに歌ってほしい。さんはい、「ナワでーしばりー、ムチでーたたく、これがほんとのーマゾなのー、おねがいー、おねがいー、すてーえなーいでー……(ドラクエとは似ても似つかぬ転調)ってなこと言われてその気になって、女房にしたのが大まちがい! 炊事洗濯まるでダメ! 食べることだけ3人前! ひとこと文句を言ったなら! プイと出てゆき、はい、それまーでーよー……ぼーくーは泣いちっち、横むいて泣いちっち」。脳内で勝手に転調したあとの歌詞の正体がなんなのか、いまだにサッパリわかっておらぬのだが、記憶の澱として記述して終わ……なに、シルエトだと? バカモノ! 女戦士の乳当てなどより、こっちのほうがよっぽど大問題だわ! 変更することで、逆に「ホログラム幽霊」以上の意図があったように思われるだろうが! いっそ、バーン・ゼム・オールとかに改名してやろうか(ゼムの指すものを答えよ)!

アニメ「葬送のフリーレン」感想(4話まで)

 葬送のフリーレン、アニメ版を4話まで見る。金曜ロードショーでの一挙公開と聞いていたので、推しの子1話拡大版みたいなリッチさを期待していたのに、マンガ版の絵の密度と動きをそのままトレースしたようなプアさで、「これをゴールデンタイムで流すなんて、よくぞそんな大バクチをしようと思ったな」と逆の意味で感心しました。原作のストーリー展開については、まだベターになる余地がけっこうあると感じていたんですけど、本作は近年における「人気作品のアニメ化」のご多分にもれず、ストーリー展開はもちろんのこと、セリフまで一字一句たがわず(たぶん)、そのまま再現されています。昭和時代のアニメには、全共闘くずれのアニメーターが「原作をグシャグシャに換骨奪胎して、己の思想を表現する道具として使う」みたいな作品がよくあったじゃないですか(ミスター味っ子のアニメが面白かったので原作を読んだら、キャラと設定以外はまったくのベツモノで首をかしげたことを昨日のように思い出します)。他者の創造へ対するレスペクトにあふれた「お行儀のいい」アニメ化ばかりを目にしていると、ああいう原作無視の大狼藉をまただれかにやってほしいなー、などと無責任に考えてしまいます。

 ドラゴンクエストの世界観ーーなぜかファイナルファンタジーが用いられることはないーーを剽窃して、物語のビルドアップをそこへ丸投げする例の作品群を見ていていつも思うのは、「魔王」はゲーテかシューベルト由来、「エルフ」や「ドワーフ」はトールキン由来の概念として、広く人口に膾炙しているのだろうと百歩ゆずっても、「勇者」という単語だけは個人のテンポラリーな状態に対する賞賛の形容に過ぎないわけじゃないですか。古典的な教養の段階に達するほど年月を経ていない若い文化の用語の、さらに特殊な定義を読み手へと押しつけて、まっさらな物語を始めるのに必要な説明をスッとばす横着な感じは、説明なしの「勇者」概念を見るとき、いつも気になります。その疑念は同じくあるにせよ、後発のフリーレン(notダジャレ)が、雨後のタケノコのごとく乱発されている「転生ドラクエ大喜利モノ」をじっくりと観察した上で、「人生の終わりが彼方に見え始めたドラクエ世代」へ向けたボールを投げたのは、オタク文化の成熟を意識した慧眼だったと言えるでしょう。

 しかしながら、「正しい看取り」というテーマと「週刊誌の連載」はまったくの水と油になっていて、この2つを両立させることはきわめて難しいバランスであると感じざるをえません。なんとなれば、すでにハンターハンターの念を彷彿とさせる魔法バトルの挿入による引きのばしが始まっており、「他ならぬ原作者が、原作の持つ魅力の本質を理解していない感じ」がある種の不安として、ずっとつきまとっているからです。最新刊においては、ついに過去の勇者と現在のフリーレンが互いの肉体に触れたり、意思疎通のできる状態での追想編が始まってしまいました。人生も後半戦に入ると、だれしもが「二度とくつがえせない過去の悔恨」を大なり小なり、何かしら抱えているものでしょう。多くの場合においては、アルコールの力を借りた曖昧化による回避などが行われるのでしょうが、良質なフィクションがつむぐ「別の手段、別の機会、別の相手によって痛みをやわらげ、その一部をいやす」という成熟の処方箋は、きっと現実に対しても有効だろうと私は信じているのです。「死者と直接に対話して、後悔をやりなおす」なんてのは、凡百のループものとまったく同じ、幼稚きわまる大ウソの解決じゃないですか。「フリーレンが、新たな旅の仲間を看取る(あるいは、看取られる)」のを真正面から描くことでしか、この物語が正しく閉じることはないと、ここに断言しておきます。

 今回、マンガの朗読劇みたいなアニメを見ながら頭の片隅に浮かんだのは、血を分けた盟友の最期を看取った82歳の宮﨑駿が、常のごとく原作を完全に無視した2時間の劇場版で葬送のフリーレンを作れば、おそらく私がもっとも見たい形で作品のテーマは昇華されるだろうという妄想でした。そこまではのぞめなくとも、5話以降はバトルシーンをすべてオミットして旅を進めて、最終話でフリーレンの死が語られるぐらいはやってほしいものです。本来、マンガとアニメは別々のジャンルなんだから、全体の1%にも満たない狂信的かつ偏執的ファンなんてガン無視して、ぜんぶ昭和アニメみたいな「アナザー」や「イフ」をやればいいんじゃないですかね、もう。

 

ゲーム「ティアーズ・オブ・ザ・キングダム」感想

 休日の朝、アルコールの抜けた状態を選んでティアーズ・オブ・ザ・キングダムを開始する。なんとなれば、ネットが他人の言葉でうめつくされる前に、自分の印象を獲得しておきたかったからである。そして、陽気な西洋人たちからゴキゲンな歓声が流れてくる中で、陰気な東洋人による不機嫌な感想を残しておくことに、あながち意味がないとも思われないのである。シアタールームの擬似4Kプロジェクターでプレイし始めるも、グラフィックがジャギジャギすぎて早々に中断することとなった。それから、4K大画面テレビ、PC用の4Kモニターと試して、最終的にはHD画質の小型モニターでようやく低精細を許容できるレベルに落ち着いた。あらためてオープンワールド(エア?)のゼルダを遊んでみると、原神が真似できたのはルックスのデフォルメ感だけであることがわかった。本質的に、ひとつながりの広大な世界の「物理法則」を楽しむゲームであり、なるほどホヨバが謙遜していたように、この点のフォロワーであるとは言いがたいだろう。

 低スペックでグラフィックを高精細にすれば、世界を複数のエリアへと分割するロード時間が生じてしまい、遊びの自由さとトレードオフになることを避けるジャッジは、さすがゲーム制作を熟知したプロの仕事だと感心しないこともない。しかし同時に、ハードの世代交代ごとに抜本的な仕様変更で新たな遊びを提案するクリエイティブの狭間に、仕様を据え置いて性能だけを向上させるグラデーション的なステップを導入してもいいのではないかとも思う(PS5の性能を有したSwitchみたいなものを想定している)。すなわち、本邦のウサギ小屋の四畳半だけでなく、世界の金満家の再生環境にもそろそろ配慮がほしいとの哀願だが、これをしないのは「子どもという属性」に向けたまなざしが、企業理念としていまだに脈うっている証拠でもあるだろう。前社長がスカイウォードソードの開発者インタビューで「ゼルダに5年の開発時間は長すぎる」とやんわり釘をさしていたように、「子ども時代に遭遇するからこそ、強烈な原体験になる」という単純な事実を、少子高齢化時代に住まう多くの大人はどこか忘れているか、その実感を失ってしまっている。

 前社長の問いかけは、例えば小5でゼルダに衝撃を受けただれかが、高1になって発売されたその続編をはたして手に取るのかという問いかけだ。両者はもう、まったくの別人なのである(ドラクエ1〜3は、たった3年のスパンで全作がリリースさたことを思い出してほしい)。もちろん、かつてとは比べものにならないほどゲームの規模が拡大していることも事実であろう。しかし、大陸のメーカーは人海戦術ーーしかも、一人ひとりが優秀ーーで制作期間の圧縮を実現しており、「忘却の生き物」である人間を相手にするとき、いかに時間の取り扱いがリソースとして重要かを熟知する姿勢は、近年の本邦に欠けているものである。これは「老人と若者のタイムスケール」の話でもあるのだが、それを語るのは別の機会にゆずろう。

 「人生いち少年」とでも表現すべき、生涯にわたって趣味嗜好が変遷しない現代のオタクたちにとっては、「大人の少年が子どもの少年と、30年前にリリースされたゲームの続編を同じ目線で楽しむ」ような状況が当たり前になっている。潔癖な言い方をすれば、これは「大人が子どもの原体験を蹂躙している」とも指摘できるだろう。本来、子どもは子どものためだけに作られたものを与えられるべきなのに、現代においては経済的なマス層にめがけて投げたボールが「将来の顧客」である子どもへは付随的に届けばいいという態度が大手をふってまかり通っており、とても気がかりだ。かつてのニンテンドーは、この「時の移ろいとともに、失われゆく子ども」という属性に関して非常に意識的ーー前社長の発言にもそれは色濃く現れているーーだったと思うし、「子どもに向けて作られているのに、大人も楽しむことができる」という作り方は、最近でこそだいぶ薄れてきたものの、初代スーパーマリオ以来ずっと同社の圧倒的な美点であり続けている。

 だいぶそれた話をそろそろティアキンへ戻すと、ニンテンドーにしてはチュートリアルが不親切だなとか、最初の空島からして動線不在で難易度が高すぎるなとか、反射神経への依存度が強い戦闘システムはやっぱり嫌いだなとか、ブツクサ言いながら8時間ブッ通しでプレイして、気がつけば風の神殿まで来ていました。この過程において、重篤な高所恐怖症である自分が、前作で高所からのパラセールをかなりの苦手としていたことも思い出しました(原神にそれを感じたことはないので、画質の問題なのかもしれません)。世界最少のアナグラムであるリト(トリ)村を抜け、ヘブラ山の遺跡を上へ上へと進みながら、気づけば手にはじっとりと汗がにじみ、股間のブレワイとティアキンーーそれが言いたいだけちゃうんかい!ーーは恐怖に縮みあがっていました。ほうほうの体で目的地へたどり着いたと思ったら、ボス戦で詰まってしまい、とりあえずハートとスタミナを増やそうと各地のホコラめぐりを行っていると、なんだかロケーションの多くに既視感がある。

 気になって調べてみたら、これ、前作マップのリユースーー解説:「使い回し」「中古」を避けるための小賢しいパラフレーズ。用例:「彼女はリユース女性です。」ーーじゃないですか! 前社長なら「ゼルダを使い回しで6年は長すぎます」と苦言を呈しているところですよ! つまり本作は、「裏ゼルダ」とか「スーパーマリオブラザーズ2」とか「ムジュラの仮面」に相当する作品だったわけで、そらアンタ、チュートリアル不在の高難度になるわけやわ! ともあれ、これで心置きなく本作をブレワイごとタイムカプセルに入れて、十数年後の自分へ送ることができます(表ゼルダをクリアしていないのに裏ゼルダへ挑戦する本末転倒を、ディスクシステム世代の方々にはよくご理解いただけることと思います)。その頃にはきっと、8Kや16Kの解像度にアップチューンされたリメイク版が発売されており、本シリーズへ向けた唯一の不満点も解消されていることでしょう。ティアキン、私は2合目くらいで引き返すこととなりましたが、みなさんは引き続き良い旅を!

雑文「原神の文学性について(近況報告2023.3.6)」

 原神の最新ストーリーを読む。ディシア編については演出の一部が破綻しており、定期的なバージョン更新の弊害を強く感じさせる仕上がりで、物語としてもビルドアップとその解決に雑な部分が見られました。いくらでも待てるーー探索しても探索しても、達成率100%にならないーーので、納期よりもブラッシュアップを優先してほしいと思います。その一方、魔神任務「カリベルト」は叙述トリックを交えた描写で原神世界の深奥に迫るばかりか、SF的なセンス・オブ・ワンダーにも満ちあふれていました。大胆に予想しておきますと、テイワットは2重地下世界の上部構造なんじゃないでしょうか。ナヒーダ編とあわせて考えると、もう1つ上に本当の世界があるーーいま冒険しているのは、ドラクエ3で言うところのアリアハンにすぎないーー3層構造になっているような気がします。

 このストーリーで語られているキャラの心情についても、ほとんど文学の域に到達していると言えるでしょう。我々がカタカナで無益さを揶揄するときのそれではなく、かつて帝国大学文学部が重々しく教授していたときの、大文字の「文学」です。nWoの更新において幾度もリフレインされてきた「醜い肉塊にすぎない私が愛されたいと願うとき、貴方は私を愛することができるのか?」という究極の問いに、「できる。それが我が子ならば」と親の立ち場から断言されてしまったことに、いまは少し愕然とさせられています。この問いは本来なら肉親に向けられるべきところを、肉親との関係性からそれがかなわず、他者へと向かうがゆえにいつも無効化されてしまう性質を持っており、例えば栗本薫を創始とする「やおい」作品群などは、なんとかしてこの無効化を乗り越えて他者へ届こうとする力学が、特定の人々にとって極めて切実な「文学」でした。ある種の悲鳴とも言えるその問いかけに対して、まっすぐ目をのぞきこみ、「まず、親との関係をちゃんと精算しろ。そうすれば、我が子がどんな存在であれ、おまえは抱きしめることができる」と、たかだかゲームぐらいに言われてしまったことへ、ある種の敗北感がこみあげてくるのです。

 さらに自分語りを続けるならば、かつて「虚構における美少女キャラの白痴性を消費することに、罪は無いのか?」と問いかけた小説を書いたことがありました。「見た目が愛らしく、性的な視線を許容してくれ、簡単にセックスできる」という男性の古い欲望を、2次元に投影する過程で希釈したのがエロゲーの美少女であり、泣きゲーにおいて「見た目が儚く、深く傷ついていて、簡単に依存してくる」へと変奏されたのち、現在の萌え絵へと遺伝子を継承されていく。おそらくは自己嫌悪から発した、このほとんど神学的な問いにさえ、原神はこちらの両肩へ手を置いて「罪は無い。一個の人間として描写されるならば」と断言した上でショウ・アンド・テルにまでおよんでくるのが、本当におそろしい。国家と世代の双方にまたがるゲームを通じたこの異文化体験のさなか、長く依怙地に保持してきたアイデンティティをキャンセルされる瞬間があり、油断しているとプレイ中にしばし茫然とさせられてしまいます。

 先日、タイムラインへ流れてきた大陸の「寝そべり族」に関する記事を読みました。興味深くはありましたが、場の衰退と個の加齢をオーバーラップさせて、本邦の精神性の正体である「寂滅」に訴えるのは、読者を獲得する戦略としては正しいのでしょうが、社会批評として早々に結論を出そうとするのはイージーに過ぎます。少なくともこれから20年を定点観測して、彼らが思想未満のそれを老いていく過程で成熟させ完遂できるのか、その行く末までを含めてこの記事は完成するような気がしました。原神になぞらえて言うなら、死をゼロとした衰えの時間軸に精神を「摩耗」させられない強靭さを、いったいどのくらいの数の魂が維持できるのでしょうか。個人的には、「最後の世代」を政治的に標榜する若者の内面などよりは、世界最大のアプリに携わる人々が抱く「もちろんゲーム制作に、社会を維持するための生産性なんてない。しかし、これこそが我々の存在理由であり、いまを生きる意味そのものだ」という熱量に進行形の時代を感じます。それに原神を愛好する若いファンたちは、熱を失うばかりの世代の諦念とは、離れた場所にいるように見えるのです。

 最近では、先に退場する者たちが「世界はどんどん悪くなっていく」と口に出すことの無責任さを、強く意識します。特攻隊員の生き残りがテレビの生放送に呼ばれ、司会者がなんとか戦後の若者たちへの批判を引き出そうとするのに、「彼らは教育も受け、私たちよりずっと賢い。きっと、世界は良い方向に進んでいくと思う」と答えたというあの逸話を思い出すのです。余談ながら、いまはなきマイナー球団のホームラン打者についてのドキュメンタリーを偶然に見てしまったのですが、全編にわたって昭和のイヤな部分が濃縮された内容で、あの時代に感じていた「生きづらさ」を生々しく追体験させられました。二度とあそこへ戻りたくないと心の底から言えることは、多少の行きつ戻りつはありながら、人類が総体としては良くなっていくことの証左であるようにも感じます。上の世代を憎む者たちの作り出した文化から、憎しみだけを取りのぞいた遺伝子が、異境の若者たちを通じて世界中へと伝播し受け継がれていくーーこの未来はもちろん、我々にとって愉快ではありませんが、それほど悪い顛末ではないような気がしてなりません。

アニメ「無職転生」感想

 (ウマ娘の)イベントとレースをすべてスキップして育成を周回する傍らで、アマプラの「無職転生」をぜんぶ見る。評判どおりアニメの出来がいいし、長めに尺を使ったストーリーの転がし方がいいし、何より丁寧にファンタジー世界として舞台を描写しているのがいい。ただ、これらの要素が良いだけに、「転生」って要素いるの?と思ってしまった。現代人の自我でツッコミながらじゃないと受容できないほどハイファンタジーが廃れてしまったのか、はたまた「前世の主人公」と同じ立場の人物を視聴者に想定しているのか、どっちなんだろう。後者だとすれば、すでに現実では手遅れになった自分をファンタジー世界内で心身ともに「育て直している」という視点が否応に入ってきてしまう。そうなると、正しい生育史と社会状況さえあれば自分はうまくやれたというファンタジー、つまり「環境で魂はたわまない」というファンタジーが二重に入ってきて、すごく成長譚としての受け止め方を濁らせる感じがある。実は原作がこの点に意識的で、続くシリーズで「転生」という設定が話の根幹に関わってきて、何らかの形で正しく解消されるなら何も言うことはありませんけど。

 ツイッターで好評を見かけたから視聴しましたけど、タイトルは完全に内容と乖離していますよね。魅力的なファンタジー作品なのに、転生にまつわる要素がリーチすべき層への参入障壁になってる気がします。あと「性の問題を正面から扱ってる!」みたいな評も見ましたが、「そうかあ?」って感じです。

 テキトーにしゃべりますけど、日本のファンタジーはドラクエ由来で一人称、西洋のファンタジーは歴史由来で三人称だからじゃないですかね。ハイファンタジーにはNHK大河ドラマ的な視聴の仕方が求められるのに受け手にその準備が無いか、そもそも想定される観客には届いてないっていう。

雑文「人気作品に学ぶ『ループ』と『転生』の正体について」
雑文「ファミコン世代と『ループ』『転生』の病理について」

アニメ「ダイの大冒険」感想

 ダイの大冒険、世代なので遅ればせにアマプラで第1話見る。大事MANブラザーズバンドを彷彿とさせる語呂あわせクソ・リリックのオープニングに心をくじかれ、開始30秒で視聴を止めようかと思ったが、なんとか本編へたどりつく。感想としては、かつてのファンだったオッサン・オバハンがリアルタイムでエス・エヌ・エスをやりながら同窓会的に見る方法以外では、楽しめない作品になっています。わざとかもしれませんけど、台詞運びや場面の切り替えやアクションのテンポ感がすごくスローリーで、昭和生まれには懐かしいのかもしれませんが、ウェブ動画に慣れた最近の子どもたちは生理的にじれったくて見ていられないでしょう。青少年向けアニメなのに、ターゲットはオッサン・オバハンという歪さに、制作側も感覚のアップデートされていないオッサン・オバハンなんだろうなという暗澹たる気持ちにさせられました。本作は毎年のように新作が発売されるドラクエ全盛期に連載を開始し、ドラクエの販促という鬼子的出自をふりきってはるかな高みへと飛翔したからこそ、当時の少年少女たちに長く記憶される名作となったのだと思います。個人的には、ダイの大冒険あたりから「たたかう」「じゅもん」だけだったドラクエ世界に「とくぎ」として「なんとかスラッシュ」などの剣技が逆輸入され、転職システムの変更と相まって最終的に全てのキャラが没個性なカンストへゴールするゲームへと変じて、やや魅力を減じてしまったと感じています。

 閑話休題。本作は当時の文化と社会の状況こみで体験してこその作品だと思うので、若い世代から新規のファンを取りこむのは(テンポの件も相まって)厳しいのではないでしょうか。以前にも言いましたが、猫型ロボットとかゴム人間とかポケット内の怪物などの長寿作品群は、いまやオッサン・オバハンがおのれの少年時代に体験した感動を後からやってきた小さい人々へ、同時代性抜きに押しつける側面が強くなりすぎています。文学はいちど誰かに語られれば語りなおす必要のないテーマが描かれ、ジュブナイルは同じテーマを新たな世代が何度も語りなおす性質の作品群だと指摘したことがあります。この意味で、少し前の妖怪ウォッチとか、最近の鬼滅の刃は正しくジュブナイルですし、特に後者は子どもが子どもを、少年が少年を失う前に語り終えられたという事実から、彼らにとって大切な心の場所に長く留まり続けることでしょう。

 さて、ドラクエ派生作品の話をしてもオッサン・オバハンにしか通じませんので、最後に鬼滅の刃について話を移して終わります。鬼滅の刃の特徴って、少女漫画的な「詩情」だと思うんですよね。特に女性の中で理想化された、肉から離れた男性の詩情を感じます(女性の描き方は肉そのもので非常に生々しいのに)。その一方でアクション漫画としては、キャラと背景と技のエフェクトが同じ調子で描いてあって、大ゴマを1枚絵としてじっくり眺めないと何が起こっているかわかりづらく、読むのに時間がかかる。その弱点の理想的な補完がアニメ化によって行われ、物語の持つポテンシャルが最大化されたことで、一個の作品として完成することができたのだと思います。覚えておきたいのは、この作品は大人を楽しませる力を持っていますが、本質的にはいまを生きる子どもたちのものであり、テリーやエス・エヌ・エスで騒ぎ立てるオッサン・オバハンのものではないということです。今あふれているように見えるこの作品に向けた言説は、私のものも含めて、すべてオッサン・オバハンのウエメセ感想に過ぎません。未だ一語たりとも、子どもたちの心以外のどこにも、この作品の本当の感想は書かれていないのです(言語によって矮小化される前の世界理解に彼らはいるからです)。これから十年をかけて、いまの少年少女たちがどう鬼滅の刃を受け止めたかが明らかになってくるでしょう。私は、それを見るのを楽しみにしています。

ゲーム「ドラゴンクエスト7」感想

 おたくの貴様らは相も変わらず俺様というネット乞食の再三再四にわたる哀願を積極的にネグレクトしながら、連休中は”トランキライザー、食え・食え!”のシリーズ第7作リメイク版を遊戯しておるというのか! 旧作からすでに12年が経過しているという事実に、慄然とせざるを得ない! ときに貴様らは時間経過の体感的な速さを表現するときに「スタンド攻撃がうんたらかんたら」と呪文を唱えるが、あれは何を意味しておるのか! 外タレコンサート最前列において、マイクスタンドの重くて固いほうでしたたかに後頭部を強打された結果の法悦的な失神体験を表現しておるのか! ともあれ、小鳥猊下アズ・ノウン・アズ萌え画像乞食の過去の栄光を貴様らにリマインド・オブさせるため、今日はこれを下賜しておこう!

 『俺たちは死ぬまで同性愛だぜ!』(7の重篤なネタバレ)

 シンボルエンカウントなのにランダムエンカウント以上の回数バトルを強いられるという矛盾! 小鳥猊下であるッ! トラ喰え7プレイなうだが、ダンジョンの敵配置がものっそヤらしい! 例えるなら、「北斗神拳継承者の動きは無意識的に北斗七星の形をなぞるから、北斗七星と同じ位置に石の柱を置いてみたら、すっごいぶつかってくれた」くらいの逆死葬感であるッ! なに考えてんだコラ! 俺にケンカ売ってんのか!

 大人になってはじめて気づくキーファのクズっぷり(挨拶)! 小鳥猊下@ドラクエ7であるッ! ときに、この伴天連多淫デイにあわせて淫らなトップ画像を寄贈する気配すら見せぬとは、貴様らは俺を愚弄しておるのか! ダズ・ユア・プッシー・スメル・ライク・チョコ・ファウンテン? 貴様らは直ちにリボンで緊縛された褐色の少女をーーあッ、チクショウ、固まりやがった! この野郎、突発的なフリーズまで忠実に移植しやがって! 社畜の平日から一時間を奪うことがどれほど罪深いか、わかってんのか! ノー・ノー! イット・スメルス・ライク・ブルーチーズ! あめゆじゆとてちて賢者(ドラクエ脳)! 小鳥猊下だったッ!

 パンチラ見えないし(天地雷鳴士)! 小鳥猊下であるッ! ドラクエ7を社畜プレイ中だが、進行するにつれ、当時のことが色々と脳裏によみがえってくる。昔のゲームを再びプレイすることで呼び覚まされる記憶や感情を題材にした現代版の「失われた時を求めて」が書かれれば、かなりの共感を得るのではないかと確信するほどである。 おお、またコンサル料が発生するような大ネタをツッタイーに無償提供してしまったわい! カミさんにもよく叱られるが、気前の良いところがワシの悪いところでもあってな、グハハ!

 で、ドラクエ7の感想に話を戻す。制作側がこれまでのドラクエシリーズからなんとか脱皮しようと苦しみ、その試みのことごとくが過去作を規定した”ドラクエなるもの”に絡めとられてしまった印象を受けた。ポートピア連続殺人事件の昔とまごうフラグ立てのお使いに奔走したかと思えば強制敗北に次ぐ強制敗北、起こる悲劇をただただ傍観し続けるだけのストーリーに、世界を救う勇者の爽快感は残されていない。さらに、本作の主人公たちは総じて魅力に乏しく、過去のシリーズで登場したキャラクターたちに及ぶべくもない。例えば会心率のブッ壊れた姫とか、即死呪文を連発する回復しない僧侶とか、ゲームキャラクターの持つ魅力が他のフィクションと異なるのは、システム面での数値的な特徴とそれが相乗効果をなす点だろう。本作の転職システムにおいて、主人公キャラクターたちは成長するほどにのっぺりと、一様な無個性の数値へと近づいていく。ゲームキャラクターとしての魅力を喪失させるために成長させなければならない苦痛は、哲学的な命題をさえ提起している。ツンデレの走りと言われたマリベルでさえ、悲劇を描く目的でする意地の悪いテキストライティングが逆説的に機能しただけであり、ゲームキャラクターとしての魅力は皆無と言えよう。実のところ、ドラクエ9と10もこの過ちを正そうとはしておらず、新しいデザイナーの好みというか、性癖というか、もはや疾患を疑うレベルの意固地さである。

 閑話休題。延期に次ぐ延期、さんざん気を持たせたことが理由の400万本、最も売れたドラクエはシリーズ中で最も低いクオリティを露呈し、結果として盛大なネガティブキャンペーンとなって、ドラクエブランドの失墜を印象づけた。当時はファイナルファンタジーが元気だったから、尚更だった。そう言えば、発表が延期になったことで期待が高まって過去最高の売上を記録し、それが同時にマイナスの宣伝となってブランドを失墜させたシリーズ物が最近あったなー、なんだったかなーと考えていたら、エヴァQだった。

 ときに良い大人の諸君、現実でのツンデレはヒステリーの一種だ! 人間ってのは年齢を重ねれば重ねるほど、性格のマイナス部分だけがどんどん強調されていく! マリベルな、ありゃ五十を超えると大変なことになると見たね! くれぐれもフィクションの甘い魅力に騙されて、性格の起伏の激しい異性と結婚したりするんじゃないぞ! 若い頃は多少つまらなく思えても、気持ちが落ちついていることを最優先に配偶者は選ぶべきだ! ぼくと君との約束だぞ!

 *関係妄想をこじらせて、母親にしか赦してもらえないようなヘイトスピーチをまきちらす多重人格者のアカウントはこちらになります。

 あの、いつもすごくちらかってて、ごめんなさい。わたしたち、なんていうのか、たくさんいるから、まとまらないの。きのう、テレビのCMに毒づいてたのは、ブルーカラーのカズヤ。味つけの濃い料理が好みで、学歴へのコンプレックスからかしら、ときどきああいう発言をするの。ゲームや映画に対してえらそうな批評をしてるのは、大学教授のセレブリャコフ。地方の大学で文芸評論の講座を担当してて、ほんとうは劇作家になりたかったみたい。若者文化とかフィクションにすごくきびしいのはそのせいかも。わたし? わたしは引きこもりのネリ。いつもカーテンをたれこめた部屋にいて、ときどきセレブリャコフにすすめられた作品にふれて、ほんのたまに散文みたいな文章をつぶやいてる。きょうはセレブリャコフがする大きな声の演説はおやすみ。昼間からカズヤとウォトカで酒盛りして、ふたりとも酔いつぶれて眠ってしまったみたい。だから、わたしが少しだけお話するね。

 セレブリャコフにすすめられたドラクエ7をクリアして、きょうほんとうの神さまに会った。今までの神さまは魔王が化けてたんだけど、なんだかすごく、パパのことばかり思いだしてた。禁欲的でガリガリにやせてて、ぜんぶの悪いことを黙って肩がわりしてくれて、そしていつだって正しくて、わたしはずっと、息がつまるような気分でいた。当てつけがましくしないで、わたしはまちがいたいの、じぶんでまちがいたいのって、あのころみたいに叫びたかった。ドラクエ7の世界が不幸に満ち満ちていたのは、ぜったいにこの、イエスキリストみたいな神さまのせいだと思う。

 でも、きょう会ったのは、つまらないギャグばかり連発して、パンツいちまいの下品なおどりが大好きな、赤らがおで小太りの神さま。たくさんのつらいお話ばかりを味わってきたわたしは、なんだか安心で泣きそうになった。ああ、たくさんの悲しみを見てきたけど、この神さまがもどってきてくれたことで、ぜんぶがよくなるんだって、心から思えた。

 ドラクエって、すごい! 西洋のファンタジーのまねごとじゃないの、ぜんぜんちがうの、ドラクエはドラクエなの! おなじ神さまを西洋ふうで描いても、ギリシャ神話みたいな、すごく生々しくて、人のイヤなところを強調したみたいにしかならないと思う。だから、やっぱりドラクエって、すごい!

 あっ、セレブリャコフが起きそうだわ! わたしがここにいたことは、ないしょだからね! じゃあね!