猫を起こさないように
ソウルハッカーズ2
ソウルハッカーズ2

ゲーム「崩壊スターレイル」感想

 崩壊スターレイル、シアタールームで現世を遮断して、どっぷりと10時間ほどプレイした感想を書きます。冒頭から脱線ーーレイルだけにな、ってやかましいわーーさせていただきますと、日本ファルコムの株主総会に毎年参加する謎の中国人が、原神の制作会社社員だったという話をどこかで読みました。PCエンジン版の初代英雄伝説(アグニージャ!)をくるったように周回ーーハイ・レスポンスの快作だったので、周回数だけなら月風魔伝を越えるかもしれないーーし、その後リリースされた風の伝説ザナドゥの1と2は私の中でかなり神格化されている作品です。そこからしばらくは疎遠となり、ひさしぶりに軌跡シリーズの零と碧をプレイして、老いた会社が老いたファンより細々と集金するための装置である「終わらない物語」のにおいを嗅ぎとり、離れてしまったユーザーでもあります。最近、ゲーマーとしての「老い」を実感したのは、原神のアンケートで生年月日を選択する項目に「1980年以前」の表記を見たときです。いまや昭和は我々にとっての明治くらいなんだなと、とても愉快な気分になったのを覚えています。本邦のロールプレイングゲーム、いわゆるJRPGの現在位置を赤裸々に示す作品としては、ソウルハッカーズ2が挙げられるでしょう。あらかじめプレイしておくと、本作と比してのフリーフォール級の落差を実感できると思います。

 長い前置きでしたが、崩スタ(天理スタミナラーメンの略称みてえ)は戦闘とマップをのぞくと、システム部分はほぼ原神のそれを踏襲しています(課金や育成まわりのギミックも同じ)。しかしながら、もっとも注目すべき点は戦闘とマップの仕様であり、まずもってこの令和の御代に、いまをときめくゲーム会社が、わざわざ古臭いターン制コマンドバトルを持ってきたのは、純粋な驚きだと言えるでしょう。ぜひ、ソウルハッカーズ2で最も作りこまれているリンゴたんの動きと比較してほしいのですが、「前進してなぐって、元の位置にバックジャンプ」をあざわらうかのように、本作では個体毎に違うモーションを与えられたキャラたちが、超絶的なカメラワークでギュンギュンと動きまくります。リリース直後にもかかわらず、すでに20体以上はいるプレイアブルキャラのどれもが、ハッカーズ主役チーム4体のうち、最も作りこまれているはずのリンゴたんをはるかに凌駕する仕上がりなのです(当然、戦闘だけでなく移動用のモデルも用意されている)。

 次にマップですが、細かくエリア毎に区切られているばかりか、エリアの終端を表すラインがご丁寧に空中へ明示されており、エリア間の移動にはロード時間が伴います。さらにジャンプの機能は実装されておらず、わずかの段差も徒歩で乗り越えることはできません。まるでどこぞのJRPGのようですけど、いいですか、原神のマップを作れる技術力の会社がね、これをシームレスで自由に上下へ動き回れるようにできないはずがないんですよ! リワードのひとつに「オープンじゃないワールド」って揶揄があるんですけど、本邦の技術力の無さから逆算された窮屈な仕様を面白がりながらも、コイツら「敬意をもって」わざと模倣してやがるんです! これを例えるなら、両手両足を縄でしばったフルチンのスイマーが全日本選手権に現れ、まったくふざけた泳法で全種目の日本記録を塗りかえていくようなもんですよ! しかも、それぞれで10秒以上を短縮しながら! 馬鹿にされてるならまだ戦いようもありますが、停滞したJRPGの「破れたズボンの膝に色のちがうパッチを当てる」がごとき貧乏くささを「尊敬」して、自らをダウングレードしてまで目線を下げて、わざわざ我々のレベルにまで「降りて」きてくれているんです! 原神のときは「まさか、負けるのか! このオレ様が!」とひどくうろたえる感じがありましたが、崩スタでは余裕に満ちた強者の手加減を目の当たりにして「ああ、俺たち、負けるんだなあ……」という脱力感にも似たあきらめを覚えます。

 半ば虚脱状態のまま続けますが、ゲーム導入部の印象としては、スレイヤーズ!の作者が書いていたSF作品(名前は忘れた)をなぜか思い出しました。そして、中国哲学を宇宙の成り立ちに敷衍した「神々と世界の謎」は、膨大なテキスト量で深い考察を許してくれます。さらに、星神たちの設定にはクトゥルフ神話やゴッドハンドの狂気を連想するものがあり、「1惑星1物語」の展開はデュマレスト・サーガを彷彿とさせます。これが軌跡シリーズなら、惑星ごとに作品が分割販売され、後から来た者たちが見たらとっちらかった順序に、追いかける気をなくすことでしょう。「いや、20作品あるけど、ホニャララ編だけでも面白いから!」と熱弁されても、いまさらメンドくさい古参からウザがらみされるためのニワカになる気は起きません。

 ワンパッケージでどの時期から参入しても混乱なくストーリーを追うことができ、潤沢な課金で制作費をまかないながらどんどん世界を拡張していくクリエイティブの永久機関とも呼ぶべきこの仕組みを、なぜ本邦において日本ファルコムあたりが構築できなかったのか、心の底から残念でなりません。もしかすると、最初期の哲学なき拙劣な課金ゲームーー「ボクたち、任天堂の倒し方を知ってますよ」ーーへの嫌悪感のせいで、それを自分たちの「芸術品」と合体させるという発想から遠ざけられてしまったことが原因なのでしょうか。そんな「あいのこ(ラブ・チャイルドの意)」には、家名を継がせられないと考えたのかもしれません。結局、我々はどの業界においても、たとえ滅びてゆくとしてさえ、我々の本性を形づくる「潔癖さ」と心中する他に道はないのでしょう。

 あと、古くからの読者は知っていると思いますが、小鳥猊下の誕生日は3月7日って設定なんですよねー。崩スタの「三月なのか」ってキャラ、え、あれれ、もしかしてそうなの? いやー、まいっちゃうなー、本邦の気難しい中年オタク層にテキストで原神をエヴァンゲルしたのは確かだけど、その功績がホヨバに認められたのかなー、こいつはとんだハニートラップだなー。正直、ガチャで引いたキャラのほうがぜんぜん強いんだけど、よーし、オジサン、なのチャンをご指名して最後まで育てちゃおうかナ! あッ、崩壊スターレイルの致命的な欠陥を唐突に思い出しました! それはこのキャラの一人称が「ウチ」なのに、語尾さがりで発音するところです! このジャリ、けっこうな頻度でウチウチ連発しよんねんけど、ぜえんぶ語尾さがりになっとうから、関西人のワイはごっつうイラつくねん! こんだけで、パーティから外したろか思うわ! 「ウチ」の発音は語尾あがりがフツウやろがい! 「ウチは日本いち不幸な少女や」やろがい! この件に関してはな、全セリフの再録を求めて徹底的にホヨバと戦っていくで!

 雑文「GENSHINとSTARRAIL(近況報告2023.5.3)」

雑文「原神の超越、あるいは獣の本性」

 原神、「消化」になってしまうのがもったいなくて、できるだけ攻略情報を調べずにゆっくり世界を「散策」している。己の弱点や拙い部分を自覚しながら隠そうとせず、現在進行形の全身全力全霊で作っている熱気が伝わってきて、「とても好ましい」というファーストインプレッションは途切れることなく続いている。ただ、ソウルハッカーズ2のあとに原神へ触れてしまったことは、私の中のある価値観について、かなり決定的な影響を与えてしまったと言わざるをえない。つまり、「本邦の衰退」なる言辞を横目にしながら、日々の生活では実感を持つことを避けてきた事実に、己の体験を通じて正対させられたのである。ソウルハッカーズ2を現場監督の驕りが招いた高級建材の瓦礫の山だとするなら、原神は建材の質が劣っていることを知る職人の、工夫と熱意と矜持で組み上げられた大伽藍と言えるだろう。そして、見た目には本邦の2次元作品の精髄のようにしか映らないのに、その皮一枚下には大陸の文化と思考が岩のように脈うっているのである。

 栗本薫から薫陶を受けた私は、中国語の翻訳が生みだす独特の文体と、頻出する類型的でない表現に心をつかまれ、原神の体現する思想とも言うべきものに、すっかりやられてしまった。それは言葉にすれば、ここ半世紀を通じて我々があえて意味を軽くしてきた「親と子の絆」「師弟の敬愛」「他者との縁」「商売の掟」「仁義と報恩」「技術と志の継承」「若さと老いの等価」といったものであり、そして何より「現存する人類を延伸した先にある超越」を心から信じる態度が、作品全体に朗々と響きわたっているのである。登場する原神たちにしても、西洋的な孤絶した審判者ではなく、あくまで「人間と地続きに連続した存在」として描かれている。昨日、最新の配信イベントを最後までクリアしたのだが、「ワインの香りをかいだ瞬間、自分を捨てたと思っていた両親の、暖かな背中が脳裏によみがえる」というシーンで、常ならば冷笑的に眺めるだけの自分が、胸をつかれ涙を流しているのに遅れて気づいて、ひどく動揺してしまった。この場面が泣かせのためだけにする小手先のプロットではなく、原神世界に響く確かな通低音とつながっているから、心をゆさぶられたのだと思う。

 「親を憎んだ者たちが始めたおたく文化が、親を愛する者たちに受け継がれていく衝撃」という指摘もあろうが、それはむしろ土地ではなく世代の問題に帰するのかもしれない。話を元に戻すが、家族の形にせよ何にせよ、我々はなぜか旧来への付与でなく解体をどうにも志向してしまうようだ。しかし彼らは、種の継続に向けた動物としての当然をキャンセルしようとする仕草に、何を恥じることもなく異議をとなえ、違和感に首をかしげてみせる。反して我々は、親と子、男と女、師と弟、すべてが一様に対等であるという舶来のアイデア(思いつき)を、だれかの一方的な我慢で成立する虚妄だとは指摘せず、曖昧な微笑で静かに受け入れて、ただただ己の寿命だけは平穏に逃げ切りたいという「さもしい利己主義」をしか抱けない。じっさい、相手を刺し殺す1秒前までは表面上ニコニコと穏やかにふるまい、我慢の時間的な長さによってテロ行為が礼賛の対象へと変質するプロセスーー忠臣蔵がその最たるものだろうーーが我々の心性の正味のところで、「忍耐の末の破滅」を美徳とする生き様では、各国にある中華街が体現するような「ポジティブな生き汚なさ」など構築のしようもない。「三体」を読んだときにも感じたことだが、一過性の思考実験的トレンドに過ぎない人間性の否定に取りあわず、自らの本性を獣の延長として迷わず思考し続けるような人々と100年のスパンで競いあうことなど、はたしてできるのだろうか。その疑念が、ずっと頭を離れない。

 そして、昭和の模倣としての己の人生が「たかが小説」「たかがゲーム」によって、何の普遍性も持たない過去の影法師であることに気づかされ、欠落した魂に抱く幻肢痛のごとき苦しみに悩まされ続けている。そんな気持ちのまま、第2章の花火師の話を読み終えた。ああーー宵宮からは、土のにおいがする。