猫を起こさないように
スーパーマン
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アニメ「劇場版チェンソーマン・レゼ篇」感想

 最近、ひっそりと配信されたチェンソーマン総集編が、総集編とは名ばかりのテレビ版12話276分を214分で再録音・再編集した完全リメイク版だったのに爆笑して、ぜったいに見に行くと決めていた劇場版チェンソーマン・レゼ篇をIMAXで鑑賞する。公開直後に手ばなしの激賞がタイムラインを埋めたあとは、まったく作品への言及が消えて無音になる現象ーー初日に劇場へ足を運ぶ熱狂的なファンが盲目の絶賛をし、ふつうのファンは否定的な評価をきらう近年の風潮から黙りこむためーーを観測していたので、正直なところ、イヤな予感はありました。全体の印象としては、「レゼという”おもしれー女”の登場から退場までを原作から切りだせば、映画になるのでは?」ぐらいの思いつきで映画にしたところ、思っていたより映画にならなかったといった感じで、「マンガで読むと映画なのに、映画で見るとマンガ」としか言えない仕上がりは、藤本タツキの作家性に対する強烈な批判にすらなっています。つまり、「映画っぽいカメラとセリフから成る、映画っぽいシーン」のリニアーかつブツ切りな連続が彼のストーリーテリングの根幹で、物語全体の構成や伏線はあまり意識されていないことが、本作を通じてあらためて浮きぼりになっており、マンガ読みの中でなかば神格化されたチェンソーマン第1部は、じつは大した中身じゃなかったのではないかという地点にまで、話がさかのぼってしまうほどです。

 ザッと内容にふれていきますと、日常パートは執拗な静物のインサートにはじまり、蛍光灯の明滅する緑基調の洗面台、夜のプールではしゃぐ男女、雨粒視点で落下するカメラ、画面上部3分の2に地平線とならぶ背中、電車通過後のプラットフォームに立つ人影など、「なんか別の映画で見た」ような既視感の強すぎる演出が多用され、アクションパートは藤本タツキというより制作会社の個性だとは思うのですが、極端な構図に動きとエフェクトを盛りまくる、原作とは真逆の「足し算的思考」な設計になっていて、いったい画面のどこに視線を向ければよいのかわからず、前日の睡眠時間が少なかったせいもあってか、IMAXの爆音にもかかわらず、眠気を感じてしまったぐらいでした。レゼ篇そのものが「恋に落ちた相手だから、殺せない」話なのに、なぜか原作からアクションを大幅にカサ増しし、おまけに敵の攻撃ターンが延々と続いてチェンソーマンの反撃は極少なため、近年の作品でたとえると、ジェームズ・ガンのスーパーマンみたいなカタルシスのなさになってしまっています(まあ、作者の「サド女子に痛めつけられるのが好き」という性癖には満点で刺さるのでしょう)。

 テーマっぽく提示される「田舎のネズミ、都会のネズミ」もよくよく考えると、ちっともストーリー全体をつらぬいていませんし、「映画っぽいパッケージなのに、映画の体(てい)をなしていない」のは、藤本タツキ作品の批評をねらってわざとやってるのでないとすれば、総集編から旧監督の名前を削除するほど自己顕示欲の強い、新しい監督の非才によるものでしょう。チェンソーマン第1部の印象的な絵ーー地獄で宇宙服の上半身と下半身が地平線に向かってならぶなどーーは、独立したスーパーアシスタントの手腕だったみたいな話も聞くし、「どれだけ第1部のアニメ化でクオリティを高めたところで、第2部はアレだしな」という冷めた視点はどこかつきまといます。最後に、チェンソーマン第2部を担当する国立大出身の編集者が、デンジ君そのまんまみたいな中卒の作者(たとえですよ、念為)をナメくさって、その才能を壊したのだとするならば、有機物が無機物に変じる瞬間に責任を持つだとか、広島弁でブチころがすだとかの婉曲表現ではなく、ストレートに「殺すぞ」と言わせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

映画「スーパーマン」感想

 キメツによって劇場を占拠される直前にすべりこむようにして、アイマックスでスーパーマンを見る。以下は、2006年公開のスーパーマン・リターンズにおけるスタジアムの場面を、こよなく愛する人物による感想です。「いまさら、この超有名ヒーローの設定説明を必要とする人間なんて、地球上におるめえよ」とばかりに怒涛の冒頭キャプションだけで作品世界のビルドアップをすませたあとは、「3分前:スーパーマン初の敗北」から当該の人物がナナメにスッとんできて雪の大地へと激突するという、じつに人をくったオープニングにはじまり、DCコミック版のリブートというよりは、「ジェームズ・ガンのスーパーマン」とでも名づけたくなるような、ユーモアたっぷりの演出が続いてゆきます(特に、格納庫のシャッターがゆっくりと、それこそ1分ほどかけたワンカットで開いていくのを見せるシーンは、スーパーマンというよりガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの文法になっていました)。ストーリー展開としては、「膨大な体力ゲージを持つオポネントに対して、初撃が当たれば無限につながるコンボの完遂をねらう格闘ゲーム」がずっと続く感じで、レックス・ルーサー側へ感情移入できれば手に汗をにぎれるのでしょうが、スーパーマンのファンはカタルシスの爆発を延々とひきのばされて、イライラすることうけあいです。また、他のヒーローたちと共闘する姿は新鮮でしたが、「あらゆる生命を助ける、リスも助ける」場面はシリアスなのかギャグなのか、はたまた、このリスがのちの派生作品でヒーローになる伏線なのか、いだくべき感情がわからなくて困惑しました。

 物語のクライマックスにおけるスーパーマンのスピーチは、過去の失言をツイッターから掘りおこされて、監督降板にまでいたったジェームズ・ガンその人が憑依したような内容で、数テイクは撮影しているはずなのに、少々ドモッてロレツのあやしい部分があるものを採用していて、おそらく熱量が優先されたのでしょう、舞台演劇をナマで見るような迫力がありました。そのあとに続く、あれだけ饒舌な道化師であったレックス・ルーサーが、ただ無言でスーパーマンをにらみつけながら静かに涙を流すシーンでは、「永遠の日陰者であり、けっしてヒーローにはなれない者」の玄妙きわまる感情を、同じ属性を持つ小鳥猊下としてモロにくらってしまい、「泣くなや! なに、泣いてんねん!」と言いながら、いっしょに泣いてしまいました。「中東のユダヤ国家によるホロコーストを免罪符としたジェノサイド行為」に対する強い批判が、本作にはこめられているとの指摘があるようですが、日々のニュースを心に留めないよう聞き流していたつもりで、ずっとフラストレーションが溜まっていたことに気づかされました。なぜなら、ただのフィクションであるにもかかわらず、鑑賞後にかなりその溜飲が下がってしまった感覚があったからです。これはすべての物語がおのずと持つ癒しの効果にはちがいありませんが、本作の高評価にその事実がいくばくかでも寄与しているのだとすれば、きわめて危険なことのようにも思います。それは、虐殺の現場にいない者たちのストレスを慰撫しているだけであり、現在進行形で殺されている者たちとは、なんの関係も連絡もないからです。「創作者によるフィクションの効能とメッセージ性へ向けた過大なまなざし」には、適切な批判が必要なように感じました。監督色がマーベルの「工業製品っぽさ」を越えた独特の”読み味”を本作にあたえていることはまちがいありませんが、同時に時事色にもドぎつく塗られた最新のスーパーマンを単純にシリーズのリブートとしてあつかっていいのかについて、個人的には疑問が残ります。

 あと、よい大人のnWo(猫を起こさないように)は25年前から猫派なので、皆様が話題にするマントをはおったテリア犬の愛嬌と狼藉は、特に刺さりませんでした。

映画「スーパーマン・リターンズ」感想(初回)

 変則的な夏期休暇に縦縞のステテコ一丁で乳首から生えた、率直に形容して“陰毛”しか当てはまる語彙を人類は持たない毛を引きつねじりつして過ごす、平和の負の部分をビジュアル的に余すところなく体現したあの気だるい午後、赤と青のまだらタイツ男が帰還する例の活劇を見に出かけた。非常に繊細で隅々まで配慮されたシナリオに、タイツ男の抱える深い葛藤を改めて痛感させられる結果となった。

 断定せぬ曖昧な姿勢と、状況の限定による本質の回避が活劇全体の基調となり、見る者は否応なくタイツ男の苦悩をそのまま彼が体現する某国家の苦悩へと読み替える見方を強要されてゆく。某国家であることは確かながら、具体的にどこなのかを特定させない違和感に満ちた街並みに、この活劇があの二つのビルの倒壊する前なのか後なのかさえ、はっきりと言うことができない。懐かしい敵役の「ローマ帝国は道、大英帝国は船、アメリカは核爆弾……」という長口上は、三段階目の論理飛躍にひやりとした瞬間、最後の台詞の尺を短縮することでやんわりと収束する。致命的な部分に踏み込めないのだ。

 タイツ男は迫り来る大小の厄災を次から次へ食い止めるのみで、例えその元凶が手の届く範囲にいようとも、先制攻撃を行うことを禁じられている。悪漢たちがどんなに殴り蹴ろうとも、決してタイツ男は自ら拳をふりあげることはしない。あまりにも明快な暗示。かつての声高なポリシー、”American way”は”Put it in a right direction.”と控えめに換言され、劇中の少年との関係はすべてほのめかしに終始し、一語すら“その事実”が明示されることはない。契約の国の言葉はいかにささいな内容であれ、我々が思う以上に誓約し束縛するからか。いや、まだ弱い。結婚を前提とせぬ男女の婚姻に対する宗教的嫌悪に配慮しているのだ。なんというデリケートさだろう!

 そして、「紛争やテロが各地で頻発するこの時代に、たった一個のスーパーパワーの存在が意味を持つことができるのか?」という必然の問いには、物語上の技巧を駆使して限定付きの回答がかろうじて与えられる。タイツ男が体現するものに想像を及ばせれば、回答は「意味がある」以外にあり得ないのは自明である。その“正答”を肯定するために「誰一人として死なせない」、「ただし、彼の能力にできる範囲で」という大前提の下に、すべての災害は意図的にプログラムされる。押し寄せる高波、地の奥底から響く鳴動、しかしそれは観客の心拍数を高めるための小道具に過ぎない。我々はすでに現実に数多くの破滅を見てきてしまっている。我々が見てきたようには、大地は裂けもしなければ盛り上がりもせず、ビルは倒壊にほど遠い地点で窓ガラスを控えめに割るのみである。タイツ男は落下する看板を受けとめ、ただ一箇所から迫り来る炎を吹き消す。それだけで決定的な破局は尻すぼみに収束する。回答が与えられる。タイツ男は世界に必要だと。無論、良心的な観客からの喝采は得られない。

 しかし、今作における最大の回避はそこではない。「現在この世界で、いったい誰と戦うのか?」という当然の帰結に対するものである。タイツ男は体現し、象徴している。だからこそ彼は、円月刀の刺突を大胸筋でねじ曲げて、大量のプルトニウムを地下貯蔵するモスクを岩盤ごと宇宙空間に放り投げてしまうことは、暗黙の要請から許されないのだ。彼の敵が“旧作から引き継がれたSF的設定”となったのも、シナリオを吟味し尽くした上の結果ではなく、徹底的に選択肢を奪われた末の残骸であるに過ぎない。自らが体現するものの中身から、戦う相手を指名することの許されぬ永遠のチャンピオンは虚構の中でのみ安心してピンチを味わい、その全能のパワーを行使することができる。もし万が一、次回作が制作されるとするなら、私の興味の焦点は一つしかない。

 「いったい、この世界で誰を“敵”と名指しするのか?」

 余談だが、某監督の息子が制作した某戦記も見た。婉曲表現を許して欲しいが、私はピュアウォーター某のナニもアレしたいほどの原理主義者なので、自分語りだけにとどまることのできる外殻のみを書く。この活劇の中で発生する感情はすべて言葉によってトリガーされている。心の一番深い部分の動きが、行為や体験によってでなく、言葉によって引き起こされている。私もそうだ。そこに共感した。より正確に言えば、同じ病の患者が持つ憐れみ、負の連帯を感じたのだ。「重要な場面が人物の台詞だけで展開する」、「言葉じゃなくて主人公の行動で説得力を持たせて欲しい」。たぶん、それは私たちの中には無い。