猫を起こさないように
ジークアクス
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アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアックス」感想

 ガンダムオタクがタイムラインでキャアキャア言っているジークアックス、頻繁にQアンノの名前が話題に出てくるため、親・イコール・エヴァを殺された者の責務としてイヤイヤ見に行く。これ以降は、蒼天航路で曹操が孔明の存在を認識できないように、世代的には再放送による人気の高まりとガンプラブームが幼少期をほぼ直撃していて、すべての講義に出席した上でノートもキチンとテイクするのに、ペーパー試験がいつも0点で未履修あつかいとなる、とことんガンダム世界と反りがあわない人物による感想です。映画の前半部分は、ファースト・ガンダムを正史にみたてた架空戦記モノになっていて、ネタバレ回避(笑)のためにあえて例え話で申しあげれば、「開戦からどんな展開をたどれば、太平洋戦争で日本がアメリカに勝てたのか?」に類する設問への解答が、日本三大オタクのひとりであるQアンノ本人によるノリノリの筆致でつづられてゆきます。このパート、群像劇としてもメカアクションとしても、じつにイキイキと描かれていて、ウノレトラマソでの新ウルトラマン、愛国戦隊大日本でのサンバルカン、トップをねらえ!での沖縄決戦、不思議の海のナディアでの宇宙戦艦ヤマトを彷彿とさせる、彼がおのれの愛する作品へのオマージュというにはディープすぎるトレースを敢行しているときと同じ喜びに満ちあふれていて、その様子が本当に心の底から楽しそうなので、どうしてこれをエヴァ新劇の後半戦でやってくれなかったのだと、視聴中はうらみごとのひとつも言いたい気分でした。「女グセの悪くない、むしろ男色よりのシャア」という、トミノ・エッセンスである異性への歪んだルサンチマンをバッサリ切り捨てたキャラクターが、地球連邦軍を相手に軽快な勝利を重ねていく様は、グッツグツに煮つまったガンダムオタクの脳内妄想をフルパワーで映像化していて、ガンダムという巨大シリーズに向けた、ある種の批評性にまでつきぬけているようにさえ感じられました。

 「御大が旅立ってから、シン・ガンダム」という小鳥猊下の予想はみごとに裏切られ、裏切られた理由は彼我の持つディーセンシーの圧差(カイジ語)だったわけですが、旧エヴァをリアルタイムで経験した世代にこの横紙破りの無法をできる人物がいるか考えてみたところ、ひとりたりとも思いつきません。つくづく感じたのは、近年における中韓のフィクションが本邦の過去作に受けた強い影響を正面から認めながらも、完全オリジナルのストーリーをゼロから描こうと苦闘しているのに対して、我が国では異世界転生モノやら悪役令嬢モノやら、まさに「過去の巨人の肩に乗って、遠くを見る」作品が隆盛をきわめていて、その期間が長くなりすぎた結果、おのれが依拠する歴史の遺産と呼ぶべき存在にすら、無自覚な層が現れてきてしまっているということです。つい先日、崩壊スターレイルのオンパロス編をサブクエスト含めて実装分まで読了したのですが、オリュンポス世界を舞台にした英雄譚とギリシャ悲劇を、おそらくシミュレーション仮説を下敷きに、古典文学のように語ろうとしているのです。その一方で、ジークアックスは半世紀前(!)のロボットアニメを正史にすえた偽史として、ディックの「高い城の男」をやろうとしているのではないかという指摘を見かけ、同じSFというジャンルにありながら、両者の間へ横たわる長大な発生の差異に、思わず強いめまいを覚えてしまいました。シンエヴァ由来の不快感が消えることは決してありませんが、ジークアックス前半におけるQアンノの仕事は、「自覚的なひらきなおり」によるザーメン大放出(失礼)になっていて、先に挙げた近年の軽薄な虚構群の中では、むしろ圧倒的に誠実だとすら感じてしまったことを告白しておきます。

 これが映画の後半になり、シンエヴァの副監督が手がけるパートへ突入すると作品テーマや思想性ばかりか、やっかいなオタクの情念までもがキレーさっぱり雲散霧消して、ソリッドなデザインやビビッドなカラーリングやケレン味たっぷりのアニメーションだけが前面に出てくるのは、いったいどういう作家性の違いによるものなのかわかりませんが、じつに不思議です。禿頭の御大に由来する成分が大幅に希釈されたジークアックスには、全体として「わからないけど、わかった」ような気にさせられており、もしかすると人生で初めて単位を修得できるガンダムになるような予感さえあるので、いまは続くテレビシリーズの放映開始を楽しみに待ちたいと思います。あと、公開初日の劇場で「ブチころがすぞ!」(婉曲表現)とスクリーンに向かって叫んで席を立ったオタクがいたと仄聞しましたが、ただの虚構に魂を沸騰させることのできるMAJ(マジ)モンが界隈にはたくさんいたことを、ひさしぶりに思いだしました。彼らに比べれば小鳥猊下なんてのは、「頭のおかしいフリ」をしているだけの、オタク濃度の薄い良識人ですからね! あの世代のモノホンたちを「怖いな……」と遠巻きに見てきた人生ですので、自身がだれかに「信頼できるオタク」などと呼ばれているのを目にするたび、師匠の落語家が偉大だっただけの下手クソな弟子を、単なる時間の経過でメディアがあたかも名人であるかのようにあつかいだすプロセスを想起して、なんだか申し訳ない気持ちになってきます。はやく現世から退場しねえかなあ、アイツら! そうすりゃ、オレをニセモノと見ぬけるヤツは、どこにもいなくなるのによ!