猫を起こさないように
シン・エヴァンゲリオン劇場版
シン・エヴァンゲリオン劇場版

雑文「小説道場・月姫編」

 続いては門弟志望、那須キノコ(このペンネームなんとかならんかね)『ツキヒメ』。五千枚(長い!)の力作である。
 いまは懐かしい「吸血鬼モノ」(ときめきトゥナイト!)なのだが、アニメと私小説がごっちゃになったような不思議な読み味の作品だった。キャラクターの描写もほとんどマンガで、登場人物が多いわりに三人ぐらいまでの書き分けしかできていない。世界観は魅力的なので、いいイラストレーターと組んで挿絵がつけば、若干、印象はマシになるのかもしれないとは思う。
 文章について指摘すると、ところどころに光る修辞はあるものの、全体的に表現が冗長で硬い。へんへーにはすごく、だれかから批判されることを恐れてわざと難解にした、防衛的な硬さに思えたね。ただ、この硬さがバシッと決まる場面もあるので、もっと読者に対するガードを下げて、短くて平易な文章を意識して増やすといい。そうすれば、ずっととっつきやすくなるだろう。
 キツイことを言うようだけど、いまの君にはまだ、この規模の群像劇をキチンと書き上げるだけの地力はない。もっと登場人物を減らして、いちばん書きたい関係だけにしぼってごらん。そうして、少しずつ書ける範囲を広げていったほうがいい。ほんとうは、先輩なんかとではなく、もっと妹との関係を掘り下げたかったんじゃないの? たいせつなのは、物語がどう動きたがっているかの声をじっくりと聞いてあげることだ。それは同時に、自分の心を知る作業に他ならない。
 そして、ひとつ私が大きな瑕疵であると感じるのは、不死身の吸血鬼をそれと知らずに殺害してしまうくだりだ。夢の中で人を殺してしまい、汗びっしょりに目を覚まして、夢だったことにホッと安堵する。そんな経験はだれにでもあるだろう。着想の原点はそのあたりじゃないかと思うが、殺人(この場合、殺バンパイアか)を肯定するために「天涯孤独の粛清マシーン」みたいな設定をひねりだしたところで、主人公の動機が「快楽殺人を目的とした通り魔」のそれであることは決して消えやしないのだ。もちろん、小説に書いてはいけないことなどない。しかし、君があつかおうとしているのは、死ぬほどデリカシーのいる、極めてセンシティブな内容だ。君にその覚悟があったとは、とうてい思えない。力量もだ。自分の娘を通り魔に殺された両親の気持ちが、いったい君に想像できるのかね?
 なるほど、君は自分の苦しさのために書いたのであって、その人たちのために書いたのではないと言うのかもしれない。だが、小説を世に問うというのは、そういうことなのだ。娘を殺された両親の元へこの作品が届き、彼らの感じることに対していっさいの申し開きが許されないということなのだ。かように、書くことは地獄だ。けれど、先生はこの地獄が嫌いではないのだよ、那須。もしかすると君はまだ若く、切実に自分が救われることを願っていて、そんな親の苦しみなんて薬にもしたくないと思っているのかもしれない。君に必要なのは、おそらく時間であり、人生経験だろう。しかし、あせって大人になることはない。愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。きっといつか、私の言うことがわかる時が来ると思う。
 最後に辛辣なことを言ったが、世界観や造語のセンスにはキラリと光るところがある(ような気がする)。いちど吸血鬼モノから離れた別の作品を見せてください。四級。

 ……そして、次作の『Fate/stay night』で、大絶賛から初段へ昇格するイメージ。

 うーん、ツギハギって感じで、似ないなー。これでシンエヴァ批評やりたいのになー。

映画「エイト・デイズ・ア・ウィーク」感想(またもエヴァ呪)

 ネトフリでエイト・デイズ・ア・ウィーク見る。ビートルズのドキュメンタリーとしては、イマジンを擦り切れるほど(もはや黒電話とかフロッピーディスクみたいな表現)リピッてるんですけど、あっちはジョン・レノン中心の構成なので、解散後のオノ・ヨーコとの生活にかなり尺が割かれてるんですよね。本作はライブ・コンサートをやっていたアイドル時代に多くの時間を使っていて、とても新鮮な気持ちで見ることができました。シガニー・ウィーバーとか、少女の頃に彼らの熱烈なファンだった有名人たちのインタビューも挿入されてて、ウーピー・ゴールドバーグ(ガイナン!)が登場したのは、嬉しい驚きでした。母親がサプライズでチケットを押さえてくれていた話と、”They are colorless.”とため息みたいに言う様子が強く印象に残りました。ビートルズって、あれだけ豊かで多彩な音楽活動を繰り広げながら、デビューから解散まで実質9年くらいしかないんですよね。ちなみに、シンエヴァの制作期間も同じ9年で、両者の間に横たわる長大なクリエイティブの格差には、もはや愕然とするばかりです(鷺巣先生、かわいそう。まあ、特撮テーマの再録音以外はいっさい口出ししないし、ジャブジャブ無尽蔵にお金を使わせてくれる都合のいいパトロンぐらいにしか思ってないのかもしれませんけど!)。

 ビートルズに話を戻しますと、スーツ姿にマッシュルーム・カットで、互いに区別のつかない4人のイギリスの若者が、まったく異なる個性と見かけを持った大人の男性へとメタモルフォーゼしながら劇的に楽曲を変化させていくその過程は、まさに「創造の魔法」という表現がピッタリと当てはまるでしょう。そして、アイドル時代の記録映像は白黒だったのが、スタジオ録音へと移行する時期からカラーへと転じるのも、撮影技術の進化と並走したまったくの偶然ながら、「サナギから羽化した」ような印象をさらに補強しています。もしジョン・レノンが凶弾に倒れなかったら、再結成した四人がどんな音楽を作ったのかは、ファンたちの間にいつまでもたくましい想像(僕はビートルズ!)をかきたてます。シンエヴァみたいな自己模倣のサンプリング集と化してしまった可能性もゼロではないとうそぶきつつも、想像の中でだけ楽しめる点においては、じつに優雅な遊びだと言えるでしょう。エヴァンゲリオンに関しては、いまだ作り手が存命であり、海外メディアによる監督インタビューから判断しても、さらに「どん底」の底が開く可能性が残されている絶望的な状況なのですから!

 再びビートルズに話を戻しますと、有名なルーフトップ・コンサートが本作の締めとなるのですが、四人が屋上で「ドント・レット・ミー・ダウン」ーー「甘き死よ、来たれ」のサビは、この反転だと信じて疑いませんーーを演奏する姿には、なにか神々しいものさえ放たれているように感じます。以前、スーパーマン・リターンズの感想で「冒頭、スーパーマンが飛行機を不時着させるスタジアムの観客のひとりであれたら」と述懐したことがありました。もし立ち会うことができたら、どんな惨めな人生が後に残されていても、その瞬間を反芻するだけで生きていけるイベントがこの世には存在し、サヴィル・ロウの街路からアップル・コアの屋上を見上げる通行人であれれば、それだけでこの尊大な自意識を死ぬまで食餌していけただろうと夢想して止みません。そして私の生きる時代では、そこへもっとも近かったはずのシンエヴァ公開初日・初回の劇場が、そこからもっとも遠い場所だったというシンプルな事実に対する深い失望が、いつまでも、いつまでも、いつまでも、胸のうちから消えないのです。

ゲーム「FGO第2部6章」感想

 FGO第2部6章の感想、まずは謝罪から。5章終了後の感想で、「すでに語りつくされたブリテンとアーサー王をどうも再話しそうな感じ」とかシャバゾーがチョーシこいて、本当にすいませんでした。ファンガスの野郎、無印Fateのセイバーの話と第1部6章を下敷きに、現代社会の戯画を織り込んだファンタジー世界をまるまるひとつ構築する(しかも、壊すために!)という離れ技をやってのけやがりました! Fateシリーズって、基本的に「キャラクターの物語」であり続けていると思うんですけど、アヴァロン・ル・フェはそれを維持しながら「社会と関係性の物語」へと進化しているのには、口はばったい言い方ながら、ファンガスが「成長する書き手」であることをあらためて強く感じました。彼の作劇が優れている点は、まず物語全体を結論まで鳥瞰して、構成の骨格をキッチリ組んでから、キャラを配置していくところでしょう。行き当たりばったりの「神待ち」シンエヴァとは違って、作り手が「神その人」であることへ常に自覚的なのです。その上で、「どの部分を厚くして、どの順番で提示すれば、もっとも効果的に読み手の感情をゆさぶることができるか?」を計算半分、センス半分でやっている。第2部6章も、ひとつひとつのモチーフだけで別の作品が作れそうな内容をぎゅうぎゅうに詰め込むことで、第三村のようなスカスカの書割とは違う実在する世界が、眼前で本当にどうしようもなく壊れていくのを当事者として読み手へ体験させるというすさまじさです。妖精国って、昨今のインターネット界隈と現実社会の醜悪なリンクを比喩的に描いている側面があると思うんですよね。だから、このストーリーを読んだ誰もが自分をどの登場人物かの境遇に仮託してしまう作りになっていて、世界全体を俯瞰的に見下ろす傍観者の立ち場へ逃げ込むことを許さない。市井のモブにも目配りを忘れず、「破滅が迫る中、恩人の元へ駆けもどって、二人で抱き合いながら地割れに呑まれて死ぬ」とか、読み手を信頼して背景の想像を預けてくれる感じが常にあり、それが奥行きを作り出している。シンエヴァの「受け手の読み方をコントロールするため、クダクダ説明してゴテゴテ描写するくせに、肝心なところは盲のような空洞になっている」とは真逆の態度です。「地割れに呑まれる二人」のくだりを読んで、栗本薫がトーラスのオロの話を何度も自慢していたのを、ふと思い出しました。グイン・サーガの1巻で死んだ端役が、その後いかに長きにわたって読者の心を離さなかったかという話です。小説道場の文体模写やってる人をどこかで見かけたけど、あれで栗本薫のシンエヴァ批評やってくんないかなー。

 あと、マーリンとオベロンを別人物として表裏の存在に置こうとしているのは、スキルの効果説明から理解できましたが、作中のテキストのみでは同一人物にしか感じられず、けっこう混乱しました。以前、「マーリンはFGOにおける作者アバター」という指摘をしましたが、オベロンもやはり虚構内のキャラというよりは、ファンガスのアバター色が強く出ていて、それが混乱を招いた原因だと思います。マーリンが「人間から距離を置いた、酷薄な虚構摂取ジャンキー」であるのに対して、オベロンは「人間へ積極的に関わり、世界への失望を深める信頼できない語り手」の配置になっていて、前者はFGOを始める前のファンガス、後者はFGOがメガヒットした後のファンガスなのではないかと邪推してしまいます。「もっとも高貴な者が、もっとも卑しい者に救われる」モチーフーーこの構文、6章にも出てきましたね! イエーイ、ファンガス、見てるぅ? 生けるネット呪詛だぞぅ!ーーは以前からありましたが、「高貴な者が救われるとき、卑しい者を疎んじる」視点がそこへ生じたのが、今回の大きな変化でしょう。じっさい、インターネットを通じて眺める人間や世界というものは、地虫のクソ溜めとなんら変わるところはないですからね! イヤな言い方をしますけど、オベロン視点の「虫」は最後のアレを含めて、FGOファンの暗喩だと思いますよ。愛憎が常にぐるぐる回転していて、どれだけ魅力的な世界を紡いでも、ファンの底なしの欲望へと吸い込まれて、すべて消えていく。

 けれど、現実とインターネットが互いに照射しあえば、ときに掃き溜めへ白い鶴がすっくと立ち、ときに泥の内から蓮の華が薄紅色に咲く。ダビンチちゃんが刺し殺されるフラグーー偉大な英雄の功績が、その情けによって生まれたモンスターに中絶させられるーーをさんざんに立てておきながら、最後の最後で「彼をそうさせない」(オーロラと美醜の対比になっているのが、また素晴らしい)。先日、ネット局所で話題となった「怒りをこめてふりかえれ」と同じ問いかけでありながら、回答が異なっている。これはしかし、正誤ではなく資質の違いとしか言いようがありません。真摯に書かれたあらゆる表現は、書き手の人格のすべてをあますところなく他者に読み取らせてしまうものなのです。「作品と作者は切り離すべき」という話は、法律とか社会というレベルでは「是」なのでしょう。けれど、作者と読者が一個の人間として互いに向きあうとき、その命題は絶対的に「否」なのです。本当に作品と作者が切り離せるとしたら、虚構を紡ぐという営為は、人工知能が自動生成したテキストと何ら変わらなくなってしまうでしょう。同じ時代の、同じ世界で、同じ空の下、同じ大地を踏み、同じ空気を吸って、違うできごとに笑い、違うできごとに励まされ、違うできごとに絶望し、それでも生きていくのを選ぶだれかが、心から真実に発する言葉にだけ、語られる意味がある。私はそれを聞きたいし、それを知りたいと思う。

 FGOは過去の神話や英雄譚に依拠した本質的に荒唐無稽の物語で、幕間の物語などを読むとき、その拙さ、もっと言えば幼稚さが浮き彫りとなって、暗澹たる気分にさせられます。しかし、いったんファンガスが筆をとれば、FGOは現在進行形の「いま」を鮮やかに描き出す至高の物語装置へと変化するのです。他の書き手が調べた設定をキャラに落とし込むのに四苦八苦する段階なのに対して、唯一ファンガスだけが設定を利用して「いま」の深層をえぐる物語を紡ぐことができる。第2部6章ではオベロンが特にそうで、シェイクスピアの劇中設定を使いながら、現代社会の在り方への批判とフィクションを紡ぐ者の覚悟が平行して描かれている。第2部4章では、おそらく現実の事件に寄せて、有益と無益で生命の価値を弁別することへ向けた猛烈な反発を描いたファンガスが、今回はいまの時代に漂う欺瞞に満ちた空気に対する強烈な違和感を表明している。「過去の人間のマネゴトをして、過去の人間に依存しなくては生きられない」妖精たちは、いったい何の戯画なのかを考えてみて下さい。キャスターの足の指が凍傷で何本か欠損していることがサラッと書いてあったり、見えなければ他者の痛みを無視できる我々の無自覚性への批判も痛烈です。主人公の脳内にリフレインして、窮地を伝えたペペロンチーノの言葉も、「死んだ者は、生者の中でカッコつきの『死者』として生き続ける」を今日的に表しており、あの一連の展開は年齢の順に人が死なない世界における、ある種の「しるべ」に思えました。これらの表現を、意識的にやってるか無意識的なのかはまったく不明ながら、ファンガスの書くFGOこそ、いまの時代を生きる人々がリアルタイムに追いかけるべき作品であることは間違いありません。

 生活感情を物語へと翻訳できるのは、たいへんな異能力だと思いますし、たぶん社長のジャッジで遠ざけてると思うんですけど、ツイッターとか(例の日記も少しそう)やりだしたら、メッセージ性が極限にギュッと濃縮されて特異点化したこの感じが薄まる気は、すごくしています。なのでファンガスには、「生きながらフィクションに葬られ」た者として、今後も最果ての塔(タイプムーン本社?)に幽閉されたまま、すべての感情を余すところなく物語にだけ落としこんで欲しいと思います(最後の2行はルーン文字についた日本語キャプションとして読んで下さい)。

アニメ「スタートレック:ローワー・デッキ」感想(かなりエヴァ呪)

 「スタートレック:ローワー・デッキ」見る。サブタイトルとシンプソンズふうのキャラデザから、下層デッキの一画だけを舞台にした一話完結の「スタートレックあるあるシチュエーション・コメディ集」なのかと思ってたら、ちゃんとストーリーになってて驚きました。たしかに、本編では不可能なシモネタやグロ描写も多くあるんですけど、TNG世代をねらいうちーー「あの船、毎週事件起きてるよね」みたいな小ネタにクスッとさせられてしまうーーにした良質のスピンオフでした。最終回ではライカーが救助に来た瞬間、いい大人が笑いながら泣いてしまいましたもの! スタートレック・シリーズ(特にTNG)って、昔からずっと「自由の価値」と「多様性の正しさ」と「それらを維持するコストと責任」を嫌味なく描き続けてきた、「アメリカの国家的理想」を体現したフィクションであり続けていると思います。スターウォーズ・シリーズがシークエルでぜんぶ台無しにして途絶させた「作品固有のテーマ」というものが、敬意をもって未だに脈々と引き継がれていっているのです。二次創作的な悪ふざけスレスレのラインを攻める本作でも、「ルールを守ることと破ること」とか、「リーダーに必要な知恵と蛮勇のバランス」とか、過去のシリーズに込められてきたテーマがエッセンスとして凝縮されており、スタートレックの本質をわかっている人が脚本を書いているのが伝わってきました。

 TNGのシーズン4第2話が好きで、時おり見返すんですけど、宇宙艦隊のエリートである弟と父祖の代からの葡萄畑を守る兄の人生が交錯する瞬間を対比的に描き、ピカードは艦長の仮面を脱ぎ捨て己の弱さを吐露するとともに、銀河の何百光年を飛翔しようと自分がこの土に根差しているのだと気づくのです。この挿話は、ジャン・リュックというキャラクターを説明する上でとても重要なパーツであり、TNGの後日譚である「スタートレック:ピカード」の第1話で艦隊を辞した彼があの葡萄畑で隠居しているのには、強い感動を覚えました。もちろん、老境にさしかかったSir. パトリック・スチュアートの存在感に依るところ大なのですが、長く続いたこのSFシリーズはついに「老いること」を肯定的に描けるほどにまで成熟したのだと、本邦の「若さに価値を置いた」虚構群をかえりみて、とてもうらやましく思いました。ラバール村での描写は、新旧ともにピカードのアイデンティティへの敬意と愛にあふれています。これを見せられた後では、現実のミニチュアセットとだけ紐づき、作中のどのキャラクターとも連絡の無い空疎な書割である第三村(また!)を前にすると、恥ずかしさのあまり赤面して立ち尽くす他ありません。エンタープライズ号の識別番号NCC-1701が碇シンジのネルフIDであることは有名ですが、なぜ再びシンエヴァの方向へ感想が曲がっていったかと言えば、ローワー・デッキの余韻に浸りながら、ひさしぶりにスタートレックについて検索するうち、第三村でケンスケの乗っているジープ?のナンバーが1701だという小ネタを見つけてしまったからです。

 新スタートレック好きを公言ーーどうせエンタープライズ号の形が好きなだけでしょうけど!ーーし、作中にオマージュまで忍ばせるくせに、このシリーズが一貫して描いてきた深い精神性や人間の気高さにはいっさい学ばなかったの、ホンマにハラたつわ! ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー出身のナイト爵の毛並みの良さは、山口県民には理解できなかったのかもしれませんね! いや、ケベック州出身のウィリアム・シャトナーからオタクのディスり方だけを学んだのかな! 8月13日からアマプラでシンエヴァが全世界に配信されるそうですけど、目の肥えた本場のSFファンたちがどんなふうにこれを見るか想像するだけで、奈良県の土人は恥ずかしさのあまり悶絶しそうですよ! 執拗なチャイルド・アビュースにセクシャル・ハラスメントのあげく、ドローン・アタック・イン・ウベ・シンカワですからね! エヴァTV版とシンエヴァ、新スタートレックとスタートレック:ピカード、どちらもほぼ同じ年数を隔てた続編なのに、どうしてこんな天文学的な単位で差がついてしまったんでしょう! まあ、答えは明々白々としていて、「脚本家の軽視」なんですけどね! 背景としては、組織的なロジスティクスではなく英雄的なパーソナリティを讃えてきた、先の戦争と同じ病裡をエム・ロリの御大が長編アニメ制作へ持ちこみ、興収に目をくらまされた配給会社がそれを看過することで、次の世代へ「ムラの習わし」として固着させたのが悪いんですよ! つまり、スーパーアニメーターが何の試験もなく空気でフワッと監督へ昇格し、専門的訓練もいっさい受けないまま、演出から脚本から感性でぜんぶやっちゃう例のアレですよ! 私小説にするならするで、中年なら中年の、老人なら老人の実感をビビッドに描写すればいいのに、どいつもこいつも少年少女に「想い」を仮託しようとするから、年齢を重ねるごとにどんどんメッセージが歪んで、悪臭を発するようになるんですよ! ベビーブームの時代には市場戦略だとごまかせたかもしれませんが、少子高齢化の現代では性癖の披歴にしかなってませんからね、それ!

 書いてるうちに怒りがぶり返して大脱線(いつもの)しましたが、もしかしてエヴァにあり得たかもしれないーー公式が下品な未成年エロ絵を量産する過去や、公式がアホな解釈ミス絵を量産する現在とは異なるーーシリーズものの芳醇な可能性を示す「スタートレック:ローワー・デッキ」、オススメです!

アニメ「トップをねらえ2!」感想(だいぶエヴァ呪)

 ピのつくイベントがもたらした唯一の恩恵である連休を使って、「トップをねらえ2!」を通して見る。はてブ民との死闘でも伝えたと思いますが、原典至上主義者なので、この2も「あの名作の監督を変えて、パロディみたいな続編を作るなんて!」と、持ち前の潔癖さから視聴を拒否していました。それがシンエヴァで呪いが解けーーあ、カン違いしないで下さいよ! 監督がクリエイターとしての良心を持っているという思い込みが消えたという意味ですからね!ーーて、17年越しに本作の視聴へと至ったわけです。感想としては、これ、エヴァンゲリオンを主題とした変奏曲の第一楽章って感じですね。さらにグレンラガンの第二楽章、見てないけどダリフラ?の第三楽章へと続いていく、エヴァに影響を受けた作り手たちによるアンサーのひとつだと言えます。端的に言って、シンエヴァで見たいと思っていたものが少しは見れて、かなり楽しんだと思います(1話で主人公の下半身ばかりを執拗に映し続けるのには、正直どうしようかと思いましたが……)。

 そしてトップ2を見たことで、シンエヴァの構成について解像度が上がりました。トップ2はシンエヴァの副監督が作っており、前者の要素を後者から引き算すれば、監督が手がけたパートが明らかになるという寸法です。この視点でシンエヴァを腑分けすれば、序盤の第三村のロケハンが監督(レイ回りはたぶん副監督)、中盤から終盤にかけての戦闘が副監督、最終盤の補完計画が監督といった構成になるでしょうか。つまり、シンエヴァは表現手法による三幕構成の芝居になっているのです。序盤はロケハンとアングルの模索に特撮の手法、中盤から終盤はトップ2を彷彿とさせるロボットアクションの描写に「間に合わないから」コンテを切る従来の手法、最終盤は旧劇・新劇の過去素材に風景写真と鉛筆画を加えたテレビ版弐拾伍話・弐拾六話と同じコラージュの手法で、それぞれ作られています。シン・ゴジラのときも、最後の最後は「すべての素材を人質に、編集室へ立てこもった」ようですが、今回は編集のための素材が足りないあまり旧劇まで引っ張り出すハメになって、さぞかしご苦労なさったでしょう。まあ、マラソンを走るためにバットを素振りするみたいな、無駄な努力の総天然色見本となってしまったわけですが! 余裕があるときは社長先輩(笑)の顔で後発の育成の真似事をしたって、追い詰められると「100%自分の意志だけで画面を作れる」コラージュの手法へと退行してしまうことからもわかりますが、監督は自分以外のだれも信用していないし、だれかを育てる気なんてさらさらないんです。もっとも近くで彼を見てきたジブリの翁が「大人になれないひと」だと言明するように、監督は成長どころか「トップをねらえ!」の当時から一貫して何も変わっていません。シンエヴァ終盤の手法と終わらせ方が、それを強烈に裏書きしているではありませんか。

 考えれば考えるほど、この作品をもってして成熟や前進を語る人々の内面には、「精神の盲点」とも呼ぶべき病裡が潜んでいるとしか思えません。彼らの態度は、皮層的な雰囲気だけに流される、所謂「B層」と申しましょうか、為政者がいかようにも操縦可能な「大衆」そのものです。「なぜならば」、本邦においては学校教育の偉大な成果から、正解を持った人物が常にいると信じこまされ、社会に出た後も脳内に仮構したその「先生」へ向けて品行方正にふるまうタイプの人種が、かなりの数で存在するからです。そして、集団を指揮する側にとって彼らの態度は好都合なので、長じてからその心的な指向性を修正されることはありません。「:呪」のリンクを公式アカウントにぶら下げて、「こういうのも悪い影響を及ぼすと思う」とご注進に上がる人物を見たときは、愕然としましたね。「校則を守らない不良を、先生に言いつけて指導してもらう」という心性が、大人になっても維持され続けているんですもの!(ちなみに、この先生への信頼が反転したものが、野党的な言説です)

 新劇に「世界がまだ見ぬサイファイの新たな地平」を求めたのが求めすぎだったことは、もう残念ながら認めざるをえません。しかしながら、あんなグズグズの、煮過ぎて原型を留めなくなった豆腐みたいな結末を迎えるくらいなら、シンエヴァはトップ2水準のエンディングで必要十分だったし、監督が余計な色気(キモッ!)を出さなければ、まちがいなく達成できたと思いますよ。エヴァ変奏曲に携わったスタッフを擁しているのだから、せめて第三幕をすべて彼らの差配に預けて、普通のフィクションとして語り終えていれば、新劇の当初の志に含まれていただろう「ファンにエヴァを返す」という目的を、象徴的にも実際にも達成できていたのにと、いつまでも悔やまれてなりません。

 これが最後のシンエヴァ語りになることを祈りつつ、終わります。

映画「劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト」感想(ハサウェイ未遂)

 「よし、ハサウェイ見に行くぞ!」と何度も声に出すことで己を鼓舞し、イヤイヤ映画館に行ってきました。んで、ハサウェイのチケット買おうとしたら、タッチパネルのボタンが暗転してて押せないの。「エッ エッ 大人気……ってコト?」などとスモプリ(small and prettyの略で、nWoの登録商標)の顔でうろたえてたら、単に上映開始時間を過ぎているだけでした。どうやら、違う映画館のサイトを調べていたようで、オマケになぜか1日1回しか上映してません。やはり、ガンダムには縁が無いのだと、ガックリ肩を落として帰ろうとしたら、「待って、劇場でハサウェイのブルーレイ販売してるよ」って、インターネットがささやいてきました。「ワッ ワッ 買って帰れば、家でハサウェイ見られる……ってコト?」などとスモプリの顔で喜んでいると、「でも、劇場でハサウェイ見ないと売ってもらえないよ」ってインターネットが再びささやいてきたのです。これには無数のクエスチョンマークがスモプリの脳裏を乱舞し、「エッ エッ ハサウェイ見たらもうハサウェイ見る必要ないのにハサウェイ見ないとハサウェイ見られない……ってコト?」と大混乱に陥りました。ビニル製のサイフに千円札と小銭がパンパンに詰まっている、サウジアラビアの王族とは縁もゆかりもない富豪だというのに、欲しい商品を売ってもらえないのです。

 ちなみに、ビニル製のサイフをバリバリゆわせながらオープンし、おつりの出ないよう1円単位の小銭までキッチリ支払うことの文化的対偶が何か、この場を借りてお伝えしておきましょう。赤銅色の肌をした白人ファーマーがガッデム・ビッグなトラクターで荒野のガススタンド兼雑貨店に乗り付け、ジーンズのポケットから直に取り出したシワくちゃのドル紙幣を指で伸ばしながら、コークと洋ピン誌とともにカウンターへ置くことが、それに相当します。

 閑話休題。シンエヴァの興収が100億を超える一方、ハサウェイは15億どまりなので、エヴァがガンダムに勝ったなんて話も聞こえてきますが、興収なんて飾りに過ぎんのですよ、偉い人にはそれがわからんのです(ガンダム下手が露呈)。客単価を考えれば、シンエヴァの各種割引もある1500円に対して、ハサウェイは定額1900円(ひどい)プラス特典付きブルーレイ1万円と、単純計算で8倍ほどにもなります。興収に変換すれば120億、いや、シンエヴァはハサウェイの5倍ほど長く上映していますから、実質は600億ほどの売り上げを達成したと見なしてよいでしょう。40年間にわたり時代に応じた派生作品たちを次々と生み出し続ける豊饒な商いは、25年間にわたり依怙地なまでに固執した同じキャラと同じロボットと同じストーリーをさらにパチンコで薄めてほとんど軟便みたいになった単品コンテンツとは、比較にすらなりません。閃光のハサウェイ、ファンの記憶に汚物をなすりつけてでも記録に残りたいシンエヴァとは真逆の、成熟した大人を転がして喜んでカネを払わせる、堂々たる商売だと言えましょう。まだ見てへんけど。

 んで、このまま帰るのもシャクなので、ロビーで時間をつぶして、ハサウェイの代わりに話題のレビュースタァライトを見ました。そしたら、あまりにビックリして、腰が抜けました。タイムラインへあれだけの激賞しか流れてこないのに、ここまで1ミリも気持ちがシンクロしない映画って、ある? もしかすると、演劇や舞台に関わった方にだけ、引っかかるフックが仕込まれているのかもしれません。一言でまとめてしまうと、「宝塚音楽学校を舞台にした少女革命ウテナ」なんですけど、徹頭徹尾、頭で考えて、理性の内側で作ってる感じがしました。一見して不条理にうつる演出とか同じモチーフの執拗な繰り返しって、絵画で言うとゾンネンシュターンとか、映画で言うとヤン・シュヴァンクマイエルとか、アニメで言うと幾原邦彦とか、作り手が内的衝動に突き動かされて、どうしようもなくそう表現してしまうところに、観客は圧倒されるわけです。この作品は、そういった欲動の放出を一方的に浴びせるのではなく、勉強に使ったノートを隣りに座って丁寧に説明してもらっているような印象を受けました。破綻と不条理を表現のよすがとしながら、どこどこまでも理性的で、けっして狂うことがないと見すかされてしまう感じです。あと、デュエルとデュエルの間に挿入される回想シーンがけっこう長くて、ダレました。それと、歌劇モノなのに歌唱が耳に残らないのも、説得力を弱めているように感じました。マクロス方式で、歌パートだけタカラジェンヌに任せた「アタシ・再録音」バージョンを作りましょう(無茶ぶり)。

 いろいろ言いましたが、これらは偶然みかけたラーメン屋の行列へならんで味にガッカリするような、個人的な「好悪」の話であって、作品への「評価」でないことは強調しておきます。たぶん、私はこの舞台の「観客」ではなかったということでしょう。え、家人の感想を聞きたいって? 生粋の関西圏パンピーであり、「しょうもな。これやったら倍はろて、大劇場のB席とるわ」とか言われたらイヤなので、連れてってません。もちろん、見に行ったことも言いませんよ!

映画「ホーリーチキン」感想

 ホーリーチキンの監督ですけど、父親から受けた虐待への怒りをファストフードに、虐待を止めなかった母親への恨みを女性へのセクハラに、それらに起因する生きづらさをアルコールへの耽溺に向けているように見えます。数学の才能が無いグッド・ウィル・ハンティングとでも申しましょうか、良いセラピーを受けたら負の感情がすべて消えて宗教家にでもなりそうな、典型的な西洋型トラウマ人格であると指摘できるでしょう。前作のスーパー・サイズ・ミーは、ドキュメンタリーのていをしながら、ビックマックを食べてからゲロするみたいに、落とし込みたい文脈への誘導が非常に強くて、個人的に社会批評としてはあまり刺さらず、視聴後もモリモリとバーガーを食らい続けてきました。それが今回は、鶏肉産業が抱える問題に対して警鐘を鳴らすためだけにファストフード店の設立へまで至っており、前作と比べても社会批判の強度が格段に上がったように感じました。

 このへんの経緯には、アカデミアの雇われを辞して会社を設立したイーストちゃんの手法を想起させられました。ブロックされてるので何が起きてるかあまりわかってませんけど、わざわざ低みへと下りていって感情でプロレスするところも似てるような気がします。前にも書いたけど、彼にはやっぱり酔わずにしゃべってほしいし、できることなら文筆だけで思想を表現してほしい。みなさん、すぐルッキズムとかおっしゃいますけど、人前で話をするのって、声のコントロールを含めた外観の総合を見せる技術だと思うわけですよ。その訓練を受けていない人が、純粋に話の内容だけで判断してくれと言っても、外見に引っ張られず聞くには受け手側へ相当の知性と自制が要求されます。イーストちゃん、社員に軽んじられることを著書で嘆いてたけど、原因の7割くらいは話し方だと思うんですよねー(残りの3割は、本人が克服したと信じているマッチョイズム)。最後に彼の語りを聞いたのは、シンエヴァ公開当日の動画ですけど、まー、これがひどかった。忖度の眼差し(「シンエヴァが傑作だ」というトーンが決まるまでの様子とか)を向けながら、表向きは無頼なマッチョのようにふるまう追従者2名を前に、酔っ払いながら甲高い声で早口に話す様子は、彼の来歴とエヴァとの関わりを知らない者が見たら、即座に印象だけでチャンネルを変えたことでしょう。何度でも繰り返しますけど、イーストちゃんにはやっぱり酔わずにしゃべってほしいし、できることなら文筆だけで思想を表現してほしい。

 だいぶ脱線したので、話をホーリーチキンへ戻します。最初の店舗が2016年にオープンしたみたいですけど、現状はどうなってるんでしょうか。ちょっと調べた感じだと、2019年で更新の止まったツイッター・アカウントと、フランチャイズを募集するホームページが残っているだけのようです。もし、ホーリーチキンがフランチャイズで全米へと広がって、ナンバー1シェアのチキンサンド・チェーンとなり、同時に鶏肉産業の闇が明るみに引き出されて衰退して、結果ホーリーチキンも順に閉鎖へと追い込まれるみたいな展開になれば、実効的な究極の社会批評が完成するのになあと思いました。

映画「トゥモロー・ウォー」感想(少しエヴァ呪)

 見終わった直後、オレの両のマナコからは熱い涙がほとばしっていた。これこそ、ほんの30年ほど前のハリウッド映画に満ち満ちていた熱気ーー最高にアタマの悪いシナリオで、最高に政治的にも倫理的にも正しくなくて、最高に無駄な爆薬を使いまくった、最高に女どもに配慮しない、最高の男たちが演じる、最高の超B級アクション映画である! ネコ飼いにとってはトラウマになるだろう、むやみと気持ち悪いエイリアンの造形も、ギーガーのそれを更新していて(言い過ぎ)必見級の仕上がりだ!

 まあ、改変可能な直列宇宙の設定で始まったのに、父娘の会話ではいつのまにか互いを改変できない並列宇宙の話になっていたりとか、細かいツッコミどころはそれこそ無数にある。特に終盤、娘が生命を賭して父に託した対エイリアン毒薬を持参しながら、ロシアの凍土に眠る敵の宇宙船を結局は爆破で始末したのには心底ビビッたし、そこからメスが一匹逃げ出したのには脚本家が伏線を忘れていなかったとホッと胸をなでおろした。大爆発を背に両手足をジタバタさせながらスローモーションで退避ジャンプする主人公の姿にはアナクロな懐かしさで胸がジンとしたし、スノーモービルをエイリアンの横ッ面にぶちかましたときにはインディージョーンズを思い出して少年のような歓声をあげた。よく見れば、主人公の父親ってショーン・コネリーに似てない(言い過ぎ)? そして、メスのエイリアンを父と子の共闘で追いつめたあげく、なんとステゴロで倒しかけたのには映画前半の脚本家が途中で降板させられたのかとドキドキしたし、毒薬入りの試験菅を握りしめて口腔へのパンチをぶちかましたときには思わずガッツポーズが出た。にもかかわらず、主人公が「死ねーッ!」と叫びながら繰り出したナガブチキックと崖からの落下ダメージがエイリアンの直接の死因になったのには、心底ビビッた。

 おっと、カン違いしちゃいけないぜ、オレはこの作品をけなそうとしてるわけじゃあない。この映画では、旧来的な家父長制に対するトラウマ由来の神経症的疑念など一秒たりとも脳裏をよぎったことのない、最高に熱い男たちによる家族賛歌というテーマが、剛直した鉄棒のように2時間18分をズドンと貫いていた。「オレの未来はいつだって、目の前にいる家族なんだと気づいたぜ!」みたいな強い胸ヤケを誘発するセリフから、主人公の顔面の堂々たるアップでエンドロールへと移った瞬間、オレは全裸のまま立ち上がって拍手をしていた。同時に、両のマナコから滂沱と流れる熱い液体が頬を濡らしていた。結局のところ、アタマが悪い制作陣がひらきなおって全力で作ったアタマの悪い映画は、ストーリーの整合性が支離滅裂でも、ほとばしる熱いパトス(笑)でぜんぜん見られるし、なんなら感動までさせられる。本邦で言えば、島本和彦作品(失礼)がそれに当たるだろう。

 一方で、シンエヴァみたくアタマの悪い制作者がアタマの悪いことに自覚的でなく、観客にアタマが良いと見られたいという作り方をした映画は、ふんぷんたる自意識の悪臭にまみれて、とても見られたものじゃない。旧劇はかしこいオレたちのための映画だったのに、シンエヴァはアホのヤンキーどもがベソベソとエヴァ泣きする、心底アタマの悪い映画にさせられちまった。どんな映像作品を見てもシンエヴァのことが思い出されちまうのは、最悪の精神汚染だぜ。なに、今週末に予定されている最後の舞台あいさつは見に行くんですか、だと? 確認はしてないが、どうせ安全圏の太鼓持ちゲストばかりと台本ありでする、ノット感謝・バット集金の銭ゲバあいさつだろうな! 本当にファンの方を向いて感謝していれば、Qを破棄して当初の予定通り破の続きを語る続編になっただろうし、いまみたく無様にジタバタすることもなく、もっと早い段階で興収100億を突破できていたはずだ! ただ、安野モヨコが司会をつとめ、降板した副監督と退社したイラストレーターをゲストとして招いて、監督の前でカヲル・加持・冬月の声優がアスカの声優にウザがらみするのを台本なしの時間無制限でやるなら、万難を排して見に行くことを約束しよう!

 最後に話をトゥモロー・ウォーに戻すが、デジタル配信のおかげでアメリカの映倫的な組織を通さず、こんなにも倫理観のアップデートされていない、最高に古臭い最高のバカ映画を見られているのだとしたら、とんだ怪我(人類規模の)の功名だったと言えよう。そして、最高の映画を最高の悪文で紹介した最高のオレは、今夜は最高にクールに去るぜ。

アニメ「終末のワルキューレ」感想

 FF11へ社畜なりに復帰すると、勢いモニターの前へ座る時間が増えます。そうすると同時に、映像作品を見る機会が多くなるわけです(「ながら見」と「倍速見」のどっちがより罪深いかは、私にはわかりません)。シンエヴァはてブ全レス祭りで「もっとアニメを見なさい」と言われたので、根が素直な私は海外ドラマをわきによせて、最近はアニメばっか流しています(オタクになりたい中年なので)。んで今日、やたらとリコメンドに上がってくる「終末のワルキューレ」ってのを見たんですけど、これがまー、すごかった。未見の向きに一言で説明すると、「刃牙風味のジェネリックFGO(止め絵)」とでもなりましょうか。しかも、両手にプラモをつかんで戦わせる小学校低学年の脳内に展開しているような、小学校中学年のファンガスがジャポニカ学習帳にひらがなで書いたような、そんなストーリーなのです。ひとむかし前なら、このテ(レベル)の物語のニーズはマガジンのヤンキー漫画が満たしていたと思うんですけど、オタク文化の低偏差値化が進行していく中で、こういった合体事故みたいな作品をそのまま楽しめる層が生まれていることへ、我々はずいぶんと遠くに来てしまったのだという感慨を抱きました。

 でも、Netflixオリジナル作品ってことは、日本だけではなく諸外国にも同時配信されてるんですよね? ギリシャ神話はフィクション枠というか、現実の信仰とほとんど関係がないからいいんですけど、旧約聖書とかインド神話からの登場人物がいるのって、ヤバくないですか? この物語偏差値(目測で32くらい)だと、ブッダでもキリストでもないあの御方を、何も考えずにキャラ化ーー毛筆で「天国百人処女性交」などの技名がカットインするーーして、全世界を巻き込んだ大炎上から現代の「悪魔の詩事件」に発展しないか、否応に緊張感が高まります。終末のワルキューレ、盤外戦的な意味で今後、目が離せない作品と言えましょう。

 また余計な追記をしますけど、エヴァ旧劇がFGOなら、シンエヴァは終末のワルキューレですね。

アニメ「SHIROBAKO」感想

テレビ版

 いまさら「SHIROBAKO」見終わった。数年前に1話を再生したんだけど、学校で自主アニメ作ってるナード階層なのに全員がキラキラ美少女なことへクラクラして、長く視聴を止めてしまっていたのでした。今回はFF11のおかげでそこを越えて、主人公が制作会社に勤めるところまで進んだら、文系クソ仕事のリアルが描かれていてメチャクチャ面白いじゃないですか! あとから見る人のためにモエ・コション(仏語)向けじゃなくて、もっと正しく作品を評した感想テキストを書いておいてくださいよ、もう! 私が日々やってる仕事も業界こそ違えど、たぶんアニメの制作デスクと似たようなものです。組織に所属するすべての人間をプロジェクトの文脈に落とし込んで、目標が達成されるまで、きしむ歯車に潤滑油を差したり交換したりを繰り返して、とにかく計画を前へと進めていく。人間が人間であるがゆえに存在する業務であり、肩書きが付随してカネ払いが良かろうと、実際には歯車ひとつほどの価値もない中身なのです。目標を達成した後に作品が残るだけ、アニメの制作デスクはずいぶんとマシな仕事に見えました。

 しかしながら、爽快感やワンダーとは遠い文系クソ仕事をアニメとして見せるために、5人の若い美少女たちの成長譚にしているのは、しょうがないとは言え、ところどころにチグハグ感が出ています。顕著なのは男女のキャラデザの差異で、美味しんぼの郷土料理編で実在の人物を模写したような男性が、顔面の3分の2を眼球で占拠された美少女に詰め寄られるシーンを見たとき、実存のゆらぎにめまいがしました。別々に映っている場合にはそれほど気にならないのですが、同一画面に入るともはや系統の異なった生物にしか見えなくなっています。そして、女性キャラのデザインは、年齢が上がるほどに眼球が小さくなっていく仕組みなのです。でもこれは、モエ・コション向けのアニメ全般に当てはまるルールでしょう。「セクシャルな消費は眼球から行われる(だから、加齢で縮む)」のは、この業界に古くからある不文律なのかもしれませんね。

 またぞろ昔の調子で「萌え」を茶化してしまいましたが、ストーリー自体はすごく良くできていて、登場人物の感情の流れにいっさいの矛盾がありません。そして特に、年かさの男性たちにまつわる挿話には、どれもグッとさせられました。社内の喧騒から離れて定時退社する初老の男性が、じつはかつてのスーパーアニメーターであり、彼の働きがプロジェクトの危機を救う話には思わず涙がこぼれました。世代の分断が声高に叫ばれ、被害者だからこそ、どれだけ横暴にふるまっても許されるという態度が横行する中、本当に力のある年配の人物ほど節度を保って出しゃばらず、ただ静かに終わりのときが来るのを待っている。そういう人物を見出して組織の現在に関与させ、「だれひとり排除しない」ことが、結果として大願の成就へとつながっていく。拙作「MMGF!」を読んでもらうとわかると思いますが、こういった組織人たちの協働の様子は、私の内側に強い感動を惹起するようです。もしかすると、指輪物語の「もっともとるにたらない者から、もっともいやしい者へとかけられた小さな情けが、世界を救う」というあのモチーフにも、影響を受けているのかもしれません。特に現実では相手がだれであれ、人を粗末に扱っていいことなんて、ひとつもありませんからね(オマエが言うなって顔してる)。また、寡作で知られる背景美術のレジェンドが、「映画監督になりたかったけど、誘われてこの仕事を始めたら面白くなって、気づいたら三十年も経っていた」みたいな独白をするシーンがあるんですけど、まさに仕事の本質を言い当てている気がします。世間に言われているほどには、人が仕事を選べることはまれで、仕事が人を選び、やがて人が仕事そのものとなる。私はそのプロセスをずっと傍観する立ち場にあり、とても腑に落ちる感覚だと思いました。特に文系クソ仕事に従事するだれかは、人間関係の中でしか何者かにはなれないのです(理系のアナタには、この自己決定権の無さを想像できないでしょう)。

 話は大きくそれますが、今回FGO第2部6章を読んでいてガツンとやられたのは、敵が主人公を評した「君より強いヤツや賢いヤツはいくらでも見てきた。けど、君ほど運と仲間に恵まれたヤツはいない」という言葉です。これはたぶんファンガスの自己認識である(だから、大金が転がりこんでも手が止まらないし、狂わない)と同時に、「強くて、賢い」ことだけを追求する、最近のSNS界隈における風潮へ向けた遠回しな揶揄のような気がしました。そして隙あらば自分語り、私には運も仲間も無いので、ずっとどこへも行けないまま、インターネットに幽閉されているのです。

 話をSHIROBAKOへと戻しますと、最終回の手前である漫画家が吐露する「主人公が本当に立ち直れるのかどうか、僕にはまだわからない。もしかすると立ち直れないかもしれない。だから、アニメでも簡単に立ち直らせてほしくない」という言葉、これこそすべての創作者が持つべき視座ではないでしょうか。言葉というのは世界認識の道具であり、我々は抽象と具象、直面する様々な事物に言葉をかぶせて個人的な理解の文脈を作る。それは目の前に事物が存在しないフィクションを物語るときも同じでしょう。事物が無いから自在に曲げることができるように見えるだけで、現実と同じく制約は確かに存在する。シンエヴァ(いい加減にしたら?)は、具象に対しては丁寧にセットを作ったり入念なロケハンをしながら、人間の心という抽象に対してはそれをしなかった。声優に「シンジを立ち直らせたいんだけど、どうやったら立ち直ると思う?」なんて聞いている時点ーー「立ち直れない」なんて選択肢はハナから無いーーで、作品の失敗は約束されていましたね。

 物語の後半、コミュニケーションの苦手な吃音ぎみの女性アニメーターが出てくるんですけど、どうしても「外見が可愛いから許されてるし、成り立ってるように見えるんじゃねえの」って気持ちになってしまいました。アニメ制作会社の実態と男性の関係者たちが非常にリアルに描かれる一方で、女性キャラクターたちについては虚構内のデフォルメによる手加減があって、否応に「美醜の問題」を想起せざるをえません。解決する必要もないんですが、モエ・アニメにおいては「醜」にまつわる苦悩や生じる問題が、女性サイドにおいてはいっさい脱色されてしまうのは、いつも引っかかります。特に本作は、アニメ制作の裏舞台を生々しく描いているので、男女の扱いのギャップが余計に気になりました。劇場版は未見ですが、「5人の美少女たちはアニメキャラなので、元よりこの世界には存在していませんでした」みたいなメタ・エンディングーー5人がいない制作会社の日常風景を実写で映して幕(エヴァからの悪い影響)ーーを迎えていても納得するだろう気分は、手放しで賞賛する裏側に少しあります。

 あと、車の挙動がいつも初代リッジレーサーなのは笑いました。それと、シナリオライターの「舞茸しめじ」って、ファンガスがモデルなの?

劇場版

 SHIROBAKO劇場版、見る。特に新しい登場人物が出てくることもなく、テレビ版からテーマの更新があるわけでもなく、蛇足感の強い後日譚でした。監督と原作者の対話で描き切ったはずの作品が、シリーズを重ねるうちに萌えというにはドぎついエロへと変じていったという顛末も、業界への批判に見せかけながら男性の観客に向けたサービスって感じで、「テレビ版の感動を汚すなよなー」って思いました。個人的な嗜好を言えば、終盤の上昇を演出するために序盤で大きく下降させるプラマイゼロの作劇は、あまり感心できません。

 しかしながら、キャラクターの内面をめぐって葛藤するシナリオライターたちの話は、涙腺にグッときました。ヒデアキに彼らの爪のアカを煎じて飲ませたいですね。まさに、この視点が存在しなかったからこそ、シンエヴァは珍奇かつ珍妙かつ滑稽な、自我のある等身大の人物をデフォルメたっぷりの人形に変じたあげく、赤子がそれらを両手につかんで幼稚な妄想を繰り広げる、「バブバブごっこ遊び」になってしまったんですからね! 劇中のセリフ、「不肖の弟子じゃない、商売敵だ」になぞらえて言うなら、「責任ある大人じゃない、オギャ丸バブ夫だ」みたいな感じですかね?(もうムチャクチャ)