猫を起こさないように
シンエヴァ
シンエヴァ

映画「28年後…白骨の神殿」感想

 「28年後…」の続編であるところのザ・ボーン・テンプル、奈良県でただひとつの上映館が公開初週で夕方の1回のみになったことに恐怖して、あわてて見に行く。まずは結論からお伝えしておくと、ゾンビ映画の最高峰であると信じて疑わない「28ヶ月後…」への崇拝を前作ごと冒涜して地におとしめる、サタニズムの権化のようなクソ映画でした。制作側のした「2までは撮影してある」発言は、結局のところ、「特殊メイクや舞台セットをがんばったし、レイフ・ファインズのスケジュールも押さえてあるのに、このまま撮影チームを解散するのは、なんかもったいないな……そうだ、ぜんぶ再利用して、もう1本でっちあげちまおう!」ぐらいの意味にすぎなかったことがわかりました。大方の予想であったろう、テレタビーズとの邂逅からフランス、そしてヨーロッパ大陸へと足をのばすと思われたのを外して、前作とまったく同じ舞台と登場人物による、前作の読後感を汚すために作られたとしか思えない、配信ドラマぐらいのクオリティの、完全なる蛇足にしあがっているのです(ここまで書いて、シンエヴァを思いだした)。

 なにが悪いかとと問われても、「腐った大トロはにおいでわかるので、口に入れる前に捨てるしかない」としか返答のしようがないぐらい「ことごとく、ぜんぶダメ」なのですが、思いつくままに列挙していくと、前作の主人公だった少年が、主体性を去勢されて、終始ビービー泣くだけの、昭和の罵倒表現であるところの「女々しいオカマ野郎」に変えられていたのは、まずもって最悪です。そして、テレタビーズーー彼らの”対感染者格闘術”に関する説明は、作中にいっさいなしーーの頭目が期待されたようなアンチ・クライストではなく、幼少期のトラウマに由来するサイコ性癖を持つだけのチンピラだったのには、心底ガッカリしました。コイツが逆さ十字架にかけられて、ロンギヌスの槍(笑)による刺創をオーバーラップさせたい傷がパックリと開いてもピンピンしているのに、ヨードチンキおじさんは腰の入っていない、腹部へのペティ・ナイフひと突きで瀕死の重症を負うのは、ほとんど意味不明です。さらに、前作であれだけの恐怖をまきちらしたアルファ感染者が、モルヒネと向精神薬だけで治癒されてーー感染者の子どもの伏線、どうすんの?ーーしまったのは、作品世界の大元である大黒柱にマサカリをふりおろすような暴挙でした。また、感染者たちがある個体を人間かどうか認識する基準が、「言葉を話すか否か」ーーアイ・ドント・ハブ・ア・チケットーーなのは、これまでの積みあげをすべて無視したガバガバの判定になっており、もはや失笑しかまねきません。ホラー映画としての組みたても下の下で、静かな場面に突然、大きな音を流して驚かせるという単調な演出が、ひたすらにくり返されます。ただ、物語の終盤において、レイフ・ファインズがロック音楽にあわせてノリノリでサバトのミュージック・ビデオ撮影を行うシーンだけは、悪い方向に突きぬけすぎていて、逆に成立してしまうという面白さになっており、ここだけは見る価値があるかもしれません。「文明の崩壊した世界を生きていた若者たちが、無防備な状態でこれをくらったら、そら大熱狂するわなー」という、謎の説得力だけはありました。

 全体的に、前作を教材として学習したAIが出力する映像といった雰囲気で、虚業従事者の方々はたいそうげに嘆いておられるようですが、いらだちまぎれに放言しておくならば、アカデミー賞受賞監督の作品がこの程度なら、すべての映画を人工知能に生成させたほうが環境負荷が減って、地球にとってよっぽどいいだろうにと、なかば本気で思うぐらいです(マーベルなんか、もうぜんぶ過去作を読みこませたら、いけるんじゃないの?)。こちとら、コロナ禍を経たあとに、レイジウイルスの世界的な蔓延に対する人類の大混乱、あるいは国家を超えた共闘がどう描かれるかを見たいのに、ウスターソース野郎がせまくるしい島国の内側で、延々とゲージツごっこをやり続けるのには、心底ヘキエキさせられました。またぞろ、しょうこりもなく3へのヒキを作って終わりましたが、次の制作費を引っぱるための興行収入が足りないっていうなら、もうAI動画をYoutube公開するぐらいでいいんじゃないでしょうか。たとえ無料でも、わたしはもう見ませんけどね。

ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想(コスモキャニオン到着)

 ゴールドソーサー到着

 ファイナルファンタジー7リバース、コスモキャニオンに到達。プレイタイムは60時間を越えたが、すべてが新しいのになつかしいという、不思議な感覚は続いている。いっさいの情報を遮断しているので、この先なにが起こり、ストーリーがどこまで進み、エアリスがどうなるかも、まったく知らない状態を維持していることを付記しておく。初代プレステで発売されたオリジナルをとても嫌っているーースーファミへの裏切りをふくめてーー話は前にもしたと思うが、それは裏をかえせば、いまよりも大きな感情を使ってゲームをプレイできていた時代だったということでもある(近年は、ほんの数年前のクソゲーでさえ、どこかに書きとめておかなければ、どんな負の感情を抱いたのかすら忘れてしまう)。あのころ、それぞれのキャラクターに感じていた苦手意識や、どうしても受け入れられないという複雑な気持ちが、本作のストーリーを進めるにつれ、当時の感情の重さはそのままに、好意的なものへと反転していくのは、じつに興味深い体験だと言える。そして、このリメイク2はファイナルファンタジー・シリーズというより、ひとりのクリエイターにとっての集大成になっているような印象を、どこか抱いてしまう。本作は、ヤマトとガンダムから旧エヴァが受け継いだ大ヒットSFアニメの流れをうらぎり、その最終作において「カネのかかった自費出版の私小説」を上梓してすべて台無しにしたやり方と方向性こそ似ているものの、作り手の短くはない人生の道行きを登場人物たちへとたしかにあずけながら、決してフィクションの枠組みは崩さない節度をたもっているのだ(大人の余裕をもって、かつての未熟な真剣さを茶化しにかかるユーモラスさも気に入っている)。

 おそらく、もうだれもおぼえていない「ファブラ・ノヴァ・クリスタリス」のローンチが、長い長いカウントダウンの末に、ロケット台の上でまさかの大爆発を起こし、しっぽの根本から経営陣のハサミでチョン切られた尻切れトンボ(ヴェルサス?)となってしまい、その一連のできごとへの深い内省と社内で食わされている冷や飯の感触が、じつに玄妙な味わいとなってシナリオのあちこちへと、よくできたオフクロの煮物のごとくジュワッと染みだしているのである。「起きてからずっと、なぜこうなったかを考える自己批判の毎日」「2番か3番の位置にいて、どうやれば形になるのかを考えるのが、性にあってる」「なぜ、自分だけがひとり取り残されてしまったのか」「みんなすごいヤツだとわかっているのに、いつも自分を大きく見せようとする」ーーこういった驚くような率直さを前にすると、ストーリーの途中でザッピング的に挿入されるザックスとビッグスの話がアラカンとなったノムさんの体験する現在で、昏睡するクラウドとエアリスの側がありえたかもしれない可能性未来のメタファーではないかとさえ邪推してしまうほどに、生々しくひびく。ビッグスのするこれらの述懐は、長くひとつの組織にいる人間にとって痛いほど身につまされる内容ばかりであり、リーダーの器ではないのに時間の経過で決断する立ち場に置かれていたり、時流の機微で組織を離れてしまった自分より優秀なだれかのことをときどき思いだしたり、人事考課を行う側にいながら部下と周囲からの評価が気になったり、かつて尊大なプライドや臆病な羞恥心や抑えきれぬ性欲を内側におしこめていたクラウドの無表情の裏に、いまやそういったマネジメントを行う側の苦悩がたたえられているのかと思うと、知らず大きな感慨のため息が漏れてしまうのである。

 もしかすると、映画版ファイナルファンタジーで会社を追われたヒゲの御大が残っていてくれればという夢想や、「20年、いや、10年はやく組織を離れて独立していれば、どうなっていただろう」という起こらなかった未来への妄想も、ことあるごとに心中へカマ首をもたげるのかもしれない。しかしながら、ファイナルファンタジー7が最新の技術で手厚くリメイクされる一方で、456がピクセルリマスターみたいにお茶をにごされたまま、いつまでも放置されているのは、ハッキリ言ってしまえば、作った当人が会社に残っているかどうかだけの違いであり、一発屋と言われようがなにしようが、どんなにブザマだろうと組織にしがみつくことで結果として得るものは、どの業界でもあるのだと思う。リメイク3となるリユニオンで今度こそ、すべての後悔ごと作品をさらなる高い場所へと打ち上げてくれることを、心から願ってやまない。それはまさに、16を作ったアホが苦しまぎれにほざいた「最終幻想」とはかけ離れた、真の意味での「ファイナルファンタジー」となることだろう。

雑文「新世紀エヴァンゲリオン二周忌に寄せて」

 追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」
 雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

 シンエヴァの新作映像を見る。みなさん、「あれだけボロクソ言っといて、まだディスク買ってんの?」とあきれているでしょうけれど、否定派の真摯かつ丁寧なダメ出しに反省した監督が地球外少年少女のアニメーターに全権委任して、エヴァ破の続きを3時間くらい新作しているのではないかという一縷の望みを捨てきれなかったからです。しかしながら、かつての自分がどこかで書いたように、いつだって「希望とは絶望への準備動作にすぎ」ません。内容的にはエヴァQの前日譚で、ピンクタラコが訓練で懸垂をしていたら、過去に懸垂で死にかけた場面を思い出すみたいな、しょうもないプロットでした。ほんの10分ぐらいの映像なのですが、「人間ドラマに興味がなく、見たい絵だけをつなげたい」という監督の悪癖がギュッと詰まった怪作に仕上がっております。

 エヴァ初号機が地面から生えてきたり、父母兄弟を亡くしたばかりなのにモノローグが家出少女のそれーー親になったことがないからじゃねーの? おっと、作家は体験したことがなくても、ビビッドに描けるんだったね!ーーだったり、赤い煤が髪に触れたらなぜか眉毛ごと(たぶんアンダーヘアも)キレイなピンクに染まったり、倫理観は女性から男性に向けた暴力を許容する80年代のアニメだったり、短い中にもツッコミどころは満載です。きわめつけに、弐号機の戦闘シーンでは何のアイデアもない右腕一本のCG押し相撲を延々と見せられる。「ほんの短い時間を、映像の力で引きこむ」ことさえもはやできない、おそらくエヴァに関する最後の映像を、かつて大聖堂だったモノの瓦礫として悲しくながめました。

 まあ、ここまでは予想の範疇であり、金満家の初老オタクにとって円盤のはした金など、葬式への香典ぐらいにすぎません。一瞬、「やっぱり、原神への課金にすればよかったな……」とは思いましたが、じつのところ問題はここからです。この円盤には「プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン」なる書籍?を宣伝する紙きれが同封されており、本作の意義についてカラー関係者が総括するみたいな目次が書かれています。公開から2年間、だれかが「逆襲のシャア・友の会」みたいなのを、シンエヴァでやってくれないかウズウズしてたのに何の反応もないので、自作自演におよんだというのが真相でしょう。しかしながら紙片を見た瞬間、2年をかけてようやく鎮火したはずの激情が再び身内にカッと燃えあがるのを感じました。読むまでもなく、これはヒトラーの「我が闘争」と同じ性質の書物であり、スターリンやチャウシェスクやポル・ポトやプーチンの内閣に所属する者たちが議場で順に演台へ上げられ、独裁者が眼前でにらみをきかせる中で、「自由に」彼の政策の「正しさ」への批判を促されるという内容なのです。

 現代の本邦において史上最強レベルの独裁気質をもった人物が、アニメや特撮という「昭和のオモチャ」だけにご執心であることを、我々はむしろ喜ぶべきなのかもしれません。有権者のみなさん、間違ってもこの人物を国会に送ったりしたらダメですからね! 超絶プロパガンダ映像で、気がつけばたいへんな場所へ連れていかれることになりますよ! ともあれ、エヴァンゲリオンという大半の人間にとっては娯楽のひとつにすぎない映像作品への「歴史修正」に抵抗を示したい奇特な方々は、私の「:呪」をはじめとした多くのネット批判記事について検閲に先んじてプリントアウトし、それでも焚書が不安というならば石碑として文言を刻みこみ、後世へと真実を伝えていってほしいと思います。

 あと、今回の新作映像にアスカの「子ども! よくがんばった!」っていうセリフがあるんですけど、これを聞いてあらためて、テレビ版の第八話からエヴァ破に至るすべてのアスカは殺されたんだな、と思いました。

 シンエヴァ新作映像の戦闘シーンについて、「初代ウルトラマンのある回における怪獣ファイトを再現したもの」との情報をいただきました。ご指摘、ありがとうございます。だからなんだってんだよ! 小鳥猊下さんだってオタクのクセに、何もわかってないクセに! オタクだからどうだってえのよ! それが面白さにつながってないことが大問題なんだよ! 「気づいた人がクスッと楽しいスパイスとしての小ネタ」だから許せるのであって、ご飯茶碗にコショウをテンコ盛りに出されて、それをおいしくいただけるのかって話をしてんだよ! もうクシャミがとまらねーよ! 目もかゆいし、オマエは花粉症かよ! しゃくしゃくしゃく、えぷそーん! エヴァ序のときは「ポジトロンライフルの照準の動きがウルトラセブンだかの戦闘機と同じそれ」みたく、上品に隠されたオマージュだったじゃねえかよ! それを、シン・ウルトラマンに関わったせいだろうよ、ギンギンにポッキアッパした部位をもう隠そうともせず、画面中央で大胆にポロリさせやがって! アタシゆるさないからね、一生アンタをゆるさないからね! FGO7章前半の感想にもチョロっと書いたけど、上目づかいの哀願から大強姦まで一足とびできる節操と距離感の欠落がオタクの下品さの正体なんだよ! キミのそういうところ、キライ、キライ、大ッキライだなあ! しかも、「何のアイデアもない」って指摘だけは当たってんじゃねーか、キモチワルイ! ご教示、ありがとうございました。