猫を起こさないように
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アニメ「水星の魔女」感想(13話まで)

プロローグ&1話

 キミらがあんまりウテナウテナ言うから、ガンダム下手のトーシロなのに水星の魔女を見る。確かに機動武闘で少女革命したい感じは伝わってきましたが、主人公がキョドりすぎドモりすぎなせいで尺が足りなくなったのか、後半の決闘シークエンスの流れがかなり唐突で不自然なのは、非常に気になりました。まず、決闘の日時を知らされているはずの主人公が学校のモニターでガンダムの盗難を知るのって、どうすればそんな状況になるんでしょうか。そこから級友にスクーターを借りて、立ち入り禁止のエリアに潜入(どうやって?)して、だだっ広い荒野を横断して、転倒したガンダムによじのぼってコクピットを開けて、どうでもいい痴話喧嘩をオッぱじめる。速い場面転換で瞬間移動みたいにしてごまかしてますけど、これだけの長い時間、桐生冬芽ポジションの敵キャラは何もせず、ボーッと突っ立ってそれを眺めていることになり、脚本のせいか演出のせいか定かではありませんが、ちょっとひどすぎるように思います(識別画像にスクーターを貸した女子の顔が出てくるくだりも、演出意図がわからない)。ヒロインに「守られるだけのお姫様ではない宣言」をさせるためとはいえ、もっと他に上手いやり方があったんじゃないでしょうか。入念に準備した暗殺計画を、息子が決闘に負けたから曖昧にとりやめるのも意味不明で、リアリティラインをどこに置いて視聴すればいいのか、第1話の段階ではサッパリつかめませんでした。

 ただその次に見た、先行して公開されたらしいプロローグはメチャクチャよかった! たぶん世代の近いクリエイターだと思うんですけど、エヴァ旧劇からの影響というかそこへ向けた目くばせを、強く感じました。「Air」の超絶エンタメに魂の深い部分を呪縛され、「まごころを、君に」における中年オヤジの泣き言にモヤモヤしながら、「正しいエヴァの完結とは?」についてずっと考え続けてきた人物なのかもしれません。シンエヴァという還暦オヤジの泣き言を経たいま、ハッキリと言語化できますが、それは「Air」の続きにおいて「第拾九話を超えるシンジと初号機の大立ち回り」と「人類補完計画へのスピリチュアルではない回答」を展開することより他にありません。水星の魔女プロローグには、確かにその萌芽ーーこれを我々の「Air」とし、本作ではその先を描くという意志ーーを感じました。にもかかわらず、第1話にしてすでに脚本と演出が空中分解しかかっているのは気になりますが、今後のストーリーには大いに期待しております。

 あと、エヴァの出撃シークエンスを意識したと思われる場面で、長方形の箱がキメキメのアングルでギュンギュン高速レール移動するのに思わず笑ってしまったんですけど、作画カロリーとかの関係でしょうがないんですかね、これ? エヴァと同じく直立のロボットを移動させるじゃダメだったんでしょうかねえ(リアリティライン?)。

第6話

 水星の魔女、第6話まで見る。いやー、いいですねえ! 人の魂が込められた機体からテレビ版第拾七話を彷彿とさせる終わり方まで、いよいよ予想通り「オレたちが作るポスト・エヴァンゲリオン」の様相を呈してきました。うっとおしいばかりに他者と関わろうする主人公も、「人たらしの碇シンジによる人類補完計画」というイフを思わせて楽しい。エヴァ旧劇の「地球と太陽なしには生きられない生命体から魂のみを抽出して、ロボット方舟に乗せて外宇宙へと送り出す」に対して、過酷な宇宙空間でも人が生きられるようにする義体のプロトタイプがエアリアルなんでしょうねー。そんで、主人公の妹の脳と脊髄がユニットの中枢におさめられてんの。でも、ウテナ感はもうどっかいっちゃったなー。

第12話

 水星の魔女、第12話を見る。タイムラインの沸騰ぶりを横目にしていたため期待値が高まりすぎたせいか、古参のガンダム下手としては、それほどの衝撃を受けることができませんでした。旧エヴァのフォロワーをにおわせつつも、ずっと作品のトーンが定まってこなかったのを百合展開で引き伸ばしていたのが、ようやくプロローグにおいて提示された世界観とチューニングが合ったなーという印象です。少年漫画やジュブナイル作品における御法度であるところの殺人行為へと主人公を踏み切らせた理由が、その場しのぎ的な二期へのクリフハンガーではなく、戦時下の現代社会における重要なテーマとして昇華されることを強く願っています。

 水星の魔女12話の顛末を、あれから脳内で反芻している。古くからの少年漫画読みーーあるいはネット抜きの平和教育に洗脳された一時期を持つ者ーーにとって、人を殺すという行為は「主人公の資格を不可逆に剥奪される刻印」に他なりません。最も人を殺してそうな少年漫画誌の主人公ナンバー1である範馬刃牙でさえ、30年を越える連載期間を経ていながら、いまだに殺人童貞なのですから! 「絶対悪である殺人と、その因果応報」を色濃くまとった作品にブレイキング・バッドベター・コール・ソウルがありますが、あちらの命を奪うことへ幾重にも積まれた葛藤と必罰の陰影レイヤーに比べると、こちらは母子の関係性へのみ因果が収束する非常に明るくあっけらかんとした描き方に見えます。さらに、殺される側を「フルヘルメットで顔を覆った、名前のないテロリスト」として描いているのも、彼の家族の方向へは物語を敷衍しないという宣言であり、今後は「恋人サイドの受容」と「母の呪縛からの脱却」にのみ焦点が当てられるのでしょう。

 ふと思い出しましたけど、ククルス・ドアンの島でもアムロが逃げまどう敵兵をガンダムで踏みつぶしていて、「生身の人間をロボットで殺害すること」が当シリーズに脈々と引き継がれる主人公の条件だとするなら、この件について私の言えることはもう何もありません。ツイッターで見かけた「作画が間に合っていないための総集編」や「最終話における有名アニメーター総力戦」などの様子からうかがえば、ストーリーの結末までをあらかじめ見通した作劇が行われているのか、少し懐疑的になっても仕方のないところでしょう。第1話の感想を読んでもらえばわかりますが、本編の演出とストーリー展開を他作品に比べてなみはずれて秀逸だと感じたことはなく、SNSの盛り上がりも「キャラを好きになった人たちが、作品をさらに称揚したいがための、実態を大きく越えた過剰な深読み」だと感じることがとても多かったです。物語の自走性よりも、この時代に特有の「2期まで視聴者を引っ張るため、ツイッターでバズらせておきたい」という制作側の意図が強く前面に出ている気がして、これまで愛してきたキャラと作品が壊されたように感じている方々の意見は、とてもよく理解できます。

 なんかSNSで作品の身の丈を越えた感想が飛び交う状況って経験したことあるなー、なんだったかなーと考えていたら、タコピーの原罪だった。

第13話

 水星の魔女13話を見る。うーん、この温度感で日常パートを再開するには、12話のラストをギンギンに冷やしすぎましたねー。「当初は2クールまとめて放送するはずだったのに、作画スケジュールが破綻して前後半へ分割となり、本来的に不必要な行き過ぎたクリフハンガーを用意するハメになってしまった」ことが、今回のストーリー展開で明らかとなりました。ジュブナイルにおける殺人の意味については以前にお話ししたとおりで、本作の主人公にその資格を失わないプロットが仮にあるとすれば、「彼女の正体は小型化に成功したガンダム義体で、たとえば脳髄などの魂を宿すと思われる部位が搭乗機体に収められていて、義体側の思考と人格はAIによるエミュレーション」みたいなエヴァ初号機の逆パターンだったら、かろうじてSF作品としての受容はできるかなと感じています。「別の方法があったのかな」ぐらいの反省や「言われなくても」の一言で「人殺し」を許容できるのは、もっと偶発的な事故によるマイルドな描き方だった場合だけでしょう。意図的な殺人に伴う執拗きわまるスプラッタ表現は、提示された新たなストーリーラインからかけ離れた演出になっており、現段階では本作にとって取り返しのつかない瑕疵に見えます。そして、この印象が今後くつがえる気はしません。

映画「ククルス・ドアンの島」感想

 

接触篇

 外出中に2時間ほどをつぶす必要があって、上映時間が偶然ぴったりと重なったため、その予定はまったくなかったのにククルス・ドアンの島を見ました。閃光のハサウェイをすごく楽しめたせいもあるんですけど、はっきり言ってあれとはベツモノでしたねー。20年以上前からインターネットは個人的な日記帳とイコールなので、ガンダム作品はすべて未履修ーーより正確には、単位登録して講義も出席するんだけど、学期試験で合格点が取れないーーの人物から感想を残しますが、ファンの方々の気を悪くする意図はないことを、あらかじめ宣言しておきます。原作のエピソードはネットミーム的な画像以外もちろん未見でして、全体の印象としては冗長な尺や余計なシーンがかなり多くて、登場キャラの芝居や場面ごとの感情もつながっている感じがせず、どれも唐突に思えました。しかし、これこそがガンダム文法なのやもしれず、「逆襲のシャアを3回見たけど、ストーリーが理解できなかった」人物の視点による感想であることは、公平さを期すために付け加えておきます。

 ドアンという脱走兵が戦災孤児たちを孤島にかくまっている設定だと思うんですけど、その集団生活はどこか新興宗教めいていて、ある世代に特有の「地縁・血縁の否定と大家族の肯定」という矛盾に満ちた思想のようなものがそこはかとなく香ってきたのは、はたして私の気のせいでしょうか。孤島の荒地を耕す描写が何度も出てくるのに、食卓は妙に豪華ーープチトマト入りのサラダとか、どうやって作ったん?ーーで、ドアンが船で町へ仕入れに行ったのかと思いきや、向かった先は秘密基地だったり、故・高畑勲が化けて出るレベルで「新しき村」における生活基盤の掘り下げがいい加減なのです。聞きたいんですけど、アムロがバッテリーを修理して電源を復旧させたのに、ドアンが「余計なことしやがって」みたく吐き捨てる場面って、文明レベルをわざと落として、無力な子どもたちを「何でも知っている」大人である自分に依存させることで集団(教団?)を統率していたという意味なんでしょうか。

 さらに気になった細かい点を挙げていくと、「島内に唯一の人造物である怪しい灯台に対して、まず遠方からガンキャノンの砲撃による威力偵察」という当たり前の戦術チョイスが行われなかったのには、「この物語が始まる前に終わるのを避けるため」以外の理由が見つかりませんでした。ガンダムを探しに出たアムロが「ドアンという人のザク」と回想しますが、あの時点でドアンとザクが結びつくような描写はなく、原作未見の私はけっこう混乱しました。時代背景もよくわからなくて、ベッドの横に水差しではなくペットボトルが置いてあったり、ホワイトベース内にTOTOの便器を設置した障害者用トイレがあったり、広島カープが存在したりするのは、ガンダムファンならどれも違和感なく受け止められるものなのでしょうか。

 モビルスーツはテレビ版と比較にならないほど細密に描かれる一方で、リアルになればなるほど兵器が人型ロボットである必然性は逆に薄れていくのを感じました。ガンダムの地上戦はほぼ初見ながら、二足歩行が移動と戦闘のデメリットであるとしか見えません(敵のホバー移動には大いに納得しました)。それに、コクピットでない顔面部分に手斧を突きつけることが脅しになる芝居とか、崖の下を見て高所恐怖症に足がすくんでーー飛べるんじゃないの?ーー隙を作ってしまう演出など、ロボットなのにウルトラマンのごとく「人間が巨大化しただけ」の存在になっている瞬間がいくつかありました。単純な疑問ですけど、頭部を撃たれたり四肢の一部を斬られただけで機体全体が爆発四散するのって、兵器として問題ありすぎませんかね。ふつう隔壁とかで誘爆を防ぐ設計にすると思うんですが、演出の見た目が派手なことを優先しているんでしょうか。小破か轟沈しかない艦これみたいなもんですよ、これ。令和の御世に、不快なほど怒鳴りまくるパワハラ上司・ブライト艦長が、いつの間にか「軍法会議もの」の命令違反へ積極的に加担しており、そこまでには酔っ払いの軍人がこっそり若手士官を扇動している様子しかなくて、「翻心するような場面、あったっけ?」と自分の記憶を疑うはめになりました。

 本作での描写を見て、はじめてテレビ版のアムロが少年兵だったことに気づかされましたけど、敵パイロットをビームサーベルの熱で蒸発させたり、逃げる兵士をガンダムで踏みつぶしたりするのを、わざわざ観客へ見せることに、どんな演出意図があったのか疑問が残ります。終盤の戦闘についても、5体のモビルスーツでやってきたのに、3体と2体に戦力を分散して、スナイパーを含めた2体は秘密基地内で能力を発揮できないまま頓死、残った3体もお行儀よく順番に一騎討ちってどないやねん。おまけに、なんか因縁がありそうだった女性パイロットも場面転換の直後に戦闘シーンをスキップーー自宅だったら見落としを疑って巻き戻してたと思うーーしてやられてて、「2対5の数的不利を、短中遠距離戦のことごとくでガンダムa.k.a.白いヤツ(白い悪魔じゃないの?)が圧倒する」という展開を予想していたため、消化不良感というか、「まだぜんぶ出してない」という残尿感がひどかったです。地下に避難するはずの子どもたちが、コミカルなヤギの描写につられて、いつの間にか流れ弾が直撃しそうな最前線に大挙して現れたのも、「HAHAHA、ご見物がいたほうが盛り上がるだろ? 大丈夫、大丈夫、殺さないって!」とのアメリカンなボイスがいずこからか聞こえるようでした(幻聴です)。

 そして、非常にわかりにくい脚本から推察するに、おそらく世界の主要都市へ向けて発射されたミサイルが大気圏外で爆発したのを見て、ジブリ系のヒロインが「ドアン、これがあなたの仕事だったのね」とか言うんですけど、いやいや、作中のアンタの立ち位置からは、そんなことぜったいにわからへんやろ。神の視点にいる観客のウチからして、連邦?の士官が台詞で説明するのを聞いて、はじめて状況がつかめたくらいやのに。最後にドアンのザクをアムロが無許可で勝手に海へ放り投げて使えなくしたのには、心底ビックリしました。その奇矯きわまる行動を見た直後の感想は、「え、次にモビルスーツが攻めてきたら、どうすんの?」でした。これって、原作を忠実になぞっただけなのか、反戦や不戦や非戦や九条(やだなあ、ネギの品種ですよ)的な思想性に裏づけられた展開なのか、よくわかりません。でも、「あなたの戦争のにおいが争いを呼びよせる」みたいな台詞と考え方って、少年兵のものじゃないですよね? その裏にいるレフトウイングのオッサンかオジイサンのものですよね?

 うしろの予定に押されて、スタッフロールの途中で席を立ちながら、「ガンダムが単騎でカッコよく無双するのを楽しみたかっただけで、野党がスポンサーのハウス名作劇場を見たかったわけではないなー」と思いました。以前、エヴァが新劇を通じて様々なクリエイターの参入するガンダムのような土壌にはなれなかったことを惜しんでいると書きましたが、本作を見終わったあとの正直な気持ちは、「テレビ版エヴァのどれか1話が翻案されて映画になっても、たぶん見に行かないだろうな」であったことをお伝えしておきます。

発動篇

 ククルス・ドアンの島の内容を思い返すだけで、なぜか口元にタチの悪い笑みが浮かぶ始末で、この感情を形にしてよい?

 文章が面白い時には、ファンは怒らないものだ。41.2%
 悲しいけどコレ、ドぎついマニア向けなのよね。17.6%
 (ヤギの突進)41.2%

 ひさしぶりによく書けたなー、なんて思いながら、ククルス・ドアンの島の感想を1日に10回も20回も読み返してゲラゲラ笑ってるんですけど、予想していたドぎついガンダムファンからの反撃は、なかったですねー(ヤギの突進にそなえた柔道の構えを解きながら)。しょうがないので、手元にある架空のリスナーから寄せられたハガキに、お答えしたいと思います。最近の私の映画感想は、どれもこれもテキストラジオみたいなもんですからね!

 「冗長な尺や余計なシーンって、具体的にどこのことを言ってるんですか?」とのご質問ですが、皆さまのように2回目を見るつもりはないので、記憶を頼りにお答えします。「冗長な尺」で思いうかぶのは、アムロが屁っぴり腰でクワを振るのを「ヘッ」と侮蔑のまなざしで見ていたら、何度もしつこく繰り返すうちドアンの指導があったわけでもないのに腰が入ってきて、「チッ」とオナイの少年が舌打ち(どんな感情?)するところですかね。このクワをふるうときの腰つきもそうなんですけど、アムロがペットボトルから水を飲むシーンが劇中に2回あり、どちらも妙にエロティックな描写になってて、お稚児さんというかお小姓さんというか、どこか少年愛的なまなざしを感じてしまいました。「そっかー、ペットボトルでゴクゴク水を飲むのって、フェチなんだー」と気づかされた次第です。

 次に「余計なシーン」ですが、「子どもたちが灯台の螺旋階段を駆け登り、駆け降りる」ところでしょうか。映画的にはまったく必要ない場面なのに、「狭くて曲がった階段で、しかも複数の人間が同時に登り降りするのを、このカメラ位置から自然に動かせるなんて、ヤスヒコすげえ!」みたいな、昔のアニメ作品に特有の職人芸を愛でる要素になっちゃってるんですよね。この積み重ねが、「普通の映画」になるか「テレビアニメの長いの」になるかを分けているような気がしました。マが名字の人物(オマエ、どこ国籍よ?)が高笑いしながら部屋から退出するのを、カメラに回り込ませながら長々と写すシーンは、この両方の要素を兼ね備えていて、私の中の関西人は「いつまでわろとるねん!」と思わずツッコミをいれてしまいました。

 ついでに、「芝居や感情がつながっていない」にも触れておきますと、中盤にジブリ系のヒロインがアムロとドアンを見つめたり目をそらしたり頬を赤らめたりするシーンがあるんですけど、その付けられた演技からは彼女の内面がまったく想像できなくて、いよいよ自分は気が狂ったのかと深刻に疑いました。そして、ドアンから「子どもたちを守るために、たとえ仲間とでも戦う覚悟があるか」と問いかけられたアムロが、しばし逡巡したあと、強くうなづいて彼の背中を追いかけるシーンは、「ホワイトベースを、ブッ潰す! ついでに僕を殴ったブライトも、ブッ殺す!」宣言としか受けとれませんでした(まあ、しばらくして、ガンダムで生身の人間を踏みつぶす覚悟だったことが判明するわけですが……)。

 あと、本作における監督のアバターはズバリ、ヤギですね。稚児と少年と大人の男にセクシャルな部分をもみしだかれて快楽の声をあげたり、ガンダムの作風と水油の1枚絵で3人の男たちをなぎ倒したあと、デベソがバッテンの幼女からキスの雨あられを受けて顔をにやけさせたりと、もうやりたい放題です。他にも、崖をのぞきこむシーンが何度もリフレインされるところとか、おそらく監督の実人生における経験が色濃く反映されている部分が、ガンダムという言わば公共物に、私小説的な違和感を与えている気がしました。それと、茶色いザクの連隊が初登場するスタイリッシュな交戦シーンは副監督が絵コンテを切っているそうで、終盤のゆったりモッサリ戦闘との落差は、若々しいセックスとおじいちゃんの手淫との違いだったんだなーと思いました、おわり。

映画「閃光のハサウェイ」感想

 紆余曲折の果て、ネトフリで閃光のハサウェイ、ようやく見る。予備知識は絶無でしたが、端的に言って面白かった! 立体(プラモ)が欲しくなる気持ちも、少しだけわかりました。そして私にとって、はじめて「内容が理解できる」ガンダムが登場したのは、たいへんにめでたいことです。この作品は「長いテレビアニメ」ではなく、実写映画の文法と尺と撮影で作ってあり、「禿頭の御大による節回し」が脱臭されていたことが、大きかったのかもしれません。もっとも、原作そのままと思われる人物のかけあいが、ときどき「普通の映画」の見かけを突き破って出てくる瞬間があるのは、さすがの作家性だと感心しました。

 ハサウェイがテロ組織を率いる動機は最後までよくわかりませんでしたが、ギギ・アンダルシアは最高にエロ可愛いかったです。周囲への忖度がいっさい存在しないため、状況に応じてクルクル回転し続ける感情の奔放さは阪神間の金持ちのお嬢さんって感じで、「ああ、こういう女の人いるよなー」と思わされてしまいました(非現実的な女性描写で鳴らす、あのガンダムなのに!)。戦火を逃れた後、彼女が感情の放出に疲れて弛緩したアクビをする演出は、すごくリアルで印象的でした。同じ場面で、ハサウェイが渡されたマグをさりげなく、唇の触れていないほうへ回しながら受け取るのも、童貞くさくて良かったです。

 せやけどな、ハサウェイはん、ギギとだけは絶対に結婚したらあきまへんで! あっても一夜かぎりのアバンチュール(死語)にとどめとくんが正解や! あの類のお嬢さんは年をとるにつれて、どんどん性格の歪みがエゲツのうなっていきますさかいな! いずれ、まちがいなく「春にして君を離れ」みたいになりまっせ! 繰り返し言うとくけど、結婚相手を選ぶのにいっちゃん大事なんは、「感情が安定していること」やで!

 あと、なんかこの映画、話がまだ終わってなくない? え、これ三部作の一作目なの? またもや、優良誤認ならぬ単品誤認じゃないですかァーーッ! でも、次回はたぶん劇場へ見に行くゥーーッ!

アニメ「逆襲のシャア」感想

 古いオタクとして恥をしのんで告白しますが、わたくし、ガンダムの単位を履修していないと申しましょうか、ストーリーをほとんど理解できていないんです。なぜ唐突にこんな話をしてるかというと、タイムラインに「閃光のハサウェイ」の激賞ばかりが流れてきて、これは見に行くしかないのかと、復習のため「逆襲のシャア」をアマプラで流し始めたら、ガンダムに対して長く抱いていた劣等感みたいな気持ちを、またぞろ追体験してしまったからです。特にこの逆シャアは、例えるなら私大文系にとっての高等数学みたいなもので、必死に理路を追いかけようとしても、途中で毎回ふり落とされてしまいます。なんとかストーリーに食らいついていっても、突然の場面転換や独特の台詞回し(汚なプレシャア?)に一瞬、理解を脱線させられ、そうなると元の線路へと戻る前にストーリーが先へと進んでいって、視聴するというより、ただ眺めているだけになってしまう。ならば、モビルスーツのアクションを楽しもうと試みても、付けられた効果音が少ない(宇宙空間だから?)せいか、流麗な動きがスーッと目の前を流れていって、いま何が起きているのか、だれとだれが戦っているのか、やはりわからなくなってしまうのです。ストーリーもアクションもわからなければ、残されるのは言語化できない印象だけとなり、私にとってガンダムはずっと「夢と記憶の物語」ーー以前Fallout3について書いた雑文のようにーーであり続けているのです。内容が理解できないから、ガンダムを思い出すときは、それに紐づいた現実の記憶ばかりがよみがえってきます。小学生の頃、主人公機のプラモはすべて売り切れで、駅前の模型屋で作中に登場しないゾゴックと姫路城の抱き合わせを買わされた話は、すでにしたような気がします。イズミヤのワゴンで見つけた、作中に登場したかは知らないギャンとかいうのに、加減がわからず元の造形が変わるほど塗料をドボドボに塗りつけ、部屋へ充満したシンナー臭に気分が悪くなったのが、人生でプラモを作った最後です。あと、「144分の1スケール」という意味があるのかわからない中途半端な縮尺に首をかしげたことが、私を理系から遠ざけたのではないかと少し疑っています。「逆襲のシャア」は、たぶん神戸の映画館で見ていると思うのですが、脳裏に浮かぶのはロビーから直接スクリーンが見える、扉も壁も無い劇場のイメージで、それが記憶なのか夢なのかさえ定かではありません。そのとき、劇場で見た(と信じる)エンディングは、ガンダムが隕石を押し戻せたか不明のまま、カメラが引いていって地球の輪郭から太陽の光が広がるというもので、エンドロールには女性ボーカルの曲が流れていました。今回、アマプラで最後まで見たら内容がまったく違っていて、己のガンダム作品に対する親和性の低さと記憶の不確かさへ、あらためて愕然とさせられた次第です。この程度のガンダム解像度で「閃光のハサウェイ」を見に行って楽しめるだろうか、そろそろ上映も終わるし、どうしたものかな……などと、いつもの保留グセで決断を先送りにしながら、今日も今日とてFF11をプレイしつつ、ホーリーチキンを見てしまいました。このドキュメンタリー、ガンダムで例えるなら、連邦の気持ちを理解するためにシャアがイチから反乱軍を組織するみたいな内容なんですよ。え、的外れな要約からガンダム下手が伝わってきますね、だって? スーパー・サイズ・ミー(不条理オチ)!