例の複合施設で、住みにごりを最新7巻まで読む。近年、おそらくスーザン・フォワードの著書名から定着した「毒親」なる単語が人口に膾炙しすぎてカジュアル化し、本来は無限のグラデーションが存在する問題を、ゼロ100でデジタル的に断罪する方向へと、世相全体が傾いているように感じている。それもそのはず、この単語を使う者たちは「自分は生涯、当事者たる主体にはならないことを決めている、もしくはそれが事実として確定してしまった人々」だからで、あたかも”ホワイト企業”なる単語と同等の、毒の成分をまったく持たない親が実在するかのように、100の断罪を無敵の武器だと信じてふりまわし、もっと言えば末代が末代ではない者に向けるがゆえに、無意識の罪悪感や劣等感を打ち消そうと、いっそう過激にエスカレーションしていく側面はあると思う。以前、住みにごりの1巻を手に取り、稲中卓球部の人(名前失念)や新井英樹の系譜ーータコピーとは全然ちがいますよ、念為ーーに連なる新たな作家がひさしぶりに登場したなと感じたものの、引きこもりの兄をひたすら醜く不快に描き続ける展開に、コメディなのかシリアスなのかチューニングをあわせられなかったこともあって、読むのをやめてしまったのであった。今回、思いたって7巻までを通読し、毒成分の薄い家庭ーー子どもの才能や性質が毒素を希釈化したり、無毒化したり、薬に転じる状況もあることを付記しておくーーから、「親が子を、子が親を殺す」相克の猛毒家庭のあいだに存在する、無限のグラデーションのひとつを高い解像度で描こうとする作品なのだと、ようやく気づいた次第である。立ちあがりの遅い作品なので、不快感を我慢して物語の動きだす3巻までは、ぜひ読んでみていただきたい。「合う、合わない」を論じられるのは、そこからだろう。ネタバレを避けるために、抽象的な表現から始めるならば、「怪物だと思っていたものがじつは怪物ではなく、美醜と快不快が文字通りの”叙述トリック”として、主客の転倒を起こす」意想外の展開(ほぼバレ)がすばらしく、特に深夜の公園で行われるレスリングの場面は、漫画史上でも屈指の名シーンなのではないかと、ひそかに思っている。
また、住みにごりを読む中で知らず満たされていたのは、以前フォールアウト3の感想にも書いた「おのれが住む町のすべての家庭の、すべての部屋の隅々までを、透明人間として探索したい」という、人には言えぬあの欲望であった。突如としてベセスダ方向へと話はそれるが、最近は就寝前の1時間ほどオブリビオン・リマスタードをプレイーーというより、シロディールで細々と生計を立てている。帝都の川べりの被差別地域にある掘ッ立て小屋の自宅から、近隣のダンジョンへと出勤し、目につく生物をみな殺しにしたあとは、めぼしい武具やアイテムを抱えられるだけ抱えて、なじみの商店へ売りさばいてからベッドに入るーーそんな平穏きわまる日々をくりかえしていた。ところが、ある日突然、全身からシュウシュウと白い煙がたちのぼり、日光の下では体力が減少するようになった。そう、シリーズおなじみの吸血病を発症したのである。過去の記憶を頼りにスキングラードの領主である吸血鬼(バレ)と面会して、治療薬の製法を知っている魔女の住処を聞きだす。魔女に言われるがままに、無実のアルゴニアンへ背中から切りつけ、強力なヴァンパイアを洞窟で殺害し、日の高いうちは屋内で時間をつぶしつつ、夜中にコソコソと人目を忍んで植物採集するものの、フィールドに自生しないニンニクだけ必要な数がそろわない。フードを目深にかぶって雑貨店へと買い求めにいくも、「この穢らわしい怪物め!」と剣もほろろに追いかえされてしまう。泣く泣く、人々が寝しずまった時間帯にピッキングで民家へと不法侵入し、暖炉へ吊るされたニンニクを盗むハメになるーー平穏なる市井の日常から、急転直下で犯罪者ロールプレイにきりかわる様は、もうどうしようもなくエルダースクロールズであると言えよう。なぜこんな話をしだしたかといえば、住みにごりを読むことと、オブリビオンをプレイすることは、体験としてきわめて近い位置にあるように感じたからなのであった。
話を元にもどすと、ここまでを絶賛しておきながら、ささいな気にくわない点から急に評価が真反対へと舵を切るーー最近では、メダリストがその災難をこうむったーーのが、”nWoしぐさ”であることは、みなさまもすでにご承知おきであろう。醜く不快な肉塊の「ウンコ製造機」である兄が、おのれの王国たる2階の自室へ侵入をゆるしてしまった存在を凌辱できなかった時点で、彼はモンスターから只人へと受肉し、この物語の趨勢は不可逆に定まったのだ。3巻から6巻にかけての疾走感は、「ふいにおとずれた巨大な荒波の上で、作者はただサーフボードに自立している」ようなレベルにまで達しており、登場人物たちがそれぞれの自由意志で動くうちに、ストーリー自身が自明すぎるゴールを見つけて、そこへ向かって自走しているような印象さえあった。それを、6巻の途中で終わらせておけばよかったものを、ガロ方向のマイナーな作風で100万部も売れたものだから、明白きわまる着地点にピリオドを打つのがおしくなったせいだろう、5年後の「引きこもり支援編」という大蛇足へと突入してしまったのである。しかも、物語内での格付けがすんだはずの兄を「やっぱり、モンスターでした」と再び御輿でかつぎだしたあげく、終始セリフなしで演出をつけてきた彼自身の口で「引きこもりの哲学」を語らせた瞬間、本作は完全な”腰くだけのどっちらけ”になってしまったのだった。いまは「売れた男性作家の、作品との距離感」という例の命題を、”ひとつながり“や”狂戦士“に引き続いて、またもや突きつけられたような気分になっている。この先を読む必要はもうないと考えているので、遠い将来ーー数年は引きのばすだろうーーに住みにごりが最終回をむかえたら、小鳥猊下の見たてがはたして正しかったのかどうか、そっと耳うちしてほしい。