猫を起こさないように
エヴァンゲリオン
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ドキュメント「シンエヴァ・アディショナル呪詛(2021/3/6〜3/24)」

承前:アニメ「2021年のエヴァンゲリオン」雑文集(1/15~3/5)

2021年3月6日

どんどん気持ちが不安定になっていく。人生で2回エヴァが終わるなんて信じられない。

終わるのを見届けるなんて生やさしい感情じゃない、俺がエヴァを殺しに行くんだって気分になってる。じゃないと逆に殺される。

端的に言って、ビビッてる。これまでのエヴァへのディスりの数々が、これから戦うヘビー級チャンピオンを攪乱するための盤外戦に過ぎなかったことがわかる。それもただのボクサーじゃない、25戦25KO、そのうち20人をリング上で殺してる。

計量をパスした後の記者会見で、挑戦者の俺はビビッてることを隠すため、さらに狂騒的にしゃべり続け、チャンピオンはただ擬と黙っているだけなのに、こちらの心と体力がみるみる削られていくのだ。

この9年を平気な顔で生きてきたくせに、シンエヴァ視聴まで残り36時間ぐらいを残すばかりの今になって、突発的な事故や病気で死なないか不安になってきた。明日は家から一歩も出るまいし、あさっては劇場への移動に細心の注意を払わねばらならないだろう。

俺とエヴァとの間にある感情は複雑きわまる。ルックスが超絶好みの美少女ゾンビとつきあいだして、最初は幸福の絶頂だったのに、次第に束縛と浮気がひどくなり、人生のリソースを9割以上もっていかれるようになって、もう別れてくれと懇願するのに、別れてくれない。

追いつめられたあげく、殺しても殺してもドロリと復活する美少女ゾンビへ馬乗りになって、「死んでくれ、頼むから死んでくれ」と泣き叫びながら、何度も何度もその頭蓋に大きな石を打ちつける感じ。

そして、このイメージにさえ、旧劇ラストの首しめが色濃く反映されており、美少女ゾンビに石を打ちおろしていたはずの自分が、いつのまにか美少女ゾンビに石を打ちおろされている。エヴァを殺すというのは、もはや自分を殺すことと同義であり、もうどうすればいいのかわからない。

シンエヴァの終わりを見届けた瞬間、劇場の座席に座ったまま心臓マヒで死ねれば、それが最も幸福な結末であるような気さえしてきた。同じ想いを抱いた同胞が、劇場で本当に自殺をはかってニュースにならないか、半ば本気で心配している。

なあ、俺のことをいつも見てたんだろ? おまえも不安で不安でしょうがないんだろ? よし、期間限定の慈愛をしよう。シンエヴァ公開直前、エヴァに関する質問へ全レスすると同時に、この嵐の夜に互いを暖めあう目的でエヴァを語る、本当の意味での慈愛をしよう。

ただし、シンエヴァを最高のコンディションで視聴するため、3月7日22時を慈愛の期限と定める。正体を知られたくないワケありの君は、以下の匿名質問箱を使ってもいいし、使わなくてもいい。

2021年3月7日

残り24時間。処刑台へ上がる前に過ごす、最後の一日。

碇容疑者という単語がテレビから聞こえてきて、ビクッとする。

エヴァQを見る前の自分が何を感じていたか、確認してきた

驚くほど、いまの気分と酷似している。
『明日の今頃、ここにいる私はいない。いるのは、シンエヴァを見てしまった私だ。シンエヴァを見るために、この9年を生きたと言っても過言ではないだろう。明日の今頃、どんな気分が私を満たしているのか。それは新たな数年を余命に加えるのだろうか。』

シンエヴァの個人的な見どころは、「旧劇を超えるかどうか」しかない。あの巨大な感情を超えるかどうか。旧劇への言及を徹底的に避けてきたカントクが、衰えた創作パワーを補充するために、新劇を終わらせるためだけに旧劇を引っぱり出してきて、もし中途半端にしやがったら生みの親でも許さねえ……!!

序と破の視聴終了。いま見ると、序は後半ですらまだまだ手堅くアイアンで刻んでる感じ。それに対して、破の前半は思いっきりドライバーをぶん回してる感じ。

ここにも書いたけど、19話のリメイク部分はあれだけ絵を動かして尺も取ってるのに、全体的に薄まっててダルい。ベテランが触るのを怖がって、若手に突っ込ませて成功しなかった感じ。

Qはどうしようかなー。こないだ劇場でIMAX版見たばっかりだしなー。見ると怒りで血圧が上がるのは確実なので、シンエヴァ直前に脳溢血とかで倒れたらシャレにならないしなー。

2021年3月8日(1回目)

時が来たね。

見終わった。

2時間35分がぜんぶエヴァQの続き。

端的に言って、ゴミ。「エヴァらしさ」をはきちがえた、自己模倣のカタマリ。

声優とか関係者とか試写会を見た人たちが、微妙に言葉を濁す感じの裏にあるものがわかった。

2回見るつもりでチケットも押さえてあるけど、もう行かない。

いい年齢をした大人が熱にうかされたみたいにアホみたいな文章を一ヶ月にわたって書きつらねたあげく、責任のある大人が仕事の都合をつけて平日の朝イチからアニメを見に行ったという恥ずかしさ。

「成熟した大人が体験するには恥ずかしいもの」として観客に突きつけるという意味なら、制作者の目論見どおり、私のエヴァンゲリオンはきょう終わりました。

「コピーに魂を込めることでオリジナルを超える」人が、還暦を迎えてアニメ界の大御所になった結果、周囲を見渡したらもうコピーする先が無くなっていたので、自分の過去作をしこしことコピーし始めるのを、劇場の大画面で見せられる悲しみ。

いまは、心の底がシーンと冷たくなる感じで、許せない。
『シンエヴァの個人的な見どころは、「旧劇を超えるかどうか」しかない。あの巨大な感情を超えるかどうか。旧劇への言及を徹底的に避けてきたカントクが、衰えた創作パワーを補充するために、新劇を終わらせるためだけに旧劇を引っぱり出してきて、もし中途半端にしやがったら生みの親でも許さねえ……!!』

朝ドラみたいな、「となりのトトロ」のコピーはあったな。

シンジくんの声優、あれ、ホンマあかんで。事前にかなり大きなネタバレしてるやん。

シンエヴァ、朝イチの回を視聴後に呆然と帰宅して、今まで気を失うように寝てた。

エンタメとして始まった新劇が突如Qで私小説と化し、再びエンタメに路線を戻すかが今回の焦点だった。それが、旧劇と同じくまた私小説としてエヴァを終わらせてしまった。

しかも、浅いリストカットをひとりで手当てして、「すっかり治りましたー」みたいに自傷痕を見せびらかす感じ。

旧劇で「甘き死よ、来たれ」が鳴りはじめた直後の、タイトルとセル画裏返しが連続で流れるシーンを、プロジェクターで体育館の壁へ映す演出には、端的に「殺すぞ」と思いました。

あのエヴァの終わりが、東日本大震災に影響を受けたリブートの大失敗を自己回収する作品って、監督以外のカラー関係者は納得してるの? シンパ側近女性のフィルターによる取捨選択を通してしか進言が届かない、裸の王様になってんじゃないの?

“NEON GENESIS”の”NEON”は”NEW”の意味じゃないとテレビ版のときからさんざん言われてきたのに、「碇君がネオン・ジェネシス、新しい時代を作るのよ」みたいなぞんざい極まる回収ための回収には、もはや「ハア?」という脱力感しかない。

ちょっと、9年前の気持ちを再掲しとくよ。驚くほど、いまの気持ちとブレてないから。

『あのな、難しいことゆうてへんねん! ワシはシンジ君が初号機で大活躍するのを見たいだけやねん! それがあんなワケのわからん戦艦のエンジンにされてしもて、活躍どころの話やあらへんがな! 正味、女子の乗るロボットの活躍は14年前のんでお腹いっぱいやねん!』

『ステーキハウス開いたからゆうてステーキ食いに来とんのに、さんざん待たしたあげくデカいジャガイモをツマに出されて、やれ有機農法やら、やれバターが上等やら、そんな講釈はいらんねん! さっさとブ厚いステーキに塩だけふって持ってきたらええねや!』

『おどれ、まさか続編で被災地の綿密な取材にもとづいたサードインパクト後の街を描写したりせんやろな! まさか、 今回は生きとるか死んどるかわからんかったキャラが街の復興の(加地さんとかトウジとかや)旗振りしてんの見てはげまされるみたいな展開にするんちゃうやろな!』

『どんな気にくわん世界でも我がの気持ちでチャラにしたらアカン、この新しい小さな幸せを守るためにボクは戦うんやとか言い出さへんやろな! サードインパクト後に生まれたトウジと委員長の子供なんかが作劇上のギミックになったりしてな! うう、考えただけでサブイボやわ!』

『そんでラスボスのおとんに立ち向かうみたいな展開にホンマなりそうで、ワシいますごい怖いねん! エヴァQのラストシーンと予告からは、そんなベタな臭いしかせえへんねん!』

いやー、設問が簡単過ぎたことはありますけど、ほぼ9年後の続編を予見してましたねー。

世界の片隅のいちファンの想像が、先回れるような作品であってほしくはなかった。

2021年3月9日

呪いを書いてる。だれも幸せにしない、書いた本人さえ救われない、呪いを。

2021年3月10日

呪い、明日の14時46分にnoteで公開予定です。

2021年3月11日

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

2021年3月12日

拡散してほしい。世界を呪いで塗りかえたい。

批評家どもの「シンエヴァは傑作。続きはサロンで」商法にだまされて、「よくわからなかったけど、褒めていいみたい」と脊髄だけで生きている脳無しニワトリどもが安心してペチャクチャやりだした今のヌルい空気を、呪いで黒く塗りかえしたい。

少し目を離している隙に、けっこうバズッてますね。「炎上してアホに発見されて怒られが発生して閉鎖」がここ数年の目標だったので、嬉しいのと同時に呪いが成就するためには、まだまだケタが足りないという気分もあります。

「こいつみたいのが青葉容疑者になるんだろうな」とか言われてますが、ファンの心性とはすべからく(エヴァ語)ジョン・レノンに対するマーク・チャップマンのそれを特濃として、どれだけそこから薄いかというグラデーションの違いでしかありません。

私のエヴァ語りにむらがるニワカファンどもは、こちらのnote記事をリンク先も含めてすべて読んでから、「:呪」にダ・カーポ(笑)して下さい。ファンの脳内に巣食う、「本物のエヴァンゲリオン」を見せてあげますよ。

あと、2012年に書いたこれもすごい面白いので、「:呪」に共鳴した貴君は読むといいです。

今週末、旧劇のときすでにこの世にいた人と2回目を見るチャンスがあるんですけど、正直どうするか迷ってる。前にどこかで「地獄が続かないのなら、愛を続ける他はない」って書いたけど、憎しみだけを続けるのって、特に年を食うとパワーを使うんですよね。

何回もシンエヴァを見ることで、許したり、認めたり、もしかすると、愛したりする気持ちに傾くのが怖い。「旧劇にふれられたら、それはもう戦争だろうが!」というオールド・ファンの「まごころ」を失いたくないのです。

 雑文「エヴァンゲリオン大学心理学部形而上心理学科」

2021年3月13日

 エヴァ芸人の走りみたいなテキストで小銭を稼いでいた人物がシンエヴァを絶賛していることを知る。「え、それって貴方のアイデンティティの明確な否定じゃないの? もしかして、テレビ版と旧劇の内容を全く読めていなかったの?」とまず驚き、続いてえいと塹壕から飛び出した瞬間、味方(そう、味方と思ってた)に背中から撃たれた兵士の気持ちになりました。やっぱり商業ムラでの生活が長くなると、仕事が回ってこなくなる村八分を恐れる余り、発言がヌルくなっていけませんね。「こんなの俺の愛したアヤナミじゃねえ、予定調和まみれのツキナミだ!」ぐらい言ってキレちらかしてくれてると思ってたのに! かつては舞台上で抑えきれない深刻な衝動からアンプを蹴り倒して破壊していたロックスターが、いまやアンプが壊れないようにヨボヨボの足を当ててソッと倒す「ロック仕草」に終始して、往年のファンがそれに拍手する。そして、初源の熱気を知らない若いファンが、そういうものだと思ってつられて拍手する。あのエヴァなのに、もはやこれ、伝統芸能と化しちゃってますよ。業界内でのポジショニングを気にして日和った言動に流れるぐらいなら、最後まで皮膚病の野良犬でいようとの決意を固くしました。いま思いましたけど、シンエヴァってナウシカ歌舞伎みたいなものかもしれませんね。旧劇を底本にした、エヴァンゲリオン歌舞伎。

 小鳥猊下だお! 仕事つらいお! 謎の定額制サービス「働かせホーダイ!」に加入中なので、もちろん今日も仕事でしたお! いい大人のクセして、月曜日にマンガ映画を見るためにすべての社会的責任を投げうって休んじゃってるし、しょうがないよね(てへぺろ)! いま確認したらnote記事「:呪」の閲覧数が2万、スキが200を超えてました。最初の週末を越えるのに、まずまずの走り出しと言えるでしょう。はてなブックマークのコメントも160くらいついててぜんぶ読んでるんだけど、人気コメントのトップが「クリエイターも人間なのに、『殺すぞ』なんて言葉を使って正気か」という内容でした。ここ10年のインターネットの変化について頭では理解していたつもりでしたが、あまりに慎重に深く深くワールドワイドウェッブの底へもぐりすぎていたため肌感覚ではわかっておらず、いつのまにかズレが生じてしまっていたということでしょう。また、ウマ娘の大流行に乗っかってバズらせたいあまり、売り言葉に買い言葉で「種無し」なんて表現を使ってしまったことも、いまでは後悔しています。これらの過ちを真摯に反省(過ちを認めるのが「大人」だからね! )し、note記事「:呪」について次のようにエラッタを出させていただきます。既閲覧者2万人すべてへ届くよう拡散の方、よろしくお願いします。

 「同記事内に登場するすべての『殺すぞ』を『ブチころがすぞ』、すべての『種無し』を『限りなく透明に近いスペルマ』に読み替える。この効果はインターネットが存在する限り永続的である」。

 ですので皆さんは、当該の表現がお手持ちのデバイスやモニターに表示されるたび、必ずエラッタの指示どおりに赤の極太マッキーで画面へ直接、修正を行ってください。各ユーザーが修正を怠った場合に生じる全ての道義的・社会的責任については、これを永久に放棄します。

2021年3月14日(2回目)

 2回目を見てきた。夜に少しつぶやくかも。

 シンエヴァ、2回目を見てきた。何も言わないでおこうと思ってたけど、無理でした。少し長くなります。「虚心に客観的に」を心がけて見て、印象が大きく変わらなかったのは、良かったのか悪かったのかわかりません。ただ、「監督の人格から切り離した一個の物語として視聴する」という試みは、完遂できませんでした。理由は後述します。私にとってのエヴァンゲリオンとは、「公開時点で他のすべてのアニメ作品から、ぶっちぎりで抜きんでた最高峰」を指すブランドのことであり、旧劇・序・破までは見事にこの高すぎる期待値を越えてきたのです。2回目は初回のような激情から離れることができて、ゴチャゴチャよくわからないアクションシーンも、音楽に集中して見ることでイライラせずにすみました。Qのときもストーリーは意味不明だったけど、曲はすごくよかった。シンエヴァも劇伴だけ取り出したら最高峰だなー、と思いました。でもやっぱりこの出来には、他のだれより監督自身が満足しているとは思えません。「俺は社長で小学生 今日も乗り込むエヴァンゲリオン 我が社の金庫を守るため 我が社の社員の給料が」と、断腸の思いで片目をつぶって完成したことにしたのを、なぜか批評家もファンも大絶賛してて、いちばん首をかしげてるのが社長自身のような気がします。下手に語りだすとまた1万字とかになるので、2回目の視聴で気になったところだけ、断片的に指摘します。

 第三村でアスカがシンジの口にレーションを突っ込むシーンの台詞、「アンタは宮崎駿の言うことを聞いて震災を反映したエヴァを作っただけかもしれないけど、その程度の精神強度でエヴァに震災を反映してほしくなかったわ!」と聞こえました(呪い)。

 アグ波(agriculture Ayanami)がレーションとSDATを渡しに行ったときのシンジさんの台詞、「エヴァQで新劇の初期プロットをメチャクチャにして会社を危機に陥れたボクに、どうしてみんな優しいんだよ!」と聞こえました(呪い)。そっかー、だれもキミに厳しいこと言ってくれなかったんだねー。ふつう他人に優しいのって、その人の人生に関心がないか、下手なこと言ってからまれたくないかのどっちかじゃないかなー。優しくせずにキチっと叱るのって、全身全霊のパワーを使う行為だから、どうなってもかまわない人には、僕はやらないなー。

 補完計画が進行する中、ゲンドウが鉛筆画を背景にベラベラと情動失禁的にしゃべる長広舌(もうこのパート、小説でいいじゃん)だけど、旧劇の補完シーンではソリッドな表現と短い独白で、同じ内容が過不足なくぜんぶ観客に伝わってましたよ。「お前が拒絶した、すべてがひとつになる世界」という台詞(台詞で!)で、旧劇とのつながりが明示されてしまったことは、やはり心の底から許せない。しかし、ダイレクトエントリーなる奇矯なアタオカ実験で妻を失ったことへの悔恨は、正しい形で死者の弔いをできなかったゆえの執着だという描き方は、すごく共感できます。先日、ある親しい人を亡くしましたが、感染症の影響からひっそりと家族葬で送られました。ご遺体のお顔を見て、ご遺体とともに一夜を過ごして、故人を愛した人々の中で読経を聞いて、初めて解かれる執着もあります。このパートだけは、とても今日的だと思いました。

 あと、「イスカリオテのマリア」なんて最高にアタマの悪い単語を言わされて、これが声優としての最後の仕事になるかもしれないなんて、冬月の役者さん、かわいそう。

「監督、結局マリが何者なのか作中で説明できてませんよ」
「アホ、マリは俺のヨメだろうがよ!」
「し、しかし監督、それじゃ観客が納得しませんよ」
「適当に聖書の単語を並べときゃいいんだ! 俺やお前なんかが考えるより、よっぽどうまくエヴァファンどもが説明してくれんだよ!」
「そんな無責任な! アマチュアの発想を上回ろうとする努力を放棄するなんて、プロ失格じゃないですか!」
「うるせえ、言われたとおりにしろ! 俺がいちばんうまくエヴァを創作できるんだ!」

 それと、シンジが三本目の槍?を手に「ネオン・ジェネシス」って言うの、作中の人物の視点からでは出てこない単語で、これ、みんなまたマジメに理由を考えてんの? 「新たな創生記」って意味で言ってんなら”New Genesis”だし、仮にシンジが英語に堪能だったとしても出てこない台詞で、テレビ版のタイトルから引いてきた以外の回答がない。考察班(笑)の皆さん、ご苦労様としか言いようがない。

 「:呪」に「普通の映画としては佳作から凡作の間」って書いたけど、例の波打ち際に8号機でマリが迎えに来て、事象の地平面から現実へ戻ったあと、この映画の構成でもし「普通の映画」だったら、シンジのいない世界で第三村で下船したクルーと人々が共に生活する様子を描いて終わり、じゃないですか。あれだけ余計な尺を使って描いた村の人々が、無事だったかどうかも知らされないまま、クルーたちのその後にもいっさい触れずに、宇部新川なんて一般の客にはなんのことだかわからない町の空撮で終わる。守るべき人々や生活なんてのはQへのエクスキューズ(と、宮崎駿への目配せ)に過ぎず、監督には元よりどうでもよかったことが、この展開で明らかになります。旧劇のときすでにこの世にいた人にラストシーンのことを話したら、「そうなん? あれ、第三村が発展したんやと思ってたわ」ですって。まあ、ふつうの人がふつうに見たらそうなりますよね、ふつう。「見るべき第一はスクリーンの中であって、作者個人とからめて読むのは違うと思うので……」って、おいィ? お前らは今の言葉聞こえたか? お前、この唐突なラストシーンをどう説明すんだよ! 旧劇の内容と切り離してさえ、補完計画以降は普通の映画として読解させるような構成になってねーんだよ! 序と破はキチンと「普通の映画」として作ってあって、こんな読み方を許さなかったし、じっさいだれもしてなかったじゃねーかよ! Qといいシンといい、物語の作り方に問題があるんだよ! 「普通の映画としてさえ凡作から駄作の間」に格下げだ!

 監督、資料を管理する会社とか特撮のための博物館とかでモノを残すのにご執心で、十年後のエヴァ回顧展とかで「ホウ、これがあの伝説の空撮に使われたドローンの実物ですか」とか、渋川先生みたいな口調でオタクどもがニチャクチャやってるのが目に浮かぶようです。しかしながら、そこに2009年7月から2011年3月の間に制作されただろうモノは展示されないに違いありません。それはまるで政治家や官僚と同じ手法で、監督が「正しい歴史」を自由に編纂できる無謬のオーソリティと化してしまったことを意味します。それは「悲しい」ことですが、新劇の結末がこうなってしまったいま、とくだん「残念」なことではありません。2回目の感想は以上です。

2021年3月15日

 エンジェル・ブラッド(サブイボ)! アグ波(agriculture Ayanami)はぜひ流行らせていきたい! 小鳥猊下であるッ!

 2回目を見終わってから、いろいろと感想を読んでるんだけど、ストーリーの中身ではなくてカップリングで炎上している界隈があるんですねえ。中でも、なんの伏線も無いまま唐突にアスカとケンスケがくっついたことへ、強い憤りを表明している方が多いようです。あの、伏線はちゃんとあってね、旧劇で撮影されながらオミットされた実写パートで、生身の声優がキャラ名で生々しい(と、監督が信じる)女性の実態を演じるドラマがあるんだけど、そこでアスカと同棲してるのがケンスケ(トウジだったかも?)なんですよねー。脚本段階では「うえー、口の中にまだ残ってるみたい」とか「いい年して、まだエッチなビデオ見てんの?」とか、監督が女性声優にエロい台詞を言わせたい気持ちがムンムンに漂っていて、女性の下ネタ的発言をカセットレコーダーで収集している「えの素」の小さいオジサンを否応に想起せざるをえません。それにしても、こんなエヴァファンにとって必履修級の実写パートの存在を知らないで、よくノコノコと完結編を見に行けましたね! 「25年ROMってろ」がオールド・ファンからニワカの諸君に贈るまごころの言葉です。

 あと以前、MIYAMOOが出演しているとおぼしき裏ビデオの話をしたことがありましたけど、ブンダーを直下から撮影していたケンスケが急にアスカへカメラを向けて、アスカが「もう、撮らないでよ」って手で顔を隠すシーンがあるじゃないですか。初回も2回目も、なんかこの場面に既視感があるなーって思ってて、まさかあの裏ビデオに同じ場面があった……? もはや確認する術(VHSデッキ)は無いんですけど、もしこれがシン(真)だとするなら、監督のMIYAMOOに向けた執着、怖ッ!

2021年3月16日

 「黒波」なんて、エヴァQからアップデートされていない中二病くさい名前じゃあないかい? 今日からオマエは「アグ波」だ! 農業を意味するアグリカルチャーから2文字をいただいた、「アグ波」だよ! 「アグ波」流行らせ隊であるッ!

 シンエヴァ、2020年6月27日か2021年1月23日に公開されてれば、「:呪」を含めた数万文字にわたる雑エヴァ語りはぜんぶ無かったと思うんです。恨みごとのひとつは言ったかもしれませんが、ここまで長大なものにはならなかったでしょう。2012年のQから半年くらいは昏い感情が胸中に渦巻いてましたけど、そこから8年ばかりは時折の言及こそあれど、エヴァへの関心を基本的に失っていました。それが二度にわたる延期のせいで、潜伏感染していたヘルペスみたいにエヴァが再発したと思ったら、みるみる重篤化して心を侵食していったのです。なので、寛解までにはもう少し時間がかかりそうです。エヴァから現実へ帰る(笑)ためのリハビリだと思って、もうしばらくは「呪い」におつきあい下さい。まあ、正確には1日の3分の2ほど労働者として「現実」をやった後、床につく前の1、2時間の「夢」でこれを書いているのですが、資本家や使用者の方々には伝わらない話でしょう。

 2回目の視聴を終えて、話の内容を反芻してて気になったところのひとつに、クルーを全員退艦させた後で巨大アヤナミへとカミカゼ特攻する場面で、ミサトの一人称が「お母さん」になったことがあります。まあ、シナリオの流れで盛り上げるためにそうしてるってのは百も承知なんですけど、昭和の理想郷みたいな第三村の描写とかを見せられてからだと、文句のひとつもつけたくなっちゃう。特に現代の女性にとって、「お母さん」っていうのは子どもといっしょのときにかぶるペルソナのひとつであって、ひとりのときに自分を「お母さん」なんて言わないと思うんですよね。「お母さん」であることが骨がらみのアイデンティティと化すのは、それこそ磯野フネみたいな昭和の専業主婦ぐらいで、悪い言い方をすると少年だった監督が見上げる母親のイメージが平成・令和・還暦を越えて更新されていないのが、このシーンを通じて伝わってきます。これを「子育てをしてないから」と揶揄するのは、監督の放ったメッセージと同じレベルで下品だから言いません(言ってる)けど、別に子育てをしなくたって現代社会をふつうに生きてればふつうに更新されそうな価値観ではあります。むしろ、こんな現世のよしなしごとよりも魅力的な、いにしえの映像世界へと耽溺する、「日本のおたく四天王」の二つ名を持つ監督の面目躍如としておきましょうか。

 映画全体の構成バランスを考えたとき、カメラが最後に第三村へ戻ってこないのはおかしいと指摘しましたが、宇部新川の空撮に至るまでのシーンって、昭和の野暮ったさみたいのに映画全体を浸してきたのに、ここだけすごく令和っぽい(神木くんのせい?)というか、カッコつけてると思うんですよね。批評家の皆さんは、「この印象の断絶と飛躍こそが監督のねらいである」とか語るんでしょうけど、そんな商売と関係のない昔からのいちファンであり観客に過ぎない私には、監督がかつて「紅の豚」に向けた批判である「宮さんはパンツはいてる。その最後の一枚を脱ぐのが作品作り」と同じものを感じます。旧劇からさんざんカッコつけてきたけど、昭和のフィクションが発する重力から逃れられない、いつまでも昭和が輝いているように見える古びた感性こそが俺の正体なのだと、「パンツを脱いで」さらけださないといけなかった。つまり、「ミサトの特攻でブンダーが爆発する瞬間、呼ばれた気がして振り返るリョウジ」みたいなベタベタのベタな親子の絆の描写が必要だったし、キザッたらしい空撮ではなく「第三村の人々と夏祭りで『エヴァンゲリ音頭』を踊る浴衣姿のブンダークルー」をラストシーンに持ってくるべきだったし、エンディングテーマはUTD氏が藤圭子ばりのこぶしをきかせて歌いあげる「びゅうてぃふる・わぁるど(艶・怨・演歌ver.)」であるべきでした。半ばおもしろおかしく読ませるための冗談ですが、半ば本気でもあります。それでは、今日はこのへんで失礼することにしましょう。明日も「現実」がありますので!

2021年3月17日

 このアグー豚のチャーシュー、美味しーっ! (靴墨で丸く口ヒゲを書いた股引ハラマキが舌足らずに)え、いまチミ、「アグ波」っつった? 小鳥猊下であるッ!

 シンエヴァ肯定派の意見を読んでる。だいたい3つくらいに分類される感じでしょうか。まず、「疲れたから終わったことにしたい派」ですが、気持ちはわかります。いまさら旧劇の頃のように感情を沸騰させても、現実に何も得るところはありませんものね。私はどうも教務課の手違いで2度目の留年となったみたいですが、ご卒業おめでとうございます。次に、「還暦を過ぎた監督の労をねぎらう派」ですが、クリエイター職に多いようです。非クリエイター職からすれば、なんで旧劇で俺たちを全力で殺しにきたエヴァンゲリオンが、肩を貸してもらって介護されてんだというやり場のない憤りを感じます。年老いた毒親が肉体の衰えから生きることへ弱音を吐くのに、ちょっとは優しくしてやらなきゃいけないかなと譲歩させられてる感じが許せないですね。しかしながら、この二者は出されたものが自分の想像を越えなかったという点では共通しています。出力された感想に手心を加えたかどうかの違いしかないので、「否定派」と基本的には同じ立場だと言えるでしょう。そして最後に「大絶賛派」ですが、公開直後によーいドン!で駆けだして、「最高だった!」「監督ありがとう!」と大声で叫び回る段階が過ぎて、ジワジワと後ろから否定的な意見に追いつかれはじめていて、いまはレース場を引き返して、それらを順ぐりにけたぐりで潰しにいってるところでしょうか。「アナザー・インパクトとかアディショナル・インパクトとか、出てくる用語の響きがイマイチなのはわざとで、エヴァを終わらせるために作品そのものを無化しようとする意図がある」だとか、「補完計画中のイメージはすべて、フィクションであることを強調するためにわざとクオリティを下げて作っている」ーーええ? 「自らが率いて十年が経つ制作会社のCG班の実力をそのまま演出として使っている」ならまだわかるけど、すごいなーーとか、薄々は作品の弱点として気づいている部分をガードしに行きながら、攻め込まれてる個所の戦線を回復しようと躍起になってる感じが見ていて辛いです。大きな怖い声を出せば相手は言うことを聞くだろうという、お得意のマッチョイズムを貫きとおせばいいものを、ベトコンにつりこまれる米軍みたいに隘路へと入っていくのは、それこそ相手の望むところで得策ではないとアドバイスしておきます。枝葉末節に触れず、「シンエヴァの凄さがわからないヤツは、バカ!」を大声で繰り返すのが最善の策でしょう。そこでは勝てませんから。結局のところ、「絶賛派」も「否定派」もどう解釈したいかの違いだけで、見ている映像の中身が同じであることが「絶賛派」からの丁寧な指摘でわかりつつあります。1回目の視聴では、あまりに感情が沸騰していたのでエンドロールの直後につい「ゴミ」と大きめにつぶやいてしまったのですが、旧劇のときにはこの世にいなかった人の反応は「え、そんなに? わたしは面白かったけど?」でした。2回目の視聴では、旧劇のときにすでにこの世にいた人の反応は、「長いなーとは思ったけど、気になるところもなかったし、楽しく見れたわ」でした。この2人は一週間が経過して、もうまったくシンエヴァのことを話題にはしませんし、シンエヴァを見たことさえ忘れてしまったようですし、リビングのパンフレットはすでにナベ敷きとして使われています(3冊買ってあるから安心ですね)。大手検索エンジンの映画レビューに「長かったけど、面白かった!」と書いて4をつけて、その日のうちにシンエヴァのことが頭から消えてしまう人々が観客の95%で、残りの5%が1か5をつけて、もう見終わったのに延々とそこへと言葉を費やしている。つまり、シンエヴァを「見る」という行為だけで満足できず、何かを「語って」しまっている時点で、我々はみんな同じ穴のムジナなのです。シンエヴァは監督自身によって壊された、まごうことなき「ゴミ」ですが、どうかしばらくは仲良くやっていきましょう、ご同輩!

2021年3月18日

 ねえねえ、聞いて聞いて! 「エヴァQ」のQは「阿Q正伝」のQからとったらしいよ! (靴墨で丸くヒゲを書いた股引ハラマキが舌足らずに)え、なに、いまチミ、「アグ波」っつった? 小鳥猊下であるッ!

質問:本物だ… 本物の方の言葉を拝めるの嬉しい…。文章が楽しい。かように色鮮やかで鋭利な、言葉と感情のアルバムに出会えたことに重ねて感謝します。

回答:過分な評価を、とは謙遜しません。私のエヴァ雑文集は、まさにファン歴25年の精髄、貴方の表現する通りの逸品なのですから! しかしながら、この文章が「本物」だとわかるのは、貴方が知性と審美眼を兼ね備えた「オタク」だからなのですよ。たいていの「ふつう」の方は、「なんやこれ、エヴァの感想やいうから見てみたけど、目のすべる読みにくい文章やなあ」と文句を言って、ブラウザの戻るボタンを押して、終わりです。私は怪文書の類として、「:呪」をはじめとしたエヴァに関するテキストを書いているつもりです。25年前、テレビ版放映終了から劇場版公開までの間、無数の怪文書が乱れとびました。そのうちのひとつを未だに手元に持っていますが、だれかにFAXされたとおぼしき手書きの文書で、何十回もコピーを繰り返した結果、文字は判別の難しいまでにかすれ歪み、書かれている内容を含めて、流行りの言葉に乗っかっておくと「呪物」としか言いようのないシロモノです。そういえば、出版物に収録される前から、テレビ版の企画書のコピーも持ってましたね。いま思い返すと、いったいどこが出元だったのか、怖くなります。エヴァにまつわる私の文章も、SNSのサービスを使ってきれいにまとめられて、もしかするとコンテンツ然として見えているかもしれませんが、私の中のイメージは25年前、関係者と称する人物がテレビ版作成の裏側を赤裸々につづった、あの「呪物」としての怪文書、判読の困難なA4の紙束なのです。

 雑文「建築物としてのエヴァンゲリオン」

質問:監督はシン・エヴァについて賛否両論のふきあれる今の状況をどう見てるんでしょうか。

回答:おっ、ええ質問やな。ケトゥ族のスピーカーがウエメセで多用するところの「グッド・クエスチョン!」やで。「シン・ウルトラマンの編集作業と追加撮影で忙しくて見てない」がホンマのとこやろうけど、こんな回答はつまらんし、オモロイかオモンナイかがワイら関西人の基準やから、オモロイほうで話を進めていくで。ふつうの監督でふつうの映画やったら、興行収入が評価のモノサシになるんやろうけど、コイツは腐ってもーー「腐ってやがる。遅すぎたんだ」ーーあのエヴァや。ふつうの監督やないし、ふつうの映画やない。カスのQかて、興収だけでいうたら前作を上回っとる。あれや、ドラクエシリーズでいうところの7みたいなもんや。どっちも売り上げ最高なんが、いっちゃんおもんないねん。アンタの質問への答えはズバリ、シンエヴァの「全記録全集」が発売されるかどうかで、監督がファンの感想に何を感じたかがわかるいうことや! Qとの合体版か分冊で鈍器みたいな本が出版されるんやったら、観客の受け止め方が監督にとって好ましいか許容範囲内だったということやし、もし出版されへんのやったら、耳の穴から湧いたウジが這い出てくるみたいな脳天ファイラーの結末に、監督自身が救われんかったことの証明になるんや。要するにやな、Qからの長い長い地下レジスタンス活動の末、あんなダボハゼみたいな完結編を公開されてしもた以上、「否定派」諸君に残されとる最後の勝利条件は死なばもろとも、「全記録全集」の出版阻止だけということや。オマエら、なに銃口さげて下むいて涙ながして抵抗をあきらめとんねん! まだ勝てる道が残されてんねんぞ! まだまだやり方がナマぬるいんじゃ! これが最後の祭りや、もっと盛大に「:呪」を拡散して、ワアワアやったらんかい! 大人アスカの破れたラテックス・スーツの隙間から手ェ突っ込んで、おっぱいモミモミしたろかい、ワレェ!

2021年3月19日

 UGGのブーツ、可愛いーっ! (靴墨で丸くヒゲを書いた股引ハラマキが舌足らずに)え、なに、いまチミ、もしかして「アグ波」っつった? 大人アスカの破れたラテックス・スーツの隙間から手ェ突っ込んで、鎖骨ギシギシいわせたろかい、ワレェ! 小鳥猊下であるッ!

 シンエヴァ公開から10日以上が経過して、さすがに反応が薄くなってきた。アディショナル呪詛、続けるべき?
 総括や! 革命戦士として、監督に総括を求めるんや! 85.1%
 還暦を過ぎた作家に奴ら加減ってものを知らないのか! 4.3%
 痛いやろけど怪我したらもう呪詛を吐かんですみます! 10.6%

2021年3月20日

 ケンスケについて書いてたら、また感情が沸騰(フットーしちゃうよう!)してきて、「第三村節考」みたいになってきた。すでに五千字に迫る勢いで、公開するかどうかはアンケート次第ですが、その際は「アディショナル呪詛」から別記事に分離するかもしれません。

シンエヴァ「第三村節考、あるいはケンスケについて」呪詛

2021年3月21日

 またシンエヴァのこと書いてる。抜いても抜いても溜まる腹水みたいなもので、病気由来のものであることも理解してる。みなさんにとっては悪臭を放つ何かなのかもしれませんが、苦しむ患者にはもう出なくなるまで吐くぐらいしか方法がない。でも、「エヴァは人生」ですし、人生の一部を壊された人の語りとしては、比較的おだやかな方なのではないでしょうか。

「さながら『アウグスティヌスの告白』といったところですね」
「なんだって? アグリコラとしての綾波レイを意味する略称『アグ波』のことを君は言っているのかい?」
「い、言ってません。言ってない」
「つまり、『アグリコラ綾波レイ』では言いにくいので、『アグ波』というわけだ。なるほど、これは発明じゃないか!」
「言ってないよーッ!」

 年明けからエヴァに心を囚われ続けていたため、ずっとプレイが止まっていたドラクエ11Sをようやくクリアする。30周年の集大成として、ロト3部作へと至る「神話」が描かれており、MMORPGやスマホゲーなど、様々な枝葉へ派生していくドラクエシリーズの依るべき大樹の幹、堂々たるフラッグシップとして作られたことが伝わってきました。昔からのファンと新しく合流したファン、どちらも楽しめるように配慮しながら、ロト3部作につなげるために少々強引だったり、あとづけの部分もありますが、ドラクエという偉大なるマンネリズムへのレスペクトを保ったまま、余計な改変への色気を見せずに、キッチリとお話を終わらせました。ランスシリーズとはまた少し風呂敷の畳み方は異なりますが、長く続いたシリーズの自走性やキャラクターの持つ人格を尊重しながら、作り手が作品そのものと敬意のある対話をして終わらせた点では同様と言えます。以前、ハンターハンターの作者が作中のキャラ同士の掛け合いでストーリーを作っていくという話を紹介したことがありますが、これはつまり、「虚構のキャラといえど一個の人格であり、それを作者が改変することは基本的にできない」という強い信念からなされていて、同作が持つ魅力の根幹でもあります。

 この態度の対極にあるのが、エヴァQとシンエヴァだと指摘できるでしょう。変えてはいけない作品の中核をなす深い場所へ手をつっこんで、作り手の語りたいストーリーを実現するために、シリーズの自走性とキャラクターを壊したことは、本当に罪深い。だれかの感想に「シンエヴァで『碇シンジ』というキャラクターは1秒も登場していない」というものがありましたが、全面的にその意見に同意します。碇シンジという尊厳ある人格はたぶん、シンエヴァが始まる直前、ロボトミーで消されたのです。フィクションの登場人物を「作品の外」で殺すことを裁く法律はありませんが、しかしそれは倫理的に許されるのでしょうか。物語の中盤、ブンダーの監禁部屋で、シンジがアスカから「なぜ私があのとき怒ったかわかる?」と聞かれて、「3号機に乗っていたアスカを生かすことも殺すことも自分で決めなかったから」と答えて、「やっとわかったのね」とそれが正解みたいに受け入れるやりとりがありました。私は最初にこれを聞いたとき、意味不明すぎてワケがわかりませんでした。3号機との戦いでシンジは自分の意志で「アスカを殺さないこと」を決めていたし、2人目の綾波を救出するシーンでも自分の意志で「レイを助けること」を決めていた。破の段階では、明らかに「主人公の決断」として肯定的な視点で描かれているのに、Qに移った途端に「必要な戦いを放棄したばかりか、ひとりの少女以外の破滅を願った」と、他ならぬ作り手その人によって解釈を反転させられてしまう。もはやシリーズとして、ストーリーの一貫した内的必然性は失われており、作り手の意図で各キャラクターを高次で洗脳する、いわば「魂の殺人」が行われたとしか思えません。

 シン・ゴジラが成功したのは、余所様の著作物なので壊してはいけない枠組みから距離を保てたことが大きかったのでしょう。シン・ウルトラマンも、この点についてはまず監督自身の作品に対する深い敬意があるため、安心できます。余談ながら、もし仮に映画の終盤でピンチに陥ったウルトラマンが自らマスクをはぎとり、その下から監督の素顔が現れる展開になって、昔からの特撮ファンが騒然となる様を見ることができれば、シンエヴァのことを許せる気持ちになるかもしれません。しかしながら、エヴァについては自社で権利を持ってしまったことで、「どこまでも自由に枠組みを壊せる」と考えてしまい、ストーリーは監督の自我に隷属し、キャラクターたちの人格へのレスペクトは失われた。監督は本邦随一の昭和特撮オタクであり、絵作りの天才だとは思いますが、ストーリーの語り手としてはまったく信用がなりません。「じゃあ、どんな続編だったら満足したの」と言われてますが、シンエヴァを拒絶する人たちが希望しているのはたぶん同じ中身で、脚本・設定・作画を副監督と旧劇の量産機戦を担当した人にすべて任せて、監督には編集権だけを預けた陣容で制作される、破の予告通りに語られたヱヴァンゲリヲンなのです。正味の話、シンプルな話をややこしくしてんのは、いったいどいつなんやってことやがな!

 あと、ブンダーを巨大アヤナミへ特攻させる場面で、イスカリオテのモヨコ(キャラ名なんだっけ?)が「ユイさん、人類の科学技術はここまできたよ」みたいなこと言うんだけど、あの瞬間の「ハア?」っていうシラケっぷりったらなかったです。序破のような人類の現在と地続きに見える地点から丁寧に設定を積み上げたのなら、まだ話はわかりますよ。Qシンの「リアリティが底を割った世界」でそれを言われても、「ナディアでいうところの発掘戦艦は、古代人のテクノロジー(笑)で今の人類とは何の関係もないし、もっと言えば君はただのアニメキャラに過ぎないのに、なんで急に人間の代表みたいな顔で科学技術を語りだしたの?」としか感じなかった。

 それとさあ、もう「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になってるのわかった上で細かい話するけど、カヲルがrealityとimaginaryを並列の対比で語ってるところ、どっちも名詞で使ってるなら「現実」と「虚数」って意味なのに、作中では後者を「空想」「想像」の意味で使ってる感じなんですよね。なら、imageかimaginationが正しいんじゃないの? 元より定義とかどうでもよくて、自分にとって音の響きがカッコいいかどうかだけで語彙を選択してるんですよね。百歩譲ってそれは作り手のクセとして呑みこむとして、なんで高学歴の批評家たちが同じレベルのアホになってその語法を受け入れて、その語法で話をしてんの? 贔屓の旦那衆からの、最終回へのご祝儀にもほどがあるわ!

 質問:最後のほうで急に出てきた渚司令ってなんのことですか?

 回答:もう考える気も失せてるけど、ガイナックス時代の監督がゲンドウで、カラー時代の監督がカヲルって言いたいんじゃないですか、どうでもいいけど。カヲルと言えば、パンフレットで声優が放った「テレビシリーズのときから考えていたとしたら、年月の長さも含めて、すごい伏線回収ですね」みたいな挑発的発言が最高でした。「建て増し」「あとづけ」「路線変更」のコンボに嫌気がさしていた私は、当事者のこの遠回しの皮肉へ大いに溜飲を下げました。

2021年3月22日(NHKドキュメンタリー)

見てる。抽象的な言葉で部下を煙に巻いて、無駄な長時間労働を強いるタイプの上司。監督の言葉ひとつでお通夜状態になったときの、現場の表情ったらないですね。

スタッフによる、奥歯にモノが挟まった遠回しの批判。「頑張りが足らない」って、どの口が言うねん。あいだにシン・ゴジラを挟んで、アニメと水と油の手法を手に入れたことがよくなかったね。

「いま自分のこと、かわいいって思ってるでしょ?」。奥さんのインタビュー、すごく良かった。同じクリエイターだからこそ、彼のエゴを理解できるし、許せるし、助けようと思ったんですね。ちょっと泣ける。

ビデオフォーマット版を使うなよなー。

見てるのはコアなファンだけなんだから、エヴァのこんな復習いらないんじゃない? もっとパワハラ上司の側面を写してよ。

ネット掲示板、見てたんですねえ。「2階建てのスタジオから飛び降りても死ねないよ。関心を引くためのフリだよ」ってスタッフに突っ込まれてましたね。

自分に無いものを吐き出そうとしたことが原因ですよ。

奥さん、愛ですね。本当に、彼のことを愛してるんですね。

わかってましたけど、東日本大震災がエヴァに与えた影響については完全にスルーしましたね。宮崎翁と現場スタッフからの赤裸々な証言を聞きたかったんですが!

社長が周囲に理解を求めんなよ。社長がするのは指示だけだよ。

脚本からやりなおしすぎ。副監督、えらいなあ!

スタッフへは遠回しにしかいけないけど、声優には厳しくいける監督。実写なら俳優に厳しくいけるのが、気持ちよかったのかな。

指示が抽象的すぎる。おまえが自分でやれよ。

「もう間に合わない。作り上げることが最優先」。ぜんぶ自分が招いた結果なんですけど、カッコいいナレーションで肯定的に描かれて、良かったですね。

「物語は始まらない」。シンエヴァがエヴァ世界にとっての東日本大震災であることを裏書きする言葉。

MIYAMOOの台詞を聞いて、HEAVEN状態の監督の表情。

「甘き死よ、来たれ」を流すんじゃねえ!

監督とMIYAMOOのやりとり、もっと見たかったなー。

見ろよ!

奥さん、いいなあ。監督は自分に向けられたこの愛を、シンエヴァでは表現しきれていないと思いますよ。

奥さんの愛に支えられて、SF作品として正しくエヴァを終わらせれば、監督は男を上げる(昭和的表現)ことができたのに、奥さんの支えを作品そのものへと同化してしまった。本当に、残念です。

脚本の書き直しとかで毎回わざとギリギリまで追い込まれる状況を作ろうとするのって、ある種の病気だと思いますよ。少なくとも社長の態度としては、完全にアウトだと思います。

組織内に監督と同格の存在が副監督しかいなくて、彼が「恋女房」のキャッチャーみたいにいつも献身的に動いて、建設的な提案かワガママかのジャッジをしなかったことが、シンエヴァという作品の空気に良くも悪くも表われている気がしました。

2021年3月23日

 昨晩のドキュメンタリーを思い出してる。「失敗の舞台裏」として興味深く見ました。監督の意見はどんなものでも絶対で、女性スタッフの表情は「次に何を言われるのか」と恐怖にこわばってて、男性スタッフは「ボクは怖くないんだぞ」という虚勢から裏で社長のこと小馬鹿にしてて、社内の雰囲気はすごく悪いように見えました。「作品至上主義」はじつに結構なことですが、シンエヴァの仕上がりを見ると、今回ばかりはとても成功したとは思えません。エヴァ序破やシン・ゴジラに表出されていた、「人間は個人としてはダメだけど、組織ならば大きなことができる」というポジティブなメッセージはどこから出ていたんでしょう。その影響を与えた人物は、退社しちゃったのかな。社内には昔からの仲間と年下のスタッフしかいないみたいで、監督をいさめてくれる年上の相談役がそばに必要だったんでしょうね。社外や沖縄ではなく、すぐとなりで伴走してくれるペースメーカーが。今回はそれが奥さんだった。ジブリのプロデューサーにシンエヴァの脚本を読んでもらっていたという話を聞いて、つくづくそう思いました。旧劇とエヴァQは自分の男性が出すぎていないか確認するために社外の女性に脚本を読ませ、シンエヴァは妻という女性からの影響が出すぎていないか確認するために社外の男性に脚本を読んでもらった。制作に追いつめられると「社内から監督の姿が消え」、スタッフに頼らずすべて自分でなんとかしようとする。スタッフもどこかでそれがわかってるから、監督がすべてを差配しようとするまで真剣に仕事をしない(ちゃぶ台返しで無駄になるから)風土ができてしまっている。ゆえに、監督の期待を越える人物は育たないし、育ったとしてもそのシステムに嫌気がさして、辞めていってしまう。副監督の発言にもありましたが、監督は生粋のクリエイターであって、人材や組織を育てるような人間ではないように思います。若いスタッフの「これで最後だから」という言葉は、エヴァンゲリオンだけに向けられたもののようには聞こえませんでした。

 例のドキュメンタリーの感想つづき。会議の場面がいくつかありましたが、監督が一方的に何か言って、スタッフ全員が神妙な顔でシーンとそれを拝聴するみたいなのばかり。もっとケンケンガクガク、怒鳴り合いみたいな現場を想像してましたよ。制作の終盤、監督が涙目になりながら「こんなに理解されてないとは思わなかった」などと乙女のようなことを言うのが、会議で唯一あらわれた「感情」でした。シンエヴァが監督一色に染められたのも無理からぬことかと、少しだけ同情しました。会議でのダンマリに対して、監督がいない場所でのスタッフのゆるみっぷりたら見ていられないほどで、我ながら不思議な感情ですが、監督の代わりに連中を怒鳴ってやりたい気持ちになりました。「意見を出せって言うけど、結局おまえの考えるベストを後から出してくるんだろ?」と思っている部下に囲まれているときのトップの辛さって、わかるような気がします。まあ、トップのそれまでの運営の仕方が悪いんですけど、意見のすべてを直接にか間接にかで潰され続けるうち、だれも仕事の結果に責任を感じない操り人形になって、会議そのものが形骸化しちゃうんですよね。「それで、正解は何なんですか?」といった具合に、置かれた外的状況に向けた解決策ではなく、トップがあらかじめ持っていると部下が信じる正解を探しだすんです。もっとも先鋭的であるはずのクリエイターの世界で、それが行われているのを見るとは思いませんでした。ああいう自分の考えに固執する上役ーー監督は超弩級ですがーーってどの組織にもいますけど、二人きりで(みんなの前じゃ「恥をかかされた」気持ちが優先しちゃうからダメ)真正面から失礼なぐらいのトーンでガツンと直言した方がいいですよ。そうやって、もし懐の中に入れてもらったら、意見を求められるようになるし、助言も半分くらいは聞いてもらえる。でも、監督をクリエイターとして尊敬して、みんなが監督にあこがれて入ってきた、ある意味で完全に上位下達の組織では、その枠組みの外に出るのが難しいんでしょうね。なので、意見をできるのは昔からの盟友しかいなくなり、その朋友たちも監督の下に残ってあくまで支え続けるか、監督の下を離れるかの二手に分かれてしまった。そして直言をできる人間が組織内にいなくなり、監督は制作のある時点で頼みできない社員たちに期待することをキッパリと止め、結果としてシンエヴァは旧劇以上に監督の実存へと依拠したインナーワールドへと変貌したのでしょう。

 あのドキュメンタリーを見てから、老いた両親に優しくせねばと思う気分に心が寄ってきて、エヴァに妥協してエヴァに手加減しなければならないことが、本当に辛い。なんぴとの登頂をも拒む孤高の冬のエベレストが、いまや観光客にあふれる春の天保山と同じになったことを認めるのと同義なのですから!

 余談になりますが、UTD氏のインタビューも見たかったなー。出てくる女性が表情のひきつった部下と奥さんしかいなくて、もう少し距離のある人物(女性)から現場と監督がどう見えているかを知りたかったです。

2021年3月24日

 二週間以上も荒れ狂って、そろそろ冷静になってきた。肯定派はシンエヴァを単体の映像作品として見ていて、否定派はシンエヴァを連続した物語として見ている。だから、どこまで話しても平行線で、決して交わらない。「物語派」として、言いたいことはだいたい吐き出したので、そろそろこの「呪い」も終わりにしたい。正直なところ、語ろうと思えば永久に語れることはわかっている。しかし、この二ヶ月というもの、貴重な人生のリソースーー時間と情動ーーをいちアニメ作品へ注ぎすぎてしまっている。ここは私の戦場ではないし、そろそろ「エイヤ!」と叫んで、書くのを止める頃合いだろう。ちょうどいいタイミングで例のドキュメンタリーが放映されて、いま呪詛としての体は半透明に消えかかっている。ときどき単発のエヴァ語りツイートはするかもしれないけど(するんかい!)、シンエヴァに関する長めの感想はもうおしまい。2021年1月15日から3月24日までの69日間、合わせて10万字近い妄執の旅におつきあいいただき、ありがとうございました。

 蛇足ながら、感情的な罵倒にすぎるという「:呪」に対するご指摘への反省を踏まえ、「第三村節考」ではケンスケに感情移入させることで、シンエヴァの作劇がいかに歪かを証明してから罵倒するテクを使ってみました。こっちも拡散してね。小鳥猊下からシンエヴァを呪うみんなへの、最後のお願いだよ! それでは、カラーが資金繰りに行き詰まる、もしくはWアンノの破局によって新たなエヴァが再起動(笑)するその日まで、さようなら! 大丈夫、「さようなら」はまた会える「お呪い」(半透明の体が薄くなって、スーッと消える)!

THE END OF CURSE OF NEW EVANGELION (臭激、じゃない、終劇)

カルテ「シンエヴァ・リカリング呪詛(2021.3.26~)」

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

*以下のリンク先を読んでおくと、呪いの効果が高まります。

アニメ「2021年のエヴァンゲリオン」雑文集(1/25~3/5)

 旧劇のときにはこの世にいなかった人と席をならべて見て、終わったあとはいっしょに少し話をして、本作を目にすることのないまま、この世を去った人たちに思いをはせました。旧劇からのファンと新劇から入ったファンでは、シンエヴァの受け止め方はかなり違うだろうことは理解しています。なので、ファースト・インプレッションでの言い過ぎをまず少し修正しておきますね。

 「一般的な映画としては佳作から凡作の間くらいかもしれないが、エヴァンゲリオンとしてはゴミ」

 2時間35分の半分ぐらいを過ぎたあたりから、もう腕時計ばっか見てました。私小説とプロダクトを両立するダブルエンディングは儚い妄想であり、「One Last Kiss」と「beautiful world(da capo ver.)」もスタッフロールで2曲続けてベタッと流すだけで、作劇と関連した効果的な使われ方というのはありませんでした。

 昨年、先行的に公開された冒頭10分の映像を見たとき、もしかすると「破滅を目前にした人類の共闘」、あるいは「エヴァ世界の拡充(GガンダムならぬGエヴァ!)」を目的としてパリが舞台に選ばれたのではないかと少しだけ期待していましたが、まったくそんなことはなく、ただエッフェル塔をFATALITYとして用いた戦闘を描きたかっただけで、ナウシカの再アニメ化でクシャナ殿下のこのアクションだけを映像にしたいと宮崎御大に申し入れて、「オマエはそんなことだからダメなんだ!」と叱られたときから、1ミリも前進していないことがわかりました。

 序盤では、エヴァQにおいて語られなかった舞台の裏側にあったものを丁寧に描写していこうとするんだけど、テレビ版で言うところの3人目の綾波を主役として「となりのトトロ」をコピーした田舎ぐらしを延々とやる。夏休みに帰省する両親の実家の大家族が、人生の幸せやまっとうな人間のイメージとして提示されるのって、補完時のゲンドウの語りにも通じていきますけど、あまりに昭和的で安直すぎませんか。田舎の大家族から離れて都会に出た核家族の子どもの、さらに子どもである若いファンが唐突すぎる「里山生活」の描写をどのように見たのかには興味があります。近年の朝ドラが描く戦前から戦後にかけての農村のイメージの中に、ヤマト以降に顕現した特殊性癖であるところのプラグスーツを着たままの綾波がウロウロ歩いてるのは、ほとんどギャグにしか見えませんでした。奥さんの影響を受けた、モノ余りカネ余りの都会人だからこそ可能な、ファッションとしてのロハス&ビーガン生活に、監督はきっと脳髄までどっぷり浸かっているんでしょう。新劇内のテーマとしては、すでに破のスイカ畑のシーンで「土のにおい」として過不足なく示されていた中身であり、それを延々と薄めて再提示しているに過ぎません。

 以前、エヴァQについて「依拠する現実を失ったがゆえの、リアリティの底割れ」と指摘しましたが、そこへの反省(オア、反発)から現代の都市ではなく昭和の田舎を寄る辺としたのは、これまでの世界観からはひどく浮いてしまっています。「出されたものを食べないのは、失礼じゃないか!」とシンジを叱りつけるトウジの父親なんて、宮崎駿作品を模した亜流みたいなキャラでした(ゲド戦記かよ!)。素朴な疑問なんですけど、たった14年で家の内装があんなに古びて詫びた感じになるものなの? たった14年であんな老若男女そろったコミュニティが形成できるものなの? トウジが村のために人を殺めたことをほのめかすような台詞があったり、監督の中で「戦争帰りの殺人(に傷つき、悔いている)者がすぐそばで暮らす昭和」が聖域として極限に美化されていて、材料をぜんぶ使い切った後で最後の引き出しを開けたら、少年時代の原風景的なイメージとしてそれが出てきた可能性はあります。

 数分の描写しかないミサトと加持の子どもってのも唐突で、のちにシンジとの和解を演出する目的で、作劇のために置かれた書き割り以上には感じられません。「Qのミサトさんがシンジに冷たい態度をとっていた裏には、こんな葛藤があったんですね」とか感動している向きもあるようだけど、それは逆なんですよ。「Qのミサトの態度を観客に納得させるためには、どう演出したらいいか?」の設問ありきで、回答はどれもこれも9年を費やしたあとづけの言い訳ばかりじゃないですか。荒れ狂うDV夫にしこたま殴られたあと、優しく「ゴメンね」とささやかれながら手当をされて傷が癒えたとして、殴られた事実は消えないし、夫の急な変貌に妻は恐怖をしか感じないでしょう。自分でマイナス100にした状況へ2時間35分かけて少しずつ他所様と過去作から引いてきた水を注いでいって0に戻すって、こんなひどいマッチポンプ見たことないですよ……いま書いてて、いや、前に見たことあったなーと思い直しました。

 エヴァQとシンエヴァの関係は、スターウォーズで言うところの「最後のジェダイ」と「スカイウォーカーの夜明け」の関係と酷似しています。他者の意見を聞き入れない自己陶酔的な思い込みの暴走で、それまで積み上げてきた歴史ある作品の舞台をちゃぶ台がえしでグチャグチャにしたのを、続編で本来的には不要の長尺を使って丁寧にまた一から積み上げ直して、なんとか無様ではなく終わらせる形だけを作ったというあのやり方で、盛り上げようとするシーンはことごとく過去作のコピーなところまでソックリです。スターウォーズの方は8と9が別々の監督だったので、ライアンへの恨みとエイブラムスへのねぎらいという感情にそれぞれ落ち着き(け)ましたが、エヴァに関しては自分でちらかしたのを自分でかたづけて、「えらいねー」と取り巻きの女性に頭をなでてほめてもらう得意顔の子どもがいるようにしか見えません。しかも、脱糞後の尻をふくだけの行為に「落とし前をつける」とか、まさに昭和任侠モノの語り口でカッコよさげに宣言されても、どんな共感が生じるっていうんですか。

 本作はQの挽回と新劇の総括として、批評家連中が旧エヴァと関連させて語りやすい要素をストーリー全体のそこここにまいてあって、「あ、これはあれとからめてこう語れる!」という喜びがきゃつらの好印象の正体で、そこで話される内容は昔からのファンの受け止め方とは何の関係も連絡もありません。監督は外部への発信や折衝について専属の担当を置いてやらせてるみたいですけど、今度はシンエヴァに関するファンとのコミュニケーションを批評家たちにやらせようってわけです。自分の口で語りさえしなければ、間に入った人間の「勘違い」で後から「解釈」の修正がききますから。これ、実に日本的な忖度のシステムで、トップの真意を限られた取り巻きしか知らされないことで形成する権威の仕組みなんです。あんまり詳しく語ると怖い人が来るので短く言うと、「御簾ごしのミカド」を源流とする本邦に特有の土人的な支配構造です。今回、かなりそこを意識的にやっていて、挑戦者だったエヴァが批判を許さない権威者になったことをまざまざと見せつけられました。

 そして、中盤でシンジが再びブンダーに戻ってから延々と続く戦闘シーンを、楽しんで見ることのできた昔からのファンはいったいいるんでしょうか。次々とブンダーの姉妹艦ーー見た目の違いはほぼないのに、出てきた瞬間に名前を言い当てるリツコ。「確か4番艦があったはず」の台詞の直後に真下から4番艦がぶつかってくるの、笑わせる以外の演出意図は無いですよね?ーーが現れて、どれだけ被弾してもダメージ描写が皆無の緊張感に欠ける砲撃戦を繰り返すのもそうですが、Qの段階ですでにお腹いっぱいのアスカとマリによるオレツエエ・バトルを、喉の奥にじょうごを突っ込まれたガチョウみたく流し込まれ続ける苦痛ったらありません。ギャンギャン叫びながら目から極太バイブみたいのを抜き出したり、もう何ひとつ画面と気持ちがシンクロする要素がないまま、Qで指摘した魅力絶無のスーパーロボット・アクションでストーリーが進んでいるような雰囲気だけを醸成していきます。もう言うだけヤボですが、工業の壊滅した世界でのヴィレ側の修理・補給問題は農村パートで不充分ですけど示されましたが、おじさんとおじいさんだけの組織であるネルフ側のそれらについては、完全に説明を放棄していましたね。

 終盤の人類補完計画の下りは、旧劇がシンジを通した全的な補完だったのに対して、ゲンドウ、アスカ、カヲル、レイを列に並ばせて順番に補完しては退場させる同人誌みたいな中身なんですけど、絵ヅラを旧劇から借りてきてアップグレードしようとして、大失敗している。コピーに感情とセンスをブチこむことで作品を作ってきた人物が自作のコピーに手を出した結果、若かった頃の己の感性と向きあって昔からの客に新旧を比較されるはめになってしまった。率直に言って手法だけがトレースされてて、音と画面は豪華になったのに、感情とセンスは劣化してしまっている。実写ふうに置き換えられた巨大アヤナミの顔ーーたぶんシンジの声優の顔演技が下敷きにあり、ツイートの「未体験の試練」がこれーーが結婚披露宴の高砂の金屏風みたいな背景で出てくるの、もうこのへんから疲れてきて真面目に作ってないでしょ? 公開前に不安を吐露した、第三新東京市で行われる初号機と13号機のバトルは、自社のCG班がいつまで経っても期待通りのモノを上げてこないのに業を煮やして、テレビ版の最終2話と同じ「赤点とるくらいならマイナスにしてやる」という心境になって、その後のギャグみたいな場面ーーミサトのマンションや学校の教室でエヴァが戦うーーを含めて、ヤケクソで演出をつけたようにしか見えませんでした。巨大アヤナミの頭部めがけて小さなブンダーが突撃していく横シューみたいな画面は超兄貴そのものの絵ヅラで、これも笑わせにきてますよね? 旧劇とは比較すべくもない、しまりのない、だらしのない、緊張感に欠けるシーンの連続です。

 ねえ、CG班の人たちは、何の進歩もないままずっと給料はらってもらって、あのエヴァを時代遅れのポンコツな仕上がりにして、いったいこの9年なにしてたの? 「俺たちの親分に恥をかかせちゃいけねえ!」みたいな昭和任侠の気概をだれも持たなかったの? オーケーもらってホッとしてんじゃねえ! あきらめられてんだよ! 最高にカッコいい絵作りをしてきた編集とコラージュの極みにいる人物が、かつてのようには良い素材を与えてもらえなかった末の、昔だったら絶対にオーケーを出さないような自棄に見えるシーンがいくつかありましたが、カラー設立から10年以上が経過したのに、監督の眼鏡にかなう人材は育ってないんでしょうね。それもあってか、エヴァをたたむのに監督の私小説的な心情を用いるしかないという結論こそ旧劇と全く同じですが、映像的には「まごころを、君に」の自己模倣に終始するわけです。「コピーに魂を込めることでオリジナルを超える」人が、還暦を迎えてアニメ界の大御所になった結果、周囲を見渡したらもうコピーする先が無くなっていたので、自分の過去作をしこしことコピーし始めるのを劇場の大画面で見せられるのには、もはや悲しみしかありません。しかしながら、旧劇で「甘き死よ、来たれ」が鳴りはじめた直後の、各話タイトルと裏返しのセル画が連続で流れるシーンを、プロジェクターで撮影所の壁面へ映す演出ーー新劇のタイトルが追加されてるーーには激しい怒りが沸騰し、端的に「商業にまみれた人買いの汚い手で俺の旧劇に触るな、殺すぞ」と思いました。

 そして、「己の人生をフィルムに熱転写する」人が、カネのかかった自費出版の私小説で最後に提示してきたのは、妻と出会うまでの己の精神史をゲンドウへと仮託した赤裸々な告白と、添い遂げられなかったかつての恋人と互いに別々の伴侶を持つようになってから交わす「好きだったと思う」「好きだったよ」という言葉、つまり旧劇の裏にあった泥沼の恋路の清算だけでした。アスカの声優との距離感がエヴァの終わりに当たって重要ということを半ば冗談みたいに話しましたけど、違う意味で的中してしまった形です。今回のアフレコでアスカの声優が監督からかけられたという「宮村がアスカでよかったよ」という台詞は、人生や人間関係のすべてを秘し隠さず、作品作りへ流用していくクリエイターとしてのおぞましさが最大級に伝わってきて、背筋に寒気が走りました。

 ぴちぴちのラテックス・スーツに身を包みリアルよりのキャラデザで描かれた大人アスカ(MIYAMOOによるコスプレを意識させている)が例の砂浜に横たわっているのにシンジが「僕も好きだったよ」と声をかける場面には、「おまえら、こんなのアフレコの合間に喫茶店とかで二人きりでやれよ! 劇場の大画面で俺らに向けて中年のオッサン、オバハンの気持ち悪いやりとりを垂れ流してんじゃねえ!」と絶叫しかけました。ここ、怖いところだと思うんですけど、監督からの一方的な恋慕を、作中のキャラに「好きだった」と言わせることでまるで両想いだったみたいに改竄してるんですね。まさにエヴァンゲリオン・イマジナリーというわけで、パンフレット冒頭に寄せた監督の文章でも破の直後から、迷いなくQの世界観で続編制作を始めたことに「なっている」。「イヤな現実はエヴァに乗って変えてしまえばいい」じゃないですけど、ごまかそうとしてるふうではなく、強いイメージ力で本当にそう信じていることをうかがわせ、周囲にその誤認を正す人物はもういないのかと、ゾッと薄ら寒い気持ちにさせられました。

 補完の終わりに、旧劇でセル画を裏返して撮影したのを業界の先輩から「凄まじい脱構築」と激賞されたのがいつまでも頭から離れないのか、今回も延期につぐ延期で作画は間に合ってるはずなのに、線画とラフによる制作の裏側を見せるんだけど、斬新だったのは当時だれもやらなかった初めての試みだったからで、25年を経た今ではもうマンネリ感しかありません。巨匠の手クセをみんなが「そうそう、これだよ、これ」って褒めそやす感じも気持ち悪い。前も言いましたけど、こんなの最初の相手が偶然スカトロマニアだったから成功した「sixty-nine中の脱糞」だって、だれか監督の頬を張ってでも止めてあげて下さいよ。旧劇の表現は尖りまくってて最高にロックでしたけど、シンエヴァは「アニメ映像の面白さ」とやらがもはや伝統芸能の域に突入してて、スローな雅楽って感じですね。

 そして、真希波マリが何者であるか監督はずっと決めていなかったーーサブの監督に声優の演技プランを丸投げするほど無関心ーーのを、シンエヴァでとってつけたように安野モヨコとイコールの存在に変えてきました。つまり、多くの観客にとってどうでもいい中盤の派手なバトルは、かつての想い人といまの奥さんを大好きなロボットに乗せて戦わせるという、監督にとってだけ最高に気持ちいいゴッコ遊びだったことが明らかになります。まさに「最低だ、オレって」から1ミリも進展のない、オナニーによってしか作品を完成させることのできない開き直りを、再び我々は見せつけられたというわけです。そら、オールド・ファンの大部分が望む、シンジが初号機で大活躍という至極簡単なカタルシスを描けないのも、無理ないわ。だって、情けない還暦のオッサンが乗ったロボットじゃオナニーどころかインポでチンポさえ勃たんからな! おっと、失礼。

 それと前も言ったけど、英語ってもう日本では人口に膾炙し過ぎて三周くらい回ってダサいってことにそろそろ気づこうよ。インフィニティ、アナザー、アディショナル、アドバンスド、コモデティ、イマジナリー……音の響きが自分にとってカッコいいって理由だけで使ってるでしょ? ファイナル・インパクトを批判されたからって、アナザー・インパクトやらアディショナル・インパクトやら、あのエヴァでセンスの無さとカッコ悪さに悶絶するときが来るなんて、思ってもみませんでした。

 そしてエンディングの、故郷の街を実写で空撮しての結婚報告エンドって、「旧劇の『現実に帰れ』をすごく前向きにやってる!」みたいにニワカどもが騒いでますけど、そう読ませたいという意図が先行して、ひどく空疎で皮層的に感じました。結婚という営為の高揚感だけを描いて、異なる価値観の相手と相手の家族ごとなんとかやっていく苦しさみたいのはバッサリ切られてる(まあ、Qが結婚生活での苦難を表現していたのかもしれませんが……)。でも、結婚報告って相手の両親に会うときの方が感情の比重は高くないですか? それを奥さんの地元じゃなくて自分の地元を映して映画をしめてんのって、ああ、徹頭徹尾ジコチューの自分クンなんだなって印象しか残りません。「いい大学を出て都会で稼いでるのかもしれんが、結婚もせず子どももいないなんて、どこか人間的に欠陥があるんじゃないのか?」みたいな昭和の田吾作マウント、農耕馬の土くせえアオリに、あれだけ先鋭的なサイファイだったエヴァが25年を経てすっかり同調してやがるんですよ。「俺は結婚して救われたよ? 君がどうかは知らんけど、やってみたら?」って、思うのは勝手だけど、それを救済のメッセージとして伝えたいなら自分語りじゃなくて作品の内容で表現しなきゃダメじゃないですか。

 20年前に結婚して、子供も二人いて、どっちもそろそろ成人を迎える年齢になって、マイホームのローンも返済し終わって、子育てもようやく終わりにさしかかってて、でもそんなのは社会的な皮一枚の外殻に過ぎなくて、オレの本質や魂の在り処とは何の連絡も関係もないんだよ! 現実の個人がどんな生活を送っているかとサイファイのセンス・オブ・ワンダーの間には何の連絡もないし、むしろ何か関係があったらダメなんだよ! SFファンなんだったら、アーサー・C・クラーク御大を見習えよ! マイナス100のオタクだった私が、結婚を契機に少しずつ昭和の「常識的な価値観」をおのれに注いでいって、今ではプラマイ・ゼロの真人間になりましたって、そんな情けないフィクションを堂々と書くなーッ(島本和彦の作画で襟をつかんでガンガン壁に打ちつけながら)! いいか、オマエが最後に観客たちへ提示したのは、だれかがオマエに「この種無しが!」と罵るのと同じ、やっちゃいけねえ類の倫理に欠けた下品なメッセージなんだよ! 旧エヴァでアニメのファンダメンタルになって、だれもちゃんとオマエを叱れなくなった、あるいは叱ろうとした人間を遠ざけた結果がシンエヴァの結末へそのまま表れてるじゃねえか! 還暦を迎えてんのにそんな貧相な社会常識しか持ってねえのかよ、クソが!

 すいません、興奮のあまり少し、ほんの少しだけ冷静さを欠きました。ちょっと監督は妻という究極的には他人である存在に、レゾン・デートル(笑)を依存しすぎじゃないでしょうか。もし今後、仮に二人が破局を迎えるとしたら、次のエヴァが作られる土壌になるのは確実で、その内容も展開も完全に予想できますが、もはや私には関係の無いことです。奥さん、こんなふうに精神的に依存されてることを盛大に全国のスクリーンで公開されて、イヤじゃないのかなあ。わたしだったら激怒するけど、クリエイターなので気持ちはわかるって感じなのかしら。相手の感じ方を無視して、相手が喜ぶと思って、自分が愛情と信じるものを一方的に押しつけ続けるのって、25年前の想い人へのやり方からまったく進歩していないように思えます。わたしが今もっとも感想を聞きたいのは、横目に互いを見ながら最終回のご祝儀で好意的な感想に終始する自称エヴァファンどもではなくて、奥さんからですね。二人の間に子どもがあれば、監督は己の自我と子どもの自我を区別できず、幼少期には成長記録をドキュメンタリー映画で作るなど溺愛したあげく、思春期には支配的な毒親と化した可能性が高いでしょう。そして反抗する子どもへの感情を勝手にアニメ化して一方的な贖罪と考え、家庭内のことを全国公開された子どもはますます父親と距離を置いたことでしょう。

 結局、エヴァはガンダムのようなプロダクトにはなれず、ロボットアニメなのに監督の私小説という正に人類未到のイビツにたどりつき、それは続編や派生作品にだれも手を出せない場所で、ここからはもう古典として消費されていくばかりかと思うと胸が詰まります。作中で「仕事」って言葉が繰り返されてて耳に残りましたけど、スタジオを残していくためには新劇でエヴァをプロダクトにしておかなくてはいけなかったし、新劇制作の初期動機はそれだったはずでしょう。エヴァを愛して貴方の下に集まった人々を庇護するために、エヴァをガンダムと同じものにすることこそ、貴方の本当の「仕事」だったんですよ。これから何年かが経過して、ジブリみたいにスタッフを首切りで整理して、著作権の管理会社として存続する未来がありありと見えます。新たな挑戦でクリエイターとして恥をかきたくない気分がまさった自分クンが、自分を慕って集まってきた人々の未来のためではなく、自分のためだけに旧劇へ依拠した無難ーーエヴァに無難なんて言葉を使うことになるなんて!ーーなやり方で新劇を終わらせようとした軌跡が、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のすべてです。

 よかったところですか? 「終劇」の後にシン・ウルトラマンの予告を持ってこなかったのは、少しだけ大人になったのかなと思いました。私のようなこじらせたオールド・ファンを痛めつけ、失望させ、関心を無くさせるという意味をもあらかじめ織り込んで「さらば、全てのエヴァンゲリオン」と宣言していたのなら、監督の悪意は底抜けで、まったく大したものです。見事に、貴方の意図はかつてエヴァファンであった私の一部を永久に殺しましたよ。

 想像するだにおぞましいことですが、再延期にあたって3月11日を新たな公開日に設定するプランも監督の脳裏をよぎったに違いありません。そうならなかったのは、監督が分別のある大人になったからというより、思いつきで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」と東日本大震災をリンクさせようとしたことが、あまりに深く隠蔽しておきたい事実だからに他なりません。

 10年前の今日、多くの生命が失われ、エヴァンゲリオンが壊れました。

 どれだけ監督による正史が否定し、隠蔽しようとも、この事実が消えることはありません。私にファンとしての使命が残されているとすれば、この事実を語り部として後世に伝え続けることだけでしょう。あの偉大なエヴァンゲリオンの終わりが、東日本大震災に影響を受けたリブートの大失敗を自己回収する作品になってしまったこと、あの偉大なエヴァンゲリオンが持っていたポテンシャルが、過ちを認められない人物による自己弁護に消費されてしまったことは、本邦のフィクションにおける巨大な損失であり、心から残念でなりません。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の続きを見たかったと切望する死者たちと、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の続きを見たかったと切望する生者たちによって、この先も永久に呪われてあるでしょう。

 拡散し、届いて、偽史として権力に焚書されることで、この呪いは完成します。どうか、私の想いが彼の元へと届きますように!

有志による英語版:[Full spoilers!] In Memoriam of “Shin Evangelion: Curse”

シンエヴァ「第三村節考、あるいはケンスケについて」呪詛

ドキュメント「シンエヴァ・アディショナル呪詛(2021/3/6~3/24)」

アニメ「2021年のエヴァンゲリオン」雑文集(1/15~3/5)

0.「新劇」過去の感想

アニメ「シン・エヴァンゲリオン劇場版・本予告」感想

アニメ「エヴァQ IMAX版」感想その1

アニメ「エヴァQ IMAX版」感想その2

1.「序」実況

 やっぱりこれ、葛城「ミサ」って言ってるよねえ? かつての伏線の残骸?

2.「破」実況

 「碇司令と冬月副司令が同時に登場するとき、必ず副司令の台詞が先になる。これは新劇では、ナディアのガーゴイルよろしく、冬月の方が上位者であることの伏線に違いない」などと考察していた頃が、いちばん幸せだったなー。

 あれ、アスカの「ケンカ売る気」がちゃんと聞き取れる? ビデオ版はコネメガネの「もったえー」と同じく、「けーかるぬき」みたいな呂律のあやしい発音だったような……?

 ここのエヴァ走りのCG、旧劇の量産機戦とまでは言わないけど、重量感があってすごくいいのに、なぜシンエヴァの殺陣はあんな感じに……。

 ここ、震災の津波を予言してたと思うんですよね……。

 ね、副司令の台詞が常に先行するでしょ?

 やっぱりカントク(Cunt-Q)はアスカの下半身に執着があると思うんですよね。

 シンジさんの手の包帯が、旧劇のアスカの傷(右腕まっぷたつ!)を今度は自分で引き受ける暗示じゃないかとか、いろいろ考えるの楽しかったなー。

 なんかシンエヴァでは、この食事会の伏線を回収しそうな気がするんですよねー。

 バチカン条約! 冒頭に出てきた日本以外の支部と相まって、世界への広がりを感じるワードだったのに……。

 アスカのドイツ語よりはマシな英語だと思った。

 こういう守るべき日常の描写を丁寧に積み重ねていくのが、新劇の持ち味だと思っていたのに……。

 意味深に何か知っているふうの赤木先輩という伏線……結局、何も知らなかったというオチ。

 ゼーレ、冬月に電源コードを抜かれることになる板。

 ポカァ! ポカァ!

 ゴルゴダ・ベース……魅力的な世界観だったのに……。

 東京大学出身のミサトと京都大学出身のゲンドウ……学閥から読み解くエヴァンゲリオン。

 今のガラケーって、じっさいに販売されてましたよねー。

 サクラさん、黒髪ですね。Qでは染めたんですね。崩壊後の世界で、けっこう余裕ありますね。

 この目、今から潰すよー(数年ぶり、2回目)。

 自殺をためらう人物を、屋上から突き落とすイメージ。

 「人でなくなってしまう!」
 まさか、エヴァの呪縛とかL結界密度とか、そんな回収のされ方をしてしまうとは……。

 「アスカが乗ってるんじゃないの」という台詞はテレビ版の「人が乗ってるんじゃないの」から、だいぶ緊迫感を下げますね。

 作画コストを下げるための真っ白キーボードが新劇でも採用されてることに違和感を覚える。

 四本腕……まさか十三号機みたいな回収のされ方をしてしまうとは……。

 ここ、テレビ版と劇場版の破では、ゲンドウがゲス顔のままだったんですよねー。イケメンに差し替えられたのは、自分のスタジオを持ったカントクの自意識が投影されてるのかなー。

 食べすぎてお腹ポッコリの初号機は、生き物感があっていいよね。

 (筋肉質の全裸で)でも、そんなのかんけえねえ! でも、そんなのかんけえねえ!

 「大切な人を失えばいいんだ!」
 妻のことを言われてキレた結果、酸素濃度を上げるゲンドウ。

 このトラウマ電車から降りるシーンがあると思ってた(ビートルズのイン・マイ・ライフをBGMとして)。じっさいのエヴァQを見るまでは……。

 「シンジ、大人になれ」
 そっくりそのままお返しします、カントク(Cunt-Q)。

 いまの場面、旧劇の3人組と同じ構図ですね。

 「人類や世界のことなんて、どうだっていいのかもしれない。結果、こういう立場になっているけど」
 これ、破の中でいちばん好きな台詞かもしれない。

「胸もピッタリで、きもティー」
 きもいわ!

 時が来てから14年が経過し、14年後に「今はこれでいい」とぬかすゲンドウ。

 もう寝るから、こっから先の感想はこの記事を拡散しておいてくれます? ヲヤスミナサλ。

3.「未来からのホットライン」による予想

 サイバーパンク2077、パッチ1.1のタケムラ無言電話バグにピンポイントでひっかかる。常ならば呪詛を吐きちらかしての大暴れだが、今回はシンエヴァのやらかしを思い浮かべるライフハックを用いた。12年もの公開延期に比べればリリースしただけで上出来なのだと、心穏やかに許せる気持ちになれました。

 J.P.ホーガン「未来からのホットライン」を読み進めている。シンエヴァの副題”thrice upon a time”を原題とし、アン・パタースンなる人物が登場するなど、次作の底本として使われていることを予期させる内容である。理論系のハードSFであり、怒れる文系ヤンキーにきちんと読解できているか定かではないが、物質を構成する最小の単位は過去・現在・未来をひとつなぎにした糸のような時間パラメータを持っており、この世界の基は分岐選択的並列宇宙でも運命論的直列宇宙でもなく、自由意志が影響を及ぼすことのできる可変的直列宇宙であるとの内容だ。19話からの語り直しの展開について否応にも期待は高まる。さて、なぜ本作を手に取ろうと思ったかと言えば、ダイエットと不倫で有名になった例の人が「試写会を見た関係者から『本当にエヴァが終わった』とか『じつにエヴァらしかった』との声はあるが、だれも『面白かった』と言わない」ことから考えて、「テレビ版」「旧劇」「序破」「Q」から4人のシンジさんが一堂に介して、彼の声優が実写で司会進行をする中、互いの実存について総括を行うといった内容の予想を目にしてしまったからだった。この、ほとんど酔っぱらいの与太話を読んだとき、勢いよく笑いとばそうとしながら、口元に笑顔をはりつけたまま、ついには笑いとばすことができなかった。なんとなれば前作エヴァQには、実写の楽譜が写されたり実物のピアノがCG化されたりしていて、悪い意味で作品の枠を超えた(メタァ! メタァ! 「メメタァ」ではない、念為)続編の展開を否定できない、気のくるった凄味があるからだ。シンエヴァ、いざ手の届くところまで来たのに直前の延期でスッと遠ざけられて、これまでは気づいていなかった内なる飢えと渇きを自覚させられてしまった感じだ。これはもう、ほとんど拷問に近い。それも、固定された手首へ不定期に水滴を落とされたり、殴られることだけが予告されていていつかは知らされないみたいな種類の、間接的に心を壊す拷問だ。2016年1月にいったんは閉鎖したnWoだったが、同年7月のシン・ゴジラがあまりに面白すぎて、他に語るべきメディアを持ち合わせていない悲しさ、半年ちょっとで出戻ってしまった経緯がある。思えば「少女保護特区」も「MMGF!」も、旧エヴァに対する私なりのアンサーのような側面があった。エヴァより出ずるものであるnWoが、シンエヴァの視聴に影響を受けないわけはない。それが成仏としての閉鎖になるのか、怨嗟による新たな創造になるのか、いまだわからないでいる。

4.「破」の作品ポテンシャル

 人様の感想をあさりながら反芻してるけど、やっぱりエヴァ破は作り手の意図を越えて、奇跡的にバランス良く仕上がった作品なのだと思います。エヴァQの方がたぶん、カントクの地金というか、本来なのでしょうね。だれにでも守るべき大切なものがあり、大人には大人の事情があり、子どもは子どもで今を生きるのに精一杯で、それらが見えていない。これを俯瞰的な視点で距離感をもってキッチリ伝えてくる。エヴァ破って、ゲンドウの人間に対して同情的で、大人の観客に「せやかてな、シンちゃん。お父さんにかて子どもの頃はあったし、辛いこともたくさん経験してきてはるんやで。いまはいこじになっとらはるだけで、きっと時間が解決してくれると思うわ」と言わせる感じがあった。児童虐待を平然と行う大人ばかりのエヴァQでは、完全に消滅した感覚である。エヴァ破が本来の作品ポテンシャル以上によくできすぎていたことが、「ここまでのことができるのに、なぜ」と皆を十年近く困惑させ続けている理由の大元なのでしょうね。

5.「Q」実況

 うーん、今夜はエヴァQかー、どうしよっかなー。ほぼ語り尽くしちゃってるからなー。とりあえず、前回の生実況のときの置いておきますね。

 エヴァ伝説(笑)

 巨神兵が現れないだけで好感度は爆上がりだよね!

 まさか、ファン全員の心をジェットソンすることになろうとは……。

 なんで画面を暗くするんでしょうね。ポケモン事件の影響?

 この肋骨の動き、エロいわー。

 音楽を流用するぐらいならいいけど、ナディアの世界観と接近させて欲しくないなー。そういうのはエヴァを完結させてから、庵野秀明版バイオレンスジャックとかでやってほしいなー。

 エヴァQを劇場で見て、破局の危機に陥った夫婦は実在します

 新キャラの中で、ネモ船長だけが群を抜いて空気になってるよなー。

 空虚すぎて、もうすでに眠い。

 オマエは死ね!

 新劇のリツコ、不倫もせず、レズっ気もなく、特にエヴァの技術に精通もしていない、意味不明のキャラになってるよな。

 なんで説明せんねや。独身の43歳やからか。

 フライホイール好きやねえ。

 いまの、膣と子宮口とチンポ。

 ぶんだー(笑)

 ノーチラス号と同じ配色やねえ。

 空虚すぎて、眠すぎる。

 声優さんとか、話業の人はえらいねえ。こんな意味不明な台詞を、まるで意味があるかのように聞かせるんやからねえ。

 神殺し(笑)

 そこの説明はいらんやろ。

 黒髪やったのに、茶髪に染めとんな。崩壊後の世界やのに、けっこう余裕あるやん。

 あかん、ぜんぶどうでもよすぎる。

 ミサトさんは「しなさい」が多すぎる。

 43歳なんだから、もっとうまく説明できるでしょ!

 設定から脚本から何から、準備してたのをすべてご破算にして、多くの離反者を生んだんだろうな……。

 劇場版とは思えない、絵のスカスカっぷり。

 これ、面白いと思ってんの?

 尻大会やね。

 なんでこんなん作ったん?

 「ついに集う、運命を仕組まれた子どもたち」はどこいったの?

 ただひたすらに眠い。

 意味あんの、これ?

 どいつもこいつも説明ヘタやなあ。

 脚本がひどすぎる。

 冬月の声優さん、旧劇のパンフだったかで「最近の若いのはプロ意識が足りない。平気で『風邪ひきましたー』なんて言って、鼻声で現場に来やがる」みたいなことインタビューで語ってて、昔の演劇畑の人はガチで怖いなーと思ったの覚えてる。

 テレビ版の後半の話で、アスカがシンクロ率の低下を指摘されて「やってるわよ!」って返す場面で、明らかに本来の声優じゃない人(マヤ?)が声を当ててて、「あー、ガーゴイルの逆鱗に触れたのは惣流さんかー」と察したのも思い出した。

 でも、MIYAMOOの体調不良に起因した、この偶然の声優いれかえがDEATH編の例の演出ーーちがう、こんなの私じゃない!ーーにつながったんだろうなー。

 「もういいよ!」
 おやすみなさい。

6.「冬の少女」の正体と名探偵コナン

 「エヴァ」で検索してツイート読んでる。予告に出てきた「冬の少女」がアスカだとする説が多いのに驚く。前も言いましたけど、彼女は序か破に登場した人物の、だれかの子どもだと思うんですよね。カップリングはこの際どうでもよくて、インパクト後に生まれたということが重要です。シンエヴァ全体のうち、どのくらい尺を使うかはわからないですけど、Q世界を延伸して語っていくならば、ネモ船長の「加持の言う通り」発言からも、加持さん、トウジ、ケンスケ、委員長のその後を描写することは避けられません。さらに、Qの狭い世界ではシンジさんにとって他人の発言に過ぎなかった空虚な14年の歳月へ血肉を通わせるためには、インパクト後に生まれた人物との交流を描くことは不可欠でしょう。どんな形であれ、「さらば、全てのエヴァンゲリオン」のセリフ通りにエヴァを無かったことするならば、そのプロセスで「大災害で失われた生命を取り戻すためなら、大災害の後に生まれた生命を無かったことにしていいのか?」という問いにシンジさんが直面して、彼自身の答えを出さなければいけないと思うんです。これはフランケンシュタインの「愛さないなら、なぜ生んだ?」という問いと等価であり、「老人の安寧のために、若者の現在を犠牲にしていいのか?」にも隣接する今日的な葛藤だと感じます。描いてしまった、生んでしまったQ世界の始末をつけるには、誠実にこれらの問いへ向き合わなくてはなりません。もっとも、特報2.5のひらがな付きテロップの軽々しさを見ると、こういう物語的なビルドアップをガン無視してスッとばして、派手なアクションだのみでストーリーを展開させる(していると思わせる)可能性も大きいとは思ってますが……。シンエヴァ、1月23日に繁忙期の仕事アタマで何も考えないまま劇場に行って、初回から最終回まで居座ろうと思ってたんですけど、いざ延期となるといろいろ想像してしまってダメですね。名探偵コナンで「アガサ博士が黒幕」というファンの予想を作者本人が公式に否定したっていう話が以前ありましたけど、最近くりかえし思うのは、長くなりすぎた物語は作者の人生とかファンを含めた外部状況から否応に影響を受けて、純粋さを減じていってしまうということです。だってアガサ博士が黒幕という展開は、驚きの少ない予定調和かもしれませんけど、長期連載の時間すべてを引き受けた重厚な人間ドラマとして、より葛藤に満ちた結末を描けるじゃないですか! 栗本御大が「私はミステリ出身だが、このジャンルを読む人たちは本質的に人間の感情に興味が無いことがわかった。だから、私はそこを離れざるをえなかった」とどこかで語っていたのを思い出します。名探偵コナンのこれは、動機(why)よりもトリック(how)重視のミステリマニアに目くばせした結果、ストーリーの大枠が曲がったケースだと思っています。シンエヴァにしても前作から9年が経過していて、あらゆる展開はファンによって考え尽くされており、そのすべてを外して物語を作ろうとするのは、ミステリマニア的な痩せた発想でしょう。あえてそれらを見ないで、今度こそ実写やメタに逃げないで、当たり前の人の感情を描いて、予定調和の王道を歩みながら、エヴァンゲリオンが終わることを心から願っています。

7.アルバム「One Last Kiss」に関するネタバレ

 UTD氏のアルバム「One Last Kiss」でタイトルの伏せられていた2曲目が手違いで画像公開されて、あわててひっこめられたという話を知る。そのまま残しておけば注意も引かなかったろうに、わざわざ非公開にしたことで、この情報はネタバレに関わる重要なものだとわかりました。2曲目のタイトルはズバリ、「beautiful world (da capo ver.)」。これを見て、予告などの断片から積み上げてきた私の推理は、確信へと変わったのです! 断言します、シンエヴァは、映画の前半部分でQ世界の終焉までを語り、後半部分で破の続きへと移行して、最後に「beautiful world」の新録が流れる、ダブル・エンディング形式となるでしょう! ダ・カーポは繰り返しの意味ですけど、どんなアレンジなのかなー。新劇のシンボルカラーは序の赤、破のオレンジ、Qの水色、シンの白とどんどん色の要素が抜けていくことを考えれば、序と破のアレンジの違いから推理すると楽器が減っていってアカペラになるんじゃないかなー、ってこれ、2009年からずっと言ってるんですけどね! あと、シンジさん個人の願いが成就するタイミングはエヴァの作中に2ヶ所あって、1つ目は破で綾波を救うところ(「世界がどうなったっていい」のところ)で、2つ目は旧劇の事象の地平面で綾波とセックスしてるところ(「これが、あなたの望んだ世界そのものよ」のところ)。シンジさんはこのいずれかの場面で「綾波だけは絶対たすける!」「これは違う、違うと思う」ではなく、「エヴァの存在しない世界を」と願うのではないでしょうか。個人的には破の予告編の内容から、この2つとはまったく異なる、まだ見ぬ場面で世界の改変が行われることを期待していますが、同時にかつてのキーマン(差別用語じゃないよ! だって男だもん!)たちが作品から脱落していった現在、そこまでを求めるのは酷かなとも思っています。テレビ版20話から24話と旧劇のリメイクも尺的に難しそうですし、1つ目がもっとも可能性の高い展開なのかなー。んで、エヴァが消えた後の冬の学園世界をちょっと描いて終わりっていう。(両手を後頭部に回して、椅子の背もたれをギシギシいわせながら)あー、なんかもうシンエヴァ見た気になっちゃったなー。この予想、ぜんぶ外して作っててくんないかなー(ミステリマニアと同じ、痩せた思考)。

8.梅田ピカデリーでの「旧劇」鑑賞

 あと、最近の当アカウントが「エヴァ雑語り少女」と化していることについては、たいへん申し訳なく思っている。なんとなれば、私の人生における最高の虚構体験とは、泉の広場を上がったところ、梅田ピカデリーで見た夏エヴァで、第25話「Air」のラスト、ウルトラマンの顔をした翼持つ初号機がジオフロントから浮上してきたーー「エヴァンゲリオン初号機、まさに悪魔か」ーーあの瞬間だからだ。弐号機の残骸、シンジさんの絶叫、それから二重螺旋のスタッフロールと共に流れるタナトスを聞きながら完全に打ちのめされて、心の中で「こりゃまいったな、すごすぎる」を連呼したことをハッキリと覚えている。そして、「このシャシンを再び終局へと〜」で始まるよくわからない文章(シャシン?)の後、さあ、アスカを凌辱した量産機に対する初号機の大反攻が始まるぞと身を乗り出して、その姿勢のまま二十三年が経過した美少女こそが、何を隠そう小鳥猊下の正体なのである。いろいろ注文つけてますけど、私がシンエヴァに求めているのは、最低限「シンジさんが初号機で大活躍」し、できうるならば「アスカを助け」て、あわよくば「人類を救済」して、もしかすると「神話になれ」ばいいなあ、ぐらいのことなのです。本当に、ただそれだけなのです。

9.「旧劇」全記録全集への期待と社会学

 また長文でる。またエヴァについて。

 エヴァQだけ全記録全集が発売されていないことが、カントクのこの作品への「想い」を表していると前に指摘したことがありましたけど、たぶん次作の受け止められ方が好評なら、シンエヴァのそれとセットで発売されると思います。「いやー、出したかったんだけど、シンエヴァのネタバレになるから出すに出せなかったんですよねー」という白々しい言い訳とともに。信者は大いに感心してカントクのウソを受け入れるでしょうが、私はそうはいきませんからね! え、あなたも相当な信者なのでは、ですって? 馬鹿を言いなさんな! 私は教団の厨房に立つ住みこみのコックのようなものであり、教祖の不規則発言にも是々非々で対応する批判精神を持ち合わせたまま、致命的に生活のすべてを依存しているだけなのです。エヴァQの実状はたぶん、盟友たちの大反対を押し切って強引に方向転換ーー「(投げやりに)まあ、エヴァはおまえのものなんだし、何を作ってもおまえの手柄になるんだから、好きにしたらいいんじゃないの? オレは降りるけど」ーーして、大傑作をモノにすることでしか、そのちゃぶ台がえしが正しかったと周囲に認めさせることができない、クリエイターとしての一世一代の大博打に、ものの見事に失敗しただけのことなのです。そしてテレビ版の最終話のときとまったく同じ言い訳ーー「僕は壊れました」「ハア?」ーーをして、失敗作に後づけで芸術ぽい香気をまとわせたいがためのファッション鬱で、現実に背を向けて遁走(逃げちゃダメだ!)しただけのことなのです。シンエヴァを待つ今の状況は旧劇を待つ当時の状況と酷似しているーー「すべての現象が15年前と酷似している。じゃあ、これってやっぱり……サードインパクトの前兆なの?」ーーと言えるでしょう。版権の問題にもカタがつき、今度こそエヴァを純粋なエンタメとして終わらせるのか、はたまた前のようにメタと実写と観客ディスーー私の作品に依存するオタクどもが悪い!ーーで終わるのか、カントクの真価が問われるところです。旧劇のエンディングで、交尾中の犬コロに水をぶっかけるみたいにして、「教団は今日を限りで解散じゃ! 散れ!」と言われたあと、恨みに思う人もいたでしょうけど、みんな真面目なので言いつけを守ってエヴァを忘れて、現実にまっとうな社会人をやってきた人が大半だと思うんです。エヴァが過去の思い出になった頃、かつてと同じ風体の教祖が平穏な日常に突然また姿を現して「教団やけど再結成するわ! 戻れ!」と言うから素直に戻って、上納金も言われた通り払ったのに、なぜ大聖堂で腐りかけの大根を持たされたまま、ずっと放置されているんだろう……というのが正直な感想です。話を戻しますけど、私が本当に欲しいのは旧劇の全記録全集なんですよねー。当時の資料も散逸してるでしょうし、関係者に故人も多いことでしょう。けれど、もし実現すれば、90年代の文化と空気を生々しく再現した社会学的な大著ーー監督、原画マン、動画マン、プロデューサー、声優、漫画家、AV女優、オウム信者、そして、春エヴァの観客席最前列でサムズ・ダウンして神話になった例の男(おのこ)からの、赤裸々な時代の証言集ーーになるはずです。社会学者のみなさん、人生をかけるに値するこの大仕事に取り組んで、俺といっしょに新たな人類の歴史を作らないか?(私が知らないだけで同じような書籍や同人誌がすでに出されてるなら、教えてください。プレミアついてても、言い値で買います。)あと、最近なぜかツイッターでたたかれまくっている社会学者ですけど、データをそろえて客観的な学問をする人というよりは、アイドルやラッパーに近い存在だと、私はずっと感じてきました。どちらの言説が「より魅力的でカッコいいか」を競う文字通りのフリースタイル・バトルで、「推し社会学者」という言葉がこの上なくピッタリくる、芸能と隣接した界隈という印象です。え、私の推しはだれかって? ミヤダイの方のシンちゃんに決まってるでしょ、言わせんなよ恥ずかしい!

10.カントクの創作サイクル

 いま、一番エヴァを熱く雑に語っているオールドファンは私だという自覚があります。なので、かつて同じ釜のメシを食った全国の仲間たちへ届けるため、あなたとかあなたは当アカウントの発言をドシドシ拡散していただきたい。結局のところ、数万のフォロワー持ちが1回「いいね!」をつけたnote記事が、その後のいかなる拡散努力をおさえて最も読まれるという、暴力的なまでの情報格差社会がこのツイッターなのですから! さて、テレビ版から追いかけてるファンにとって、突然のアングラ演劇(パイプ椅子!)と化した最終2話から劇場版を待っているときの感じと、突然のディストピアと化したQから目前に迫ったシンエヴァを待っているいまの感じは、とても似ています。このカントクには、失敗をバネにして傑作をモノにする創作サイクル(大失敗作・ファッション鬱・大傑作)があって、旧劇自体に漂うイマイチ感は第26話「まごころを、君に」の後半部分が主に醸成しており、誰がなんと言おうと第25話「Air」はアニメ史上に燦然と輝く大傑作なのです! しかし、エヴァQが大失敗だったのでシンエヴァが大傑作になるサイクルかと問われれば、必ずしもそうとは言えません。カントクは己の人生をフィルムに熱転写するタイプの創作家で、新劇で「カレカノ」とか「ナディア」から曲を流用するのは、いろいろな権利者の元へ散逸している己の作ったモノを取り戻して、自分のフィルモグラフィーに統合したいという強烈な欲求から来ていると思うのです。なので、カントクの作品史におけるエヴァQの続編は正確に言うとシン・ゴジラであり、シンエヴァは大傑作になる創作サイクルからは実のところ外れてーー次は大失敗作が来る流れーーしまっているのでした。シンエヴァに向けて私の予想とか考えていることはだいたい書き尽くしたように思うので、いまはそれこそ答案の作成と見直しを終えて、第一志望校の合格発表を待つ受験生の気持ちです。夏エヴァで梅田ピカデリーに置き忘れたままになっている私の一部が、四半世紀を経て取り戻されることを切に願っていますし、いい加減この作品を追いかけるのは激しい感情労働を強いられるので、作中の人物のセリフを借りれば「もうエヴァには乗らんとってくださいよ! ホンマ、かんべんしてほしいわ!」というのが本音です。

11.「旧劇」への想いと、「新劇」の正体

 きれいにオチましたけど、ツイッターはカウンセリング室のカウチなんで、思いつくことを自由連想でさらに続けて話します。制作サイドがファンの推測を公式に否定してガックリした最初の経験は、テレビ版の第弐拾壱話で「加持を殺したのはミサトではない」と断言されてしまったことです。首を落とすかのように回る巨大サーキュレーターのブレード、加持さんが正面のカメラを向いて親しげに言う「よっ、遅かったじゃないか」、暗転する画面と同時にドンと響く銃声、そして「葛城」の表札へと切り替わるカット。(手にした紙片を歪めてワナワナ震えながら)これ、すべての演出の要素がミサトを犯人だと指差してますよねえ! ミサトが殺したんじゃないなら、そのあとに留守電を聞いてダイニングテーブルに突っ伏して(ミサトの体重を受けて、テーブルが少しだけナナメに動いて止まる演出が最高!)泣く、その涙の意味がまったく違ってきちゃうじゃないですか! 春エヴァで戦略自衛隊の指揮官のセリフーー「我々に楽な仕事はありませんよ」ーーにウッカリ加持さんの声優を当ててしまい、「加持さんは生きていて、ネルフを裏切ったんだ!」とファンが盛り上がったのにあわてて、夏エヴァで同セリフの声優を変えてきたのも忘れてませんからね! フィフスマルボルジェは直ちに熱滅却処理に入れ! エヴァパイロットは発見次第射殺、非戦闘員への無条件発砲も許可する! クソッ、旧劇のヤロウめ、ガヤのセリフだけでワクワクさせやがって! いまこうやって頭の中で改めて旧劇を反芻するーービデオを見返すまでもなく映像ごと脳内に再生できるーーとわかるんだけど、戦自の立ち場からすれば、あの殺戮は人類の滅亡を防ぐことを目的とした決死の作戦行動だったわけで、25話の展開には虚構へ現実がなだれこんでくるような凄みがありました。だからこそ、26話冒頭で戦自の隊長がこぼす「作戦は、失敗だったな」という言葉に込められた諦念が強く響いてくるのです。あと、階段の下でうずくまってるシンジさんを見つけた戦自の隊員が「サード発見、これより排除する」と無線で報告してから、頭に銃を突きつけて「悪く思うなよ、坊主」って言う場面があるじゃないですか。結果、そのセリフ分の隙でミサトに射殺(拳銃一丁のミニスカで、完全武装の隊員3名をかるがる制圧!)されちゃうんだけど、当時「プロなら黙って撃つはずだ! ありえない描写だ!」とか巨大掲示板で息巻いてるオタクがいたけど、あの隊員にはたぶん息子がいて、引き金を引く直前に一瞬、父親である自分に戻ってしまったと思うんですよね。そして直後に無言でその隊員を撃ち殺すミサトの残虐さが際立ったり、旧劇25話は本当に重層的な読み方を許してくれる作品でした。つくづく知りたいのは、これだけの空前絶後のフィクションをねじふせるように完結させておきながら、新劇として改めてエヴァをリブートさせようとしたときの、カントクの初期動機はいったい何だったのかということです。カントクがテレビ版のプロデューサーにまたエヴァを作ることを相談したら、「もうエヴァはいいんじゃないの? 新しい企画をやりましょうよ」と言われたって話をどこかで読んだことがあります。カントクからは「あなたには、なぜこれが必要なのかわからないんですよ」みたいな返答があったそうですけど、動機として考えられるのは2つあって、テレビ版20話から旧劇までの展開を越えるまったく新しいシナリオを思いついてどうしてもそれを映像化したくなったか、古巣を出て新しいスタジオを作るのにエヴァという巨大IPによる金銭的保証(出せば、必ず当たる)がどうしても必要だったか、このどちらかでしょう。オールドファンは前者だと思ってついてきたのに、実は後者だったことが判明していく悲劇が、新エヴァにまつわる十年余の顛末の、本当のところなのでしょう。まさかそれが、エヴァそのものの商品価値を毀損するまでに至るとは、カントクを含めて序の段階では、だれも予想できていなかったのですけれど! 最近はエヴァに刺激されて、いろいろ当時のことを思い出します。ロスジェネ時代の入り口の話で、とてもとても辛いです。どうか早くシンエヴァを公開して、またすべてを忘れさせてください。

12.「甘き死よ、来たれ」と「Hey Jude」

 過去の傷に塩を塗りこむみたいにして、第26話「まごころを、君に」見てる。やっぱり「甘き死よ、来たれ」は「Hey Jude」を下敷きにしてますよね。個人的にシンエヴァでは、ビートルズのオマージュ曲が流れるのではないかと予想しています。何度も言ってますけど、「In My Life」とかね。

13.意に染まぬ感想への罵倒

質問:いやでもそこまでネルフに忠誠誓う理由ミサトに無くないすか?普通多少仲いい同僚に殺されたもんだと思ってましたね…

回答:レスありがとうございます。オマエ、ぜんぜん読めてねーじゃねーか! 「ネルフへの忠誠を自身への言い訳にした、自分を永久に変えてしまうかもしれない男への愛憎と恐怖の発露」があの場面に描かれてる感情だろ! 第拾伍話、第弐拾話、第弐拾伍話を見れば自明の結論だろ! あと、「普通」ってなんだよ! 世間の普通に苦しめられてきた俺らが、他人を非難するときだけそれを利用してんじゃねーよ! 「みんなちがって、みんないい」じゃねーんだよ、金子みすゞかよ! 「みんな同じになれない地獄」が人類補完計画のテーマじゃねえかよ! レスありがとうございました。

14.シンジさん消滅エンド

 (両手で口をおさえた猿がケトゥ族に撤去されながら)男子三日エヴァを語らざれば、割礼せよ!  エテコ猊下であるッ!

 破の全記録全集でカントクが「今回の大ヒットのおかげで、クリエイター人生で初めて潤沢な資金を得て、次回作に当たることができる」みたいなことを語ってて、その結果がQかい!(初号機ではなくYAMAHAピアノのCGに数千万!)ってズッコケた話は以前しましたよね。これも破の全集だったと思うけど、「これだけの数の人が制作に関わってて、このネット時代に公開日までいっさい内容が漏れなかったのには、本当に感動しました」と話す関係者がいて、この証言は当時のエヴァが纏っていた作品としての魔力ーー雨散霧消して、もう無いーーの片鱗をいまに伝えてくれます。延期のことも相まってか、今回は破やQのときほど情報統制が効いている感じがしません。どんなネタバレももはや想定内なので別にいいんですけど、全てのエヴァの消滅とシンジさんの消滅がトレードオフになる展開が示唆されているのを見かけました。「カントク=シンジさん」なのは有名な話で、観測者の消滅がエヴァ世界の消滅みたいなメタい話だったらヤだなー、と思いました。シンジさんが消えることで世界が救われる話の良し悪しはわかりませんが、これが本バレならせめてカントク自身の内面と切り離した描き方であることを祈ります。「みんな、俺のせいで毎回エヴァが変になるって言いたいんだろ? いいさ、確かにその通り、なら俺がいなくなればいいんだ! そのかわり、エヴァも存在しなくなっちゃうけどな!」みたいな当てつけがましい、作品内・公開メタ自殺をしないとは断言できないところが、カントクがずっと変わらず纏っている「暴」と「キ」の雰囲気だと言えましょう。ルーカスのスター・ウォーズと同じく、カウンセリングの個室での話を一大エンターテイメントに仕上げたのがテレビ版エヴァの終盤と旧劇でしたが、もう同じ手法はウンザリです。カントクはん、ホンマたのむで!

15.「旧劇」とクソバカ陰キャ恋愛脳

質 問:ここにいて(エヴァの雑語りしてて)もいいの?
回答1:ええで、もっとグルーヴさせてこや!90.9%
回答2:もうエヴァはいいんじゃないですか?0%
回答3:(無言)9.1%

 「ーーイヤ」

 明確な拒絶の場面なのに「3回目を見てきましたけど、確かに『いいよ』って言ってました! やっぱりアスカはシンジのことが好きなんですね!」などと掲示板に書き込むクソバカ陰キャ恋愛脳に激怒したカントクが後から追加した執念のテロップ! きゃつらはアラフィフの今でも90年代のファッションのまま、年を取るのに失敗した不気味に若々しい外見で元気に電気街をねり歩いていることだろう! エヴァはスター・ウォーズほどではないが、公開版とビデオ版でかなり中身を変えてくるから、シンエヴァは必ず劇場に行け! 小鳥猊下であるッ! アンケートについて、全員「(無言)」を選んだら面白いなーと思ってたんですけど、アタシの文章が魅力的だからって前のめりにがっつきすぎですよ、もう(akimboのポーズ)! (鋭角のアゴで)続行だ……!

16.リーダーと映画監督の類似

 リーダーというのは、強烈なヴィジョンを持った人物ーーすいません、いま脳内の栗本御大が私の襟を両手でつかんで前後にガンガン揺さぶりながら「新聞や週刊誌の見出しみたいな文章を書くなーッ!」と叫んできましたので、やり直します。……リーダーというのは、己の抱いた結果像に対して偏執狂的な執着ーー「私の脳内にあるイメージしか欲しくない。ただ、それ以上のものを出してきたら喜んで採用する」ーーを持った人物のことを指します。このとき、達成のためのリソースやプロセスはいっさい無視されていなくてはなりません。「またムチャ言い出しやがって、しょうがねえな……」とボヤきながらその実現方法を考えるのは、セカンド以下の仕事なのです。この意味で、企業のトップと映画監督は似た性格(パラノイックな)を持っていると言えるでしょう。インフラ系大企業の公家的組織なら、話は違うかもしれませんが、ベンチャー系企業の武家的組織なら、この傾向は強まるに違いありません。ナディアを作っていた若き日のカントクのエピソードで、外注から戻ってきた絵が気にくわず、年配のベテランに修正を依頼したら断られたときの反応を思い出します。カントクは「チクショー、チクショー」と泣きながらロッカーにガンガン頭を打ちつけて、それを見たベテランが「しょうがねえな、泣く子には勝てねえよ」とボヤきながらカットの修正に応じたという話なのですが、すでにリーダーおよび映画監督に特有の偏執狂的こだわりが垣間見えます。周囲にこの「しょうがねえな」を言わせるためには、ただ駄々をこねるだけではダメで、その人物の人間的な魅力で相殺するか、結果できあがったもののクオリティで正しさを証明するしかありません。エヴァ旧劇は、アニメ界の梁山泊みたいな強面のメンバーにいっさいの妥協なく「チクショー、チクショー」とダメ出しをし続けた結果、もともと高い各人の能力への期待値をさらに大きく上回る仕事が為され、総体としてあの空前絶後のハイパーさに結実したのではないかと思います。旧劇の初号試写後、「みんな納得した表情で部屋を出て行った」という短い一文をどこかで読んだ記憶がありますが、この裏にカントクと現場の壮絶な戦いを想像せざるをえません。この文章、「過剰なダメ出しに不満を抱いていたベテランたちが、試写を見てこれまでの指示に納得した」と私には読めました。ハヤオ氏との関係などから、カントクは下に恐れられ、上から可愛がられるキャラーー本質的なことを空気を読まずにズケズケ言うのかもしれませんーーなのではないかと推測します。古巣を出て新しい会社を立ち上げて、恐れられるだけの存在になってしまった現実が、Qのゲンドウには投影されている気がするんですよね。ある関係者が「Qの作業中、監督にずっと『もっとカメラ寄って』って言われ続けたけど、できませんでした。ゴメンなさい」みたいな内容をつぶやいているのを見かけて、一線級の方々がいなくなった現場で改めてリーダーとしての挫折と妥協を味わったのがQだったのかなと思い至り、苦しくなりました。真っ暗なドグマを背景に、遠いカメラで撮影した巨大感絶無の初号機の後ろへ、戦隊モノみたいな爆発が白々しく起きるシーンがあるんですけど、「なんでこれにオーケー出すんだ!」と劇場で怒り狂っていた自分を少しだけ恥じる気持ちになりました。

17.アニメ版「ゲド戦記」への恨み

 話はエヴァからそれますが、二線級の方々をあてがわれて監督が苦しむ作品と言えば、ハヤオ氏の息子の処女作が思い浮かびます。おそらくやっかみから、誰も良くなる方へは手伝わないばかりか、映画制作の基本すら教えず、駄作にして恥をかかせてやろうという悪意を全編にわたって感じるからです。砂漠の熱い風を意味する会社のクオリティ・コントロールは、まったく個人のカリスマに帰するものだったことが明らかになった瞬間でもありました。もっともこちらはQと違って、私の敬愛する世界的な文学者のル=グウィンが「トトロを作った監督なら」と大切なゲド戦記の映像化を預けてくれたのに、その信頼をクソミソに裏切って彼女を失望させ、「私の本ではない」「思い出したくない」とまで言わせたことから、情状酌量の余地は一切ありません。極上の大トロを注文したら腐りかけのイカが出てきたみたいなもので、かてて加えて板前の態度は「同じ寿司じゃんw」ですよ! あの大ル=グウィンを古くさくてカビくさい、はるか昔の童話作家ぐらいに思ってたから、原作への敬意がいっさい存在しない、聞きたくもない自分語りだけの作品ーー「作品」じゃねえ、「動く絵」だ!ーーになったんじゃないですか? ル=グウィンがファンの質問に答えた同映画への感想を読んだときには、情けなさと申し訳なさで涙が出ましたもの! 本邦ではみんなこの件を軽い笑い話みたいに扱ってますけど、映像化許諾の際に御大が関わると彼女に錯誤させてるのは、重大な詐欺行為ですからね! 賢くて穏やかなル=グウィンが、自らの品性を下げてまで事を荒だてない選択をしただけで、国際的な係争に発展していてもおかしくなかったと思いますよ! アニメ版ゲド戦記の周辺は、本当に人間の汚れた思惑まみれで、思い返すたびにひどく絶望的で陰鬱な気分にさせられます。御大が同作を作り直すことで、「太平洋をまたいだ失望と怒り」が解消することを夢想していた時期もありましたが、数年前に彼女が他界してしまい、それも不可能になりました。

18.UCC「エヴァ缶」コラボ

 すいません、怒りのあまりいつものごとく話がだいぶそれたのでエヴァに戻しますが、新劇を見てスタジオの門を叩き、Qによるシリーズ中断から長い時間が経過して、「エヴァに関わりたいから入ったのに」とボヤいていた若者たちは、シンエヴァで無事に本懐を果たしたのでしょうか。以前、冒頭10分公開の感想にも書いたように、「アニメーターの社会的地位の向上と若手の育成」という御社の本道が達成され、新たな業界のスターが誕生していく土壌が生まれることを期待しています……本当にそう思ってるってば(「加持さんはもういないんだってば!」のイントネーションで)! あと、パチンコ以降に乱発されるようになった、監修の甘い破の絵柄のコラボーーこの一点だけでも社内での客観的なQの評価が伝わりますよねーーですが、社の存続のみを目的とした、旧エヴァのクリエイティブな志と真反対の商品群には、あのエヴァが今やこれかと、情けない気持ちにしかなりません。もちろん、一つも買ってません。旧エヴァのときは「カントクが愛飲しているから」の理由でUCCの缶コーヒーだけがポツンとコラボしてて、それを最高にクールだと感じてエヴァ缶を飲みまくっていた時期がありました(今なら糖尿まっしぐらの勢いです)。いまもUCCに同じ商品があるようですけど、あのときのエヴァ缶が持っていた魔力は消えています。もちろん、一本も飲んでません(血の悪い中年美少女の体には毒なので)。

19.「宇宙際タイヒミュラー理論」による予想

 舞台袖で聴こえる期待の囁きやしのび笑いにつられて、満面の笑顔で全裸のまま舞台へ躍りでたら、観客全員が真顔で静まりかえるのを、いくど経験してきただろう。久しぶりのエヴァに心のバランスを欠き、奇妙な軽躁状態であることは自覚しているので、そろそろ黙ろうかとは思っている。しかし、最後にひとつ言い忘れたことがあるので、それだけしゃべって終わりにしたい。それは、みんな大好き「宇宙際タイヒミュラー理論」をカントクが映像化する企画があるという事実だ。ざっくり同理論を説明しておくと、この宇宙では足し算と掛け算のつながりが強固すぎるので、いったん別の宇宙を仮構して両者を分離し、問題解決後にまたこの宇宙へ復元するという内容だ。全知力を注いで読んでも1ミリも理解できないーー字面は追えて、文章の意味も浮かび、そして何ひとつわからないーーというSF的快感に一時期ハマッていたことを告白しておく。ちなみに、テキストサイト界隈で「宇宙際タイヒミュラー理論」に言及する唯一のオフレポは、何を隠そう小鳥猊下の手によるものだ。読め読め。話を戻すが、「別宇宙で問題を解決してから、元の宇宙で再構築する」という同理論のギミックは、もしかするとシンエヴァにおいて映像化されるのではないだろうか! 破とQ、似ているが全く違う2つの世界を抱えることになった新劇の構造を「宇宙際タイヒミュラー理論」に当てはめることで、エヴァにまつわる謎をすべて数学的に解決するという知的アクロバットだ!

 よろしい、これがシンエヴァにまつわる最後の妄言である。

20.「転生したら小鳥猊下だった件」(三島由紀夫)

 おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、フォロワーがだ、ここでもってファボらねば、貴様がリツイートしなきゃ、エヴァ語りの拡散ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただ小鳥猊下のアンチになってしまうんだぞ。おれは22年待ったんだ。萌え画像が寄贈される日を。……1年と少し待ったんだ、さ……最後の三ヶ月に……待っているんだよ。諸君はおたくだろう。おたくならば自分を肯定する小鳥猊下をどうしてファボせんのだ。どうして自分を肯定する小鳥猊下のために、自分らを肯定する小鳥猊下をリツイートせんのだ。これがいる限り、諸君たちは永久に救われるのだぞ。

21.上映時間と「東映まんがまつり」による予想

 シンエヴァ、上映時間が出ましたね。2時間34分ということで、REVIVAL OF EVANGELIONと同じ長さにそろえてきました。Qの「31手で詰み」の話には正直、「アホか。もっと別のとこちゃんとせえ」以上の感想が抱けないのですが、こういう強迫神経症的な(意味の無い)数字へのこだわりは、じつにカントクらしいとも言えます。以前、破の続きとQの続きを別々に作ってて、ハコを倍にして2作品を同時期に公開するポケモン・スタイルーー2つの作品で、興収も2倍だな!ーーを予想したことがありました。2時間34分という長さは「東映まんがまつり」よろしく、実質的に2本同時上映の構成になっているのではないでしょうか。いちどは激怒した、特報2.5のふざけたひらがな付きテロップーー「来年6月 公開 お楽しみに!」ーーも、複数のアニメを同時上映していた「東映まんがまつり」を意識したものなら、この推理と平仄が合います(早口)! あと、DEATH編の再編集と夏エヴァの併映がREVIVAL OF EVANGELIONなんですけど、なぜかポルノ映画館で見たのを思い出しました。場内にただよう独特のにおいと、乾いた液体でガビガビした座席の感触をいまでも覚えています。あれ、もしかするとウテナ劇場版の方かな? アキハバラ電脳組だったかも?(いま調べたらこの2作品は同時上映だったようです。)ともあれ、あの昏い世紀末、いまでは忘れたいばかりの苦しい現実が、すべて曖昧に色と輪郭を失ってしまった後で、ポルノ映画館のスクリーンに映されたエヴァ旧劇の鮮やかな映像だけは、いつまでも記憶に新しいのです。

22.エヴァ語り非拡散に苛立った読者ディス

 うーん、間近に迫ったシンエヴァにテンションがアゲアゲになり、かなりの頻度で(私にしては)ATフィールドをとっぱらったツイートをするのみならず、LCL化寸前まで心のハードルを下げて「いいね」をつけまくってるのに、フォロワーは少しも増えないし、フェイバリットもリツイートもされないなー。「愉快で読みやすい呪い」を目指して、昔のnWoからは想像もできない平易な文章を書きちらかしているのになー。以前、ゲームの感想をまとめたnote記事の引用リツイートに「本当に良いので、がんばって読んで下さい」みたいに書かれてて、「がんばって? 何をがんばるの?」と脳裏にクエスチョンが乱れ飛んだことを思い出すなー。もしかすると、「難解な文章なので、理解するためにがんばって読め」って意味だったのかなー。こんなにグルーヴ感があってユーモアに富んで水のように理解が浸透する文章なのになー。ツイッタラーどもは思ってるよりずっとアホ(暴言)なのかー?

23.上映時間とファンのためのエヴァンゲリオン

 あれ、シンエヴァの上映時間に関する映倫データや関係者のツイート、消されたの? 「バズを意図した広報的リーク」じゃなくて、One Last Kissのときと同じ「ウッカリお漏らし」だったわけですか。うーん、前も指摘しましたけど、今回は破やQのときと違って、情報統制のグリップがきいてませんね。カントク、怒ってるんじゃないかなー。意図しないリークへすぐさま強硬に対応するあたり、「作品にまつわる全てを完璧なコントロール下に置きたい」という強烈な偏執狂的人格を感じますが、いったんアップしたものは必ずどこかでローカルに保存されていて、無かったことにはできない前提で広報部は動くべきでしたね。「後から消した」という事実が野次馬による憶測と拡散をブーストさせるので、逆に注目を集めてしまって悪手だと思うんですよねー、消すの。破やQのときに公開日まで内容が漏れなかったことへ感動する関係者の言葉を紹介しましたけど、いま思うに、それらしい情報を見かけても口をつむぐ努力とか、ファンの協力も大きかったんじゃないでしょうか。何より、あの頃の我々には聖典たるエヴァンゲリオンへ向けた絶対の忠誠がありましたから。旧劇のラストを「交尾犬への水ぶっかけ」と表現しましたけど、あの作品はまがりなりにもTHE END OF EVANGELION で、「すべての終わりに愛が無いなら」どうなるかわかっただけで済みました。それに対してQは、まだ話の途中なのにあわてて水をぶっかけて、ファンのたかぶりを完全に鎮火させちゃったもんだから、本当にどうしようもない。はじめて水をぶっかけられた客は突然の狼藉に怒り出し、2回目に水をぶっかけられた客は「またかよ……」と悪態をつきながらエヴァから去っていく。なんだろう、「初めてのセックスで偶然うまくいった奇矯な行為(sixty-nine中に脱糞など)を一般的なものと勘違いしたまま月日が流れ、別の相手にかつての成功(性交)体験としてそれを得意げに繰り返してしまった」ようなやらかし感とでも言いましょうか。エヴァという作品を包んでいた神気は、あの瞬間を境として完全に消滅したというのが私の実感です。この意味で、Qはまさに神殺し(笑)の怪作だったと言えましょう。あと、2部構成を半ば確信している理由としては、上映時間の長さもさるものーーQのペラッペラな世界観で160分弱も話がもつわけがないーーながら、2007年9月に序、2009年6月に破、2012年11月にQがそれぞれ公開され、2011年3月にちゃぶ台返しがあったと仮定して、2011年2月までの1年半の間に制作が全く進行していなかったというのは、考えにくいからです。少なくとも骨格ぐらいは出来上がっていたはずで、残された成果物をサルベージ(エヴァ語)する形で、残された者たちがそれをリビルド(エヴァ語)したパートがあるのではないかと推測しています。いや、油断するとディスへ流れますが、私は本当にシンエヴァに期待しているのです。9年前の大爆死で地面に倒れ伏したカントクが、その姿勢のままドラゴンボールの元気玉を集めるみたいに散逸したエヴァの神気をじりじりと両手に溜めていて、一気に爆発させようとしているのではないか、過剰なまでの情報統制は劇場で観客の心に炸裂するそのエネルギーが少しでも減じることを嫌っているからで、今度こそ、序破のように徹底して自分語りを排除し、ファンのことだけを考えた、ファンのためだけのエヴァンゲリオン(EVANGELION FOR THE FANS BY THE CUNT-Q OF THE FANS)が上映されるのではないかーーそう、期待しているのです。

24.惣流&式波アスカ、その声優の重要性について

 よーし、予想と称しながらほぼネタバレを含めた新旧エヴァ雑語り、今夜も始めちゃうぞー。聞きたくない良い子のみんなは一時的にミュートしていいけど、あとでちゃんと解除しとくんだぞー。最近、フォロワーの9割くらいはオレをミュートしたままなんじゃないかと疑ってるところだからなー(昏い目)。

 旧エヴァと新エヴァで名前が変更されているキャラが2人いるのね。知っての通り一人目はアスカで、旧の名字が惣流なのに、新の名字は式波へ変えられてるの。二人目はゲンドウで、旧では碇家に婿入りする前の旧姓が六分儀なんだけど、新ではその設定が無くなって、ユイが碇家に嫁いだことになってんの。まあ、ゲンドウの方は、自分のスタジオを立ち上げたことと、エヴァを長きにわたって喰い物にしてきた怪人と訣別したことに影響されてて、たぶんお得意のライブ感による後付け設定であり、話の大筋にはからまないので無視していいと思います。リツコの「エヴァはコピーだけど、人の魂が込められてる」みたいなセリフがあるけど、「オリジナルは作れないけど、実人生をコピーに転写することで同じ強度を持てる」というのがカントクの創作ポリシーらしく、過去にもインタビューで「ライブ感」という言葉を使って、何度も語られてきました。でも、時にこれが現実側に寄りすぎて、実生活の垂れ流しにまで行き着くのがカントクの悪癖でもあります。話がそれましたーー実はあまりそれていないことがすぐにわかりますーーけど、新旧アスカの名字が異なる点はあらかじめキチンと設定されているがゆえに重要な変更で、先日これにからめた予想というかネタバレみたいのに遭遇しました(ちゃんと情報統制してくださいよ、もう!)。旧劇で徹底的に拒絶ーー気持ち悪いーーされた惣流アスカとヨリを戻すことをあきらめたシンジさんが、好意を受け入れてもらうために別世界で作り出した別人格が式波アスカだという内容なのですね。旧劇の補完計画はシンジさんの「欠けた自我」について、どのように全きものへ補填するかの試みを、彼の主観において進行させていきました。つまり式波を惣流と別のキャラクターだとする見立ては、新劇そのものが旧劇における人類補完計画の続きだと考える説です。ニワカ芸人が、Qは旧劇の続きとかいうヨタ話(検索が汚れて邪魔)をまいてるみたいですけど、大枠は実のところどうだっていいんです。物語の中核にアスカがからんでくるのかどうか、それが旧エヴァからのファンにとっては、最大の焦点になるのです。新規参入者にはわからないこの感情を、くわしく説明していきましょう。テレビ版の当時、カントクがアスカの声優に相当いれこんでいたのは有名な話で、本人のイベントにもしげく足を運んで贈り物をしていたようです。そしてストーカーまがいの熱烈なアタックから最終的に想いを拒絶された大失恋の絶望と悲しみが、旧劇の内容にそのまま反映されているというのは、あの頃からのファンなら誰でも知っている話です。夏エヴァのパンフレットだったかで、声優たちがエヴァの完結へコメントを寄せているページがあるんですけど、MIYAMOOのそれは「もっと幸せになろうよ、人類!」でした。コアなファンたち全員が日本の別々の場所で「おまえのせいで人類とエヴァがこうなったんだろうが!」と絶叫し、パンフレットを老婆の財布のようにビリビリに破いたことはみなさん、ご記憶のことでしょう(もちろん、3冊買ってあるから安心です)。あと、旧劇の最後のセリフは脚本段階では「アンタなんかに殺されてたまるもんですか」となっており、ブルーレイ版にはこのバージョンも収録されています。カントクはこのセリフの演技プランを大熱弁し、何十回もリテイクを出したあげく、「なぜわからないんだ! 夜中に部屋へ入ってきた男が馬乗りで首をしめてきたときの気持ちを想像してみろ!」とムチャぶりするのに、疲れ果てたMIYAMOOが「気持ち悪い、ッスかね?」と吐き捨て、カントクは「あ、やっぱり?」と正気に返り、そのままそれが採用されたという逸話がいまに残されています。つまり、旧ファンにとってエヴァが終わりを迎えるにあたって、アスカ(の声優)との距離感というのは、最重要事項に位置づけられるのです! あと、テレビ版終了後、ドラえもんの登場人物みたいな名前の女性漫画家と急接近していたのも知られた話で、旧劇の制作に入る前に脚本を見せてたっていうから驚きです。私が同じ立ち場だったら怖くて読まずに突き返しますが、その女性漫画家は喜んで受け取ったばかりか内容を絶賛したというのだから、顔面の皮膚が厚いにもほどがあります。もし貴女が少しでも「まごころを、君に」のおたくディス・実写・メタ展開に難色を示してくれていたら……いや、20年も前の恨みをいまさら言うまい(言ってる)。そういえばQのときもUTD氏に事前に脚本わたしてるみたいですし、自信が無いときのカントクは女性を神格化して依存して、最終決定を女神に丸投げする傾向がありますね。もしUTD氏が「こんなもん、エヴァじゃねえ!」と叫んで、その場で脚本をカントクの足元へ叩きつけてくれていたら……いや、9年も前の恨みをいまさら言うまい(言ってる)。ことほどさように、シンエヴァが傑作になるかどうかは、ほぼ部外者の女性が事前にカントクから脚本を読まされていたかどうかがカギとなるのです。どうか近年のカントクに、ヘンな虫(無条件シンパのスピリチュアル女性)がついてませんように! そして女性のみなさん、気をつけて! 自信を失った男性の提示するものすべてを受け入れて肯定するのは、愛じゃないですよ! 平手打ちして弱さと過ちを罵倒する優しさって、あるんですよ!

 でも旧劇にまつわる体験でいちばん怖かったのは、夏エヴァのパンフで冬月の声優さんが「誰ひとり、監督が満足する演技なんてできていませんよ。この作品は監督にとって妥協の産物でしょう」みたいな内容を語ってたことで、「こえー、昔の舞台役者こえー」と自室でガタガタ震えていたのを思い出します。

25.レーザーディスク版ジャケット賛美と裏特典映像

 ヘイフリックの限界(挨拶)! 特に設定と関係はないが、響きのカッコよさから採用されただろう旧エヴァのフレーバーテキスト! 小鳥猊下であるッ! また長文で尾籠(below)で糜爛(villain)な雑エヴァ語りがドバッと出る寸前である。しかし、育ちの良い紳士淑女たちのために、しばし括約筋を引き締めることでミュート(mutant)のチャンスを与えることとしたい。

 そろそろ、退避よろしいか? では、ドバッといくぜ!

 直近の5年間で関心が継続しているものには、「艦これ」と「FGO」が挙げられますが、ゲーム本体(もしくは制作者)への興味がほぼすべてで、グッズやコラボやリアルイベントなどには昔からいっさい食指が動きません。これだけ長くお世話になっているエヴァにしても、買ったことがある関連商品は1997年のUCC缶コーヒーのみです。もちろんサントラCDはぜんぶ持ってますし、映像メディアもその変遷に伴って、VHS・LD・DVD単品・DVDBOX・blu-rayBOXと順にそろえてきました。私にとって収録されている映像がすべてではあるんですが、この中でもっとも所有の欲求を満たしてくれたのは、なんと言ってもLD版でしたね。レーザーディスクってレコードぐらいのサイズなので、ジャケットも大きくてデザインがすごく凝ってたんです。検索して実物を見てもらうのがはやいとは思いますが説明しておくと、登場人物1名が正方形の真ん中にバンと大きく描かれてて、その周辺に大小の極太明朝体で収録話のキーワードが並べられて、ジャケットを開いた内側には細かい字でライナーノーツがビッシリ書かれている。オールドファンはみんなそうでしょうけど、私にとってエヴァンゲリオンと聞いてまっさきに浮かぶビジュアルはLD版のジャケット表紙ですね。LD版のリリースは第拾九話が収録されている巻でいったん中断されて、第弐拾壱話以降は劇場版(旧劇)の公開後に映画の内容へ沿うよう場面を編集・追加したビデオフォーマット版として販売されたんですね。コイツがくせもので、テレビ版をすりきれるほど見てるファンにとっては、追加シーンに違和感しか覚えないんです。終盤の力尽きた作画に突然、劇場版クオリティの新作シーンが挿入されるのですが、第弐拾弐話でアスカが義母とドイツ語で話すシーンがコミカル(崩れた作画の影響でそう見える)に描かれた直後、等身からして同一人物とは思えない全裸の美少女が生理に痛む腹部を押さえて、風呂の湯を抜きながらダウナーな台詞をつぶやき始めるとか、何度見ても場面と場面に断絶がありギクシャクとつながってなくて、追加によって尺も変わってテンポも乱れてるんです。これが教祖のお示しになられた決定版なのだからと繰り返し視聴するのですが、最後まで慣れることはありませんでした。あと、ビデオフォーマット版は第弐拾壱話だけ(たぶん)残テのオープニングがカットされて、アダムを発掘した南極基地の映像から始まるんですけど、ゲンドウとキール議長が不自然なほど延々とガヤで科学者をディスってるんです。これなんだろうなーと思ってよく聞いてみたら、「科学者」を「オタク」に置き換えても成立するファンへの恨み節なんですよね。「求めているのは、己の気持ち良さだけだ」とか、ここまで徹底して信者たちを憎んでいたのに十年を待たず教団を再結成するのだから、わからぬものですよ(老執事の顔で)。テレビ版オリジナルの第弐拾壱話から第弐拾四話はLD全巻購入の特典になってて、ずいぶん長い間ふれることができなかったのも思い出しました。また、第弐拾壱話以降が収録された巻からジャケットデザインが変更されてしまい、作中場面の1枚絵のみで極太明朝体のキーワードが消えてしまいます。この変化には、たいそうガッカリしました。カントク、調子がいい時にはぜんぶ情報を開示しようとするんですけど、いったんファッション鬱へモードが切り替わると情報をぜんぶ伏せる方へ動くんですね。前に新劇の全記録全集の話をしましたけど、劇場用パンフレットもQは序破と比べてぜんぜん必要な情報が示されていない。いま思えば、LDジャケットのデザイン変更にもその傾向は現れていたのでしょう。そして、2003年に発売されたリマスター版のDVDBOXーーゼーレのモノリスを模した装丁ーーから、カントク監修の下で5.1chサラウンド音声が追加収録されました。この作業を通じて数年ぶりに旧エヴァをぜんぶ見返したことで、カントクは新劇を作ろうと決意したって話なんですけど、この最初の5.1chサラウンドは不自然なほどリア・スピーカーを使いまくってて、第壱話で戦自のヘリから放たれるミサイルが後ろから前へ飛んでいくのがわかったり、オペレーターのガヤが背後で鳴ってたり、カントクが新しいオモチャにはしゃいで作業してるのが目に浮かぶようで、いまでも見返すたびに思わず笑ってしまいます。

 あと、こっからの話題は女性フォロワーにはミュート推奨なんですけど、当時アスカの声とソックリの女性が出てくるアダルトビデオみたいのが出回ったんですよね。この裏ビデオ、本当にアスカ本人(?)にしか聞こえない喘ぎ声で、相手の男性をシンジ(!)と呼びながら、にゃんにゃん乳繰りあう文字通りファン垂涎の一品で、blu-rayBOXの特典映像に収録されていないのが不思議なくらいです(少しも不思議ではない)。真偽のほどは闇の中ですが、プライベートでアスカ&シンジ・プレイをしているのをリベンジ的にアレされちゃったんだろうなーと勝手に想像しています。たしか当時、この動画のダビングのダビングのダビングみたいなVHSテープを持っていて、探せばどこかから出てくるかもしれませんが、見つけたところでもはや再生するデバイスはありません。シンエヴァでは、これまでに存在した全てのエヴァ派生を作品内へ包括して終わらせるってふれこみですけど、この裏ビデオの件も実写パートで伏線回収されるんだろうなー、楽しみだなー(暴言に近い妄言)。

26.「ゆきゆきて、神船」あるいは女優MIYAMOO

 雑エヴァ語り、吐き出しても吐き出してもーーいや、吐き出すからこそだろう、止めどない妄念が次から次へと染み出してくる。テキストサイト以前の自分がどれだけのこじらせ系エヴァオタだったかを己の文章で追体験させられ、なんとも言えないイヤな気分だ。基本的に良作へはあまり言葉を費やさないので、スターウォーズも7のときは、ほとんど何も書いてません。シンエヴァが名作だったら、たぶんカントクへの謝罪以外は何も言わない気がするし、雑エヴァ語りもぜんぶ消すと思います。昔を懐かしむアナタは、今のうちに拡散しておくのがよろしいでしょう。

 直近のエヴァ語り、何の反応も得られず、完全な無音だけが小生のタイムラインに残された。おそらく内容が尾籠(below)方向にゴー・トゥー・ファーしてしまったせいかもしれぬ。旧エヴァへの想い、見ないふりでフタをして二十年が経過し、何の気なしにフタを開けてみたら中身が気化して消滅しているどころか少しも目減りしておらず、グッツグツのボッコボコに発酵していた感じである。もしシンエヴァがテレビ版と旧劇をも包括して終わらせるというのなら、そして資料の散逸から全記録全集が不可能だというのなら、せめて関係者が存命のうちに証言を集めて、ドキュメンタリー「THE END OF EVANGELION制作秘話~ゆきゆきて、神船(Wunder)~」を制作してはくれまいか。副題はもちろん、「アスカ奮戦記」などでもいっこうにかまわない。雑に語るため、トーンを変える。MIYAMOOって、テレビ版の当初は演技派からは程遠い、ドぎつい萌え声だけが特徴のアイドル声優という印象しかありませんでした。エヴァも数ある仕事のひとつに過ぎなくて、思い入れもぜんぜん無くて、演技で作品を良くするというプロ意識なんて薬にもしたくない。アイドル声優としての日常を軽く軽く生きてこうとしていたところに、カントクという日常を重く重くしていくこじらせたオタク(と、冬月の声優)にウザがらみされて、劇場版でたいへんな目にあわされたというのが、MIYAMOO側の主張ではないかと想像します。それこそ、「えー、たかがアニメでしょ? 二人ともなに真剣になってんのよ、キモッ!」くらいの感じ。これがアニメだろうが実写だろうが、作品に「魂を削る」タイプの創作者(と、演技に「人生を賭す」タイプの舞台役者)から逃げられないよう首根っこつかまえられて、理不尽なまでの膨大なリテイクを要求されたーー恋の破局を向かえ、エヴァが終われば二度と会えない事実が、もともと強い彼の執着をさらに増幅させたのだーーことで、彼女が属性として持ちたくもなかった「役者」として開花したのが旧劇での演技だったと思うのです。もっとも、尋常でないシチュエーションと異常な台詞まみれの規格外の作品で、もうどれだけ嫌われても構わないとハラのすわったカントク(と、舞台役者)の鬼のシゴキで一瞬だけ上ブレして到達した境地であり、その後の出演作を見るにつけ、正に一夜限りの仇花となってしまったようですけれど! 旧劇にまつわる映像の中ではヴェルディの「怒りの日」がBGMとして流れ、「これがアナタの望んだ世界、そのものよ」で終わる予告編がいちばん好きなんですけど、この時点でアスカの「殺してやる」連呼は、まだ棒読みに近い状態でした。これが本編の鬼気迫る「ころひてやる」(らめぇ、のアッパー・バージョン)に変貌するまでに、カントクからのどのような体当たりの演技指導があったのかーー「おまえは9人に囲まれてレイプされたんだぞ! それもただのチンポじゃない、ウナギみたいな9本の極太チンポにレイプされたんだ!」ーーがカントクから語られるのを聞きたいし、第26話の白眉である記憶の洪水から実写に切り替わる直前の、「でもアナタとだけはぜったいに死んでもイヤ」の毛虫に向けて吐き捨てる感じ(死んでも、に込められた嫌悪感が最高!)に至るまでにどれだけのリテイクがあり、どのような演技指導を受けたのかーー「おまえがこの世でいちばん嫌いな男が、土下座してヤらせてくれって頼んできたときのことを想像してみろ! お、オレの顔を見て、お、オレの目を見てこのセリフを言ってみろよ!」ーーを声優本人の口からインタビューで聞きたいと心の底から思っているのです。そして何より知りたいのは、旧劇のアフレコまでに、恋の破局を向かえるまでに、一度でも二人の間にセクシャルなインターコース(媾合陛下!)があったのかどうかです。新劇から入ったみなさんは、いま露出狂への不快感に眉をひそめていることとご推察申し上げますが、当時は生まれ持っての貴族精神の持ち主か、テレビ版のラストで興味を失って去ったか以外の人物なら、これはだれでも当たり前に胸中へ抱えていた、言わばファンの思考の中央値なんですよ! あの頃の朋友たちには、この品性下劣な孤軍奮闘エヴァ語りが真実だと証明するために、ぜひ何らかの援護射撃をしてもらいたいところです。みんな、春エヴァで劇場のシートから第壱話のN2地雷後の戦自幕僚のように立ち上がり、乱杭歯を剝き出しに「ヤったか!?」とキチガイの目で大絶叫してましたよねえ!(夏エヴァではダブルミーニングのグロッキー状態で、だれひとりとして立ち上がれなかった。)オールドファンからすれば、作品内外にわたってこういうメタクソに(metapholical and shitty)性的な空気感が旧劇全体を取り巻いていて、それを引き剥がしては視聴できないのが実際のところであり、純粋に作品だけを評価することなんてもはや不可能なのです。前も言いましたけど、開幕当初の新劇が持っていた最大の特徴は、旧劇特有の「性的な空気感が絶無」であり、「男と女に拘泥しない」ことだと指摘できるでしょう。序破は良い意味で脱臭されたディスニー的なプロダクトだったのが、Qで再び私小説に戻ったと指摘するのは、おそらくカントクの主観による「性的な空気感」と「男と女への拘泥」が生々しく流入・復活してしまった点にあります。Qにおける新劇から旧劇へのこの転換を、再び新劇の側へ引き戻す過程がシンエヴァで描かれると私は信じていますし、あらかじめそれが意図されていたかのようにカントクはふるまうでしょうが、そこまで事前に考えていたなら9年も間が空くはずはありません。冒頭の言を繰り返しますが、長らくフタをしてきた旧エヴァをもシンエヴァを終わらせるために引き出してくるならば、nWoの持ち込み企画「THE END OF EVANGELION制作秘話~ゆきゆきて、神船(Wunder)~」あるいは「アスカ、かく戦えり」について、何卒ご検討とご制作のほど、宜しくお願い申し上げます。

27.エヴァQ劇伴礼賛・呪詛柱

 シンエヴァの公開日が決まり、予告編の改2がそれぞれアップされましたね。Qのほうのコーラス付き次回予告を聞くと9年前の劇場での記憶がよみがえってきます。なにひとつ次が決まっていないことがわかる寒々しいナレーションと作りかけのCGへ重ねて音楽だけが壮大に響いており、虚脱の中で失笑が漏れたことを思い出します。同じ感情を抱いたシーンがQの中にもうひとつあって、ドグマで6号機だか8号機(確認する気も起らない)だかが寝返りをうつーーあんなふうに胎動するとは、夢にも思わなかったーーところです。こちらもコーラス付きの荘厳な曲なのに画面は意味不明のペラさで、見てるものと聞いてるものの間にあるフリーフォール級の落差に、劇場で思わず「アホか」と声が出ました。この一言に「これだけ素晴らしい劇伴なのに、とびきりつまらないシーンを選んで当てるとは、なんて愚かなんだろう!」ぐらいの意味が込められており、関西弁の奥の深さを感じます。振り返るとQって、カントクが絵やシナリオに自信がないところは反比例で音が厚くなってる気がするなー。まあ、シンエヴァの公開日が改めて決まった今、終わった過去のことをグジグジと言ってもしょうがないのですが……(「終わってはいない」ことと「言わずにおれない」ことを意味する2つの三点リーダ)。

28.「人類という種のエンディングテーマ」

 エヴァ新劇、あちこちで放映されすぎたせいか陳腐化しつつあり、意識せず出くわすと生温かい微笑みみたいなのが漏れてしまう。逆にエヴァ旧劇にはいつまでも背筋が少し伸びる感じがあって、二十年経っても消化できないこの怪鳥は、頭から丸呑みにしようと丁寧に咀嚼してから嚥下しようと、肛門から出る際には羽毛すら消化されないまま排出され、怪鳥の形まま悠然と飛び去っていくのである。二十余年を経て、旧劇が未だにその魔力を減じていないのは、関係者が制作の裏側について徹底的に黙秘しているからだと思う。劇中歌である「甘き死よ、来たれ」にしたところで、本邦のみならず海外のファンに「人類という種のエンディングテーマ。我々が滅びるとき、世界中のスピーカーというスピーカーからこの曲が流れていてほしい」とまで言わせる名曲であるのに、制作過程がサッパリわからない。カントクの手による歌詞の案には「悪いのは私、無へと帰ろう」としか書いてなくて、このファッション鬱のラクガキからあの壮大な曲に至るまでの情報断絶がひどすぎて、聞くたびに「いやいや、そうはならんやろ」と思わずツッコんでしまうぐらいだ。当時、謎本やらパソコン通信(2ちゃんねるは無かった)やらで無数の「俺エヴァ語り」がなされたが、どれひとつとして「悪魔の名前を言い当てた」ものは無かった。私はたぶん、エヴァという悪魔が本当の名前を言い当てられ、テレビ版と旧劇が陳腐化して、私の中で無化されること望んでいるのだと思う。本放送時にはあれだけ神秘的だった残酷な天使のテーゼにせよ、人口に膾炙して、年月に目減りして、作詞家がバラエティ番組でベラベラ内幕をしゃべったのをダメ押しとして、いまや完全に魔力を失って陳腐化した。旧劇にも、それは可能なはずだと信じている。

29.公開日決定とエヴァ本放送の思い出

 さて、シンエヴァの公開日も3月8日と決まったことで、この雑エヴァ語りにも終わりが近づいてきました。それこそ、これから半年くらい呪いだけを吐き出し続ける装置と化すのではないかと自分でも怖かったので、いまは少しホッとしております。そう言えば、テレビ版の話をほとんどしていなかったので、最後に触れておきましょうか。旧劇がカントクのプライベートフィルムなのに対してテレビ版の、特に第拾九話までの各話は、様々な才能が力を出し合って集団で制作している感じがひしひしと伝わってきました。ナディアの21話と38話にガツンとやられて、あれを作った人の最新作ならばと第壱話からリアルタイムで追いかけはじめ、第弐拾六話までをすべて欠かさず本放送で視聴しています。知人との集まりを「今日はエヴァがあるから」と中座したこともありました。ならいっしょに見ようと誘われて、「いや、エヴァはひとりで見るものだから」と断ったのは、さすがにこじらせすぎでしょう。つまり、「デラべっぴん」やら「クイック・ジャパン」やらの特集記事でエヴァの存在を知って、後追いでビデオや再放送で視聴したようなニワカ・サブカリストどもとは年季と覚悟が違うわけです。旧エヴァって第拾七話から第拾九話までの流れが取り上げられがちですけど、作品のトーンがガラッと変わったのは、なんといっても初号機がディラックの海に取り込まれる第拾六話ですね。エヴァを構成する「精神世界」「グロテスク趣味」「SF的ワンダー」がすべてこの1話に詰まってる。破は総じて手放しでほめてるんですけど、この話がオミットされたのだけはいまでも残念でなりません。内容からはそれますが、第拾六話って撮影時のセル画をすべて紛失してるんですね。リマスター版のDVDやblu-rayでも他の話に比べると、明らかに画面の鮮明度が低くて見返すたびにガッカリさせられます。でもたぶんこれ、紛失ではなくて、ドぎついファンだか関係者だかがスタジオからセル画を封筒ごと持ち出して、自宅にガメてんじゃないかと思うんですよ。んで、その人物が亡くなって遺品整理のときとかに発見されて、「あの第拾六話を放送当時のセル画で完全再現! これぞエヴァの究極・最終号リマスター!」みたいなセット販売の売られ方を二十年後とかにするんじゃないかなあ。シンエヴァが終わった後、第拾六話をセル画からリマスター化したこの円盤こそ、私がエヴァオタとして最後に手に入れるグッズになる気がしています。話を内容へ戻しますが、テレビ版は第拾九話まではテレビアニメとは思えない超絶なクオリティーーそれこそナディアの21話と38話が延々と続く感じーーで、カントクとスタッフへの全幅の信頼しかなく、ストーリーの先行きに何の不安もありませんでした。(余談ですが、カントクは同じ枠でやってたブルーシードを見て、「これが許されるなら、俺もテレビアニメをやれる!」と自信をつけたそうです。)そしてそこからは、リアルタイムでエヴァが壊れていくのを固唾を飲んで見守ることとなったのです。第弐拾話では、覚醒して誰にも止められないはずの初号機が包帯ぐるぐる巻きでいきなりケージに拘束されており、テロップと使い回しの絵(新作が一切ない)でストーリー(パターン・セピア?)が進み、極めつけはラストで夕方6時台の放映なのに、ミサトがラブホでAV女優ばりにアンアンあえぎだします。「おいおい、これはヤバいんじゃねーの」という気持ちと「これは終盤のために、作画の足をためているのに違いない」という考えが交互にやってきてたいそう混乱しました。じつはこの段階でカントクはもうエヴァに嫌気がさしてて、ミサトのあえぎ声で社会的な怒られが発生ーー最近よく見るこの表現、「キライキライ、大ッキライ」だなあ! 低能でグズのおまえが低能でグズを理由に逃れられない主体として怒られてんだよ! 正面から受け止めて反省することさえできねえのかよ、このグズめ!ーーして、放送中止になればいいと思ってワザとしかけたとのことです。第弐拾壱話では、ネルフの誕生秘話と大人たちの前日譚が乾いた筆致で描かれていて、先週の心配はまったくの杞憂だったのだと胸をなでおろしました。エヴァ世界の魔女a.k.a.ヲタサーの姫・ユイ(「ホニャララ細胞は、ありまぁす!」)が初めて生身で登場するのですが、作中の描写からはその魔性ーーたぶん、ベッドでのーーをうかがい知ることはできませんでした。第弐拾弐話の前半でいよいよ作画の乱れがひどくなり、後半もアスカの内面をミミズののたくった手描きの文字(ビデオフォーマット版はシャレオツなドイツ語に差し替え)で表現したり、使徒は衛生軌道上で表面を白く塗り潰した静止画として描かれ、細かいディティールを動かす体力がもはや残っていないことをうかがわせました。精神汚染というよくわからない概念に首をひねったのもこの回です。第弐拾参話では、ついに使徒が定形を失って紐状になり、レイはその細い使徒をつかんで器用にライフルの弾を当てたあと爆散ーー(総理経験者の顔で)あの子は大事なところでいっつも爆散するーーし、ミサトはシンジさんに大人のキスどころか、前々話でリョウジの剛直を失って干上がった部分(さいてい)がうずいたのでしょう、大人のセックスを迫るクズっぷりで大いに株を下げました。第弐拾四話では、残り2話しかないのに新キャラが登場するばかりか前半は止め絵の長台詞まみれ、しかし後半はキャラデザのあの人の飛び入りヘルプによって、もっとも漫画版に近いクオリティで歓喜の歌に乗せた超絶エヴァがほんの一瞬だけ息をふきかえします。次回予告が鉛筆書きなのに一抹の不安を残しながらも、「やっぱり、ここまで作画の足をためていたんだ」とナディアの最終2話を思い返して気持ちを奮い立たせました。そして迎えた第弐拾伍話はご存知の通り、すべてのファンの開いた口がふさがらない「人類ポカン計画」。いや、まだ1話のこされている、ここまできてまだ足をためている可能性が残されていると迎えた第弐拾六話、前半を終えた段階でも時計を見ながら「あわてるな、まだ10分ちょっと時間が残ってる」と、どこぞのバスケ漫画のネットミーム・コマみたいな心境になっていました。後半パートが学園エヴァからの自己啓発セミナー(洗脳エンド)に終わり、エンディングの白々しい”Fly me to the moon”を聞きながら、次回予告枠で続編か劇場版の制作決定が流れるに違いないと最後の希望をそこへ託します。しかし現れたのは、暖色のエフェクトで背景をデコられた遺影みたいなシンジさんの笑顔と、女文字で「ご視聴、ありがとうございました!」と申し訳に手書きされた1枚絵だけだったのです(そういえばこのエンドカード、本放送の最後に一回見たきりですけど、どこにも収録されてないんでしょうか)。主要アニメ紙で劇場版制作決定の報が出るまでの数ヶ月は、不満とも怒りとも悲しみともつかない感情がいつまでもモヤモヤと、心の中から消えなかったことを告白しておきます。あと、最終話のタイトルを有名SF作品のタイトルから引用するのはカントクの創作ルーティンですが、第弐拾六話「世界の中心でアイを叫んだけもの」では、その一部を改変してきました。愛をアイとカタカナに開くことで、私の”I”をダブル・ミーニングで読ませているのです(しゃらくせえ!)。シン・ゴジラ、シン・エヴァにつながる漢字のカタカナ開きは、二十年以上前のここにその原型があると言えるでしょう。

「シンとカタカナで名づけることで、新と真と神をトリプル・ミーニングで読ませることができるんだ!」

「すばらしい発明でヤンス! 加えて英語で罪を意味する”sin”の音でもありやす! これはクワドラプル・ミーニングといったわけで!」

「も、もちろん、そこまでを意識していたさ! いま言うところだったんだ!」

「さすがカントク、深いでヤンス! おっと、深もシンと読めるでヤンスね! クインタプル・ミーニングってわけだ!」

「も、もちろん織りこみ済みさ! 決まってるだろ!」

「こりゃ、信者も大喜びってワケだ。おや、信もシンでゲスな。これはセクスタプル」

「セックス、おっぱいタプんタプーん! もうええわ、ありがとうございました」

(以上のやり取りが、脚本の紙面として画面に映される。トンビの鳴き声と笑い声のガヤ)

30.最終回「世界の辺縁でエヴァ愛を叫んだけもの」

 この馬刺し、美味しーっ! なるほど、これがスペちゃんの味か……小鳥猊下であるッ! のっけから直近に体験した作品を3身悪魔合体した猟奇的な近況報告で怖がらせて申し訳ないが、公開日から逆算して次のエヴァ語りが最後になるであろう。おそらく諸君は他人の剛直にタイムラインを埋められる不快を耐えてきたことと思うが、いま一度だけご容赦いただきたい。あと、ウマ娘を本腰いれてプレイしようと育成方法を検索するも、互いの情報を無限にコピーしあったような、ハプスブルク家の末裔みたいな精薄ゲーム攻略サイトばかり出てきて、心底ゲンナリする。2ちゃんねるの方が確かな情報が手に入るって、最近のインターネットはどうなっとんねん。(ワールドワイドウェブをゲシゲシーー古い擬音ーーと足蹴にしながらMIYAMOO の声で)壊れてんじゃないのコレェ!

 エヴァについて雑に語るかたわらで、澄んだ水面に棒をつっこんで攪拌したら途端に沈殿物で透明度が下がったみたいな感じで、いまネットへあふれているエヴァにまつわる文章を読んでる。しかし、どれもこれも物足りなく、食い足りない。特に、エヴァを精緻に編まれた高尚な芸術だという前提に立った「考察」や「謎解き」に対してそれを強く感じる。あのね、エヴァを見ることは宗教的法悦であり、洗練されて文化となった末の宗教のものではなくて、男根に見立てた石柱の周囲で半裸の男女が汗みずくに踊り狂いまぐわう、言語以前の原始宗教のそれなのです(新劇はそこから近代宗教への脱皮が描かれると考えていたのですが、長くなるので割愛)。マトリックス・リローデッドでいうところの、ザイオンで有色人種たちがする踊りのイメージですね。いま書いてて同時にレボリューションズでのガッカリ感がよみがえりましたけど、あれ、ラスボスがスミスだったことへのガッカリ感だったよなー。この気持ち、よく考えたらカヲル君(か、ゲンドウ)が乗ってるエヴァ13号機がラスボスだと想像するときのガッカリ感とまったく同じ中身だなー。話を戻すと、エヴァが芸術か原始宗教かという感じ方の違いは、もしかするとテレビ版と旧劇をいつ、どの年齢で見たかに関わってくるのかもしれませんが、「考察」や「謎解き」へ熱中する様には、栗本御大の「ミステリマニアは人の感情に興味がない」という指摘と近いものを感じます。私は、私以外のだれかがエヴァにどのような「感情」を抱いたかが読みたいのです。エヴァに触れた最初の衝撃は、言語以前の「感情」だったはずです。そこから離れて「考察」やら「謎解き」やらで作品を分解しようとするのは、抱いてしまった巨大な感情から目を背ける行為に他なりません。私はその生のままの、加工の無いだれかの感情が書かれているのをこそ、切実に読みたい。過去に鉄道マニアを揶揄してからまれたこともありましたが、微細極まる車両や型番の違いの説明ではなく、それを暗記せざるを得ない純粋な衝動の正体が何かを、部外者は聞きたいのです。私のエヴァ語りには多分に感情を語る側面があるのは、そういうことなのだと思います。最近、「ラーメン発見伝」シリーズ(ネットミーム化した「ラーメンハゲ」で有名)をぜんぶ読んだんですけど、すごく面白かったんですね。この作品、簡単に言うとラーメン版の「美味しんぼ」なんですけど、あちらが途中から作中時間が完全に停止して、ご当地グルメ紹介と政治信条の垂れ流しになっていったのに対して、最後まで主人公の成長と感情にフォーカスがある(途中、ご当地ラーメン紹介漫画に崩れかけるが、キッチリ立て直した)。「情報ではなく、感情にフォーカスがある」というのが、最近の私にとって重要なポイントなのかもしれません。「美味しんぼ」も70巻くらいまでは、危篤の雄山(息子の「おやじ……」で覚醒)の代わりに山岡が美食倶楽部の厨房へ立ったり、世代交代のための次期主人公を登場させたり、感情と時間を動かしていこうとする努力がありましたが、おそらく作者の加齢による同工異曲の惰性へと呑み込まれていきました。「ラーメン発見伝」はセカンドシーズンの「才遊記」で主人公を変えてくるんですけど、かなり意識的に「ラーメンにまつわる感情」で作品を駆動させる人物を設定してきたのには、本当に感心しました。さらに、同じ作品世界なので「発見伝」の主人公とのからみをファンのだれもが期待するところですが、徹底してその存在をにおわせないようにストーリーが進んでいきます。「そういう続編」として読者が受け止めて、過去の主人公を忘れてしまった頃、最終巻の最後の最後で……ほとんどバラしてますけど、ここ、すばらしいのでぜひ読んでみて下さい。アルコールを入れながら虚構を摂取すると、感情の振幅が大きくなって危険なのですが、この場面で大の大人が本当に声を出して泣きましたからね。諸君がツイッターに「泣いた」って書き込むときの無表情ではなく、顔をクシャクシャにして号泣しました。そして、サードシーズン「再遊記」では、また主人公を変えてきました。己が人生を捧げてきたものへさえ倦み疲れた中年が、ゼロ地点へと帰ることで再びその情熱を燃やそうとする展開に、強い感銘を覚えました。これこそが、作者とともに成長する作品と言えるのではないでしょうか。いったん消えた心の火をつけなおすことは、容易ではありません。特に人生も半ばを過ぎると、心は冷たく湿り気を帯びて、温めることさえ難しくなる。私がなぜ大脱線して「ラーメン発見伝」シリーズの話をしているかと言えば、大好きなものへの、時間とともに移ろう感情を真摯に描いた作品だからです。「美味しんぼ」のように主人公を据え置いて、ラーメンの蘊蓄という「情報」だけを描き続けることもできたし、その方がずっと楽だったはずです。そうしなかったのは、年齢とともに変わってゆく「愛するもの」への感情をライブで描こうとしたからに違いありません。エヴァの新劇も当初はミサトを第二の主人公として描こうとした形跡があり、時の移ろいの中で責任ある大人へと変わろうとする作り手の心情をそこへ仮託しようとしていた。シンエヴァでは、「謎解き」や伏線の回収に終始せず、作り手のこの、成熟への志向が描かれることを期待しています。結局のところ、我々には「感情」しかないのです。ネットで感情を取り除いた人間とその社会を擬似的に動かすふりはできても、そのエミュレーターの中での妙案とやらを現実に敷衍することなんてできやしないのです。

 オーケー、最後に「感情」でここまでの語りを台無しにするけど、おまえらニワカどもとは違って、オレはエヴァと結婚してんだよ! おまえらはエヴァの恋人や愛人だったことはあっても、伴侶だったことは一度もねえだろ! より若くて美しいルックスのアニメやゲームにつどつど浮気してきやがったくせに、「シンエヴァ楽しみ!」じゃねえんだよ! てめえらは、ウマ娘とウマ並みファックでもしてろ! たくさんのファンにいいようにもてあそばれ、人間不信に疲れ果てて芸能界を離れたかつての人気アイドルが、五十代、六十代をむかえ、容色も衰えてから一般人男性とひっそり入籍するような成熟した愛情、それがオレとエヴァとの間にある絆なんだよ! かつてトップアイドルだった皺深い老婆が、恍惚の果てに何もかも失って死にゆくのを看取る覚悟がおまえたちにあるのかって話をしてんだよ! おまえたちの好きは、お歌がうまいから、見てくれがキレーだからの好きに過ぎないだろうが! オレはな、そんな空気の振動や皮一枚の話じゃねえ、エヴァの魂へ直に触れ続けてきたんだよ! シンエヴァの2時間35分が、たとえテレビ版の弐拾話以降の崩れた作画やハンディカメラで撮影された4:3の実写で過ぎたとしても、オレはそれをありのままに受け止める自信がある! わかったか、9年間ずっと無視し続けてきたくせに、今さらハエみてえにオレのエヴァへたかるクソ野郎どもめ、とっとと失せやがれ! だれにも文句なんて言わせねえ、オレが世界でいちばんエヴァを理解してるし、世界でいちばんエヴァによりそい続けてきたし、20と5年が経っても世界でいちばんエヴァを愛してるんだよ!

 THE END OF TALK OF OLD EVANGELION(激臭、じゃない、劇終)

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」