猫を起こさないように
エヴァンゲリオン
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雑文「THE ODORU and DQ3 LEGEND ALREADY DIED」(近況報告2024.11.28)

 映画「室井慎次・敗れざる者」感想
 ゲーム「ドラクエ3リメイク」感想

 ようやく室井慎次・後編を劇場で見る。ほとんど邦画を見ないため、長く動かなかったnWoオールタイム・ワーストの1位が陥落し、ついに本作へとってかわられたのであった。予告編で観客へ錯誤を起こさせるために挿入された、旧エヴァ・イコール・実相寺アングルっぽい特殊部隊の突入シークエンスはほんの数分だけで、残りの時間はすべて、前編で語り終えたはずの3人の里子に関する話を延々とやる。詳細に書きだすとキリがないため、「北の国から」で例えておくと、「東京へ行く息子に父親が手わたした一万円札に、畑の泥がついている」みたいな、”お涙ちょうだい”昭和小話のパッチワークになっているのである。わざわざ劇場版1と2の犯人たちを引っぱりだしてきたのだから、前編は後編で起こる事件のビルドアップに過ぎず、東北に端を発した小さなできごとが、東京の警視庁を巻きこんだ「大捜査線」へと拡大し、かつての湾岸署の面々とモリアーティたる小泉今日子との冷厳な知能戦を、今度こそ本庁と所轄の垣根を越えた熱い共闘で打ち崩すような展開が、多くのファンによって期待されていたことと思う。それが、まちがったハコに入ってしまったのかと何度も疑うような、ほとんど前編となにも変わらない、どうでもいいエピソードが執拗に蒸しかえされるのである(あのアダルトビデオに出てきそうな女子高生との失恋話、なんなん?)。きわめつけは、20年を追いかけてきた室井慎次の人生の結末が、「寒さに強い秋田犬を冬山で追いかけていたら、ウッカリ遭難して凍死する」だったことで、カネもうけのための本質的に不要な続編によって、大切な作品を汚されるという意味においては、さすが旧エヴァの熱烈なフォロワーだけあって、旧作を台無しにする以外の効能を持たない、シンエヴァ級の「そびえたつウンコぶり」だと言えるだろう(警察無線に涙声で流れる「犬が……犬が、遭難者を離れません!」は大爆笑の、最高にアタマの悪い演出で、ここだけは聞く価値あり)。

 じつは、前編で「踊る熱」が高まった結果、わざわざテレビ版をすべて見返すまでしたのだが、最終話が記憶よりもだいぶひどかった。エヴァ様のテロップふくめ、映画好きの大学生が編集したようなアマチュアっぽい場面のつなぎ方で、警察トップのお歴々の前でする室井と青島のやりとりなどは、織田裕二の大根演技ーーホアキンがフリーザとするなら、ユージはバクテリアンーーとあいまって、支離滅裂で意味不明なものになっている。全体的に「エヴァの影響を受けた軽薄なテレビマンによる、若いセンスだのみの編集と借り物の音楽で、ストーリーが成立しているような雰囲気だけを醸成している」感じで、室井慎次・後編を見てしまった現在、この評が踊る大捜査線シリーズの正味ではないかと思いはじめている。大手テレビ局の元社長をかこむ、元スタッフによる「踊る同窓会」でついつい酒をすごして、当初の予定通り配信ドラマでお茶を濁しておけば、まだ傷も浅かったものを、「興収200億の夢、ふたたび」と盛りあがってしまったのだろう。結果、軽薄なテレビマンが軽薄なふるまいに無自覚のまま、20年をかけて映画スキルの獲得も精神的な成長もなかったことを全国的に披露する、「虚無の出がらし」みたいな映像の集積体ができあがることとなる。室井慎次・後編は、ファンの記憶と俳優の晩節をともに汚しにくる空前の駄作であり、特にすみれさんが劇場版2で銃撃を受けた後遺症に苦しんで警察を辞めたみたいな挿話は、劇場版3と4の存在がスッポリと抜け落ちており、アルコール性の記憶障害か若年性の痴呆症を疑わせるほどのひどさだった。室井慎次が訥弁で家族愛を語ると、あらゆる不良や半グレや犯罪者がみるみる改心して、魔法のように「完落ち」することから、本作のジャンルは広義の魔法少女モノと言えるかもしれない(言えない)。

 ついでにドラクエ3リメイクの進捗も報告しておくと、ゾーマとしんりゅうをかるくやっつけて、現在は試練の神殿を進行中である。またぞろ懐古的な昔話をするが、ファミコン版のゾーマはあざやかな色あいで登場し、ひかりのたまを使うと全身が青白く褪色するという演出になっていた。子どもながらに、これを「闇(夜)の世界における色あざやかさは、すべてマガイモノである」という深い人生訓として受けとっていたため、スーファミ版で変化の順を逆にされたことには、いまでも納得がいっていない。本リメイクにおいても、青白いボディがひかりのたまで色づく仕様になっており、「またニセモノのゾーマか」と画面の前で思わず毒づいてしまった。もっと言えば、スーファミ版以降のゾーマは、鳥山明のデザインに寄せすぎているため、カブトこみで頭部がデカすぎ、プロポーションが悪いと感じている。ファミコン版はもっと頭が小さく、逆三角形に近いシルエットになっていて、無そのものの白い目ーー三白眼で黒目が描きこんであるのは、ひどい解釈ちがいに思えるーーでこちらを見つめてくるのが、最高にカッコよかった。

 話をリメイクにもどすと、クリア時のレベル平均は40台前半で仲間の転職も1回ほどだったので、ゾーマにいたるボスラッシュ3連戦には死闘感があり、すばらい体験だった。ただ、バラモスゾンビの攻撃力は調整に失敗していると思うし、「プレイヤーが死なない」という、RPGのゲーム性を全否定する驚愕のイージーモードは、パラメータ上限を思いつきで255から999に変更したせいで生じたインフレを、制作側が御しきれなかったゆえの苦肉の策であることが、ストーリーの終盤へと進むにつれてわかってきた。きわめつけはクリア後に訪れる試練の神殿で、指定された武器種を装備しないと、複数回の転職をくり返してフルパラメータに近いパーティでも、1000近いダメージーープレイヤー側のHP上限は999ーーをくらうという思考放棄のザルみたいな調整なのである。最悪なのはパンドラボックスの存在で、バカ体力とバカ回復に加えて仲間を無限よびするという、「テドンの悪夢、ふたたび」になってしまっている(ねえ、アタマと性格、どっちが悪いの?)。たびたび書いているが、「最強装備をすべて集めて、キャラをカンストまで成長させて、ようやく敵味方の戦力が均衡する」という調整は、制作側の怠慢ーーくわしくは、メガテン5あたりの評を読んでほしいーーであり、レベルデザイン・イコール・数値の調整だけで世界観と冒険の旅を演出できる「本邦にスペシャルなお家芸」の喪失だと言えよう。いい加減、ファミコン版ドラクエ2などもむずかしかったと思うが、試練の神殿の難易度はドラクエのそれとはあきらかに性質を異にしており、こと最終局面にいたって本リメイクからドラクエである必然性すら消えてしまうのは、とても悲しい。ドラクエシリーズの本質とは、言葉にできない「冒険の手ざわり」であり、この感覚を本リメイクの制作者と共有できているという信頼は、もはや絶無である。

 リメイクを重ねるごとに漸減する戦士の価値についても触れておくと、新たに導入される職業を使わせるため、既存のそれとのバランス調整をいっさいせずに、強力なアドバンテージのみを与えるという措置が、スーファミ版に引き続いて本作でも行われてしまった。だれでも全体攻撃と複数回攻撃ができる世界で、ダメージ量が特につきぬけているわけでもない単体攻撃の戦士を使うインセンティブはもちろん、どこにもない。さらに追いうちをかけるように、強力無比の「まものよび」によって戦士のとくぎはすべて無意味化し、転職先として経由するわずかのメリットすら消滅してしまっているのである。おまけに、発売前に物議をかもしたように、女戦士のルックス(笑)さえダウングレードされており、この職業を選ぶ理由は、もはや1ミリも存在しないのである。パラメータ上限を255から999に変更したせいで制作者の頭が「こんらん」したのだろう、なぜか武闘家の会心率まで目に見えて下がっており、「日本人はゲームを作るのが、本当に下手になったなー」と、プレイを通じて、何度も何度もくり返し落胆させられている次第である。

 古参の愚痴ばかりになって申し訳なかったが、昔からのドラクエ3のファンならだれでも思いつく、「オルテガが仲間になる」や「クリア後に勇者が転職できる」ぐらいを雑に放りこんでおけば、勉学やスポーツではなく、ピコピコに青春をささげてきた氷河期のロースペック人材たちは、みんな文系の単純なアホばかりなんだから、他のすべての不満に目をつむって、手のひらがえしの絶賛をしたにちがいないんですよ。その最低限すらもやらずに追加した新要素がなにかと言えば、「まもの使いのせいで、戦士が死んでてやべーな……そうだ、オノしばりの超高難度ダンジョンを用意しよう!」であり、脳ミソがフットーしちゃってるとしか思えません。意味深にホーリー遊児がほのめかしたエンディングの仕かけにしたところで、「1のラスボスであるりゅうおうの養育者が、2の準ラスボスであるハーゴンだった」という、もうアトヅケ感しかない残念なものなのです(「りゅうおうのひまごじゃ!」と、どう整合をつけるんでしょうね? 「竜の血筋に見切りをつけて、破壊神に鞍がえした」みたいな意味不明の文脈が、すでに発生してしまっていませんか?)。

 あと、室井慎次・後編でスタッフロールのあとに青島君が出てくるんですけど、ドラクエ3リメイクのハーゴンにせよ、「虚無の出がらし」の「氷河期ホイホイ」はどれも似たような、古いファンに対してウワメづかいの哀願みたいな仕草をするなーという感想をいだきました。この青島君が、例のダッフルだかアーミーだかのコートを着て東北に現れるのを見たとき、平成前期のルックス(笑)と大根演技はそのままに、ユージの顔だけがメチャクチャ老けてて、それが本邦の変化できなさと低成長の時代を象徴しているようで、ひどく情けない気分になりました(エリが出演していないことだけは、本当によかったです)。

映画「室井慎次・敗れざる者」感想

 室井慎次・前編を映画館で見る。踊る大捜査線シリーズについての印象を言えば、非実在警察署の捜査現場で起こる小規模なできごとをコミカルに描く小品ーー大上段な「大捜査線」とのギャップを笑うーーだったものが、映画版の1と2が空前の超ヒットとなり、それまではフレーバーにすぎなかった「本庁と所轄の対立」「警察機構の腐敗の是正」という、フィクションでは解決しようのない問題へと本格的に着手せざるをえなくなり、2の撮影後にいかりや長介が亡くなってからは、3と4でキャラクターの成長とテーマの前進が完全に停止して、同じ棒の周辺をグルグルと回る犬のようになり、おそらく制作者にとっても不本意な形でシリーズを頓挫させるハメになってしまったのです(もううだれも、2以降なんておぼえてないでしょ? 当時、いっしょに映画館へ行ったはずの家人にたずねたら、「え、3なんてあるの? 4も?」という返答でしたからね!)。

 そして、なにより忘れてはならないのが、大捜査線シリーズは脚本・撮影・音楽などの多岐にわたって、これ以上ないほど明々白々とした、旧エヴァの初期フォロワーだったという点でしょう。話はそれますが、シン・ゴジラにおいて、テレビ版エヴァの象徴である「でん・でん・でん・でん、どんどん」ーー加齢のせいで曲名を思いだせないーーを使ったのも、かつて踊る大捜査線に許諾を与えたことが、Qアンノの一線を越える決断を後押ししたのかもしれないなと、ふと思いました。フィクションの新旧を判断する個人的な基準として、旧エヴァをゼロ地点に置いているため、踊る大捜査線シリーズにはかなり新しいイメージをいだいていたのですが、もう20年以上前の作品であるという事実を前に、あらためて衝撃を受けておる次第です(じっさい、当日の劇場に座っていた客層は中高年ばかりであり、若いカップルなどは一組たりともいませんでした)。

 オープニングで過去作のダイジェストをラッシュで見せることで、脳ミソにウロの来はじめた観客たちに内容を思いださせ、本編終了後には作品内にちりばめられた小ネタの元となる旧作の場面を提示し、エンドロールの末尾で後編の予告をドンと打つーー全体を通じて、きわめて正しいパッケージングで作品が包装されており、さすが腐っても大手テレビ局の仕事だと感心させられました。かつてスタイリッシュで鳴らしたはずの演出も、令和の視点でながめると、スローテンポな浪花節みたいになっていて、演歌が古びていったのと似たような時代の推移を痛いほどに感じます。おしむらくは、私自身が本シリーズの熱心なファンでないことはない(二重否定)ため、完全新規の観客にとって、「はたして1本の映画として、成立しているのか?/おもしろいのか?」に回答できる立ち場にないことです。しかしながら、同行した家人の言を借りれば、「登場人物が役者としてではなく、ちゃんと物語内のキャラクターとして出てくる」ほど、作りこまれた世界観を楽しんだ劇場版第2作までのファンにとって、本作が120点の仕上がりであったことは、やはりお伝えしておくべきでしょう。

 大捜査線シリーズはスピンオフをふくめて、「すでに語りつくされた物語」であり、さらに言えば、劇場興収の誘惑から着地点を見いだせないまま、蛇足的に続編を重ねた「正しく終われなかった物語」でもあります。室井慎次・後編において、現在の「青島君」や「すみれさん」を登場させ、彼らの人生の変遷を描きつつ、「解決はまだ遠いものの、警察の状況はベターにはなった」ことを、現実社会の変化と重ねあわせて語る最後のチャンスを逃さず、今度こそ大捜査線シリーズが真の大団円をむかえることを切に願います。仮に本作がスピンオフの位置にとどまり、5などの本編がのちにひかえているとするならば、それは相当に厳しいと指摘せざるをえません。20年後からふりかえってみれば、このシリーズはいかりや長介の最晩年にレッドカーペットを引いた功績が最大のもので、それを証拠に彼の死による退場と物語の失速は完全に同期しています。いろいろ言いましたが、邦画史上、最大級のヒットとなった作品の末路が4のアレでは、どうにもしまらないじゃないですか。リブートへの余計な色気を廃して、今度こそ大捜査線シリーズを「正しく終わった物語」のカテゴリで上書きしてくれればと、いまは祈るような気持ちでいるのです。

 あと、本作の回想シーンを通じて、ひさしぶりに小泉今日子の怪演を目にしたのですが、昭和のピン・アイドルって「若さに由来する普遍的な美しさ」が消えたのちに、「美しい生き物として愛でていたら、その正体はおそろしい”けもの”だった」とでも言うような、「ほとんど怪物性に近い本領」の立ちあがる人物が少なくない気がします。近年のグロス販売なアイドル集団の中に、長い歳月に耐える怪物性を持った存在がはたしてまぎれているのか、むこう20年を楽しみに待ちたいと思います。

ゲーム「原神4章5幕・罪人の円舞曲」感想

 原神4章を最終幕までクリア。言わば、「原爆投下1日前のヒロシマ」を旅人とパイモンがそぞろ歩くシーンでの、モブによる「明日おなじものを食べられないとしても、今日はおなじものを食べる。それが生活ってものでしょ?」というセリフに、またしても号泣させられてしまいました。いつも感心してしまうのは、大所高所から語られるストーリーに対置された、こういった市井の一市民による素朴な感情を細やかに描いている点であり、「今日の食事」という極小の視点から百年を優に越える極大の時間ギミックへとカメラを引き上げる際の落差は、前者の連続で後者が成り立っていることにハッとした気づきを与えてくれます。そして、真の神が人間を愛するようになるまでの数百年を、一介の個人が偽りの神としてウソと演技による「時間かせぎ」をする苦悩は、いかばかりだったでしょう。いつ終わるかさえ知らされていないその苦しみを、異邦人へとすべてうちあけて楽になるチャンスを目の前にしながら、「利己的になってはダメだ、もう少しだけ考えよう……」とすんでのところでふみとどまる場面には、我が身に照らしての嗚咽がほとばしりでました。

 このフリーナというキャラクターのことは、登場した最初の瞬間から「軽薄で底の割れた演技者」として、どこか好きになれない気持ちがありました。「原神にしては、魅力に欠ける造形を持ってきたものだな」などと冷めた視点でずっとながめていたのに、その感覚の正体が同族嫌悪や自己嫌悪と同じ種類のものだったと判明したときの衝撃たるや! 私自身が「身の丈よりも大きなもの」を日々、演じることを強いられており、「すべて投げだして、終わりにしたい」という欲求と毎秒をせめぎあって生きているのですから! メインストーリーが幕を閉じ、彼女の後日譚ーー「僕はもう、二度とだれかを演じるつもりはない」ーーが終わる頃には、フリーナのことを心から愛おしいと思うようになっていました。個人を翻弄する大きな物語の渦中に落としこまれた小さなキャラクターたちが、それでもどうにか生きようとあがく様は、なんと彼らを魅力的に見せることでしょうか。いつの時点からか、キャラクターが物語のサイズを凌駕してしまうようになった本邦のフィクション群の失ってしまったものを、原神はいまだに脈々と受け継いでいるのです。

 どこか洗練されていない部分や、強引な展開、つたない手つきがまったくないとは申しません。けれど、いまを生きるだれかの熱を帯びたドラマツルギーが、すべてを「是」「好」へと変じていくのです。原神4章の最終幕を通じて、中華の若い世代が語る「旧エヴァ劇場版の先の先」を確かに見届けさせてもらった気分になりました。あなたたちは、「旧劇の最終局面で碇シンジが取るべきだった行動」と「新劇による再話で選ばれるべきだった結末」を、このように考えたのですね。先日、地球外少年少女の感想を再掲したところ、監督本人にRTされてビックリしましたが、彼の元へも土地と世代を超えたアンサーが届くことを願っています。いつものごとく、「アカの手先」となってベタ褒めしてしまいましたが、まあ、ロシア相当の組織の構成員たちが急に好意的な様子で描写されはじめたり、不安を感じる部分もなくはないんですよ。

 オマージュをわずかに越えたド直球の引用もチラホラ見えてきて、「第三降臨者」なるワードもすごく旧エヴァっぽいなーと感じます。今回、公子の師匠としてスカークなる人物が登場したのですが、FGOのスカサハと設定や見た目ばかりか声優まで同じ(!)になってて、「ああ、メッチャ好きなんやろうな……」と、思わず生あたたかい視線を送ってしまいました(「呑星の鯨」から剥離した物質のフレイバーテキスト、メッチャ好きです)。ともあれ、原神4章の最終幕を通じて、本邦のフィクションを弱くしているのは、家族を解体する「毒親」や 「親ガチャ」なる概念と、大きな物語を一個のキャラクターに矮小化する「VTuber」なる存在であることを確信いたしました(ぐるぐる目で)。みんな、そんなつまらないマガイモノは窓から投げ捨てて、中華ファンタジーから「物語の王道」を逆輸入していこうぜ!

 最後にぜんぜん話は変わりますけど、遅ればせながら劇光仮面の4巻を読んだんですよ。えー、「本物が現れ」ちゃダメじゃん! そんなのいつも通りじゃん! 本物がいない世界だからこそ、例えば「ゆきゆきて神軍」のような文学性や批評性を帯びていたのに! 本作へ向けていた興味関心の熱が、一気に冷めてしまったことは、残念ながら認めざるをえません。本物がいない日常だからこそ、我々はなんとかしてその虚無をやりすごそうと、もがき苦しむというのに……。

雑文「GENSHIN EVENT and EVANGLION EFFECT(近況報告2023.7.14)」

 原神の夏イベントをクリア。不機嫌な大人たちを苦手とする子どもの心情や、その子どものために大人たちが怒鳴りあいではない、正しいコミュニケーションを取りもどす様子など、我々が日常で忘れがちな、ハッとするような気づきと学びを、原神はいつも与えてくれます。倫理や道徳にも似た「大人として正しいふるまい」への嫌味ではない教化は、文字通り世界中の若者がプレイする作品として、かなり意識的に行われている気がします。ファイナルファンタジー16を通じて、最新のJRPGが奇しくも体現してしまっている本邦の現状を突きつけられ、かなり絶望的な気分になっていたところだったので、この夏イベントは干天の慈雨のように心へしみました。タイムラインに流れてきた「みんなアニメが好きなのではなく、キャラクターが好きなのだ」という指摘を借りてJRPGとの比較をするなら、「みんな良い物語が好きなのではなく、カッコいい台詞が好きなのだ」「みんな双方向の対話が好きなのではなく、一方的な宣言が好きなのだ」とでもなるでしょうか。

 最近、ヤングケアラーなる言葉を頻繁に耳にするようになりましたが、LGBTのときにも感じたことながら、無限段階のグラデーションが存在する場所へ、ガチッと枷をはめて違いを有限化しようとする仕掛けは、いったい「だれが、何の」意図を持って行っているのか、さっぱりわかりません。以前、不仲だった父親にかけられた言葉によって、ある官僚が「ゆとり教育」を猛烈に推進した話をお伝えしましたが、ひとりの家庭の病裡がシステムとして再演されるのを、我々はまた見せられようとしているのでしょうか。この単語によって、「おまえは家族に虐待されていたのだ」と公から宣言され、不必要な「目覚め」を得てしまう個体ーー私は自戒をこめてこれを「エヴァンゲリオン効果」と呼んでいますーーを作りだし、本来的には無用の苦しみと混乱を生じさせる効果の方が大きいような気がしてなりません。

 別の視点から鳥瞰すれば、「西洋文明に対する無批判の追随が、彼我の心性の差異を越えはじめ、きしみをあげている」とも指摘できるでしょう。仏国では、自国に存在しなかった概念を表す外国語に対して、新たに造語を作成せねばならない法律が存在すると聞いたことがありますが、周回遅れながら骨身のレベルでその重要性がわかってきたように思います。近年の洋画(古い表現)につけられる邦題が原題のカタカナ読みばかりになっているーーファントム・メナスとウェイ・オブ・ウォーターが最悪の二巨頭ーーことにも表れているように、我々の文化と心性に許容しやすい「自国語による翻案」がいつのまにか廃れ、西洋由来のドぎつい概念が直に日常へ挿入されるようになってしまったことが、様々な問題を引き起こしているように思うのです。

 きっと陰謀論のようにひびくでしょうが、LGBTに続くヤングケアラーなる単語は、「田舎の次男坊以下によって形成される核家族」ーー詳しくは「七夕の国・友の会」に寄稿した文章を参照のことーーをさらに小さな単位へと細分化して、旧来の家族なる枠組みを解体しようとする試みにも思えてなりません。こんなふうに感じるのも、おそらく原神をプレイしてしまったからで、そこに描かれる家族像や人間像のほうが、ずっと正しくまっとうなもののように映ります。この概念の震源地はテレビであり、かつてすべての情報の中心にあったそれは、いよいよ「貧者のメディア」へとステージを移した感があります。いずこからも独立した最先端のようにふるまうSNSでさえ、遠巻きに「貧者のメディア」から受信した内容を取りあつかっていて、その議論の多くは核家族の構成員やそこから派生した者たちが、「己の生きる百年」の上下を批判しあっているにすぎません。そんな貧しい者たちの目が届く場所においては、けっして言語化されないがゆえに、本当の豊かさーー金銭だけの意味ではないーーは、彼らの人生の埒外で原神的な価値観の下に、粛々と受け継がれていっているのだろうと想像するのです。

 最後に、原神の夏イベントへと話を戻して終わることにしましょう。今回の物語のエンディングで、洞天の主がみずからの住む小さな世界を「ここが私の夢の終着点」と表現するのですが、「大きな夢に耐えるための小さな夢をかなえて、いずれ離れるべき魂のゆりかご」という考え方は、テキストサイト時代に抱いていたインターネットへのイメージと完全に一致しています。あれから長い時間を経たいま、ここは私にとって「夢の終着点」となったのかもしれないーーそう、思いました。

ゲーム「ファイナルファンタジー16(デモ版)」感想

 ファイナルファンタジー16のデモ版をダウンロードし、最後までプレイ。デモ版とは言いながら、冒頭から2時間ほどをたっぷりと遊ばせ、さらにはオマケとして序盤のクライマックス・バトルまで含まれており、近年のJRPGに顕著な「過去タイトルの威光を借りて、初動だけを最大化させて売り逃げ」をねらったのではない、制作サイドの確かな自信がうかがえます。ここからは、本シリーズの全作をプレイしており、2から15ーー14は除く、理由は後述ーーはほぼ発売日のリアルタイムで手に取ってきた人物の感想になります。ファミコン時代の体験から、「ゲームは匿名性をまとうべきで、作り手の名前が悪めだちしてはならない」という持論の持ち主なので、14のプロデューサーでもある本作の制作責任者にはまったく良い印象を抱いていませんでした。なんとなれば、シリーズ中もっとも愛してると言っていい11を、新生とやらに予算をブンどって実質的な更新停止へと追いこんだ人物だからです。なので、このデモ版にしても期待値はゼロ以下の状態から、どうやってクソミソにけなしてやろうかと手ぐすねをひいていたことは、ご理解いただけるでしょう。

 オープニングを終えて、操作の初ッ端からカメラが合わず、左右に少し振っただけで腸が蠕動して偏頭痛の気配を感じる始末で、あやうく評価以前にコントローラーを置きかけましたが、描画を「パフォーマンス重視」に切り替えてカメラ速度を調整し、なんとかプレイを続行できるレベルに落ち着きました。岩山ばかりのロケーションには「まともな背景を作れないからだろうな!」と毒づき、イケメンが脈絡なく落石に潰されるのを指さして爆笑し、イケオジの「まだ任務は終わってないぞ!」の激励には「オイオイ、始まってもいねーよ!」と思わずツッコミます。唐突なブラックアウトから過去編が始まったのには、「古今東西、回想が面白かったためしはねえからな!」とブツクサ文句を言いながらプレイを続けたのですが、次第に受ける印象は変化していきました。かつてのように最先端とまでは言えないものの、ロード・オブ・ザ・リング以降のファンタジー海外ドラマを思わせる中世ヨーロッパの世界がキチンとグラフィックで表現されており、特に屋内の暗さと屋外の明るさの対比にはハッとさせられるものがありました。キャラも13のようなアニメ調ではなく、美形ばかりではありながら、実写に近づける方向でデザインされているのも好印象です。

 最初のクエストであるゴブリン退治を進めているとき、身内に懐かしい感覚が蘇ってくるのを感じました。それは、12ぐらいまでは確かにあった、国民的大作RPGが提供する広大な処女雪に最初の一歩を踏み入れるときの、なんとも言えないワクワク感です。奇矯な造語とハレンチな服装の女主人公でオリジナル作品の悪い見本となった13、数年にわたる紆余曲折の末に経営判断で瓦礫の寄せ集めへ無理矢理ナンバリグした15と比べて、本作ははるかに「ファイナルファンタジーしている」と言えるでしょう(竜騎士の登場シーンなんて、思わず泣き笑いみたいになりました)。もっともその中身は、西洋文明に憧れた東洋人の子どもの考える「大人のファイナルファンタジー」ではあるのですが、「ホストたちがキャデラックを転がしながら、カー・オーディオでスタンド・バイ・ミーを流す」みたいな気のくるった妄想キメラよりは、何百倍もマシなものではあります。

 召喚獣戦の後、旧エヴァの影響を色濃くただよわせるムービーを見ながら不思議な高揚感に包まれ、ただちに”BUY NOW”を押下しました。最近では中華RPGへ湯水の如き賛辞と課金を施しながらも、やはりドラクエとエフエフには「当世で一番」であってほしいという気持ちが、どこかに残っていたのでしょう。デモ版で切り出された部位が、ゲーム全体で最上のものだったという可能性もなくはないですが、いまはかつての少年の日々のように、発売日を指折り数えて待ちたいと思います。

雑文「GENSHINとEVANGELION、そしてKANCOLLE(近況報告2023.4.14)」

 ナヒーダ編の第2章を読んで、大泣きしている。つくづく原神って、「偶然に家庭を持つことができてしまった就職氷河期オタクにとっての水戸黄門」だと思います。「故郷に帰り、家族と再会する。それがいちばん重要なこと」「時間という病は、すべての者を死にいたらしめる」ーー記憶と経験が時間で変化するのを「成長」と定義し、魂の輪廻を認めながらも成長の漂白だとしりぞけ、それぞれが過ごす一度きりの生を大切にせよと、目を合わせて語りかけてくる。そして、記憶と経験が消えてしまったあと、己が名付けをした存在だけが「生きた足跡」として世界に残されるという「当たり前さ」を正面からぶつけられ、シンプルな「ただいま」の一言に涙が伝い落ちるのです。でもね、本邦の初老オタクがこんなふうにヒネクレてしまったのは、何から何までエヴァンゲリオンが悪いんですよ(唐突)!

 毒親に苦しめられるアダルトチルドレンを「なんかカッコいいもの」として思春期の自己定義に組みこませてしまった、じつに罪深い作品だと言えるでしょう。多くの若者たち(当時)は病んでいるフリをするうちに、その偽りの病が人格の一部になってしまったのです。エヴァ新劇も、破の段階までは過去のトラウマを乗り越えて大人になろうとするミサトや、妻の死を乗り越えて息子と和解しようとするゲンドウの姿を真摯に描こうとしていました。シンエヴァ公開の際に「解呪」なる単語がネットに踊りましたが、多くのオタクたちが現実の20年を苦しんできた「家族の問題」を、世界の謎と並走しながらキャラクターの人生として解決してくれれば、おそらく私も「解呪」されただろうにと夢想するのです。ナヒーダのする「恨みを忘れてくれとは言わない。ただ次の世代のため、対話に応じてほしい」という龍への説得を聞きながらそんなことをボンヤリと考え、3人目の彼女のための課金を心に決めました。

 あと、ゆるく厳選した装備とにぶい反射神経で最高難度をクリアできる原神の調整を、本邦の神経症的なゲーム制作者たちには、ぜひ見習ってほしいものですね! ハナからふつうにクリアさせる気のない、艦これのイベント海域とかね! アニメ2期の後半を見ましたけど、相変わらず日常パートの演技の付け方と間の取り方が独特っていうか、意味不明ですね! あのさあ、「彼女は歩行を始めた。まず、利き手側の右足を膝裏部分がほぼ90度になるまで引き上げる。次に、前方の地面へ向けて踵を斜めに振り下ろす」みたいになってんだよ! もしかして演出志望の方にとってだけ、何がダメかを言語化することでよい教材になる可能性はあるかもしれませんけどね! しかしながら、そんなツッコミは些細なものであり、なんと最終話において鬼畜米英が味方になったのには、心底から驚愕させられました! ゆとりーー「え、日本ってアメリカと戦争してたんですか?」ーー世代への痛烈な皮肉でやってるんですよね? いったいぜんたい、我々は何と戦わされてるんですか! チクショウ、残りバケツが50を切りやがった! 艦隊これくしょん、史上最低のゲーム体験や!

映画「グリッドマン・ユニバース」感想

 なんと、グリッドマン・ユニバース見る。いやいや、最初はそんな気まったくなくて、存在すら知らなかったんですよ。それを、カズ・シマモトがシン・仮面ライダーにどんな感想を抱いたのか気になって、彼のツイッター・アカウントへ日参するうち、いわゆる「単純接触効果」で次第に本作への関心が高まってしまったのです。テレビ版のグリッドマンは通して見ていて、極私的に呼称しているところの「エヴァンゲリオン・アンサーズ」のうちの1作品として好印象を持っています。エヴァ旧劇が実写を使って「現実に帰ってお前の人生をやれ」と呼びかけたのに対して、手法こそトレースしながらも「アニメも私の人生と現実の一部だ」と真逆のメッセージを最終話で表明したのは、新鮮な驚きでした。

 この映画版においても、感情を表に出しすぎない現代の若者の軽妙かつドライなコミュニケーションとか、これだけ多くのキャラを出演させながら不自然なやりとりがなくスッキリと流れる脚本とか、だれかの中にある「こうあってほしかったエヴァ」の中身をより洗練された形で見せられた気がしました。テレビ版では最後の最後で「ベッドから起き上がるリアル・新城アカネ」をチラ見せするにとどまったのに対して、本作ではかなりガッツリと実写パートで彼女を写すんですけど、「少し古い世代の男オタクが抱く女オタク像」とでも言いましょうか、「いまどき、こんな陰気な感じでアニメを逃げ場として消費する女子っている?」と疑問を感じるくらいでした。アニメパートのパキッとした明るさに比べると、実写パートの画面は全体的にかなり陰鬱なトーンで、ここだけ庵野秀明が撮影したみたいになっていることも、その印象の一因となっているかもしれません。

 そうそう、みなさんが話題にしているシン・仮面ライダーのドキュメンタリーですが、ご多分に漏れぬ野次馬根性から私も見ました! 感じた中身としては、シンエヴァ・ドキュメンタリーのときにさんざんやったツッコミとほぼ同じなので割愛しますけど、正体不明のこだわりとリソースの蕩尽が1ミリも本編の面白さにつながっていないことは、大問題でしょうね。あのタイプの独裁的なパーソナリティが許容されているのは、本邦における忖度の過剰さを土壌としている気がします。主役の子がずっとプルプルふるえていた理由といいますか、ふるえるに至る感情の源泉の正体はわかりましたので、その点だけは見てよかったです。

 話をグリッドマン・ユニバースへと戻しますと、90分が経過するくらいまではずっと好意的な印象だったのに、30分を残すばかりのところでその肯定的な気分に大きな変化が訪れます。トランスフォーマーみたいなゴツい段ボール・フォルムをしたロボットが、奇抜なアングルーー右奥から左前方に向けて長物がせりだす、半ばネットミームと化したあの構図を代表とするーーで画面いっぱいにみっしりと戦う、俗に言うところの「勇者シリーズ」ってあったじゃないですか。私は昔から、まったくあの「熱血アレ系アニメーション」の観客ではなかったことを改めて思いだしました(テレビ版もこんなでしたっけ?)。ド派手な見かけの戦闘に、大音量で効果音やら主題歌やらが流れて情動をアオッてくるのに、私の心はビックリするほど完全にフラットなままなのです。それに反して、周りの観客は「これを見るためにやってきた!」と座席から身を乗り出さんばかりの熱狂ぶりで、いつまでも終わらない戦闘を前にしてなんだか肩身が狭くなり、その場にいることが申し訳ない気持ちにさせられました。

 図々しくも私の主観をお伝えさせていただければ、「大勢の撮り鉄たちのド真ん中へカメラ無しで放置され、レアな車両が通過するたびにザワめきとシャッター音が響く中、完全に無表情で棒立ちのままのパンピー」とでもなるでしょうか。屋上屋を架すを承知でさらに例えるなら、「青春ラブストーリーと思って見ていたら突然、筋肉質でテカテカのトルコ人が現れて油相撲をオッぱじめ、唖然としているうちにまた何ごともなかったかのように青春ラブストーリーへと戻った」のを見せられている気分です。すいません、エヴァ成分の含有率や現実と虚構の解釈を含めて、「戦闘以外は割とフォー・ミー」だったので、茶化したい気分でこれを書いているのではないことは、ファンのみなさまに重ねてお伝えしておきます。

 それにしても、シン・仮面ライダー公開以降、無言を貫いているカズ・シマモトは本当に大丈夫なんでしょうか? 仮面ライダー50周年記念での公式発表を、ツイッターというツンボ桟敷で聞かされたときのショックの様子と、撮影された作品の結果として異様な仕上がり具合から考えても、現在の彼の精神状態が心配で心配でしょうがありません。

映画「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」感想

 アバター2、見てきた。西洋人の大監督が撮る超大作に、アジア人の短躯広報がビビりまくってつけた副題「ウェイ・オブ・ウォーター」は、ファントム・メナス以来の盛大なる腰の引けっぷりだと言えましょう。そして、赤青メガネをつけた無責任な観客が「やっぱ3Dってゲテモノだよなー」などとヘラヘラ笑ってるのを見て、「映画芸術の新たな地平は、映像に1次元を加えることである」という強い信念に突き動かされて、専用カメラを開発してまで「やらなキャメロン!」と作りあげた前作はまさに映画革命でしたが、残念ながらここ10年余りで市場から3D映画そのものが駆逐されてしまいました。

 前作の熱烈な信者である身としては、何を出されても「アバターもえくぼ」の心境でいようと臨んだのですが、まず率直なところから言いますと「13年もかけて、これ?」という感想でした。なぜか、映画版のファイナルファンタジーを彷彿とさせらましたねー。長すぎる制作期間で技術革新に追い抜かれたせいか、はたまたCPUとグラボのパワーが足りてないせいか、画質はフルハイビジョンと4Kと8Kを頻繁に行き来し、フレームレートは25fpsから120fpsのレンジを何度も上下する始末で、全体としての統一感がまったく取れていません。初代は名実ともにエポックメイキングな作品でしたが、ここ10年のマーベル台頭によって御見物の目が肥えたせいでしょうか、実写で撮影している部分とフルCG部分の見え方に乖離がすさまじく、売りであるはずのそのCGもプレステ4か5のムービーシーンぐらいにしか見えないのです。

 さらに3時間12分もの長尺をとっておきながら、そのうち半分は技術自慢のアトラクションパートで、肝腎のストーリーパートも前作で語り終えた内容の蒸しかえしばかり、「ベトナム戦争」「アパッチ民族浄化」「捕鯨問題」「ガイア理論」をごった煮にしたあげく、世界の現状からどれをもテーマとして焦点化できなくなった結果、大声で「家族の結束」を叫びだすというグダグダさです。また、映画監督としての格は天と地ほども違いますが、その芳醇な才能をアバター世界の構築にのみ費やした十数年が別の作品に注がれたらとどこか惜しむ気持ちは、作家として最も円熟していたはずの十数年をエヴァンゲリオン世界のリブート失敗(大失敗)に空費した某監督の無様さを否応に連想させます。スターウォーズ6の感想でも指摘したことですが、つくづく考えさせられるのは、アメリカが建国の過程で負った原住民虐殺という国家的トラウマは、今日に至るまで子々孫々へいまだに宿業として受け継がれており、彼らは「世界最強の軍事力を有する我々を、インディアンたちが石槍と石弓でうち負かしてくれるという甘美な破滅」をどこかで待ち続けているのかもしれません。

 最後に、念のための注意喚起として付け加えますが、本作を中学生以下のお子さんに見せるのは、危険な気がします。幻想のヰタ・セクスアリスとして、特殊な性癖をふかぶかと植えつけられそうな実在感だけは、全編にわたって横溢しているのですから! しかしながら、「ただの異星人だから」とロリペド方面の、「ただの身長差だから」とショタ方面の需要をただちに満たしてくるのは堂々たる大監督の威風であり、この点にだけは三千円弱をはらっても惜しくないと断言しておきましょう。

アニメ「水星の魔女」感想(13話まで)

プロローグ&1話

 キミらがあんまりウテナウテナ言うから、ガンダム下手のトーシロなのに水星の魔女を見る。確かに機動武闘で少女革命したい感じは伝わってきましたが、主人公がキョドりすぎドモりすぎなせいで尺が足りなくなったのか、後半の決闘シークエンスの流れがかなり唐突で不自然なのは、非常に気になりました。まず、決闘の日時を知らされているはずの主人公が学校のモニターでガンダムの盗難を知るのって、どうすればそんな状況になるんでしょうか。そこから級友にスクーターを借りて、立ち入り禁止のエリアに潜入(どうやって?)して、だだっ広い荒野を横断して、転倒したガンダムによじのぼってコクピットを開けて、どうでもいい痴話喧嘩をオッぱじめる。速い場面転換で瞬間移動みたいにしてごまかしてますけど、これだけの長い時間、桐生冬芽ポジションの敵キャラは何もせず、ボーッと突っ立ってそれを眺めていることになり、脚本のせいか演出のせいか定かではありませんが、ちょっとひどすぎるように思います(識別画像にスクーターを貸した女子の顔が出てくるくだりも、演出意図がわからない)。ヒロインに「守られるだけのお姫様ではない宣言」をさせるためとはいえ、もっと他に上手いやり方があったんじゃないでしょうか。入念に準備した暗殺計画を、息子が決闘に負けたから曖昧にとりやめるのも意味不明で、リアリティラインをどこに置いて視聴すればいいのか、第1話の段階ではサッパリつかめませんでした。

 ただその次に見た、先行して公開されたらしいプロローグはメチャクチャよかった! たぶん世代の近いクリエイターだと思うんですけど、エヴァ旧劇からの影響というかそこへ向けた目くばせを、強く感じました。「Air」の超絶エンタメに魂の深い部分を呪縛され、「まごころを、君に」における中年オヤジの泣き言にモヤモヤしながら、「正しいエヴァの完結とは?」についてずっと考え続けてきた人物なのかもしれません。シンエヴァという還暦オヤジの泣き言を経たいま、ハッキリと言語化できますが、それは「Air」の続きにおいて「第拾九話を超えるシンジと初号機の大立ち回り」と「人類補完計画へのスピリチュアルではない回答」を展開することより他にありません。水星の魔女プロローグには、確かにその萌芽ーーこれを我々の「Air」とし、本作ではその先を描くという意志ーーを感じました。にもかかわらず、第1話にしてすでに脚本と演出が空中分解しかかっているのは気になりますが、今後のストーリーには大いに期待しております。

 あと、エヴァの出撃シークエンスを意識したと思われる場面で、長方形の箱がキメキメのアングルでギュンギュン高速レール移動するのに思わず笑ってしまったんですけど、作画カロリーとかの関係でしょうがないんですかね、これ? エヴァと同じく直立のロボットを移動させるじゃダメだったんでしょうかねえ(リアリティライン?)。

第6話

 水星の魔女、第6話まで見る。いやー、いいですねえ! 人の魂が込められた機体からテレビ版第拾七話を彷彿とさせる終わり方まで、いよいよ予想通り「オレたちが作るポスト・エヴァンゲリオン」の様相を呈してきました。うっとおしいばかりに他者と関わろうする主人公も、「人たらしの碇シンジによる人類補完計画」というイフを思わせて楽しい。エヴァ旧劇の「地球と太陽なしには生きられない生命体から魂のみを抽出して、ロボット方舟に乗せて外宇宙へと送り出す」に対して、過酷な宇宙空間でも人が生きられるようにする義体のプロトタイプがエアリアルなんでしょうねー。そんで、主人公の妹の脳と脊髄がユニットの中枢におさめられてんの。でも、ウテナ感はもうどっかいっちゃったなー。

第12話

 水星の魔女、第12話を見る。タイムラインの沸騰ぶりを横目にしていたため期待値が高まりすぎたせいか、古参のガンダム下手としては、それほどの衝撃を受けることができませんでした。旧エヴァのフォロワーをにおわせつつも、ずっと作品のトーンが定まってこなかったのを百合展開で引き伸ばしていたのが、ようやくプロローグにおいて提示された世界観とチューニングが合ったなーという印象です。少年漫画やジュブナイル作品における御法度であるところの殺人行為へと主人公を踏み切らせた理由が、その場しのぎ的な二期へのクリフハンガーではなく、戦時下の現代社会における重要なテーマとして昇華されることを強く願っています。

 水星の魔女12話の顛末を、あれから脳内で反芻している。古くからの少年漫画読みーーあるいはネット抜きの平和教育に洗脳された一時期を持つ者ーーにとって、人を殺すという行為は「主人公の資格を不可逆に剥奪される刻印」に他なりません。最も人を殺してそうな少年漫画誌の主人公ナンバー1である範馬刃牙でさえ、30年を越える連載期間を経ていながら、いまだに殺人童貞なのですから! 「絶対悪である殺人と、その因果応報」を色濃くまとった作品にブレイキング・バッドベター・コール・ソウルがありますが、あちらの命を奪うことへ幾重にも積まれた葛藤と必罰の陰影レイヤーに比べると、こちらは母子の関係性へのみ因果が収束する非常に明るくあっけらかんとした描き方に見えます。さらに、殺される側を「フルヘルメットで顔を覆った、名前のないテロリスト」として描いているのも、彼の家族の方向へは物語を敷衍しないという宣言であり、今後は「恋人サイドの受容」と「母の呪縛からの脱却」にのみ焦点が当てられるのでしょう。

 ふと思い出しましたけど、ククルス・ドアンの島でもアムロが逃げまどう敵兵をガンダムで踏みつぶしていて、「生身の人間をロボットで殺害すること」が当シリーズに脈々と引き継がれる主人公の条件だとするなら、この件について私の言えることはもう何もありません。ツイッターで見かけた「作画が間に合っていないための総集編」や「最終話における有名アニメーター総力戦」などの様子からうかがえば、ストーリーの結末までをあらかじめ見通した作劇が行われているのか、少し懐疑的になっても仕方のないところでしょう。第1話の感想を読んでもらえばわかりますが、本編の演出とストーリー展開を他作品に比べてなみはずれて秀逸だと感じたことはなく、SNSの盛り上がりも「キャラを好きになった人たちが、作品をさらに称揚したいがための、実態を大きく越えた過剰な深読み」だと感じることがとても多かったです。物語の自走性よりも、この時代に特有の「2期まで視聴者を引っ張るため、ツイッターでバズらせておきたい」という制作側の意図が強く前面に出ている気がして、これまで愛してきたキャラと作品が壊されたように感じている方々の意見は、とてもよく理解できます。

 なんかSNSで作品の身の丈を越えた感想が飛び交う状況って経験したことあるなー、なんだったかなーと考えていたら、タコピーの原罪だった。

第13話

 水星の魔女13話を見る。うーん、この温度感で日常パートを再開するには、12話のラストをギンギンに冷やしすぎましたねー。「当初は2クールまとめて放送するはずだったのに、作画スケジュールが破綻して前後半へ分割となり、本来的に不必要な行き過ぎたクリフハンガーを用意するハメになってしまった」ことが、今回のストーリー展開で明らかとなりました。ジュブナイルにおける殺人の意味については以前にお話ししたとおりで、本作の主人公にその資格を失わないプロットが仮にあるとすれば、「彼女の正体は小型化に成功したガンダム義体で、たとえば脳髄などの魂を宿すと思われる部位が搭乗機体に収められていて、義体側の思考と人格はAIによるエミュレーション」みたいなエヴァ初号機の逆パターンだったら、かろうじてSF作品としての受容はできるかなと感じています。「別の方法があったのかな」ぐらいの反省や「言われなくても」の一言で「人殺し」を許容できるのは、もっと偶発的な事故によるマイルドな描き方だった場合だけでしょう。意図的な殺人に伴う執拗きわまるスプラッタ表現は、提示された新たなストーリーラインからかけ離れた演出になっており、現段階では本作にとって取り返しのつかない瑕疵に見えます。そして、この印象が今後くつがえる気はしません。

カウンセリング「シンエヴァ・ファイナル呪詛」(2021/5/11~2022/8/22)

承前:カルテ「シンエヴァ・リカリング呪詛(2021.3.26~5.8)」

2021年5月11日

 noteで絶賛公開中のFF11雑記「ヴァナ・ディールの癒し」ですが、お気づきのことでしょう、あの名著「ターンエーの癒し」からタイトルをいただいています。適当にしゃべりますけど、エヴァ新劇は監督が新訳Zガンダムを見たことがきっかけでスタートした企画らしいので、もしかするとシンエヴァの展開はターンエーガンダムの影響下にあったんじゃないでしょうか。ハウス名作劇場を思わせるロボット物とは水油の牧歌的な前半と、ガンダムの旧作がまとめて「黒歴史」として語られる後半を思い出して、なんとなくそう感じました。

2021年5月12日

 ごめん、またシンエヴァの話になるけど、NHKの例のドキュメンタリーで気になっている監督の言葉があって、それは屋上でインタビュアーにポツリと漏らした「アニメを作るの苦手なんですよね」というものです。何を聞かれても「言わない」「教えない」人ですけど、それは自分の根本的な薄っぺらさを隠そうとする無意識の動きで、言葉として発されたものには劇中の人物の台詞を含めて、ギョッとするほど素直な加工されていないものが多いと感じています。「アニメを作るのが苦手」というのも、韜晦や照れ隠しではなく、その時点での正直な気分を吐露しているように聞こえました。おそらくシン・ゴジラの制作を通じて、これまでずっと抱えてきた棘のような違和感をはっきりと意識してしまったのでしょう。そして実写に寄せた「手法」だけを追求した結果、シンエヴァの肝心の「中身」がゲロを吐いた床を雑巾で掃除するのをキメキメのアングルで撮影するだけの要介護作品になったことは許せませんが、「アニメが苦手」なことを自覚した雰囲気だけは確実に伝わってきました。監督が現在とりくんでいる題材は「他所様の作品で」「ストーリーが決まっていて」「実写である」ことを考えれば、アニメ制作の何を苦手と言っているかが見えてきます。この中でも特に、実在の人間とモノに向けてカメラを回すことがもたらすワンダー、全く予期していなかった、しかし頭の中にあるものよりベターな素材が上がってくる興奮、過去のどこにもない、確実にオリジナルと呼べるものを進行形で作っている実感は、非常に蠱惑的だったのだろうと想像するのです(でも、シンエヴァのアフレコはほとんど別撮りだったみたいだし、人と人との芝居で生じる化学反応は嫌ってたのかな)。つまり、己の本質を「コピー人間」と自虐する人物の内側に芽生えた「オリジナルへの希求」がシン・ゴジラからシンエヴァ、そしてその後に来る作品たちに底流する見えざるテーマになっているのではないでしょうか。監督は、ハプニングの生じにくい自家撞着の極みであるアニメ制作で、完成品を見てもすべて過去のどの作品が出典なのか自分にはわかってしまうことを「閉塞感」と表現していたのかもしれません。逆に「オタクの王様」はすべての元ネタがわかることへ強い喜びを感じていて、これがクリエイターと批評家を分ける決定的な差なのだろうなと思いました。おそらく監督にとって実写とは「リソースを伴わない無限個(に思える)の試行」を許してくれる遊び場であり、アニメ制作の「つどリソースを消費する有限個の試行」に戻ったとき、ひどい窮屈さを感じたのではないでしょうか。それが第三村を含めた前半部の奇矯な手法を生み出してしまい、基本的に自分のカネ(パチンコ)を使っているのと、ジブリの鈴木翁のようなプロデューサーがいないため、だれも費用対効果を言えないまま、無尽蔵の浪費が放置(9ヶ月かけた制作物を「頑張りが足りない」の一言でご破産にする)された。そして、その試みはカネだけでなく時間をも空費してしまい、「神殺し(イコール実写の手法)がもたらした神様のいないDパート」、すなわち独裁者による制作マネジメントの大失敗を、あの偉大なるエヴァのメタフィクショナルな結論として、永久にフィルムへ熱転写するはめになってしまった。

 また何を勝手な憶測を繰り広げているのかと呆れておられるのでしょうが、大切な人を凄惨なやり方で殺された遺族が、「目には目を」の復讐ではない、法に則った手続きを踏もうとするならば、これは必ず通る被告の心理と動機を理解しようとする許しへのプロセスに他なりません。エヴァを壊された事実は消えませんが、どうにかそれを受け止めることができないか苦闘しているのです。いつまでも終わらない私のシンエヴァへ向けたテキストは、平穏な人生に突如として訪れた極大の不幸への受認へ向けた日々の軌跡なのだととらえ、いま少し暖かい目で見守っていただければ幸いです。

2021年5月13日

 それにしても、シンエヴァの前半もアホみたいな農村で時間を使うくらいなら、これくらい性的な願望充足モノとして、シンジと女性陣の四角関係だか五角関係だかを描くでよかったんじゃないですかね。後半は後半で、月にいる実体の無い神様をカヲル君に受肉(悪魔将軍!)させて、シンジが泣きながら初号機でブッ倒すとかでも、あんなクソミソのラストを見せられるよりは、ぜんぜんマシな気分で帰れたと思います。

 著名な漫画家が「中学生ぶりに『男の戦い』を見たら、記憶よりもすごかった」とツイートしてるのが流れてきてて、おそらくシンエヴァへの失望を遠回しに表明していると思うんですけど、美化されがちな、しかも作り手の記憶よりもすごいって、すごくないですか(貧困なる語彙力)。2度目の完結から25年をふりかえれば、エヴァって「男の戦い」がすべてでしたね。多くのファンが期待していたのは、シンジが初号機で人類を救う「男の戦い」を再び戦うことだったと思います。

質問:違ったら申し訳ないですが、自家撞着を一般的な意味(自己矛盾)とは別の用法で使ってませんか。

回答:フッ、そこに気づくとはさすがアオイね。たしかに、この文章では「自家撞着」を「自家中毒」の意味で使ってるわ。アタシが「王道」って言葉を使うとすぐに「御用だ誤用だ!」とスッとんでくるトッツァンがいるんだけど、それと同じでnWo語というか、栗本薫語なのよ。「自家中毒」より「自家撞着」のほうが言葉として摩耗してないし、何より響きがカッコいいじゃない? だから、「ハプニングの生じにくい」という形容で補助して、文脈でなんとなく「自家中毒」の意味で読ませるという高度なテクを使ったまでのことで、けっして誤用なんかじゃないのよ? なによ、その目は! ほんとなんだから! あら、アナタのサムネイル、どこか見覚えがあるわね? まさか、まえにアタシのことを老害よばわりしたりしてないわよね?

2021年5月15日

 例の声明に「すわ、成就か!」と色めきたつも、海外のドぎつい「ラースと、その彼女」(婉曲表現)たちが副監督のひとりにネチネチからんでいただけで、ガックリする(まあでも、はやめに読んどいたほうがいいよ)。海外のエヴァファンって、本当にキャラの話しかしませんね(Be careful, 
@evansjellylion! They are watching you!)。

 んで、炎上したインタビューに興味が出てきて、アマゾンでサクッと掲載誌を購入しようとしたら、早くも転売価格になってて倍ぐらいの値がついてんの。「ほんと、アマゾンは使いにくくなったなー」なんてひとりごち(笑)ながら、近所の本屋……は軒並み潰れたので、幹線道路沿いの大型書店へと愛車の軽トラを疾駆(sick)させるのであった。そしたらフツーに売ってて、「やはり転売ヤーは滅ぼすべき人類悪」などとひとりごち(笑)ながらレジに持ってこうとすんだけど、その、表紙の絵がすごくアレなんです。ボデーの曲線を際立たせるピッチリスーツを着た3人が、女の子座りでこっち見て微笑んでるっていう、フーゾクの呼びこみみたいなイラストなんです。おまけにレジが女性店員だったものだから、表紙を胸元へ隠すように店内をウロウロしながら、「ここはスポーツ誌と経済誌でサンドイッチして購入するべきか? いやいや、それ、転売価格で買ったほうが安くなるやつですやん!」などと自問自答による逡巡を繰り返すハメになったのです(思春期かよ!)。最後には、「えい!」と叫んでそのフーゾク誌を裏向けにレジへと叩きつけてやりましたが、マスクをしていなければ動揺を隠しきれた自信はありません。「ありがとうございましたー」の声を背に受けながら、マスクの下に上気した頬で、「実店舗での購入にはこのはずかしめがあるの、20年くらい忘れてたなー」と、なつかしくも情けない気持ちになりました。

 さて、長すぎる前置きでしたが、件の炎上インタビューに目を通したところ、アスカとケンスケの関係を老夫婦として演出をつけたという話でしかなく、「ラースと、その彼女」たちは本当にめんどくさいなーと思いました。しかしこれは、いっさいコミュニケーションしようとしない監督の意図を副監督が勝手に想像しただけの話で、海外ファンのひとり相撲と言えましょう。もっと深刻なのは、監督がMIYAMOOの演技につけたぶつかり稽古、ブンダー直下でケンスケにカメラを向けられる場面を「ラブシーン」のように演じてほしいという発言です。はい、言質いただきました、これで監督が例の裏ビデオを見ていたことが確定しました。アスカファン(LAS)のみなさん、安心してください。これは劇中のキャラクター同士に向けた演出意図ではありません。リアリティで別の男に想い人を奪われてしまった古傷に指をつっこむことで、エヌ・ティ・アール的ライブ感をフィルムへ熱転写しようとしたのでしょう。いやー、シンエヴァを私小説にしたことは絶対に許さないけど、己の人生に生じたあらゆる感情を克明にフィルムへと刻みこもうとする執念は、ホントすごいわ。

 他の関係者のインタビューを読んでも、「まぶたの線の位置」を1ミリだか1センチだか修正させたり、それが作品のクオリティを高めるはずだと信じる偏執狂(編集狂?)的な介入の足跡を、そこここに見ることができます。どのインタビュイーも必ず監督のことに言及してて、まさにエンペラーとでも形容しましょうか、現場での影響力の大きさをうかがわせました。エヴァだからできた贅沢な作り方ーー「他の作品だったら10本は作れるデザイン量ですよ」ーーみたいな表現も散見され、「100の制作物を出させてから1だけを採用し、その1に自分のハンコを押す」やり方が徹底的に貫かれていることがわかります。シン・ゴジラの全記録全集で盟友のひとりが「本当にすごいし真似できないとは思うけど、同時にああなったらおしまいだなとも思う」みたいな発言をしていたことを思い出しました。つまり、己の主観による判断が絶対であり、それは裏を返せば、対立する別の主観は間違っているということになります。「両雄ならび立たず」の言葉通り、同じ力量を持ちながら常に意見をねじふせられた結果、だれかとの「友情にヒビが入って」しまったことは、想像に難くありません。

 そして、かつてはシナリオについてもこの手法(他人の100から1を拝借)が取られていたのに、エヴァQ以降ーーまだ3作しかありませんがーーは「自分で100を作って、ぜんぶ使う(書き直しはある)」ようになってしまいました。突然の路線変更から、シナリオをすべてひとりで書かなくてはならなくなった結果、エヴァQが大失敗に終わったことは記憶に新しい(さほど新しくもない)ですが、そのリベンジをシン・ゴジラで果たしてしまったのは、エヴァにとっては大問題でした。この作品が多方面からの激賞を集めてしまったせいで、おじいさんは「ホッとして」しまい、自分に脚本の才能があると勘違いしてしまったのです(うーん、「大きなカブ」は副読本として最適ですね! ゴツゴツしたカブもするする飲みこめちゃう)。「個々人の感情に焦点を当てない、綿密な現実の取材に元づく群像劇」が見事に監督の特性にハマッたことがシン・ゴジラ成功の理由であり、「人間ドラマに興味がなく、素(ス)の語彙選択がおかしい」という欠点は手つかずで放置されました。なので、「依拠する現実が存在せず、各キャラの感情に焦点が必要である」物語をもういちど語らねばならなくなったとき、再び盛大に破綻してしまったのです。つまり、シン・ゴジラの成功が「エヴァQは失敗ではなかった」という依怙地なまでの思い込みを補強したことで、オプションとして存在していたはずのエヴァQ世界の放棄に踏み切ることができないまま、2時間を迷走したあげく、最後に完成だけを目途とした自己模倣へと逃げこんでいくことになるのです。それは「この結末しかない」という強い意志による決定ではなく、時間に追われてどうしようもなくなってEOEを引っ張り出したようにしか見えず、エヴァという稀代のSF作品にとって最悪の選択がなされてしまったと、公開以来ずっと思っています。初回を視聴したときの加工の無い感情は、「もうそれ、20年前にやったじゃん! 同じことやるためにわざわざリブートして、15年近くも時間かけたの!」でしたもの!

 あと、このフーゾク誌にはスタッフだけでなく声優のインタビューも多く収録されているのですが、もっとも話を聞きたいマリ、冬月、ゲンドウ、カヲルの分は掲載されていませんでした。でもなぜかキャラ紹介だけは用意してあって、トビラのしらこい(関西弁で「白々しい」の意)アオリ文もふくめて、「情報統制きいてんなー」という感想を持ちました。

2021年5月16日

 あ、ども。ピンク色のロボットから海岸近くの海に膝を抱えて飛び込んで、浅瀬なのにメッチャ潜行してから浮上して、長髪を獅子舞みたいスローモーションでバッと水切り(足の立つ深さじゃん!)する女の、ビールのCMみたいな光景がトラウマになってるところの、小鳥猊下です。

 シンエヴァ視聴後、私が深く後悔していて、心から謝りたいと思っているのは、テレビ版と旧劇に関わったかつてのスタッフたちに対する自分の態度です。これまで折に触れて、かつてのスタッフたちが「あの設定は私が作った」とか「あの台詞は私が書いた」とか発言してるのを見かけるたび、「ハア? エヴァの骨格を作ったのは監督だろ? 小指の先の肉付けみたいな話で、ブランドの威光にタダ乗りする後出しジャンケンしてんじゃねえよ!」などとモニターの前で、まさに狂信者としか形容できない反応をしていたことを告白します。しかしながら、シンエヴァを経て、「小指の先の肉付け」をしていたのは監督のほうだったことが、痛いほどにわかりました。

 昔、どこだったかは忘れましたけど、監督が「ラブ&ポップ」映画化の許諾をもらいに行ったときの様子を村上龍がインタビューで語っているのを読んだことがあって、「ふつう、作品使用の許可をもらいに来る人は、どれだけ思い入れがあるかを滔々と語るんだけど、そういうのがまったく無かった。ロケはこんなふうに考えていて、ハンディカムを使うので費用はこうでとか、淡々と撮影の話しかしない」みたいな内容だったと記憶しています(このインタビュー、旧劇の直後なので20年くらい前のものだと思うんですけど、どこかに収録されてませんかね?)。当時これを読んで、愚かな私は「すげえ、カッケえ!」などと感動してましたけど、シンエヴァを見終えた現在から振り返れば、この頃から監督の本質は1ミリも変わっていないことがわかります。村上龍はその態度に感心して、できあがった作品を気に入ったようでしたが、興味関心のある「手法」の実現こそが優先されるべき第一で、表現される「中身」は常に二の次なのです。「思い入れは?」「ない!」「伝えたいことは?」「ない!」人が、ひとりで脚本を書いたらアカンのとちゃいますか? なぜ、元ファンの若手スタッフたちや旧エヴァを作った功労者たちに、せめてストーリーだけでも任せなかったのか、それが悔やまれてなりません。

 ともあれ、私が好きだったエヴァンゲリオンは、今回スタッフロールに名前の無い、貴方たちが作り上げたものだったのです。これまでの軽視と非礼に対して、謝罪させていただきます。本当に、申し訳ありませんでした。そして、エヴァという素晴らしいSFを生んでくれたことに、あらためて感謝いたします。

2021年5月23日

 シンエヴァ、例の声明が出てからネットの動向を観察してる。わざと固有名詞を出した強い言葉で罵倒ツイートを連発して中2病的にイキッてみたり、公開時に人物攻撃や批判の記事を書いたきり忘れてたのに言論封殺されていないことを示すために単発のマイナス言及をしたり、ささやかな抵抗を示している方々もいるにはいるようです。けれど大勢は「こら、もうさわらんほうがええな。さわらぬカミにたたりなしや」という感じであり、最初からシンエヴァという作品自体が存在しなかったようにふるまっています(これがもっとも「賢い」やり方でしょう)。そして私はと言えば、当該のツリーに並んだ「信じられない」「ひどいです」「がんばって」「負けないで」「応援してます」等の言葉の群れを半ば呆然と眺めながら、胸中にわきあがるオーウェルのごときディストピア感ーー狂っているのは自分の頭ではないかーーにさいなまれつつ、現在の「清潔なインターネット」において例の声明が殺虫剤か殺鼠剤を噴霧するような劇的効果を発揮したことを、ジワジワと実感させられているところです。好きだった作品のひどい完結編ばかりでなく、意に染まぬ反応をするファンをやっかいなハエかネズミのように追いはらい、「だれも触れない」という意味でのケガレをまとわされた末の実存的消滅を眼前に見せられて、いまや私の心の一部は永久に停止したようになっています。この苦しみはもうだれとも共有されないのだ、いや、初めからこの気持ちはどこにも存在しなかったのだと感じるとき、脳の血流が弱まって視界を暗い闇が覆ったようになります。そして、心も死ぬことがあるのだなと無感動に受け止める自分を、別の自我が離人症のように斜め上から見下ろしているのです。たぶん、客観的に己の状態を分析すれば、「深く傷ついている」と言えるのかもしれません。こんなにもひどい仕打ちが人生に起こることがあるなんて、想像もしていませんでした。

 ……などと、深い孤立感から鬱っぽくなっていたところ、「はてブ!コメント全レス祭り」にはてなの長老みたいな人物から「最高でした!」 と投げ銭されてるのを発見しました。とたん、鬱気は吹きとんでテンションはアゲアゲになり、ジュリアナ東京のお立ち台でタワシを見せながら扇子を振るアーパー女子のマインドセットへと強制的に切り替わりました。オレはアーティファクト「純粋少女」を召喚、攻撃表示でターン終了するゼ! いやー、もう感謝の一言しかありません。フォロワー3ケタのアカウントなんて、公式のサービスからもガン無視ーー悪いなゲイ太、このスペースは600人用なんだーーされてるネット泡沫で、いくらキメキメのツイートを連発してるように見えようとも、座敷牢の壁に向かって正座してブツブツつぶやいている以上の実感なんて得られませんからね! もっと小鳥猊下をフォローして、愛を表明して、課金していいのよ! ウマ娘と違って見返りのある、生きたカネの使い途だからね! もちろん萌え画像の寄贈も、オジサン大歓迎しちゃうナ!

 あと、村長以外にも実名アカウントぽい方から「:呪」に課金があったことにいまさら気づきました(集金まわりのユー・アイがわかりにくいのは、裏の意図を感じさせて最悪ですね)。添付されたメッセージの内容は「初見の時に同じ思いで見てました。ありがとうございます」というもので、気になってその人のアカウントを見に行ったら、「シン・エヴァンゲリオン、良かったよ」みたいなタイトルの短い記事が置いてあって、いろいろ察しました。あと、おキレイな同調圧力に満ちた本邦のインターネットはマジでクソだな、と思いました。

2021年6月6日

 FF11で3アカウント目の星唄を機嫌よく進めていたのに、ツイッターのトレンドに「シンジ」とあり、イヤな気分でクリックする。そしたら案の定、「6月6日は碇シンジの誕生日です。おめでとう!」みたいなツイートが並んでて、ゾッとしました。あのね、監督はキャラの誕生日を考えるのが面倒で、声優の誕生日をそのままアニメ誌に投げただけですよ。それがいつのまにか公式みたいな扱いになってしまったわけで、どのキャラがいつ生まれたかなんて、あのひと興味ないと思いますよ。もっとも、全キャラの命日が3月8日なことだけは公式に確定してしまいましたがね! 命日つながりで話をすると、第三村の墓参りのシーンを見て気づいたんですけど、あれぜんぶ土葬してますね。墓の形状もそうですし、文明の崩壊した世界で「遺体を骨になるまで焼く」なんて余剰に使える燃料はないでしょうから。え、あの世界では死んだらLCLになるんじゃないかって? そのへんの設定は(核心なのに)もうグチャグチャで、監督に聞いても答えは返ってこないと思いますよ。シンエヴァ、自称・現代アートの専門家が京都の千年家の大黒柱にノコギリ入れて外壁にペンキ塗ってベニヤ板で建て増しして、ついには家屋全体を傾けて住めなくしたようなもんですからね。そんなふうに、ドリフのコントで最後に倒壊するセットみたいにすべてのエヴァンゲリオンへさようならしたはずなのに、コラボ商品やキャラグッズ(しかも、破までの設定)の販売だけはますます盛んで、もう嫌悪感しかありません。公式ストアで「貴方にとってシンエヴァを漢字一文字で表すと?」みたいな企画やってますけど、アカウント持ってる人は「呪」って送っといて下さい。1位を取れたら痛快ですね! もっとも、公開後の広報の手口はほとんどノースコリアかビッグブラザーなので、確実に握りつぶされるでしょうけど! あと、ロボット2台と奥さんと昔の想い人が右上から出現するカットばかりの見にくい中盤の戦闘シーンですけど、落下の臨場感をリアルに表現させるために社費で若手スタッフをスカイダイビングへ行かせたそうですよ! Qでは数千万円かけてピアノの内部構造をCG化したり、死に金を使うことにかけては、まったく日本一ですね! 我々ロスジェネのドカチンがツメに火をともして貢いできたカネを、いったいなんだと思ってるんでしょうね! チクショウ、せっかくいい気分でしばらくはエヴァを忘れて過ごせていたのに、チクショウ!

2021年6月8日

 シンエヴァの広報、本当になりふり構わなくなってきましたね。旧劇のときはファンから何を聞かれても「もう終わった作品だから」とそっけなくつっぱねていたのが、今回は嫌がるファンの足下に「行かないで!」とすがりつく感じで、みっともないったらありゃしない。「きれいなジャイアン」なるネットミームがありますが、今回の顛末を例えるなら「きたないエヴァンゲリオン」ですね。たぶん、最後のアニメ作品で興収100億を達成したいという思いがムクムクと頭をもたげてきて、生来のパラノイド気質によりその執着から逃れられなくなってるんでしょう。作品への評価が割れてるものだから、数字で己の決断の正しさ立証しようと躍起になってて、まさに「ブザマね」の一言です。新たな特典の前日譚マンガにしても、本来ならふつうに携わるべきキャラデザの人はノータッチで、この人物との友情が壊れてしまったことを、改めて満天下に知らしめる結果となっています。あと、本編のカットを追加だか変更だかするとか言ってますけど、ミリ単位の画角の修正とかエフェクトの追加ばかりで、何が変わったかは絶対に気づけないでしょう。エヴァQの3.333をわざわざIMAXで見た私が言うんだから、間違いありません。そしてバージョン表記ですけど、「3.01+1.0」でも「3.01+1.01」でもなく「3.0+1.01」なの、きっとだれも理由を説明できないと思いますよ。Qの変節から、確実に存在した最初の定義は壊れてしまっているでしょうから! それにしても、同一の公開期間中なのに新バージョンを堂々と宣言してるけど、明らかに古いのを見た人が不利益を被る変更なわけじゃない? これ、なんか民法とか商取引法とかに抵触しないの? こんなボッタクリ商法が今後もまかり通ると困るから、法律に詳しいフォロワーはキチンと問題提起しといて!

2021年6月13日

 うん? シンエヴァの3.0+1.01は見ましたかって? まあ、その話はまた後日。短く言えば、1,800円で公式の薄い本を買った感じかな。

2021年6月14日

 エヴァQの初回を見た因縁の映画館で、シンエヴァ3.0+1.01を見る。狭いハコへ特典目当ての客がスシ詰めになっており、感染症への配慮は絶無でした。気づいた変更点は、第三村の描写がほんの少し厚くーー静止画の「仕事」追加とアスカの腰のグラインドなどーーなっていたのと、補完計画に入る直前がちょっとだけ丁寧ーートウジ、ケンスケのモノクロ・バストアップ挿入などーーになっていたくらいでしょうか。もっとも、第三村の住人をどうフォローしようが結局は消滅させられるし、補完計画にしても肥溜めに突き落とされるか、つま先から入って肩までつかるかの違いでしかありません。「1,500円相当の同人誌をタダで配ってるから、実質は無料上映」みたいな言い逃れのためについてきた薄い冊子にしても、海外のドぎついキャラ萌え勢(ラースと、その彼女)への目配せだけで、空白の14年間に何があったのかは少しも語られていませんでした。

 あと変更点ではないですが、ゲンドウの「子どもは私への罰だと考えていた」というセリフの直後に、明らかにこれまでとキャラデザの違う、少しふっくらした子どもシンジ(一瞬、だれかわからないくらい)が出てきて、初回の視聴から違和感はあったんですけど、ずっと言語化できずにスルーしていました。今回ふと思いあたってゾッと背筋が寒くなったのは、このふっくらシンジを安野モヨ子が描いている可能性に気づいたからです。だとすれば、「子ども(がいること)は私への罰だと考えていた」というセリフの意味が反転し、監督自身の独白として読み直されてしまいます。意図を告げずに絵だけ描かせたのだとしたら、まさに作品のために私生活のすべてを捧げる悪魔の所業で、奥さんへ向けたこれほど残酷な仕打ちはありません。

 また、「オタクの王様」が「マリ=安野モヨ子」であると指摘したことを、同社の広報が「間違った教科書」なる言葉で否定したと聞きました。すいません、もっとも大きい「風説の流布」の元凶を叩いたつもりでしょうけど、彼の話に関係なく、肯定派・否定派に関わらず、視聴した者の90%以上が独力でそのメッセージを受け取っているんですよ。見当違いもいいところです。あれだけシンエヴァを肯定的に語ってくれている人物を、たったひとつ意に染まぬ解釈があるだけで、自分で言うのでも命じるのでもなく、部下に忖度させて盤外で攻撃する。これこそが、業界内で不可触の「天皇」と化した監督の現在を余すところなく表しています。言うまでもないことですが、「だれかの感じること」に正しいも間違っているもありません。特定の個人にとって「都合の悪い」感情はあるかもしれませんが、それを否定しにかかるのは、全体主義国家の支配側の手口と何ら変わるところはありません。タイムラインに「倍速で映像作品を見る、オタクになりたい若者」みたいな記事が流れてきました。最近の若者たちは教条主義と言いますか、非常に素直に物事を吸収しますので、公式による特定の解釈の否定は、洗脳と同じレベルで危険だと感じます。そして、いまネットに広がっている「シンエヴァにまつわる不自由な言論空間」は、ファンではなく社長の方を見つめた不誠実な広報の結果であり、どこかで正式に糾弾されるべきだと思います。

2021年7月8日

 映画「トゥモロー・ウォー」感想(少しエヴァ呪)

2021年7月27日

 アニメ「トップをねらえ2!」感想(だいぶエヴァ呪)

2021年8月1日

 アニメ「スタートレック:ローワー・デッキ」感想(かなりエヴァ呪)

2021年8月14日

 「31分後にカヲル死亡」「1時間21分後にアスカ補完」みたいな、クソどうでもい小ネタを仕込んできた監督ですが、シンエヴァの上映時間2時間37分が何かと問われれば、「日本のいちばん長い日」のそれと合わせたいだけでした。神経症で強引に表層だけ符号させるの、作品に何の価値も加えてませんからね!

質問:なるほどと思わせてくれる指摘も多々あるのに、結局エヴァにどうなってほしかったのか見えてこなかった。ガンダムになってほしかったの?違うでしょ?エヴァは私小説でいいんだよ
回答:いまさら「はてブ!」への追加コメント。いや、書いてること読めてます? まあ、脳内の結論へと向けて読解する態度から自由な人間なんて、この世にはいないのかもしれません。「人間を嫌いになる」という営為は底無しで、絶対零度の存在しないマイナス温度みたいなものですね。

質問:ガンダムと富野監督好きな立場からすると、あの独特すぎるセリフと観客を置きっ放しで進行するストーリーを富野監督以外の人がおそらく本人以上に本物っぽく創り上げてる事に喝采を送っている、というのもハサウェイの高評価の一因かと思います。原作小説が世に出て四半世紀以上、ガンオタの脳内にしかなかった物を納得のいく形で補完、補強するなんて!某作品と対照的なのか、それとも似ているのかはよく分かりませんがヒロインのエロさがガンダム史上最高なので100点です。
回答:なるほど、よくわかりました。禿頭の御大って言葉は辛辣ながら、基本的に他者への信頼があると思うんです。自分が生きる百年を越えた先に視点があって、次世代の幸福と人類の未来を、たぶん本気で考えてる。ご指摘の某作品の人物は、もはや己の作家人生をどうクローズするかにしか視点が無い。以前も書きましたが、2人の姿勢の違いが子どもの有る無しにしか帰着しないとすれば、現実に対するフィクションの明確な敗北だと思うのです。それにつけても萌え画像の欲しさよ。

質問:アマプラで劇場以来見たのですけど、「アスカ好きだった」の後マリ出してきて「姫、お達者で」って俗悪すぎやしませんかね?何これキモすぎる
回答:「オマエはシングルマザーとして、オーストラリアで生きてゆけ」という意味なんですかね。部分部分の不快を指摘することは無限にできますけど、「東日本大震災で新劇の前提が曲がった 」ところまで戻らないと根本的に解消されないと思いました。

2021年8月21日

 映画「エイト・デイズ・ア・ウィーク」感想(またもエヴァ呪

2021年9月21日

 雑文「親ガチャ、魂の座」(しつこくエヴァ呪)

2021年11月25日

 ボンヤリとエゴサしていたら、アマゾンのシンエヴァ本レビューに『申し訳ないが小鳥猊下に感想を聞きたくなる「評論」』などと書かれているのを見つけ、のけぞる。あのさあ、そういうのいいから、本アカウントでフォローして、全発言をリツイートしてくれます?

 否定派の勝利条件である「全記録全集の発売阻止」を達成したばかりか、本丸である円盤リリースの遅延にさえ成功しており、これはもう敵方の無条件降伏を引き出したと言えよう。

2021年12月20日

 映画「マトリックス・リザレクションズ」感想

2022年1月18日

 スパイダーマンNWHの感想を読み返してて思ったんですけど、「アナキンを助けるべくオビワンがスターウォーズ1から4をループする話」って、面白くなりそうだから読んでみたいなあ。もしかして私が知らないだけで、海外のファンジンや公式のスピンオフとかですでに存在するんでしょうか。

 シンエヴァでは同じ世界を繰り返していることがゲンドウの独白で示唆されながら、肯定派と否定派のどちらも従来の「ループもの」としてとらえていないのは、「エヴァの搭乗が2周目のシンジ」ではなく、「エヴァの制作が2周目のヒデアキ」になってるからでしょうね。

2022年1月30日

 エヴァ旧劇について、赤い砂浜の話は何度もしてきたように思うが、他にもうひとつ、いつ思い出しても涙がにじむシーンがある。人類補完計画が進行するさなか、「甘き死よ、来れ」のイントロから歌詞へと入る直前、シンジが「ココにいてもいいの?」と問いかけるのに対して、「(無言)」のテロップが表示される展開がそれで、ここには決して逃れえない人なる孤独の本質が、骨と肉から皮膚をはぐようにして凝縮されている。恋人がいようが結婚しようが子どもができようが決して変質しない何か、互いに焦がれた末の心中にしてさえ、別々の死を同時に死ぬだけのことであり、このくだりは我々のだれもが一個の死をひとりで死ぬしかないことに、何度も気づかせてくれる。ヒリヒリするような剥き身の真理へと到達しながら、配偶者ごときでそこへ背を向けたシンエヴァのなまくらな退行を、どこまでも認めることができない。

 またぞろ、エヴァ旧劇のこれをなぜ思い出したかといえば、だれかの能力を自らのそれと錯誤する馴染みの妄想が、再び粉々に砕けたゆえである。この「(無言)」を繰り返しくりかえし忘却し続けることができるという一点の冷厳な事実のみにおいて、小鳥猊下なるは才覚どころではない理由において、未だに生き汚くインターネットから消えずにおられるのだったと、数年ぶりに思い出した。そしてまたすぐに、忘れてしまうのだろう。

2022年2月5日

 アニメ「地球外少年少女」感想

2022年2月17日

 ゲーム「ヘブン・バーンズ・レッド」感想

2022年3月8日

 雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

2022年4月3日

質問:質問というかエヴァ一周忌に寄せた自分語りで恐縮なのですが、公開後すぐに「エヴァ呪」を公開して頂いて本当にありがとうございました。ネット上では旧作からのファンを含めて絶賛がほとんどで、「こいつらはちゃんと旧作見たのか? それともこっちの頭がおかしいのか?」と自問自答する中で偶然にも猊下のnoteに辿り着き、私の力では言語化できずに消化できないでいたあれやこれやが全て指摘されていて、どれほど精神的に助かったか分かりません。今は「呪」を笑いながら読めるほどには回復しました。どうもありがとうございました。
回答:見落としてました。確かに、公開後の一週間くらいは監督の労をねぎらう肯定的な感想ばかりで、作品の内容に触れたものはほとんど無かったように思います。「最終回の雰囲気」に流される程度のファンが多いことへガックリすると同時に、かつては亜インテリや批評家の卵による大卒高偏差値のサロンだったエヴァが、パチンコ参入から大量に発生した中卒低偏差値の遊技場と化していることを実感したのです。新劇が旧劇の「知恵の獲得に由来する孤独の発生」からは遠い場所で、ヤンキーどもへ仲間と家族の大切さを説く作品になったのは、もしかすると緻密な市場調査の結果だったのかもしれませんね! もちろん、皮肉で言ってるんですけどね! あと、ベジタリアンであることを理由に監督のストイックさを語る方々がいるようですけど、食生活で人格がはかれるというなら、彼が大酒飲みのアルコール耽溺者であることもちゃんと付け加えてくださいね! 机上に置いてある器へ犬のように顔を近づけて、直に日本酒をすするような品性のね!

2022年8月22日

『あと、「イスカリオテのマリア」なんて最高にアタマの悪い単語を言わされて、これが声優としての最後の仕事になるかもしれないなんて、冬月の役者さん、かわいそう。』

ジブンら、清川親分の大往生にからめてシンエヴァを持ち上げようとすんの、死者に対する冒瀆やで。

質問:恐れながら、今日訃報に接し最初に浮かんだのが猊下のその一文でありました。過去にイスカリオテのマリアとか研究室で呼び合う教授と学生たちの風景を考えるとゾッとしますが、そんなものが結局答えとして残されたわけですから。
回答:いやー、この呼び名はねー、不死のオーバーロードである3人のゴルゴダ星人(ユイ、マリ、冬月)の間で「フッ……君は我々にとって裏切り者だが、人類にとっては救いの聖母というわけだ。彼らの宗教になぞらえて言うなら、さしずめ『イスカリオテのマリア』といったところか。ユイ君のようには不死を捨てず、人間を見守らんとするか」みたいな会話(サブイボ)が交わされてたと思うんですよねー。でも、恥をかきたくない星人であるカントクが、ファッション鬱の習い性で陳腐になりそうな箇所の情報をすべて伏せたせいで、意味不明な残骸だけが残っちゃってるんじゃないかなー。