猫を起こさないように
アンソニー・ホプキンス
アンソニー・ホプキンス

映画「ザ・ファーザー」感想

 「見なきゃな……」と思いながら、いつもの億劫病で先延ばしにしていたザ・ファーザーをようやく見る。アカデミー主演男優賞を獲得した人物以外、本当にいったいだれが得をするのかわからないイヤな、イヤぁな映画で、もしあなたが登場人物のいずれかの立ち場であるなら、途中からは1秒たりとも見ていられなくなるでしょう(人生のステージがそうなる前に視聴したことだけは、不幸中の幸いでした)。事前の情報をいっさい入れずに視聴したら、もう二度と見返したくはならない「一回性の白昼夢」であると同時に、人生の最後まで記憶の奥底にヘドロみたいにへばりついて、幾度も反芻させられてしまうだろう映像でもあります。おそらく多くの方が「この老人の正体、もしかしてレクター博士なんじゃねえの?」ぐらいのメタな見方で視聴を開始するのでしょうけれど、この老人がレクター博士だった方が百倍も千倍もマシだったと後悔させられる方向へと、転がり落ちるようにストーリーは進んでいきます。

 いつもみたくネタバレ上等でしゃべってしまいますと、恍惚老人の主観世界を徹頭徹尾トレースしてーー視聴中、何度「頼む、ミステリーであってくれ!」と思ったかわかりませんーーこれ以上ない生々しさで観客に疑似体験させてくるのです。死後の世界の真相を本当にわかっているのが丹波哲郎だけであるように、認知症患者の見ている世界が正しく描かれているのかを当事者ではない者に判断する術はありませんが、最晩年を迎えて円熟の極みにあるアンソニー・ホプキンスの怪演が放つ説得力により、いったん再生したが最後、一瞬たりとも画面から目を離すことはできなくなってしまいます(外形的な部分だけで言いますと、不安に起因する過剰な発話とそれに促される強烈なマイナス感情の発露に始まり、次第に言葉が少なくなっていき、最後に感情の起伏が失われていく衰弱のステップは、とてもリアルだと感じました)。

 視聴後にいくつかの感想を拾い読みして、だれも指摘していない観点を持っていることに気づきましたので、ここで開陳しておきます。ニュアンス的には「ひとりで抱えておけず、狸穴(まみあな)に吐き出す」感覚に近いので、読むと必ず不快になることをあらかじめうけあっておきましょう。ズバリ、この父親は下の娘・ルーシーと寝ています。幼い娘をグルーミングで手なづけて、自らのペニスを「リトル・ダディ」だと教えこみ、おそらく姉が見ている前で、夜な夜なファックしていました。成長した後のルーシーが事故で亡くなる遠因となったのも、思春期に「かつてのあれは性被害だったのだ」と自覚してしまったトラウマであるに違いありません。この推察に至った手がかりは3ヶ所あって、1つ目は初めて会う介護人ーー老人の主観ではルーシーに似ているーーと握手をした手を執拗に離そうとしない場面、2つ目は字幕で「思いきり強く(抱きしめる)」とボカされた台詞に原文では”glue to one another”が使われていること、3つ目は老人ホームに父親を預けて去るときの姉の凍てついた表情です。この瞬間のオリヴィア・コールマンの演技はアンソニー・ホプキンスのそれと互すばかりか凌駕していて、「妹への性加害を止められなかったこと」と「父親は自分には手を出さなかったこと」へ向けた相矛盾する激情を、一言の台詞も介さず見る者が理解できてしまうという凄まじい領域にまで達しています。

 ザ・ファーザー、「人の持ちうる深い業の、底の底」をバーチャル体験できるという意味でメーターを振り切った作品ですが、生半可な気持ちで触れることは到底おすすめできません。残りの人生にわたって消せない記憶を背負う、あるいは過去の傷から鮮血が噴きだしても構わないという覚悟がある方のみ、視聴をお願いします。大げさだと思ってるでしょ? 警告はしましたからね!