スピルバーグ監督の自伝的作品であるザ・フェイブルマンズを見る。邦題は「ザ」を欠落してフェイブルマンズとしているが、”The + family name + s”が「ホニャララ一家」を意味する語法をガン無視しており、アジア人に向けてはふんぞりかえるクセに、西洋人には出ッ歯の平身低頭な虚業従事者のみなさまに対して、素直にshine(「輝け」、の意)と思いました。もっとも言いたいことを最初に述べておくと、アカデミー賞において本作が無冠にとどまり、エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスに7冠が与えられたという事実だけで、ポリコレ的なムーブメントが少なくとも芸術分野においては一利も無いことが証明されたと言えるでしょう。本作は「自伝的」と紹介されていますが、描かれているのはスピルバーグが映画業界に足を踏み入れる20歳ぐらいまでの話で、まさに「フェイブルマン一家」のたどる顛末がストーリーの中心となっています。すべてのシーンが観客にとっては少しずつ冗漫で、スピルバーグ自身がエンターテイメントというよりは、自分の大切な思い出をフィルムへと固着するために撮った作品のように感じました。その意味で、いまは亡き母親へ向けた強い思慕を含めて、宮崎駿の最新作と奇しくも同じような読み味になっています。
家族と芸術に引き裂かれる者の業を説く映画業界の叔父や、両親の離婚という家族の修羅場を引いた位置からカメラを通してながめる主人公など、名シーンはそれこそ枚挙にいとまがありませんが、個人的にもっとも印象的だったのは、海辺での夏休みを撮影したドキュメンタリーをプロムで上映した後に、ロッカールームで起こったできごとでした。この場面は、監督する側の意図にはまったく存在しなかった、しかし観客にとっては深刻な解釈が生じる可能性があるということをしめすと同時に、以前「桐島、部活やめるってよ」で指摘したのと同じ構図が現れています。すなわち、映画を好むような陰キャは、スポーツ万能で異性にモテる陽キャを「人生に苦悩の存在しない、すべてを持てる者」として考えがちですが、彼らの中にも生きることへの不安や苦しみは「持たざる者」と同じように存在しているのだという当たり前の事実です。踏み外したと感じる者の諦念と踏み外せないと信じる者の重圧の対比、複雑な世界のひと筋縄ではいかなさに若き青年がはじめて気づいたという点で、きわめて重要なできごとだと言えるでしょう。我々が陥りがちな「彼(ひ)は満ち、此(し)は空なり」という甘い自己卑下を離れることが人生にとっては重要なのだという教訓を、この挿話は与えてくれているのです。
映画の最後に、往年の大監督から「地平線が上か下にあるのがいい絵で、真ん中にあるのはダメな絵だ」と教えられた主人公が、画面の奥へと遠ざかっていくのを映すシーンで、しばらくののち、カメラがあわてて上方向にチルトして地平線を下げたのには、笑いながら泣いてしまいました。これこそ、映画芸術からしか得られない感情の機微だと言えるでしょう。宮崎駿の最新作が死の予兆に吞みこまれて終わったのに対して、本作は新しい生き方を始める青年の若々しい高揚感に満ちたまま、幕が下ろされます。東西の巨匠2人による最晩年のレイトワークに生じた差異は、「血を分けた盟友の死」の有無によって生じたものかもしれません。ともあれ、ひさしぶりに良い映画を見たときの贅沢な余韻にひたることができました。「映画とは、何か」の手ほどきを受け、そこから半世紀近くをともに歩んでくれた相手に、評価などというおこがましい行為は、もはや私にはできません。賞レースなんてどうでもいいと本人も思っているにちがいないでしょうが、本作を視聴したことで「エブエブ」への嫌悪感だけは確実に高まりました。