猫を起こさないように
あしたのジョー
あしたのジョー

漫画「ケンガンアシュラ」感想

 ケンガンアシュラの無料公開、通勤時間にチマチマ読み進めて、ようやく読了。うーん、前から気にはなっていた作品なんですけど、ジェネリック刃牙の中央値と言いますか、「格闘技好きが描いたマンガ」というよりは、「格闘技マンガ(あるいはゲーム)好きが描いたマンガ」みたいな中身になってます。格闘技モノの面白さの本質って、勝敗の「意外性」と「納得感」だと思ってるんですけど、本作の試合では両者がそろっているケースがとても少ない。一方で、ジェネリックじゃないほうの刃牙には、主人公の試合「以外」において、かなりの確率で両者がそろっている。他作品からのオマージュというには、あまりに加工の無い直接の引用みたいな場面や設定も多くて、「若いオタクが2次元から学んだ3次元を2次元に模写している」ような違和感は、ずっとつきまといました。

 ネタバレ上等でしゃべっちゃいますと、本作は所謂「あしたのジョー」エンドなんですけど、試合前のヒロイン(ヤマシタカズオ)とのやりとりから始まって、燃えつきの大ゴマにいたるまでをトレースしておきながら、引用元とは天と地ほども違っていて、結末が納得感ゼロの他人事にしか見えないのは、ある意味すごいことなのかもしれません。矢吹丈は「昭和の根無草、風来坊の父(てて)なし子」であり、ある時代においてアイデンティティと「生きる意味」の不在に苦しむすべての若者の象徴でしたが、本作の主人公は作者補正タップリの、強さに説得力を欠いたーーここだけ刃牙ソックリーー格闘技マンガのいちキャラクターにすぎません。

 1話からずっとただよい続けた、悪い意味での「同人誌感」は、作者の成長とともに薄まっていくかと期待していましたが、ついに最終話まで消えることはありませんでした。海外のファンには申し訳ないですが、本邦にはもっと先にアニメ化しておくべき格闘技マンガが、いくつもあると思います。

雑文「やおい女子とニクラウス(近況報告2022.5.21)」

 小鳥猊下がテキストを公開するときの心象キャラ(なんや、それ)のひとりに、「あした天気になあれ」のラスボスがいます。だれもが名を知る大傑作なのに「あしたのジョー」ほどは最後まで読み通した方は案外、少ないんじゃないでしょうか。最終戦の対戦相手であるジョン・ニクラウスとの延々と続くプレーオフは、「そろそろ終わらせなきゃいけないんだけど、もっとこの世界でこのキャラたちと遊んでいたいな……」という作者の気持ちがじんわりと伝わってきて、なんとも言えない温かい読み味だったのを思い出します。帝王の異名を持つこの人物、プレーが進むにつれて闘争心が剥きだしとなり、「ドウダァーッ!!」とか「カカッテキナサーイ!!」などと、向太陽をアオりまくるのですが、私がツイートしたり記事を上げたりするときの気持ちがまさにそれです。しかし、ほとんどの場合、観客席から「帝王V! 帝王V!」とは返ってこず、熱の無い拍手がまばらに響くばかりで、心の帝王は「ソッカー、アカンカッタカー」とトタン屋根のバラックにもどり、欠けた茶碗に一升瓶から注いだどぶろくをグイとやって、そのまま気絶するように眠ってしまうのが常なのです。

 んで、何が言いたいかといえば、小鳥猊下のテキストはやおい女子と相性がいいのではないかということです(唐突な飛躍)。先日、私のnote記事を「スゴく良い感想文だった。」と引用したツイートを発見し、ひさしぶりに心の帝王が「ア、ヤッパリソウナノ?」とスゴく喜んで、当該記事を連続で5回ほど読み返したぐらいでした。私の文章が中期・栗本薫から甚大な影響を受けたがゆえに、魔的でエロティックなことは以前お話しましたが、語るべき物語が存在しないこと、そして何より、中期・栗本薫のやおい小説が、強烈な原型として心に焼きついてしまっていることで、次第に書けなくなったのも事実なのです。さらに告白すれば、まったく小説というものが読めなくなりました。中期・栗本薫のやおい作品に比べれば、現行するあらゆる小説は「あまりにも下手クソすぎる」からです。

 だいぶそれた話を元へ戻せば、やおい小説の創生神に薫陶を受けた小鳥猊下のテキストは、その下流であるビー・エル含めて、やおい女子たち心の琴線をかきならすにちがいなく、この新たな客層にアピールできれば、nWo過去作の再発見からの捲土重来も夢ではないのではないかという野望を抱いた次第です。やおい女子たちはどんどん小鳥猊下をフォローし、積極的にその発言をリツイートしよう! あと、遺伝的類似を伴った存在を2つほど世間に放流し、そろそろ自分のことを新たに始める季節にさしかかったと感じつつも、やっちゃうよねー、ディアブロ2R(パッチ2.4で急浮上した召喚ドルイドーーめっちゃ弱いーーを育成しながら)。

アニメ「NOMAD メガロボクス2」感想

 NOMAD メガロボクス2、見る。「あしたのジョー50周年企画」として再アニメ化が模索されたものの、「あおい輝彦と出崎統ぬきでジョーをやるなんて、キリストとヨハネぬきで聖書を書くみたいなもんだな」と冷静になり、舞台を近未来に移して登場人物も翻案したのが前作でした。ほぼ初代劇場版に沿った内容で進み、「力石徹に当たるキャラが死なない」という変更に作品テーマを重ねて、きれいに終わっていたように思います。これまで言及しなかったのは、「白都のお嬢様、原作と違って、クールというよりコールド」「サチヨって名前、少年のナリだけど、成長したら美少女の伏線だろうな」ぐらいの感想しか抱かなかったからです(ただ、ギアの設定は最後まで意味不明でしたが……)。

 本作はその続編であり、劇場版第二作をなぞって力石徹の死からホセ・メンドーサ戦までのアレンジが描かれるのかと思いきや、ストーリーラインをまったくのオリジナルへと変更してきました。南米要素はそれこそ音楽ぐらいのもので、原作の後半パートを換骨奪胎し、作品テーマだけを取り出して新たな物語へと移植しているのです。「放浪者が家族を見つけ、安息の地に定住する」「未来のため、燃えつきるまで戦わない」がそれで、原作ジョーがたどりつく孤独と破滅の逆を描くことが強く意識されています。近年では非常にめずらしくなった、ガチガチにテーマ・オリエンティッドな作品であり、「間に合わないタオルと間に合うタオル」とか「放浪をやめた者から始める者へ引き継がれるバイク」とか、徹頭徹尾、主題が先行して描かれます。キャラクターはそれを表現すべく配置されており、長く鬱々としたビルドアップもいとわず、丁寧に丁寧に人物の背景と舞台を描いていく。かつてのセル画を思わせるアナログな描写も、他のアニメにはない独特な雰囲気を作り出すことに成功しています。

 ただひとつ問題なのは、そこまでやってるのにぜんぜんおもしろくないことです。フィクションの魅力って、現実の地続きからはじまって、読者が気づかないうちにウソで離陸して、気づけばはるか上空を飛翔していることだと思うんですよ。メガロボクス2は、「現実を徒歩でかちゆき、ペースをあげないまま、同じ現実にたどりつく」話なんです。作り手の押し出したいテーマを語ることが最優先で、物語的なカタルシスはまったく与えられない。近年、ドラゴンクエストやらアンジェリークやら既存の虚構にビルドアップ部分をすべて依存して、カタルシスだけを描き続ける作品群が幅をきかせているのを苦々しく思っていましたが、メガロボクス2を最後まで我慢して見て、テーマ先行型のフィクションが廃れてしまった理由がよくわかりました。

 だって、つまんないんだもん! 余力を残してるのにタオルでTKO負けするジョーなんて、だれが見たいんだよ! ヨーコとのロマンスを全面的にオミットしてどうすんだよ! リングで死ぬ覚悟を決めたのに、思わぬ告白をされて生きることへ未練が出て、世界戦の舞台でアパシー状態に陥るジョーとか最高に泣けるだろ! 「恋人を殴り殺された財閥令嬢が、なぜかオレのことを好きになってしまった件」だろ! 「鑑別所あがりのオレを追い回していた警官たちが、なぜかオレのために君が代を演奏している件」やろがい! そのくせ、サソリやらハチドリやら、ヤクザが作品の主題とおぼしきポエムや絵本を延々と朗読したり、作り手の自意識がダダ漏れになってんだよ! 話さえおもしろきゃ、テーマなんてどうだっていいんだよ!

 面白くするためにわざと言い過ぎましたが、良い作品の条件とは「テーマの面白さとキャラクターの魅力が合致していること」だと、本作を通じて、あらためて確認できました。けれど、サチヨが男の子だったことだけは、本当にゆるせないです。え、サチオって言ってる? マジで? (ヘッドホンで確認して)ホンマや……クルーエリティ・オブ・エイジング!

アニメ「あしたのジョー2」感想

 過度なアルコール摂取にしばしば意識を喪失する、いわゆる寝正月の最中、西方蛮族提供の流感みたいな名前の動画配信サービスに、「あしたのジョー2」が追加されているのを発見し、長い前髪で片目を隠しながらジャージ姿の体育座りで視聴を行う。途中、家人が無神経に部屋の扉を開け放ち、「マア! また暗い部屋でテレビ見て! 目が悪くなるわよ! 前髪も切りなさい!」などと甲高い声でまくしたてるので、「うるせえババア! ブッ殺すぞ! あと、お酒買ってきて!」と絶叫したりした。

 最終話近く、少年鑑別所時代のジョーの仲間が喫茶店に集い、昔のことをふりかえるシーンがある。うろ覚えの記憶で再現すれば、こんな感じだ。

 「ぼくたちは変わってしまったけれど、矢吹丈だけがあの頃の青春のままにいる。それが、たまらなく嬉しいんです」

 「へえ……おまえ今、小説家とか、学校の先生でもやってんの?」

 「いいえ、地方の工場の、ただの工員ですよ」

 かつては気にも留めなかったこのやりとりが、いまでは強く胸に迫る。おのれが矢吹丈その人ではなく、矢吹丈のことを語るだれかであることを知っているからだ。ウルフ金串の回といい、元全日本チャンプの回といい、昔はものをおもはざりけり、年齢を経た現在だからこそ感じられる哀切の数々に、成熟を拒否し続けてきたこの身が、遠くまでよろよろと、なんとか歩いてきたことに気づかされた。物語後半へ進むにつれて力尽きてゆく作画と演出も、ジョー自身の崩壊とリンクしているように感じられ、涙なしには見ることができない。

 「へへ、ほんと、テキストサイトなんてのは運だよなあ。たった一発のラッキーヒットですべてが決まっちまうんだから。あのとき、あのラッキーヒットさえなけりゃ、メジャーのスターダムにいたのは、俺だった。俺の方だったんだ」

 あのころ、ぼくたちはみんな、矢吹丈になりたかった。