猫を起こさないように
映画「閃光のハサウェイ・キルケーの魔女」感想
映画「閃光のハサウェイ・キルケーの魔女」感想

映画「閃光のハサウェイ・キルケーの魔女」感想

 閃光のハサウェイ・キルケーの魔女をIMAXで視聴。配信で見た前作の「ガンダムっぽくなさ」が気に入っており、次作は必ず劇場で見ると決めていたのです。あいかわらず「アニメを実写の手法で撮影する」ことを徹底していて、「室内にはためく厚手のカーテン」「真昼の陽光に照らされた滑走路」「日没の夕闇に沈む大都市」など、アニメか現実か見分けのつかないハイパーリアルな背景とともに、基本的に引いたカメラで撮影はなされてゆきます。演出のつけ方も、「塩をおさえ、素材の味を出汁のうまみで食わせる割烹料理」といった淡麗さで、場面転換は特に強調されずスッと行われるため、前作を数年前にいちど見たきりで、人名・地名・組織名の予備知識がほぼゼロである人物には、「いつ」「どこで」「だれが」「なにを」しているのかが非常にわかりにくく、くわえてみなさまのご指摘どおり、光源のない屋内や夜の場面が異様に暗く設定されていて、IMAXシアターであるにも関わらず人物の描線さえ視認できず、眠気を追いはらうためにシート上でなんども身じろぎしたほどです。前作では気にならなかったのですが、作戦室?のドアと窓をていねいに閉める描写など、演出意図の不明な部分も散見され、とつぜん走りだしたハサウェイをきっかけに音楽が流れはじめ、元カノとのなれそめが新海誠みたいな映像でフラッシュバックするのには、思わず笑ってしまいました。その一方で、必要と思える描写が多く削られていて、視聴後にエッキスでおっぱい艦長は戦死しているとの指摘を目にしたとき、「ええッ!! どこで!?」という声が大きめにほとばしったほどです。

 100分ちかくある上映時間のうち、80分ほどはひどく退屈で、なんども睡魔におそわれかけたのですが、終盤、突如として逆襲のシャアの映像がインサートされた瞬間から、モノトーンだった視界は物語全体に遡及してフルカラーとなり、理解不能だったハサウェイという男の人格と葛藤が立体化して、生々しく眼前にせまりはじめます。たとえるなら、淡麗割烹の板前がコースの終わりにやおらカウンターの上に土足で立ちあがり、白い調理服を脱ぎすてた下には隆々たる体躯をトゲつきの革ジャンがつつんでいて、岩塩とコショウをガリガリにすりこんだ牛肉のブッ刺されたBBQの鉄ぐしをバルログみたいに眼前へクロスさせたかと思うと、モウモウたる煙の中でジュウジュウに焼きはじめ、最後はたっぷりと特製特濃ソースにひたして手わたしてきたようなもので、「まあ、和食だし、こんなもんか」と内心でごちながら黙ってカウンターに座っていた客たちは、いまや滂沱の涙を流しながら、「あ、あじッ、味がするッ!! これッ、すッごく、味がしますゥ!!!」と牛肉串にむしゃぶりつく。忘我の賞味を終え、みながハッとわれにかえると、板前はなにごともなかったかのように、元の白い調理服を着てしずかに包丁を研いでおり、ほおに残る涙のあととソースで汚れた口元だけが、異常な”おもてなし”の行われた証拠として残るーーそんな体験でした。全体的にガンダムファンのための映画ですし、本作を激賞しているのはガンダムファンですし、本作の興収を押しあげているのもガンダムファンですし、ガンダム要素ぬきに単体の映画として自立する感じは、まったくしません。

 個人的には前作の流れから、ガンダムの皮をかぶった現代の若きテロリストの話を期待していたのが、結局のところ、現代の若きテロリストの皮をかぶったガンダムの話だったので、すこしガッカリしました。なぜ、これを作るのに5年もかかるのかはサッパリわかりませんが、おそらく乗りかかった船として、3作目も劇場に足を運ぶことになるでしょう。もちろん、ガンダムに興味がわいたからではなく、ただひたすらにエロかわカッコいいギギ・アンダルシアの肢体をながめにいくためです。あと、みなさん、「おっぱい、おっぱい」「肉欲、肉欲」と、ハサウェイを揶揄して大よろこびの様子ですが、正確には「肉欲と世俗を断ちきる」と言っており、仏教的な意味での”現世への執着”をあらわしているように思います。もしかすると、母親が日本人であることに影響されているのかもしれませんね。