猫を起こさないように
雑文「IUT続報に寄せて(近況報告2023.8.31)」
雑文「IUT続報に寄せて(近況報告2023.8.31)」

雑文「IUT続報に寄せて(近況報告2023.8.31)」

 宇宙際タイヒミュラー理論をめぐる状況の続報にふれて、満面の笑みを浮かべている。あらかじめ、以下は高校レベルの数学さえあやしい人物による外殻の政治的な「面白がり」だということを伝えておきます。そもそもの発端は、5年近く前に同理論の成否を確かめるため、ドイツから2人の高名な数学者が京都を訪れたことでした。一週間にわたる論文著者との議論の末、帰国した2人は「乗り越えられない決定的な瑕疵があり、証明は無い」との結論を10ページの報告書として発表します。同理論はあまりに長大で難解なため、理解できる者は世界で十指にわずか余るほどと言われており、多くの数学者はフィールズメダル受賞者のこの宣言に、もう余計なことを考えなくてすむとホッとしたのです。そこから現在まで続く集団的思考停止の状況を「数学にとって不健全」だとして、論文著者が報告書の撤回を求めるメールを昨年、2人のドイツ人数学者へ2度にわたって送りつけたにも関わらず、完全に無視される結果となりました。業を煮やした彼はつい先日、その私的メールをネット上に公開したのですが、最近はDeeplやChatGPTなど翻訳に便利なツールもあるので、ぜひ本文を読んでみてほしいと思います。

 まあ、最大限ひかえめに言ったとしても、相当に「態度の悪い、挑発的な」内容になっていて、「あなたが健康な状態であることを願っています」から始まり、「あなたが議論において、ささいなことに固執していたのを鮮やかに思い出します」とか、「仕事や金銭の調整は必要ですが、京都に来るなら解放的かつ自由な議論を約束します」とか、「なぜあなたほどの人が、こんな簡単な数学が理解できないのかわかりません」とか、「私の師匠に理論の誤りを指摘すると『権威を盲信すべきではなかった』とすぐに認めました」とか、「『真実を受け入れる者は解放される』という金言の意味をもう一度よく考えるべきです」とか、とにかく全編にわたって「格下の相手にレベルを合わせてお願いしてやっている」というアロガントな雰囲気を隠しきれていません。メール内の文章表記も相手の読解力を疑うように、単語をダブルアスタリスクで強調(初めて見た)したり、読み落とさせたくない箇所は一文中であってもわざわざ改行の上で段落化したり、どこの00年代テキストサイト運営者によるテキストいじりなのかと疑うばかりの粘着ぶりです。

 さらに問題なのは、存命する数学者の中でトップクラスに入り、歴史上においても最高ランクに位置するだろう頭脳から、はた目にわかるほどの「激おこイライラ状態」でこれが出力されていることであり、選ばれる単語が高級で文章が難解なことをのぞけば、やっていることの本質は巨大掲示板での文系レスバトルとなんら変わりありません。そして何より悪いことに、わざわざ京都まで来て一週間を費やしてくれた相手の態度を硬化させている原因の最たるものは、間違いなくこれまでの論文著者のふるまいなのです。「証明なし」との報告書が公開された直後の彼の反応としては、「議論の最中、相手の説明する馬鹿げた解釈は自分の理論とは似ても似つかないと、ずっと考えていた」(なら、その場で指摘しようよ……)や「なぜこんな初歩的な数学が理解できないのか、同僚たちと爆笑した」などがあり、これだけでもかなりひどいのですが、きわめつけはドイツ人数学者2名を、名前の頭文字を並べてナチス親衛隊を意味する「SS」呼びしたことでしょう。なぜ非アカデミアのトーシロがこんなことまで知っているのかと言えば、これらすべてが論文の中に注釈としてそのまま書いてあるからです(!)。さらに、わずか10ページのその報告書に対して150ページ超の反論を公開したり、やってることはどこぞの訴訟インフルエンサーと大差ありません。

 今回の顛末について、以前にも指摘したように、コーケイジャンたちが99%の時間を意志と理性の力で抑制している人種差別の感情が、あるシリアスな一線を越えて噴出する領域へと論文著者が踏みこんでしまったことで引き起こされた可能性は、非常に高いと思っています。同時に、「アジアの黄色いサルに、ナチ呼ばわりされた。ヤツらモンキーどもに西洋文明の精髄である、数学のアルテを理解できるはずがない」という人格の底の底にある昏い負の感情が、メール無視による撤回拒否につながっているとすれば、外野の文系にとってこれほど面白い見せ物はありません(まあ、このへんは欧州の高位?数学者や数学倫理規定?みたいなものを引っぱりだしているあたり、薄々わかっているのかもしれません)。スーパー・ストリングスにせよ、インターユニバーサル・タイヒミュラーにせよ、もっとも冷徹に論理的であるべき物理学者と数学者が、「半世紀を捧げて己が権威となった分野が、すべて灰燼に帰すなどありえない」や、「30年をかけて完成させた究極の理論を、ポッと出の若造ごときに潰されるなど断じて許せない」といった感情にふりまわされているのを観客席からビール片手に眺めるのは、とうの昔に己の人生の相対的な無価値を受認した文系人間にとって、この上ない愉悦の娯楽だと言えましょう。

 いまの私の最大の関心事は、世界を席巻するAIがはたして人類にとって「我々はエヴァを生みだすためにその存在があったのです」という台詞の、エヴァに相当する対象になるのかどうかです。現存する人類すべての成果物を学習し終わったところでAIの成長が止まるのか、そこからさらに成長が続いていくのか、まだだれにもわからない段階とのことですが、これは私がよく使う例えであるところの「1を100にすること」と「0を1にできること」の対比によく似ているように思います。そして、前者に長けた人工知能がはたして後者の能力を有しているかどうか、すべての学習対象を消化したあとに無から有を生み出せるかどうかは、人の持つ知性と人の抱く感情が可分か不可分かの、数学的に言うならば、”conjecture”になっているような気がするのです。最高峰の知性さえも「乗り物」にしてしまう感情という制御不能のドライバーが、知的創造とは切っても切り離せない要素だと判明するなら、それは世界文学と同じ種類の人間讃歌だと言えるのではないでしょうか。私の生命が残っているうちに、人類全体をまきこんだ壮大な実験の結果が見られることを、切に願っています。そして、だれかが私のテキストに対して言ったように、「歴史上の数学者の人生を、リアルタイムに砂かぶり席で見ることができる」喜びを噛みしめたいと思います。