猫を起こさないように
ゲーム「FGO第2部第4章」感想
ゲーム「FGO第2部第4章」感想

ゲーム「FGO第2部第4章」感想

 fgo第2部4章、私の観測範囲では無音に近い。nWoの更新もそうだが、あまりに完成度が高いものは、ときに圧倒的な沈黙を招くことがある。忘れた頃にやってくるこのハイクオリティの本編こそが、ゲーム部分では惰性のエー・ピー消化と化したエフジーオーを続ける唯一と言っていい理由だ。

 今回は登場するすべての人物に血肉が通っており、歴史上の有名軍師におたくのガワをかけてネットスラングをしゃべらせるだけの、中身の無い昆虫みたいな突貫工事のキャラ立てとは天と地ほどの違いである。もしかすると、「不自然なほどすべてのキャラが書き手から平等に愛されている感」に瑕疵を感じる向きもあろうが、私は諸手を上げての全肯定である。

 この4章、第2部の他と比べてあまりにレベルが違いすぎて、例えるなら「100m走で9秒台をマークしたと思ったら、優勝者のタイムは2秒だった」ぐらいの感じさえある。この違いがわからない君には、特段エフジーオーをプレイする理由はなかろう。確かに手クセっぽいところはあるし、「強大な敵への対処は、いつも屁理屈を屁理屈で上書きするトンチ合戦と化す」や「ただの人間でも体術や拳法を極めれば、魔獣や英霊をも凌駕できる」といった「あー、ハイハイ、またコレね」と言いたくなる展開を食傷とみなす向きもあるかもしれない。でも、好き! 好き! 大好き! これらの要素はいわば贔屓の定食屋を贔屓にする理由、焼きすぎる魚のコゲや、少しだけ辛すぎる漬物と同じ性質のものだからだ。

 緻密なストーリー構成を、過不足の無い文章と挑戦的な修辞表現が編み上げていく。終盤の展開に至っては、二転三転、四転五転と、読み手の予想をハイペースに裏切り続ける。しかしその裏切りは、確かな技術に支えられているがゆえに、裏切らんを目的とした凡百の物語とは異なった快楽を与えてくれる。そして、ブラヴォと言うべきだろう、彼の物語に通底する人間賛歌の美しい音階が確かに響いている、聞こえてくる。

 われわれ凡人が凡人のまま世界の救済に寄与できること、凡人が世界の残酷さに切り取ったわずかな時間の積み重なりが、時に愛されただれかに人類を存続させる究極の仕事をさせるということ。歴史に名を刻む英雄はひとりでは立たず、永久に名も知られぬ無数の人々がその背中を支えているのだ。基礎研究とノーベル賞は悪い例えだが、それは私たちの世界の実相を喝破していると言えるだろう。

 以前も述べた気がするが、惜しむらくはこの高い普遍性が、スマホアプリで体験するフィクションという新奇性ゆえに、彼のメッセージを受け取るべき本邦の多くの人間には不可視だという事実である。私が思い描くある種の人々は、その外殻だけで拒絶をするし、仮に目を通すに至ったところで、この物語を理解するための多すぎる前提に阻まれて、内包する高い普遍性には到達できないに違いない。

 「不出来を罪と断ずる神の輪廻」--このモチーフだけを見ても、書き手が現代という病理に対して、正面から真摯に向きあおうとしていることがわかる。第2部4章の前には、諸君の言う「虚無期間」が2週間ほどあった。イベントの実装を年単位で計画する人気スマホゲーにはあるまじき、不自然の空白である。これは、なぜだろうか。もしかすると6月1日を境として、第2部4章の公開を遅らせることを決める何かの衝撃が書き手にあり、そこから急遽、相当量の加筆や書き直しが行われたのではないかと推測する。

 ある種の人々にとっては荒唐無稽の、現実から最もかけ離れたジャンルであるにも関わらず、第2部4章は確かに時代と照射しあっており、「いま書かれなければならない」という衝動と切迫性を強く感じる。これは裏を返せば「いま読まれなければならない」という意志でもあり、この傲慢さに至ることのできる数少ないクリエイターを私は愛する。

 「世界の悲惨を前にして、芸術は無力か」という古い問いを思い出す。引きこもりが、空を見上げたっていい--彼の物語は、いつも優しさに満ちている。あらゆる一隅を照らすその暖かなまなざしが、もしかすると世界に知られない場所で、ほんとうにだれかを救ったかもしれない。

 え、この不確かな時代と四つ相撲で格闘する書き手を教えてくれませんか、やっぱ芥川賞候補者たちですかね、だと? キミね、バカも休み休みおっしゃい。そんなの、fgo第2部4章と、ランス10を読みなさいよ。

 あと、nWoも読みなさいよ。