猫を起こさないように
映画「三島由紀夫vs東大全共闘」感想
映画「三島由紀夫vs東大全共闘」感想

映画「三島由紀夫vs東大全共闘」感想

 そろそろオのつくイベントの舞台裏感動垂れ流しが始まりつつあるので、テレビの電源を引っこ抜いてアマプラのクソ重いユーアイをグリグリと先行入力していたら、「三島由紀夫vs東大全共闘」が配信されているのを発見した。大海を思わせる膨大な配信コンテンツの中で、何を視聴するかというのは、もはや意志を伴わせることが難しく、運や偶然でしかなくなってきましたね。昔、まともに就職できなかった学生運動崩れの溜まり場みたいな中小企業に関わったことがあり、あの手の連中を感化させた思想の上澄みに触れておきたい気分もありました。昔の大企業は、SNSを若手に実名サーチさせる以上の人定作業をキチッとやっていたので、全共闘の幹部とかコミュニストは書類段階ではじかれるんですけど、人事の甘い中小企業なんかがいったんひとりを入れてしまうと、どんどん仲間を呼んで企業風土を汚染して、過去との断絶を作っちゃうんですよね。

 まあ、これはどうでもいいので、話を「三島由紀夫バーサス」へと戻します。感想としては、三島由紀夫があまりに強すぎることと、トーキョー・ユニブだろうがトーヨー・ユニブだろうが文系はおしなべてクソで、いつの時代も感情で都度ブレるうわごとしか発さないことがわかりました。どいつもこいつもこれまで見てきた学生運動崩れのオッサン、オバハンの話法にソックリ(当たり前)で、人間の集団に生かしてもらう程度の才覚しか持たないのに、その運営へ責任を負う気はいっさい無い連中の放言を我慢強く聞いて、駄々ッ子をさとすように言いふくめる三島先生の姿には、我が身の過去を重ねて涙が出てきました(やはり、「転生したら小鳥猊下だった」のでしょうか?)。学生サイドは、全体として言っていることが観念的で弱すぎ、特定の思想を運動の支柱にしたというよりは、土着の同調圧力で全国的な暴動にまで至ったんだなーとあらためて感じました。当時SNSがあったら暴動は起こらなかった気がするし、今日SNSがなければ暴動が起きておかしくない素地はすでに存在するでしょう。いずれにせよ、感情の乗り物である文系人間は昆虫と同じで環境への反射以外の行動を持たず、いつの時代も本当にクソだな、という印象を強くしました。

 ただ、娘を連れて討論に参加していた演劇畑の学生だけは、圧倒的な「狂」と「暴」の雰囲気をはらんだ老人になっていて、目の奥には半世紀を経た今でもまだ革命の火が燃えており、文系が意思の力で保てる一貫性もあるのだと感心させられました。この人物は反体制派の極北ですが、体制側に入り込むことのできた演劇人が見せる、驚くような臭気を放つ傲慢さの根っこには、彼の抱く革命思想と共通したものがある気がします。そして、いまの若いネット論客たちにこういう人物と差し向かいで議論する胆力があるとは思えません。晩年の三島由紀夫が肉体改造と武芸に傾倒していったのは、「いつでもお前を殺せる」という感覚で人と対峙するためでしょう。だから、スネかじり大学生どもの無礼な態度にも、寛容な微笑で対応することができたのです。なんとなれば、この世界では「死」だけが、いつでも、いつまでも特別だからです。「死」に至る「暴力」を封鎖されたこの場所で、革命は起こり得ません。もし私が体制側に属していれば、大衆をコントロールする有効な手段として、SNSでの言論にパワーがあると思い込ませることを目指すでしょう。そして、SNS以外の場所でいま、だれが、どう考えて、何を準備しているのかを想像することは、とても楽しい遊びです。あるいは、SNSの外にもう人間と呼べる存在はいないのでしょうか。