「チ。」最終巻発売ということで、まとめて読む。うーん、小賢しい。最後の1枚絵(?)まで、徹頭徹尾、小賢しい。現代人の自我を持った人物が、これから起こる歴史的事実を踏まえて、中世の人々を進歩的な説教で啓蒙しようとするのって、異世界転生モノの提供する快楽とほとんど同じで、出力の仕方が少々複雑になっただけという気がします。キリスト教と書きゃいいものをわざわざ「C教」なんて表記にするのも、「これから俺様の観念的な世界観を気持ちよく垂れ流す」のを最優先にしていて、時代考証でツッコまれるのがメンドくさいだけで、信徒から「叱られが発生」した際の言い訳としか思えません。なんとこの作品、すでにアニメ化まで決定しているようで、大手出版社に就職したものの、マンガ部署に配属されて腐っていた旧帝大文系学部出身の若手(編集王みてえ)が、たまたま手に取った新人の原稿にコロッとだまされてしまい、「この漫画を世に出すことが、ボクに与えられた使命……そう、かつての地動説のように……!!」などと、モーレツな社内プレゼンからのゴリ押しで企画を進めた結果じゃないでしょうか。だとすれば、「作品テーマがそのまま外的状況に反映されている」なんてメタな読み方もできるかもしれませんね、知らんけど。
あと、FGOの八犬伝を読み終わりました。(満面の笑みで)ホラ、見てよ、この源為朝の仕上がり具合を! 第6.5章の彼が大腸の終端からネリネリと排出された臭気をはなつ物体だとするなら、本イベントの彼は高級なチョコレートをふんだんに使った香気をまとう極上のムースだと表現できるでしょう。いいですか、「小諸なる古城のほとり」ならぬ「文盲なる痴情のもつれ」であるネット民たちに改めて確認しておくと、安いチョコと高いチョコの違いじゃないですよ、大便か高いチョコかの違いですからね! この差がわからないほど「痴。」がもつれているとおっしゃるなら、とくだんキミにFGOをプレイする理由はないでしょう。そして、滝沢馬琴のキャラ造形もとてもよくて、葛飾北斎ーーNHKのドラマに影響されたキャラだと確信しておりますーーとのかけ合いを通じて、ファンガスの思考と感情が垣間見えました。「いったん有名になったあとは、別々に売り出したほうがもうかる」みたいな台詞はFGOの舞台裏をぶっちゃけてるみたいで笑いましたし、「身体を壊そうと、家族を亡くそうと、戦争が起きようと、自分はどこまでも無力で、結局いつも創作をすることだけしかできない」みたいな内容の赤裸々な独白は、彼の作家人生を通じた苦悩を吐露しているように感じられました。まこと、才能の本質とは祝福と呪いの表裏一体性であり、その分かちがたさがときに個人へ絶望をまねくことも理解いたします。けれど、貴方の才能をうらやましく思う者がおり、貴方の書いたテキストで運命を変えられた者がおり、貴方の蒔いた種の芽ぶく未来がきっとあることでしょう。今回のテキストには、ミッドライフ・クライシスなる言葉が表す、人生の迷いを少し感じてしまいました。しかしながら、別の可能性への余計な色気を出さず、ファンガスにはそれこそ滝沢馬琴のように、キッチリと物語だけにその人生を葬られてほしいと、心から願っています。貴方の内面を「人がましさへの憧れ」という名前の呪いが蝕む裏腹で、祝福に輝く至高の物語は多くの衆生の転迷を照らして、その生命を正しい開悟へと導くのですから!
それと、もう一人の「生きながら創作に人生を葬られ」つつある人物の新作を読みましたけれど、まー、ド直球すぎる読者への回答(ストレート・オーサー・アンサー!)でしたねー。軽薄に茶化しているようで、深刻な悲鳴にも聞こえるあたり、さすがの作家性だと感心します。これ、作品を使って不特定多数の読者と個々に書簡をやり取りするようなもので、「いま、ここ」をリアルタイムで追いかけている読み手だけに味わうことのできる快感ですね。数十年後の新たな読者が立派な全集とかで読んでも、この空気感までは伝わらないような気がします。今回は原作担当のみをうたってますけど、この回文みたいな名前の作画担当、じつは藤本タツキの変名で、本人なんでしょ? そういう遊びで読者を試すようなこと、しそうだもんなあ。あ、すいません、「フツーに読めて」ませんでした、申し訳ございません。