日々の労働の隙間に、ふと最近の更新などをつらつらと読み返してみて、ああ、人のいない方へいない方へと歩き続けた結果、本当に誰からの関心も理解もない場所にたどりついてしまったのだな、という寂寥を感じました。人の多い方へ歩いていかないから、ずっと何も起こらないとのだなと得心したのです。じぶんのナマの感情を油絵のように厚塗りで表現しても、結局できあがったものは絵画とも呼べない、暗号のごとき等高線状の隆起に過ぎないのです。それを芸術と称するのは、高慢なプライドがさせているか、気ぐるいであるかのどちらかでしょう。私の更新は、きっとそのどちらかでした。文章も、考え方も、生き方も、よりフラットで最大公約数的な共感を得られるほうを選択するべきなのです。もちろんそれに比例して、勘違いによる共感も増えるでしょうが、こちらが意図した解釈以外を拒絶するようでは、究極的な理解者はたった一人だけになりますから。
私の話には、文系・理系というくくりが良く出てくるように思います。受験のシステムから逆算された無意味な定義かもしれません。しかし、個人の生き方と関連する区分けとしてそれを考えるとき、私は己が従事する場所の曖昧さをうらまずにはおれません。仕事の成否や価値を判断する基準について、という意味でとらえてください。例えば、数学のある分野における論文には、この世に片手ほどの人しか内容を理解できないものがあるそうです。しかし、その論文の価値は世界を構成する法則や真理によって絶対的に担保されています。立証すれば、多数決や政治を個人がくつがえせるのです(最先端の分野ではまた、個人の哲学や宗教観に左右されるところへ戻ってゆくようですが、ここでは置きます)。理系の学者は、ただ一人で世界に君臨することができるという点で、神に近い存在です。
ひるがえって、文系の人々はどうかと申しますと、「多数の了解を得られるか」という点にすべてが帰着します。究極的に己の物語のレジティマシーを相対的多数に認めさせるという、支配・被支配の関係です。為政者としての作り手がいったん王国を維持するだけの民衆を得たならば、賞賛も不平もすべて彼の支配の下となります。王の出自の実際がどうかではなく、多数が彼の語る正統性を信じたかということが重要なのです。例えをわかりやすくするため、さきほどの数学の学者に対して、文系分野の学者を想定します。まず文学ですが、それはすでに滅んだ王国の歴史を紐解くのみで、原典の不変を信奉する点ではある種の宗教と変わりませんから、私が意図する現在進行中の物語の例えには不向きと言えるでしょう。くわしくありませんが、社会学あたりが適当でしょうか。さらにわかりやすくするために、王国の例としてアニメや漫画の作品を想定します。近年それらについて、いわゆる学者の方々がする文章を読む機会がとみに増えたように思います。しかし、注意深く見ていけば、ある規模を超えたヒット作に言及の限られていることがわかります。つまり、すでに多数によるレジティマシーを得た王へ、賞賛か不平かを言っているだけなのですから、彼は民衆のひとりであると定義できるでしょう。その知能に免じて情状酌量を与えるならば、臣下と言い換えてもいいかもしれません。
余談ですが、チョムスキーの生成文法が発表されたとき、とある英語学の権威が「これで我々は、あと十五年は食べていける」と発言したとの、まことしやかな逸話があるそうです。これまた余談ですが、英国の女王陛下が表敬に訪れた経済学者たちに「なぜ誰も世界不況を予測できなかったのですか」と無邪気に尋ねられたという話に胸のすく思いがしました。
もしかすると私は、王であろうとする気概を持たない誰かに苛立っているだけなのかもしれません。しかし、「より良い物語が他のすべてを飲み込み、駆逐する」という残酷なシンプルさを掣肘できる特権を自ら進んで放棄しているのですから、文系の仕事に従事する者たちはいまや優秀な物語作家へ完全な敗北を表明し、進んで隷属さえしていると言えます。つまり現代において、誰も知らぬ王に戴冠させる教皇の職責は、いずこからもすっぽりと抜け落ちているのです。
くだくだと長く書きましたが、何のために長く書いたかと言いますと、独自性の陽炎を目指して人の少ないほうへ私が歩き続けてきた歳月は、「この人を見よ」と杖をかざす老賢者のいない荒野をさ迷うがごとき不毛の行だったことを論理的に証明するためでした。もしこれ以後があるならば、せめて人のいるほうを目指して歩こうと思うのですが、手がかりのなさに途方に暮れる感じです。少女保護特区のエピローグ部分が更新されないのは、用意している内容が「虚構の高揚感に少し水をかけて現実と同じ温度にする」という、誰も望まない(しかし、いつもの)やり方だと自覚したからです。あのまま少々の尻切れトンボ感を残して放置したほうが、私自身の居心地の悪さをのぞけば、より多くの人がハッピーだろうなと考えたりしています。もしかすると、嫌悪を表明し続けてきたものに対して、無理に自分をそわせてみることがそろそろ必要なのかもしれません。