真逆のことを同一だと指摘する表現に神秘や哲学の深淵を錯覚する人間精神の構造に”神狩り”の論拠と同程度の深さで神の実在を解明する一端があると信じているが、それを精査するのに私の日常はあまりに生活であったりアルコールであったりセックス&バイオレンスであったりするため、諸君は与えられたこの命題から各個、神へとたどりついてくれたまえ。
「売春婦がこの世で一番処女だ」
「暗ければ暗いほど明るい」
「平和の方がよほど戦争だ」
「捨てることは拾うことだ」
「地震の時の方が揺れない」
「一見薄い方が、実際はぶ厚い」
「素面のときの方が酔っている」
「小児性愛者ほど、大人の女性を愛する」
nWoでも記述したと思うが、人間の脳は意味づけをする装置であり、一見した両者の隔絶が深ければ深いほど、そこへ意味の橋渡しを行おうとする働きが活性化される。上記の実例(いま思いついたほんの一部に過ぎず、無限に作成が可能である)を読んで、貴君は「なぜ?」と思考することを強要されたはずだ。宗教の提示するテキストに、この類の対立項を含んだ一文はあまりに多い。つまり「なぜ?」への解答が脳髄に染み出す寸前の無意味の間隙にこそ、神は潜み居ると言えるのではないか。無論、妄想かつ放言であるので、貴君は今日をまたいでまで気に病む必要はない。
最近、「愛され+名詞」という宣伝文句を多く眼にするようになった。資本主義がこのコピーの有効な消費者層の拡大に気づき、彼・彼女らの異常性を稼ぎに利用しようとする姿勢の裏にある無差別の冷酷を見るとき、私は恐怖に立ちすくむしかない。あと「お帰りなさい」と言わないで下さい。私はずっとあなたの後ろにいるのですから。
蛇足だが、mixiの日記を記述する際、文章は比較的吟味する性質なので、タイムアウトとやらで消去されたことは数知れない。更新が少ないとお嘆きの貴君は、そういう不幸から電子の藻屑と化したテキストが少なくないことを心に留めておいて欲しい。