猫を起こさないように
ジョーカー
ジョーカー

ジョーカー


ジョーカー


正直、ヒース・レジャーのジョーカーを究極と考えているので、見る気はなかったんです。ダークナイト・ライジング(ライジズ)の感想でも言いましたけど、児童虐待とか幼少期のトラウマから、長じて社会に復讐するみたいなのって、ありきたりじゃないですか。行動原理の理解できなさ、まさにジョークによって社会を混乱に陥れる存在としての悪の誕生を、実社会を生きる一個の人間からどうやって描くんだって話ですよ。でもね、スチルのホアキン・フェニックスの表情がデ・ニーロとかニコルソンの怪演を彷彿とさせたところと、彼がなんとリバー・フェニックスの弟だってことを知って、MOD導入失敗のヒマにあかせて期待ゼロで見に行ったわけですよ。そしたら、照明が消えるまでは半笑いだったアニメ絵のゴスロリ美少女が、130分後には皺の一本一本まで丹念に描かれた劇画調の中年男性に変貌して、滂沱の涙を流したスタンディング・オベーションを送っていたわけですよ。関西の片田舎の映画館だから、周囲は迷惑そうにその中年男性を見てましたがね。ロバート・デ・ニーロを主人公と対峙する司会者役に配していることからもわかるように、本作が現代版タクシー・ドライバーを意識して作られていることは、確定的に明らかでしょう(キング・オブ・コメディ? 未見です)。DCコミックのジョーカーという大看板を隠れ蓑にして監督が本当に描こうとしているのは、いま現在、進行しているのに、だれからも不可視である危機への警鐘であり、純粋な社会批判なのです。それを証拠に、本作はゴッサムシティを舞台にしなくても、バットマンに至る前日譚の要素を抜いても、充分にストーリーが成立するし、単館上映から口コミで劇場数が増えていくような類の、極めてマイナーな作りになっているわけです。ジョーカーというキャラクターは、それ抜きに描かれた場合あまりに現代社会の有り様と政治に対する露骨な批判と捉えられてしまうため、監督の意図するところの隠れ蓑として使われたという感じさえ受けます。さもなければ表現することをゆるされないような、本邦に生活していては想像できないような、息苦しいポリティカル・コレクトネスのムードが米国にあるのではないかと想像するのです。有名作品のリメイクさえ、主人公がブラック・パーソンに置き換えられる昨今、かの国においてストレート・ホワイト・アンド・プアは、いずれの社会・政治・文化状況からも顧みられない存在なのだろうということをひしひしと感じさせられます。そして素晴らしいのは、今回のジョーカーは自身では何も決断しないという点です。テレビに出演するまで、いや、拳銃をデ・ニーロに向ける直前まで、彼は衆人環視の中での自死(なんという甘美な妄想!)だけを願っていたのですから! ただ周囲の状況に流されていく中で、あらゆるテンションが高まった先の結節点となり、社会擾乱のアイコンとして白痴のまま、彼は押し上げられるのです。これはまさに、時代の要請が民衆に英雄を選ばせるプロセスと同じであり、社会という意志なき意志による否応な選択を見事に表現しています。メディアやSNSによる無責任な伝播ーーその瞬間を埋めるためだけに偽りの狂騒を煽り、翌日には消えてしまうような激情で偽りの情報を拡散するーーが、ついに究極の悪を世に顕現させるというのは、じつに示唆に富んでいると言えるでしょう。昨今のデモを予見するかのような、マスクをかぶっての暴動とか、脚本段階では意図しなかった現実とのリンクの仕方(エヴァンゲリオン!)も名作の条件を満たしています。しかし何より、この脚本を説得力のあるものとして成立させているのは、他ならぬ役者の力でありましょう。ホアキン・フェニックスの身体のしぼり方は、マシニストのときのクリスチャン・ベールを思わせ(バットマンつながりだ!)、たたずまいのみで台詞以上の多くを見る者に伝えます。脚本的には、生放送中にジョーカーから3人の殺人をうちあけられた司会者が即座にそれを事実として信じたり、冷静に考えるとおかしな部分もいくつかあるのですが、細かい瑕疵をすべてホアキン・フェニックスの演技が説得力に変えていくのです。あの場面では、反逆者としてのデ・ニーロが権威者としてのデ・ニーロを射殺するみたいなメタな読み方もできて楽しいし、さまざまな視点を許容するのは良い作品の条件と言えましょう。アンチ・ヒーローの肯定と受け取られないよう、最後に精神病患者の妄想だったのではないかという解釈を(わざと)コミカルに用意したり、本作の訴える尖ったメッセージへの非難をなんとかかわそうという作り手の苦心がうかがえます。万引き家族もそうでしたが、弱者の犯罪行為に対して観客の感情を同情や共感へ誘導することで、現在の社会体制やマツリゴトが間違っていると気づかせる手法は、為政者にとって操作しようがない(なぜかテリーに映らないトーキョーのウォーター・ディザスター!)という点で非常に厄介でしょう。どんなに能力を欠いた凡庸な人であったとしても、どんなに病弱で生産に寄与しない人であったとしても、それぞれ「ハッピー」に生活を送ることのできる場所を与えるのが人々の集合体の本来であり、「ハッピー」でない人をどこまで我慢させることができるかが教育の正体(少なくとも本邦の)と言えます。
しかしながら、個々の我慢は一時的なマージンに過ぎません。この映画のラストのような暴発に至らせない「我慢のさせ方」のさじ加減がマツリゴトの本質的な妙技であり、暴発がマツリゴトを動かす状況が続くことはやがて社会の革命へとたどりつくでしょう。我々がいま、その端緒にいないことを祈ります。……って、高天原勃津矢が言ってました!