アヴェンジャーズ・エンドゲーム
キャプテン・アメリカなくばMARVELなく、アイアンマンなくばMCUなく、ロバート・ダウニーJr.なくばアイアンマンなし。これは、2人のヒーローと1人の俳優のために作られた最後の花道である。本作はアベンジャーズという作品タイトルとともに、自国の内へ内へと後退していく米国の正義を批判する作品として読むこともできようが、製作サイドの同意を得ることは難しいに違いない。悪の説くジェノサイドの大義へ、ただただ否定をしか返せない正義、悪を止めるためにする悪の方法を完璧にトレースしたジェノサイド返しは、異なる価値観同士の融和を完全に拒絶し、すべてを家族サイズの同胞へとシュリンクする。象徴的なのは、悪のボスが云う”I’m inevitable.”に対して、正義のリーダーが”I’m *pause* Ironman.”としか返せない場面だ。悪には明確な信念と哲学があるのに対して、正義には同胞を殺されたゆえの曖昧な報復(Avenge)しかない。”I’m Ironman.”は十年にわたりシリーズを追いかけてきたファンにとっては充分に感動的な台詞だが、シリーズの厚みを除いて聞けば、哲学を持ちえない現代の正義の虚しさのみを響かせている。飽和爆撃で肉を砕いた後に、バーガーとシネマで心を屈服させるという勝利の方程式は、もはやこの世界において有効ではないのだ。個人的なことを言えば、なんとかアメリカと聞けばチーム・アメリカが真っ先に浮かぶ小生にとって、”inevitable”という単語は北の総書記が白人女性にディスられるシーンを思い出させる笑いのツボであり、シリアスなはずの件の場面は脳内において「ぱーどんみー?」の幻聴を伴うコントに転じてしまった。あと、10連休の大半をグリムドーンに費やしてきたせいだろう、豪華な、しかし、地球上のどこで戦われているかさっぱりわからないアクションシーンを見せられても、心に浮かぶのは「雷ハンマーと盾投げのビルドはアルコンかな、やっぱピュアキャスターは防御が紙になるよな」といった感想であった。それと、兄が妹に王座を譲るとか、白人が有色人種に国の象徴を預けるとか、政治的に正しい(と信じている)メッセージをサラッと刷りこんでくる「ディズニー仕草」には、スター・ウォーズ7からこちらもういい加減、食傷の極みである。もっとグチャグチャの泥仕合みたいな、ドぎつい本音と偏見と差別の応酬の果てに、何かきれいなものが生まれる様をこそ見せてほしい。この意味において、ランスシリーズとその最終作は作劇の方法論と、たぶん倫理観において、マーベル・シネマテック・ユニバースに勝るとも劣らぬ大傑作だと言えよう。にもかかわらず、本邦のこの偉大な達成に対して、私の観測範囲ではひとつの評論も、ひとつのインタビューすら見当たらない。これが20年前なら、ランスシリーズ完結に仮託して、誇大妄想と表裏一体の社会批評をぶちあげただろうあの連中は、いまや己の出自を恥じるかのように、軒並み政治やらアカデミックやらへ遁走してしまっている。(アンクル・サムの指差しポーズで)そこの若い君、ランス10の評論で、かつてのテキストサイト村の住人のように名をあげてみないか。ぜんぜん話は変わるけど、インフィニティ・ウォーのときも感じたんだけど、カメラが引いたときに画面がすごくミニチュアっぽくなるのはなぜなのか、有識者のみなさんは私に教えてください。