ファイナルファンタジー15
ゲーム部分は存外悪くない。昆虫なみの自意識を持つ、造作の整った若人(男娼の条件だ)が乳繰りあうことと、オープニングでおもむろにスタンド・バイ・ミーが流れ、「四人のうち一人が死んで、皆でそれを回想するお話だったりして、ハハハ」などとふざけていたら、何のひねりもなくそのままだったことを許容できるならば、だが。そして日本人は、オープンワールドのゲームを作るのにつくづく向いていないと思った。砂漠と太陽が生んだ一神教は、何も無いがゆえの足し算的思考を養わせた。反対に、豊かな自然と月が生んだ多神教は、恵まれた環境ゆえの引き算的思考を発展させる。ファミコン時代に本邦のゲームが世界を席捲したのは、まさにこの引き算的思考に基づいていたからであろう。オープンワールドの設計思想は足し算的であり、この分野はケトゥ族に任せておくべきなのかも知れぬ。
クリア後の感想。ネット上での罵詈雑言ほど、悪い読後感を小生は持っておらぬ。気のおけない友人たちが後に得た社会的地位に妨げられ、疎遠になってゆく様は身につまされる。そして昆虫的な、すなわち累積的でない知性を持った個人は、課金ガチャのような短期的刺激に向けた快と不快以上の感覚を人生に持ち得ず、それがゆえの虚しさをいつも抱えながら、自裁を決断する精神的強度もついに獲得できない。もし個としての死に世界的な意義を与えられたならば、多くが喜んでそれを選択するだろう意味性の希薄さに、我々は生きている。もし我々が大人になるとしても、この程度の理解、この程度の成熟に留まるだろうというリアルさだけは、意識的ではなかろうが、じつによく表現できていた。FF15は、現代の未成熟とみじめさを描いた佳作である。