君の名は。
あのさあ、非モテ童貞ロリコン野郎であるところのシンカイ=サンの作品は「ほしのこえ」(ひらがな表記なのがまたムカつく)から見てる熱心なアンチであるところのこのボクから、本気で感想を聞きたいワケ? 語作りの薄っぺらさを直視せず、厚塗りの絵作りに逃走し続けている、あの犯罪に至らなかった方のペドフィリアについて、いまさらまた語れってえの? キミ、小鳥猊下の「ボイシズ・オブ・ア・ディレッタント・オタク」読んでないの? わかった、わかったよ、わかったからそれ以上、こっちに顔を近づけないでくれ。キミの臭いの粒子がボクの敏感肌に付着したらどうしてくれんだよ、もう(謎の擦れ音)。初期作から一貫して、いかに膣口と陰茎を遠ざけるかというテーマをストーリーに落とし込もうとし続けてきたカントクだけど、今作の方法はじつに奇抜だったね! ネタバレにならないようにしゃべるけど、カントクの性的嗜好へ新たにネクロフィリアが加わるおぞましい瞬間を、観客たちは否応に見せつけられたというワケだね! 話は変わるけどさあ、ドクター・マシリトと、なんだっけ、飲尿マキアートみたいな同人作品を商業誌に臆することなく発表する剛の者との対談記事を偶然ネットで読んだんだけどさあ、近年のカントクはこの剛の者と同じワナに陥っていると感じたよ! 画面の細密さを増すことで、物語の希薄さと失速感を補おうとしていながら、まったくそれに自覚的でないというワナだね! シン・ゴジラのCunt-Qはエバー・キューへの反省から自身の弱点へ意識的になり、徹底したそれらへの逆張り、長所へのレイズにつぐレイズでついに大傑作をモノにしたけど、シンカイ=サンにこの方法が有効かは疑問だよ! だって、伸ばすべき長所、拡大するべきイビツがどこにも無いんだからね! 整形にまで手を出した厚化粧の醜女、これこそがカントクの表現の本質と言えるよ! もう20年、この非モテ童貞ロリコン野郎が作るものを見てきているけれど、加齢によるセカイ系からの離脱がまったく見られないのは、わたせせいぞう的マンネリズムの崇高さをもはや読み取るべき域に達しているのかもしれないな! 映像的には第1作目から執拗なエヴァ・フォロワーで、なぜそこでこの構図、なぜいまこの画なのかという問いに対する答えはすべて、「庵野秀明が、エヴァの中で最高にカッコイイ使い方をしていたから」なんだよね! 隕石が落ちて村が消えるときの描写とか既視感が強すぎて、見てられないくらいだよ! そして、オイィ! 毎年8月15日に旧エヴァ劇場版を見返し、おそらく来年からは3月11日にシン・ゴジラを見返すことになるだろう俺様に向かって、手のひらアップの演出を多用するんじゃねーよ! もう精液がトッピングされているようにしか見えねーんだよ! あとさあ、あちこちにオンナの若さ(あるいは幼さ)に過大な価値をつけくわえる中年のオッサンがチラチラ見え隠れして、気色悪くて集中できねーんだよ! ふつうの女児は自分の唾液が売れるなんてブルセラ的発想は持たねーし、ババアは「私が“少女”の頃は」なんて回想はしねーんだよ! とは言いながら、生本番をいかに避けるかのSFトリックを考案し続け、映像的には一貫してエヴァ・フォロワーのカントクだが、本作のラストシーンでは陰茎の先端が大陰唇へわずかに触れていたことは間違いない! 最後の最後で作品タイトルを男女にハモらせることで醸成される作りごと感、クリエイターの自意識臭にノックアウトされながらも、その前進だけは認めてあげようじゃないの、ええ? 以上、アベックどものすすり泣きが広がる劇場で、ひとり苦虫を噛み潰した表情で、眉間のシワだけが中年だったゴスロリ少女の俺様が述べる手前勝手の感想だった。もうッ、アタシに聞くのが悪いんだからね!