猫を起こさないように
めんまへの手紙
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貴様らがあんまり泣ける泣けるうるさいから、さめだ小判氏のアナル・オブ・ザ・デッドの知識しかないテレビ版未見の俺様は、この度ようやく劇場版を試聴する機会を持った。前半のビルドアップは、キャラ名しか知らない身にとってかなり興味をそそられる展開だった。しかしながら、ストーリーの後半に進むにしたがって、幾度か小休止を挟まないと試聴を進めることは困難となった。西野カナの主題歌の時点でイヤな予感はあったが、ただでさえギトギトの豚骨ラーメンへ、食べる端から店主が柄杓で背脂を足してくるみたいな怒涛の泣かせ演出は、すれっからしの物語乞食の忍耐の閾値をさえ軽々と越えてきたからだ。この異様にプッシングな泣かせのやり口は、ゼロ年代前半に大流行したセカチュー系難病ものを彷彿とさせ(そう言えばセカチュー映画版も回想形式だった)、制作側がなぜアニメと親和性の低そうな西野カナをわざわざ主題歌にひっぱってきたのかだけは、とても腑に落ちた。ネットで評判のいい実写映画はその口コミと主観にズレが生じることはあまりないが、ことアニメとなるとネット評はまったく当てにならないとの自戒を新たにさせられた次第である。もちろん、セカチュー系の感動を求める層は常に一定数いるだろうし、今回の空振りをアニメであることを理由にするのはアンフェアかもしれない。今回の俺様はセックスに例えれば、前戯のあまりの執拗さに性器はひりつき、しまいに熱をもって痛みだし、挿入したかどうかのところで中折れとなって、射精に至ることはできなかった。日常的に物語に接さない一般層はここまでねちっこくやらないと泣けないのだろうが、徹頭徹尾くどい感動の演出に負けてしまって、乗せられようと努力はしたが、まったく入れなかったのだ。死んだ者の無念へ想いをはせることと、その理不尽な死へ生きる者がどう折り合いをつけるかというテーマは極めて今日的で素晴らしいと思うだけに、非常に残念である。個人的なことを言えば、子どもというのは直面した「死」を徹底的に封印するものである。それは忘却どころではなく、ちょうど心の一隅に虚の黒いスポットが生じるようなもので、そこへのあらゆる投げかけは一切が無効化されてしまう。不条理な死を経験した子どもが、こんなふうに多量の涙を流して大声で泣いて、きれいな弔いですべてを清算できれば、どれほど救われるだろうか。