新少林寺
すごく久しぶりに中国映画を見たのだが、自分の中にアジアの物語文法が強く残っていることがわかって驚いた。考えてみれば、年代的にはちょうどキョンシーやらジャッキー・チェンやらが大流行した頃に少年時代を過ごし、その亜流を含めて山ほどアジア映画を見てきたのだから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。ひらたく言えば、感動した。ダークナイト・ライジングよりも、はるかにグッときた。いまから言うことは私を含め、ヒエラルキーの大部分を構成する人々を慰撫するためのステレオタイプだとわかっている。そして、あらかじめ設定した期待値を超えるかどうかが映画の評価につながる自分の傾向を自覚してもいる。新少林寺を見たときの気持ちは「雨に濡れながら捨て猫にミルクをやる不良少年」を見たときのそれと同等であり、ダークナイト・ライジングを見たときの気持ちは「夜中に裏山で捨て犬にエアガンの試し撃ちをする優等生」を見たときのそれと同等である。ヒエラルキーの頂点を形成する優等生諸君には申し訳ない例えだった。しかしながら、「数百年を経た寺社仏閣に躊躇なく大砲を打ち込む紅毛人をゲリラ作戦で奇襲して惨殺するアジア人」を見たときの気持ちは、不良少年も優等生も私に同様であろうと思う。ローマにとってのシルクロードの例えを持ち出すまでもなく、西洋には人類史の黎明期に刷り込まれた東洋への劣等感が内在している。差別意識とは、すべからく恐怖心に由来するのだから。