父として考える
挑発でフックを作り集客につなげた初期のnWo風に記述すれば、私はずっと、子どもも伴侶もいないのに人文・社会学系の言説で飯を食う連中を胡散臭く、全く信用に足りないと考えてきた。その類の人々は己のライフスパンを越えた先についてめったに思考しないし、例えしたとしても我が身に引きつけての切実さは求めるべくもない。彼らは人類という名の船へ一時的に乗船した客に過ぎず、その言葉が覚悟に欠け、何より決定的に軽いのは、己の死をもってここから下船できると心のどこかで考えているからだ。自我の消滅が世界の終焉を意味するがゆえに、人類の継続を笑止の絵空事としてとらえている。そうすれば、どこまでもシニカルに生命の営みを嘲弄できるし、あるいは無謬の傍観者に徹していられる。この本を読んだとき、常の遠雷ではなく、初めて鼓動としての声を聞いたと思った。子を持つとは、一個の意識の消滅を越えた先に不滅を信じ、善と永遠を信じる愚かさに添い遂げることである。