ゼロの焦点
主に洋画と海外SFで青春を空費したところの小生は、日本人の記述する原作など当然未読である。「松本清張=赤いシリーズの胸やけ+社会情勢に根ざす動機」、げぃか、おぼえた。しかしながら、現代に松本清張の存在できない理由がわかったことは収穫である。ミステリーはトリックよりも犯人の動機がいかに多くの共感を呼ぶかが最も重要だと考えるが、万人にとって有効な「社会的動機」はもはや本邦には存在しないことがそれだ。戦後という時代背景が不幸を大文字化していたがゆえの松本清張であり、例えば君とぼくが抱くところの、魂の深奥を二次元につかまれながら同時にその事実を深く恥じる感覚など下の世代には理解できないだろうし、さも大文字の不幸であるかのようにマスコミが喧伝するところの、安い賃金と不安定な雇用で飼い殺されている君とぼくなども、実のところ上の世代にとっては対岸の火事を眺めて、せいぜい火元の無用心を囁きあうくらいの内容に過ぎず、それらを動機とした犯罪には多くの非難か失笑が返ってくるだけである。現代の不幸の正体とは、各人の抱く不幸が世代で切り分けられているがゆえに、総体としてとらえた場合、少数の共感をしか得られたように思えないという、体感の欠如なのだ。おそらく次の松本清張が生まれるのは、多数決で勝利できる不幸が本邦に現出したときであり、もしそれが戦争でないとするならば、宇宙人の襲来くらい思いつかないなあと、主に洋画と海外SFで青春を空費したところの小生は夢想するのであった。あと、ヒロスエ、だいこん、げぃか、おぼえた。