猫を起こさないように
生きながら萌えゲーに葬られ(2)
生きながら萌えゲーに葬られ(2)

生きながら萌えゲーに葬られ(2)

 「萌えゲーおたくは清純な娼婦のようなものなので、猥褻な言葉の奔流の中に少しの美しさを忍ばせて提示するしか方法が無いのです。それ以外のやり方を採用するなら、我々の発言は何もかも嘘か作りごとになってしまうからです」
 上田保春の夢へ定期的に登場しては叫び声をあげさせる記憶が、地表を埋めてゆく無数の十字架というビジュアルイメージで脳を浸食してゆく。金縛りから逃れるために繰り返す般若心経の如く、猥褻な言辞を繰り返すことで意識を過去から離脱させると、背中にじっとりと湿気を感じた。目を開くと分厚いカーテンになお遮ることのかなわない朝の陽光が室内へ染み出してきている。上田保春がいるのは、蛍光色の頭髪を生やした少女の痴態が丹念に描写された、商業的な販売経路を持たない冊子を同級生に高々とつかみあげられて泣くあの放課後ではなく、自室の布団の上だった。
 枕元に目をやると同時に、秒針が垂直に真上を指す。五時五十九分零々秒。鎮座する目覚まし時計が鳴り出す一分前に上田保春は毎朝を起床する。萌えゲーの少女が盤面に印刷されたそれは正座をした彼によってうやうやしく掲げられ、宗教儀式にも似た厳粛さでスイッチをオフにされる。いったん鳴り出すとこの目覚まし時計は萌えゲーの声優が直接吹き込んだ声で、本当にいい声で鳴るはずなのだが、未だ彼はその哀切な快楽の悲鳴を聞いたことはない。薄い壁一枚隔てただけの隣人に、官能の極まったいい声で鳴っている目覚ましの音を聞かれたりしようものなら、それこそ我が身の破滅だからである。この目覚ましを枕元に置くようになってから、こと起床時間に関して上田保春の体内時計は完璧に調節されている。精神集中を高めた賭博師が指で繰った辞書のページ数を見ずに当てることができるように、秒単位の正確さで彼は毎朝を起床するのである。
 朝食を取らない態度には感心しないという態度にも感心しない、批判で身上を立てるうちに自身の信条さえ輪郭を喪失し曖昧化してゆく上田保春の朝食は、一本のバナナと一杯の牛乳だ。エネルギー効率とかそういった類の選択ではなく、世間という苛烈極まるあの場所に出ていく直前の時間を二次元に触れること以外に使いたくないがゆえである。玄関を出る前に一つか二つ空咳をして喉を通すことを、上田保春は忘れない。廊下で隣人とはちあわせた際に、くぐもっていない声で挨拶をするためである。挨拶をする声がくぐもっていないというのは、萌えゲーおたく同定を避ける重要なファクターであると彼は信じて疑わない。
 七時三十四分発の快速電車に乗り込むと、上田保春はいつもの位置に身体をねじこませた。吊革に体重を預けるとようやく一息つくことができる。満員電車ほど、痴漢・痴女の類を除くならば人々の関心が他者へ向かない場所も無いからである。無味無臭の一乗客として、上田保春は自己定義の隘路を迷走する日々の苦闘を一瞬だけ忘れることができる。弛緩した表情で車内を見回すと、全く思いもかけず見慣れた文字群が視界に飛び込んできた。
 曰く「少女」、曰く「萌えゲー」。
 上田保春の動悸は爆発的に高まり、身体がその非日常から身を離すようにのけぞってしまうのを押さえきれない。思いもかけぬ告発が、突然に自分を名指ししていると感じたからだ。隣に立っていた中年男性が不快げに押し返してくるのを感じ、上田保春は我に返る。平静にさえしておれば、誰も自分の内面の動揺を見透かしたりできるはずがない。彼は小兎のようにうろたえてしまった自分の小心を恥じた。そんな頼りなさでこの揚げ足取りの苛烈な現代社会を、萌えゲーおたくとして生きのびていけるはずがないではないか。一般人の群れの中で脳裏に浮かべることすらはばかられるその文字列への反応を政府直属の野鳥の会メンバーが線路脇から双眼鏡でチェックしており、後日萌えゲーおたく同定の葉書が役所から送付されるというファンタジックな妄想が瞬間脳裏をよぎり、上田保春は思わず苦笑を浮かべる。よく見ればそれらの単語は、車内の吊り広告に印刷されたものだった。「真昼の爆発事件――秋葉原、日本橋のアダルトゲームショップを襲った惨劇。犯人は『萌えゲー』愛好家?」との見出しに、どうやら同類がまた何かしでかしたようだと察知する。
 上田保春が新聞を読まなくなって久しい。なぜならテレビ番組と同様に、生まれたての子鹿のような彼の自意識を脅迫しない新聞記事など、この世のどこにも存在しないからである。上田保春は時事問題についての情報源をもっぱら電車内に掲示された女性週刊誌の吊り広告に依っている。世間があまり陰惨な事件に満ちていない場合、女性週刊誌は何ヶ月もの間、同じ内容をわずかにニュアンスを変えただけで掲載し続けるため、この吊り広告に示された記事がいつのものなのか見当もつかない。
 だいたい、おたくと言えば日本橋や秋葉原などというのは周回遅れの連想である。それらは巡礼者のための古びた聖地に過ぎないのであって、世間に揶揄されること頻繁な、そこをわざわざ詣でるような居直った連中はむしろ少数派である。ほとんどの萌えゲーおたくはより安全な、つまり積み上げた紙箱を抱えてレジへ向かうのを知人に見られたりする危険性の無いネット通販ですべてを済ませるはずなのだ。萌えゲー以外の住所を現実に持っているならば、その居留地を喪失して難民化する危険をわざわざ興味本位で冒したりはしないものである。吊り広告の「爆発事件」とやらに巻き込まれた人々の中に、ほんの興味で店をのぞいただけの一般人がいたとすれば同情に値するが、居合わせた同類たちには不注意と不用意への批判を向けざるを得ない。病院のベッドで包帯に巻かれながら、上司にどんな理由で長期欠勤の電話をするのかを想像するだけで胃が縮み、足のすくむ思いがする。
 それにしても――上田保春は慨嘆する。これでますます、自分のような萌えゲーおたくはカミングアウトが不可能になってゆくなあ。個人のホームページに萌えゲーのグッズを満載した部屋の写真を掲載し、「いまこの部屋に踏み込まれたら、ヤバいっすよ!(笑)」などとキャプションをつけているのを見たことがあるが、全く笑いごとどころではない。近頃は真剣に、冗談にまぎれさせてしまうのは危険すぎるほどに、「ヤバい」のである。あの手の日記を記述する連中はどの程度この身のすくむような社会的苛立ちの高まり、我々へ向けられた人外の畜生を見る如き嫌悪を感じているのだろうか。「自分は萌えゲー愛好家だが、犯罪性向などひとかけらも持ち合わせていないし、誰もが特異なものを持っている趣味の一貫なのだから、何ら恥じるところはない」と強い調子で、誰に向かってなのかわからない言辞を繰り返し発信するような人物は、自室に全くその傾向が無い人々を連れ込んだ場合、精神的動揺を感じない、感じさせない何らかの公算を持っているのだろうか。上田保春が自分に置き換えてその想像をめぐらすとき、「死にたい」とも違う、「消えて無くなりたい」、「この世に存在していたことすら、すべて水に流してしまいたい」という気持ちが、生まれてきたことへの後悔の念とともに膝頭から全身を駆け巡るのを押さえることができない。実際に罪を犯そうが犯すまいが世間の目からは、萌えゲーの少女を愛好する誰かは全く、一ミリのずれも伴わないほど犯罪者、特に性犯罪者と同義である。萌えゲーの大量保持者であることが発覚し、青少年への性的略取根絶をスローガンに掲げるNPO団体に市中を引き回され都心のスクランブル交差点に生首を晒されたとして、警察がただ死因を「萌えゲー愛好」とのみ断定して捜査本部を解散するような社会状況なのだということを同類たちは実感として理解できているのだろうか。
 しかし、そこまでの危機感を抱きながらどうしてなお萌えゲーおたくであることに執着し続けるのかと問われれば、上田保春は答えに窮してしまう。人生にこだわるものが他に無いからだとも回答できるし、質問者を怒らせることを考慮に入れないならば、萌えゲーをプレイしないのならこの世界は退屈で退屈でしようがないからとも返答できるだろう。不謹慎な話だが、例えば肉親が手術ミス等、国立病院の内部犯罪隠蔽により不倶にされたとしたら、その病院を相手取った訴訟団の代表にでもなり一歩も引かないだろうが、そんな現実は無いので、とりあえずいまのところは萌えゲーをしている。例えば娘が無職の青年にいたずらされ、その青年の自室から大量の萌えゲーが発見されたとしたら、萌えゲーを地上から撲滅することに残りの人生すべてを投じるだろうが、そんな現実は無いので、とりあえずいまのところは萌えゲーをしている。例えば近隣の半島から首都にミサイルが撃ち込まれ、政府は転覆、経済は崩壊、弾頭に含まれた成分の影響で大気には極端に発火しやすい物質が充満したとしたら、銃火器は使用できないので極限にまで肉体を鍛え上げ、レジスタンスのメンバーとして指先一つでダウンの必殺拳法を創出し、新しい秩序を確立しようと試みるだろうが、そんな現実は無いので、とりあえずいまのところは萌えゲーをしている。つまり、上田保春の中にある萌えゲーへの姿勢はすべて順接ではなく逆接でできているのである。
 世間からされる萌えゲーおたく嘲笑の尻馬に乗り、あるいはその注目を利用し、萌えゲーを文化として冷静に分析しようとする視点も無いことはない。だが、全く中立な観点から語っているように見えたとしても商業的な旨みがあるからの売り出しでなければ、萌えゲーに感情的な罵倒ではない言及を試みようとする誰かは、間違いなく二次元の少女に肉体的・精神的興奮を覚える人間である。つまりどんなに冷静な分析的視点を開示しようとも、人々の日常には不可視であるとの立場を取らないならば、それは萌えゲーの実在に随喜のリキッドを垂れ流した、諸手をあげての万歳肯定なのである。人間精神の在り方を批判するためにいくら先鋭化してみせたところで、あるいは一般人が嚥下しやすいようどれだけ甘い糖衣にくるんだところで、例えば上田保春が職場へ萌えゲーの少女が描写された何かを伴って出勤できるような、萌えゲーおたくであることを広告して一切の不利益が業務に及ばないような社会情勢は決して訪れはしないのだということだけは確信できる。もし、萌えゲー肯定派の人々が真剣にその運動を推進し、萌えゲーを愛好することが正常位と後背位の違い程度のニュアンスで世間へ浸透するとしたら、それはそれでこの国はもう終わりだろうなと彼は思う。
 萌えゲーをはじめ、架空のキャラクターに性愛を伴って没入する類のおたくを世間が全く理屈無しに強く嫌うことについては多くの理論武装があるが、上田保春が思い出すのは一昔前のSF作品である。地球に降り立った超科学の宇宙人の容姿が中世より描かれ続けている悪魔に酷似しており、人々が悪魔を無条件に強く嫌う理由は、時間は始まりと終わりをその開始の時点でループ状に伴っていて、自分たちを未来に滅ぼすことになっている存在の外見を人類の集合無意識があらかじめ知っていたからだという筋立てだった。二次元のキャラクターを愛好する者へのほとんど無条件に思える嫌悪、あるいは冗談にまぎれさせた侮蔑についても、このSF作品と同じことが言えるのではないかと彼は考えている。つまり、我々の趣味嗜好が人類を未来に滅ぼしてしまうことを知っているから、その拒絶は常に自動的なのではないか。米帝のリベラルな思想だけを鼻薬に嗅がされた子どもたちに、その愚直な勤勉さを罵られながらもまっとうに働いて、脇目もふらずにおのれの信ずる人生を疾駆している人々は、子どもたちが何か伝染性の病原体に脳を侵されて、自分たちの知らない存在になってしまうことを無意識のうちに恐怖しているのではないか。発症してしまった子どもたちは、いつまで経とうと両親の元へ伴侶や孫を連れてくることもない。その一事を取ってみても、時代と社会への誠意に満ちた彼らの人生を侮辱しており、拒絶の理由としてはもう充分この上ないのではないか。萌えゲーを肯定させよう、そこまでは無理にしてもせめて中立の無味無臭くらいにはしようという言説は、子ども時代に体験した大人からの精神的・肉体的搾取行為をこちらが成人してから相手に認めさせようとする性質のもので、何か前向きな結果の到底得られそうにない、不毛なやりとりのように思える。
 そして、この手の議論でいつも片手落ちなのは、自分のような立ち位置にいる人間の声がどこにも反映されないところだと上田保春は感じている。萌えゲーを直接的に生業にしていたり、それを傍らから論ずることで間接的に飯を食っている人々は肯定すればするほど、ときに否定すればするほど飯の質が向上するわけだが、例えば一般企業に勤める一サラリーマンが萌えゲーを愛好することを肯定したとしてそれで飯が食える道理はないし、インターネット上の言辞そのままに職場で布教の演説や活動を始めようものならば、たちまち次の日から路頭に迷うことは必定であろう。上田保春は誰かを傷つけることを目的にして、こういった思考を弄んでいるわけではない。否定とは真逆の要素が彼の煩悶には含まれているのだ。現実の女性よりもはるかに素晴らしい萌えゲーの少女たちを捨てて、この退屈で退屈でしようのない世界に、生きていかれるわけはない。彼女たちがいなければ、もう犯罪に手を染めるか自殺するかしか選択肢は無いような気さえする。結局のところ萌えゲーおたくとは、100%の精神障害や、100%の犯罪性向、そして100%の自殺願望を二次元の少女たちの力を借りて、それぞれ30%くらいにようよう薄めて、あるいは押さえこんで、社会生活をかろうじて成立させている潜在的不適応者たちの別名なのだろう。
 萌えゲー愛好を積極的に肯定できないが、それをやめることもできない現実を上田保春は知っている。自分のような人間が一番苦しんでいるのだとつくづく感じる。ダチョウが砂地に頭を埋めるが如く何も見ないようにして盲目的に、圧倒的に没入できればと願う。しかし、そんなことは到底不可能である。彼が大半の時間を過ごすのは、萌えゲーとは何の関係も無い場所なのだ。新作の萌えゲーが発売されるとインターネット上で狂繰的に感想を交わすような人々は本当に心の底から、自身の有り様に疑問を感じることもないまま、己の性癖に没入できているのだろうか。だとすれば、それほどうらやましいことはない。社会を排除しての完全な没我がうらやましい。あるいは、萌えゲーで飯が食えることがうらやましい。萌えゲー以外の場所で生きていかねばならない自分のような人間はいったいどうすればいいのだろう。その回答が欲しい。切実に求めている。だが、萌えゲーについて語られる言葉には実地の検証が無い。上田保春が求めるのは生きるための処方と同義であるのだから、萌えゲーを愛好しない人々と対面した実験が必要なはずなのだ。本当の意味で社会と四つ相撲に組み合って苦闘する誰か――その誰かは萌えゲーの少女を真の意味で愛しておらねばならぬ――を彼は見たことがない。街頭で無作為に呼び止めた一般人に、最も人体からデフォルメの進んだ類の萌えゲーの少女を見せた後にその素晴らしさを説明し、心からの賛同を得るという現実の強度を、彼は萌えゲーを語る言説に求めてやまない。もしその実施検証を乗り越えてなお有効な、現実と虚構とを自在に横断する大統一理論が可能なのだとすれば喜んで過ちを認め、萌えゲーおたくであることの賛歌を職場で、街頭で、高らかに歌い上げるだろう。
 上田保春がいつも頭の中で巡らすのはそういった、すべての齟齬や不利益をたちまち超越するミュージカル的妄想なのだが、それを形にしてどこかへ残すことはあまりに危険なので、つまり萌えゲーおたくとして最も恐れる意図しないカミングアウトの可能性を残してしまうので、自分や同類たちの言葉が発信される場所としては犯罪後の法廷ぐらいしか思いつかないなあと、満員電車に揺られながら前後左右のサラリーマンから胃を圧迫されて、げっぷともため息ともつかない音を漏らすしかないのである。

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