「(半眼で瞑想するかのように)初源にあった親ないし養育者との関係が、成長しそこから遠く離れてもう何の関係も無くなってしまったはずの個体になお与え続ける影響についてワシは今までに幾度かおまえに語ったと思うが、その影響の中で最もやっかいなもののひとつにそこで生まれた憎悪の転移がある。…人間の本質は善であるか悪であるか、多くの宗教が語る絶対悪はいったい存在するのかどうか…人間というフィルターを抜くならば答えはいずれの上にも落ちないやろうとワシは思う。存在は存在することそのもので究極に完結しており、我々の知恵がする付加的な概念は本来的に超越していると言える。突然の大津波に村ひとつが消滅する様を目の当たりにした老人が”水の悪神”という言葉を持ち出したとして、それはかれの眼前で発生した自然現象の本質とは圧倒的にズレてしまっている。神話や宗教はすべてこういった人間の対処しえない理解することのほとんど不可能な無意味性に対する、現実を虚構化する装置であったと考えられるが…それはまた別の話やな。話を元に戻そう。人間にとっての悪の概念とは養育者との関係において発生した初源の憎悪に端を発する。かれら無しにはありえない、自分を生かしてくれているはずの存在を憎悪すること、これは個体内の自己保存の系を脅かす認識や。それを意識したとき、たとえそれが全く正しい感情であったとしても、小さなかれにはどうしてもそれを否定しなければならないという状況が生まれる。抱いた憎悪の肯定は庇護を必要とする寄る辺無い自己の断絶を即座に意味するのやからな。つまり、自分を生かしてくれている両親に対して憎しみを覚えるだなんて、自分はなんて悪い子供なんだろう、というわけや。神話・宗教・物語、すべての知恵がする虚構における悪の概念はこの初源の自己否定に根があるのや。しかし、やな。結果として親ないし養育者はかれの中にある、かれらによって発生してしまった憎悪から守られるが、それは生まれた感情自体の消滅をまで意味するわけではないんや。行き場を失った憎悪の感情はどうなるかと言えば、本来の対象ではない対象へと無意識のうちに軌道を修正されてしまう。それがもし自分へと向けばかれは永遠に自分で自分を殺し続ける――比喩的にも、実際的にも――ことになるやろうし、もし外へと向けば自分でない誰かを殺し続けることになるやろう。このとき、憎悪の感情は転移していると言える。…知恵の上にもうけられた自滅へのプログラムとも言うべきこのプロセスから逃れ得た人間というのは歴史を振り返ってもほとんど存在しないのやないやろうか。それを考えるとワシは背筋の寒くなる思いがする。だからな、のび太。おまえは誰かがファイナルファンタジー8を最低のゲームであるといってスクウェアという会社の在り方にまで言及して感情的に批判するとき、もしかしたらそこに憎悪の転移が存在するのかも知れないと疑ってかからないかん。間違ってもその尻馬にのって自分自身の中にある憎悪をこれは格好の餌食と転移させたらアカンのや。初源に不全を抱えた人間たちのこのやり方を知り、おまえが自分に対して真に客観的になろうとしてはじめて、おまえはこの円環から逃れることができるかもしれないのやからな」
「…わかったよ、ドラ江さん。ぼくが間違っていたよ」
「ええのや。わかってくれたらええのや」