「(半眼で瞑想するかのように)我々が創造性というとき、それは何か特殊な、人間の本来に付加された才能のことを言うようやけれども、ワシは違うと思う。それは人間が本当に愛情を与えられて育ったような場合手に入れることのできる完全な生――これは心理学者の抱く実現のあり得ない空想やない。現にワシはそれを知っている――に足りない部分を補うために生み出されたぎくしゃくする、いつ停止するかわからない怖れにおびえなければならない、欠損した人格を世界に仮に生かすための、言うなれば人工臓器に過ぎないということや。この不出来な人工臓器は現実の様々の事象――主に愛情やな――を虚構によって作り出す働きをしている。これは特別何かの文学作品などということを意味しているのではないで。現実生活においてもそれは起こり得るし、こうしている今にも起こっているんや。しかしこれは所詮まがいものに過ぎん。どんなに上手に擬態して現実を模倣してみせたところで、ホンモノにはかなわんのや。人生の初源において豊かな打算のない愛情において育った人間は、豊穣な人生という樹木を自由に上り下りし、そこから両手いっぱいにまるまる太った生命と意味性の果実をもぎとることができるやろう。一方でかりそめの人工臓器に動かされる欠損した人格にはそこに近づくことも難しいし、近づいたところで自分でつくりあげた不出来な梯子でその樹木の一番日の当たらない傷ついた固い実をひとつかふたつもぎとるのがせいぜいや。欠損を抱えた人間が完全な生に到達するための絶望的な死力を尽くした努力も、完全な生を持つ人間には決して届くことが無いんや。なぜって、欠損を抱えた人間にとっての一生をかけてたどりつけるかどうかのゴール地点が、完全な生をあらかじめ持っている人間のスタート地点やからや。…エヴァンゲリオンがすばらしかったのはこの行程を作品上に暗喩してみせたところやし、あわや完全な生を持った人間たちの背中をもとらえるかという走りざまを我々に見せてくれたからや。結局それは果たされんかったけどな。最初から完全な生を持つ人間にはこの作品が語る世界への憎悪は全く理解できないし、むしろ悪魔的であるとして忌避すらするやろう。ワシは今日京都でガキどもをじゃれつかせながら漠然とそんなことを考えていた。だからな、のび太。おまえは神風怪盗ジャンヌの創造性の無さを批判したらアカンのや。確かにこの手の作品を有名なものにする一番の要因であるところの決めセリフが圧倒的に他と較べて弱いということは認める。だがな、それをしてこの作品を無慈悲に断罪したらアカンのや」
「…わかったよ、ドラ江さん。ぼくが間違っていたよ」
「ええのや。わかってくれたらええのや」