猫を起こさないように
痴人への愛(1)
痴人への愛(1)

痴人への愛(1)

「またひとつ消えたわ」
 コーデリアは菜につかう包丁の手をとめると、聞こえぬよう小さなため息をついた。今夜は荒れそうだ。
 エプロンで手をぬぐい、右ひざを抱えたまま無表情で涙を流す女性の脇へ、そっと近づく。
 視線の先には、Not foundと書かれたノートパソコンの画面がある。
「ずいぶんと前から更新なんてなかったじゃないの」
 非難にひびかぬよう注意してささやきながら、コーデリアはその肩を抱き寄せた。子どものように胸元へと倒れこんでくる。
「消えたのよ」
 いつものことだ。どんな言葉をかけようと、彼女が救われることはない。
 コーデリアは黙って、白いものが混じりはじめた長い髪を手櫛にさすってやる。うながされるように、小鳥尻は短い嗚咽をもらした。
 芸名・小鳥尻ゲイカ、本名・小島桂子。数年前に一世を風靡した芸人である。
 しかし、巻きスカートをマントの如くはぎとりながら、肌色タイツの股間に接着した亀の子タワシを見せる芸を覚えている者は多くあるまい。タワシを右手ですりながら言う、「ワタシのタワシ気持ちいーで」は流行語大賞にもノミネートされた。だが、この健忘症的な世の中で一年に満たぬ期間のテレビ出演は、人々の記憶力に対して充分に長いとは言えない。
 当時、コーデリアは小鳥尻の芸を客席から眺める一視聴者に過ぎなかった。熱狂はあったのだ、と思う。彼女が出演する番組のスタジオ観覧を申し込み、外れたときはテレビ局の外で待ちかまえた。他にも無数に芸人はいたのだし、そのうちの誰に同じ熱狂をささげても不思議ではなかったはずなのに。
 司会者が、時事問題などのコメントを小鳥尻に求める。彼女は腕を組んで考えるふりをしたあと、奇声をあげてスカートをはぎとる。「ワタシのタワシ気持ちいーで」を連呼しながら司会者に体当たりをし、観覧席にダイブする。どの辺りに飛び込むかは事前にスタッフから指示があって、観覧者たちは悲鳴をあげながら避けることになっている。床に叩きつけられた小鳥尻が大げさに痛がり転がりまわるのをもって、一連の芸は幕となる。
 あのときのことは、いっしょに観覧席へ座っていた友人が後々まで繰り返し話したものだ。もっとも、携帯電話を捨ててからこちら、すでに何年も音信はない。
「あんた、よけようとしないんだもん。それどころか、両手を広げて受けとめようとしたでしょ」
 痩せぎすの小娘にすぎなかったコーデリアは、ダイブを受け止めきれず、そのまま小鳥尻の下敷きになって左手を骨折し、腰骨にはヒビが入った。
 サングラスにトレンチコートの小鳥尻が、その長身を丸めるようにして病室の入り口に立っていたのを今でも鮮やかに思い出すことができる。小さな花束をぶっきらぼうに片手で突き出すのには、思わず笑ってしまった。
 それが、世間でいうところのなれそめというやつである。
 コーデリアはレズビアンではない。男とか女とかではなく、小鳥尻だからなのだ。しかし、両親も友人も、理解はしなかった。
 この、台所つきの六畳間に越してきて、どのくらい経つのだろう。幸福は夢のように過ぎる。あっというまに過ぎる。苦しみの長さはすでにコーデリアの時間感覚を麻痺させていた。
「みんな私を置いて、行ってしまうのよ」
 この台詞も毎度のお決まりのこと。コーデリアの中ではほとんど様式化してしまっている。しかし、それへ返答をするときは常に新しい創造を求められるのである。
 声をかけようとして、小鳥尻の目じりに刻まれた皺が、前よりも深くよじれるのを見て、コーデリアは全身に鳥肌を生じた。その沈黙は、しかし小鳥尻の精神にとって有効に働いたようである。
「コーデリア、あなただけ。私には、あなただけ」
 小鳥尻の手がエプロンの上からコーデリアの薄い胸をまさぐる。性的な昂揚を求めているわけではない。ただ、肉を感じることで寂しさを消したいのだろう。
 ノートパソコンに映るのは、芸人たちのホームページのひとつである。最近はブログというのだろうか。所属する芸能プロが作成し、人気のあるうちはそれなりにファンとの交流の場に成りえる。しかし、落ち目になるほど更新の頻度は間遠となり、やがて自然消滅的な閉鎖へと至るのだ。
 ひと握りを除けば、長く続けられる業界ではない。才能と時の合致を得た彼らは、やがて自分の番組を持ち、そのメジャー級の選抜の中でさらなる競争に身をやつしていく。膨大な分母から、総当りのリーグ戦を経て、真の勝者となるのはほんのわずかである。
 そして、勝つ見込みの薄いこの業界へ早々に見切りをつけ、全く別の分野に才覚を見出す者も少なくない。だから、芸人のホームページが消えるのは、彼らが現実の中へ居場所を見出したということの裏返しにすぎない。確実なのは、いつまでも残される連中はひとからげに例外なく、何らかの点で欠けている、劣っているということである。
 小鳥尻の芸を他の者たちと分かつ要素があるとすれば、それは思考の奇形性であり行動の奇形性である。深まらず、拘泥しないことが流動性を担保する。人生という変化に対処するとき、それは偉大な戦略である。だが、奇形性ゆえに小鳥尻は小鳥尻であり、奇形性ゆえにその芸が真の意味で大衆に受け入れられることはない。簡単に言えば、下ネタでは天下をとれないのである。
 しかし、それでも――コーデリアは思う。
 王様に対する道化師のように、既存の枠組みをゆさぶることで可視化するという特権を与えられた社会装置が、本来の芸人ではなかったのか。この国の芸人たちはほとんど例外なく、すべて体制の側にいる。彼らの目指す最終的な到達は政治家であるのだから、無理からぬことかもしれない。
 この一点においてだけ、小鳥尻は間違いなく芸人である。コーデリアが彼女に引かれた理由もそこにある。
 一汁一菜の質素な昼食を終えると、小鳥尻はもそもそと寝巻きを脱ぎはじめる。一張羅のスーツに着替えるのを手伝いながら、コーデリアは彼女の豊満な胸にいまなお残る、横に並んだ細いソーセージのような青黒い色素の沈着を痛ましい思いで眺めた。“風船爆弾”の痕跡である。
 “タワシ”が飽きられはじめ、テレビへの出演依頼も減りはじめた頃、小鳥尻が必死に考え出した新しい芸だ。それは、「風船爆弾、風船爆弾」と連呼する相方が、彼女の豊満な胸をパンチングボールよろしく、拳で殴打するというもの。関西の男性芸人からヒントを得たという。最初は上着を脱ぐだけだったのが次第に過激化し、ついにはブラジャーまで外して行うようになった。その相方というのが、何を隠そう退院後のコーデリアである。
 詳しい経緯を語っても仕様があるまい。あらゆるメディアからフェードアウトしてゆくという窮地にいた小鳥尻は、国営放送でこの“風船爆弾”をやらかした。生放送中に、生乳でやらかしたのである。謝罪の記者会見で、平身低頭する事務所の社長を尻目に一言の謝罪も発さないばかりか、コーデリアを含む関係者全員が頭を下げる中、小鳥尻はひとり傲然と胸をそびやかした。社会正義に悪酔いした記者があげる社会性を逸脱した怒号に、事務所のスタッフが無理矢理に小鳥尻の頭を長机へ押さえつけ、ようやく謝罪の形を作った。だが、隣にいたコーデリアには、頭を押さえつけられ鼻血を流しながら、にらみつけるように真上へ視線を向ける小鳥尻が見えた。この瞬間、小娘らしい恋の憧れが、大人の愛情へと変わったのだ。
 玄関先でブーツに足を突っ込みながら、今日はお客さんに呼ばれてるから遅くなる、と小鳥尻が無表情でぼそぼそ言う。舞台の上のハイテンションどころではない、普段の小鳥尻はほとんどしゃべらないし、感情を露にすることさえまれである。コーデリアはできるだけ明るく返事をするよう努めると、アパートの出口までついてゆき、長身の背中が曲がり角の向こうへ見えなくなるまで立ちつくしていた。
 部屋に戻り、玄関の扉が閉まる音を背後に聞く。小鳥尻はいない。当たり前だ。この部屋は、もはやコーデリアにとって何の意味も持たない場所になっていた。小鳥尻がいるからこそ、この空虚な住処がかろうじての避難所として成立する。六畳間をうろうろと周回すると、コーデリアは小鳥尻のいた場所へ呆然と座り込んだ。
 私たちふたりが破滅しない方法はなにか。最近、コーデリアが考えるのはそのことばかりである。
 週に一度もないような、場末のスナックへの営業ぐらいでは、とうてい食いつないでいけるはずがなかった。コーデリアは相当にいかがわしいアルバイトへ手を染めたこともあるが、小鳥尻が部屋にいる間は磁力のように離れられなかったので、食うに充分な稼ぎを安定して得ることはできなかった。
 昨日はついに、母が積み立ててくれていた学資貯金を切り崩した。小鳥尻はそのことを知らない。生活保護のことを相談したときの狂乱を思い出して、恐ろしかったからである。
 小鳥尻はただ自分であることをやめられず、他人の夢の残骸に埋もれたコーデリアは身動きさえ取れずに貴重な若い時間を空費してゆく。地獄。そう呼べる場所があるなら、まさにコーデリアの住所はそこであった。だが、角を生やし赤い肌をした官吏たちは空想にすぎない。人はただ、己の意志において地獄に己を閉じ込めるのである。