知らず折り曲げた指が地面を掻き、伸びた爪の間に侵入する砂の不快感が、私を覚醒させた。
私は先づ自分の身体を見下ろし、其れから、周囲へと視線を向ける。
其処は、莫大な伽藍だつた。否、正確には莫大な伽藍だつた物の廃墟と云ふべきか。
振り返れど、其処には何も無ゐ。
見回し、壁も天井も、踏み締める地面を除ひては、此の膨大な空間を限定する物は何も無かつた。
立ち並ぶエンタシス式の柱が、辛うじて人の存在を許す回廊を、莫大な空間の中に切り取つてゐた。
「やあ、ようやくこの場所へたどり着いたか。君も存外間抜けだな」
莫大な空間を響き渡る風のうねりのやうな物が、鼓膜の上へ集約し、意味の有る音像を結ぶ。
気が付ひて振り仰ぐと、遥か上方から、薄ゐ光が射してゐる。
天井は、矢張り見えなゐ。
差し込む微かな光に舞ふ塵埃は、嘗て其処に在つた物共への、栄耀の残滓を思はせた。
「環境の起伏が人間の中へ価値判断の基準を生じる。起伏とはつまり、完全な平面状態からのいくつかの欠落を意味すのだけれど、ぼくたちが生まれたとき、ぼくたちを取り巻く環境にはその起伏がまったく無くなっていた。つまり、ぼくたちは何の欠落も無い状態で、完全に正しく育てられすぎてしまった。だから、ぼくたちの中には何の価値基準もない。そのかわりに、ぼくたちは他の世代すべての等しく持つ価値の歪みを客観的に察知でき、場合によっては適切な批判を加えることもできる。しかし、その客観性はあまりに客観的すぎるんだ。価値基準が世界と反応して生まれた違和感が個人に発信をさせるが、価値基準を持たないぼくたちには発信することができない。せいぜいがその永劫の客観性の中で、批判の言葉を加えるくらいだ」
身を起こさうと前傾すると、頭の上に乗つてゐた帽子のやうな物が床に落ちて、渇ひた音を立てた。
両目の為の覗き穴が刳り抜かれた、丁度青ひ洗面器のやうな其れは、私の感情に細波一つさへ、起こさなかつた。
私は肩にへばりつく、ぼろゝの外套を剥ぎ取つた。
何か鋭ひ爪のやうな物で裂かれた跡の在る其の外套は、不自然な程長く宙空に留まつた後、フワリと床へ落ちた。
「その意味で、ぼくたちはつねに自分たちを例外的な存在としてきた。つまり、世界の埒外にいて、そこから世界を観察し、ときに批判する存在として存在してきた。ぼくたちは、永遠の聖なる傍観者なのだ。現実を、そこに汚れることを誰よりも強い焦燥感で熱望しながら、本当の意味では一生涯、そこにわずかでも触れることはかなわない、さまよう幽霊のような存在がぼくであり、そして君さ。この状況は極めて絶望的だが、絶望は現実に属するものなので、ぼくと君は本当の意味で絶望したことなど一度もない。ぼくも君も、そう、あの人が死んだときだって、実際少しも悲しくなかった。次の朝目が覚めたとき、昨日は確かにあった絶望のポーズのようなものはすべてきれいさっぱり消えていて、いつものような生きていないものの持つ気怠さだけが、唯一最も愛おしいものであるかのように身体の芯にあった。すべての現実に属する感情は、ぼくや君にとって一種の演技であり、ポーズなのさ」
頭の底に軽ひ頭痛がある。
声の内容は良く理解出来なかつた。
だが、声の伝えやうとする気分は、恐らく殆ど完全に理解する事が出来た。
「だからもう、このへんで終わりにしないか。世界はどこにも確定しないらしい。どれだけ言葉を積み上げても、世界は確定しない」
突如、映像が脳裏にフラツシユバツクした。
木漏れ日と、少女と、在り来たりな午後と。
其の意味する処は解らなかつたが、其れは何故か私に力を与えた。
私は屈み込むと、洗面器と外套を拾ゐ上げた。
軽く砂を払ふと、再び其れらを身に纏ふ。
「どれだけ繰り返したところで、それはきっと同じなんだ。同じ絶望に、何度も繰り返し気がつくだけなんだ」
焦るやうな早口で、声が告げた。
絶望は、無い筈では無かつたのか。
其の裏腹さに、微かな愛おしさを覚えてゐる自分に気が付く。
私は知らず真直ぐ上へ、微かに光の漏れる遙かな上へ、人差し指を掲げてゐた。
其れは自分の為と云ふより、寧ろ声の主に感じた愛おしさの為だつた。
完全な沈黙が降りた。
確かめるやうに、床から僅かに浮揚する。巻き上がる砂埃が円を描くやうにして、周囲へと散る。
瞬間、柱の間を吹く風が鳴り、私の鼓膜に声を結んだ。
最後に聞ひた声は、酷く力無く、そして、酷く優しく響ゐたやうに思えた。
「君は、本当に強情だな」
私は、微かな光を目指して、上昇を始めた。
この物語は私ひとりのものではなく、私ひとりが語るものでもない。しかし物語は一つである、そしてまた事実として語られる事柄が、語り手によって、違った響きをもつときは、貴方がもっとも好ましいと思われる事実を、事実として選べばよい。かといってそのいずれもが虚偽ではない、そしてすべては一つの物語なのだ。
パアマン(?)
(ル・グィン、『闇の左手』)