猫を起こさないように
生きながら萌えゲーに葬られ(6)
生きながら萌えゲーに葬られ(6)

生きながら萌えゲーに葬られ(6)

 主体的に世間と関わることによって世間を遠ざけてきた上田保春の苦闘の日々で、防戦に回ってしまうことは起こってはならないはずだった。なぜなら、上田保春の持つ弱点は北欧神話の竜の逆鱗のように、知られてしまうことが即座に死につながるような、文字通り致命的な種類のものだったからだ。上田保春は思いだしている。二次元のキャラクターを愛好することが個性になり得ると心の深いところで全く疑っていなかった、あの時代のことを。あの頃の上田保春の世界は、遊園地の幽霊屋敷に鳴り響くような不安な音階に包まれていた。何によってかはわからない、個人の内面がどんな種類のものであれ犯罪につながらない限り、周囲を取り巻く世界に優先すると信じこまされていた。自分が正常な、あるいは清浄な多数派に属していることを無邪気に疑わなかった。だからこそ不安だったのだと、いまならばわかる。一会社人に成長した彼が抱き続けてきたのは諦観であって、あのような不安ではなかった。しかし、また上田保春の現実をあの不安が取り巻こうとしている。その実感は敵地深く侵入を果たした丸腰のスパイと同じであり、いつ誰が突然に、例えば企画会議の席などで質問の挙手に指名した際に「こいつだ! こいつは俺たちの側の人間じゃない!」と叫ぶのではないかという不安、正体を見破られる恐怖に身を縮めていた。
 廊下の向こうから歩いてくる同僚が浮かべる表情にいつもとは違う何かを読みとったような気がする。その背中が曲がり角の先へ消えていくのを見送った後、上田保春は壁に身体をもたせかけて緊張に高鳴る胸を押さえた。その油断を見透かしたかのように、アニメ系の最新着メロを逐一ダウンロードしているにも関わらず公の場所ではそれを鳴らす機会を持たない上田保春の携帯電話が、胸騒ぎを物理的に表現するが如く彼の胸元をバイブ機能により振動させた。背広の胸ポケットから心臓がハート型に飛び出す幻視に頭を振って、携帯電話を開く。待ち受け画面には柴犬の顔を正面から接写したものが貼り付けられている。実弟の飼っている犬を撮影したものだ。待ち受け画面には心の深い部分にある執着が反映されてしまうというのが、上田保春の持論である。萌えゲー以外の趣味を持たず、自らの趣味を表明することを忌避する彼の待ち受け画面に、柴犬の顔面のアップほど適切なものはあるまい。油断したそぶりで柴犬の顔を眺めている様を女子社員の数名に目撃されれば、それで当面の偽装工作は完成である。あとは同じ犬を違う角度から撮影した写真を何週間かおきに更新し続ければよい。趣味や執着を表明するということは、個人の無防備な部分、弱い部分を相手に委ねるということで、それは形を変えた他者への信頼の一形態である。表明できない種類のものであるからといって、わざとそれを回避したり触れない態度を続けることは、かえってそこにある何かの実在を証明する不自然な空白を作り出すことになってしまう。上田保春はそれをこそ恐れた。一般人の疑惑にダミーを抱かせておく必要があるのだ。それにしても――上田保春は思う。こちらからの一方的な投影を許すものしか愛好できないという意味で、毛の生えた哺乳類を愛好する人々は、萌えゲーおたくとその本質において何ら異なるところが無いように見える。「犬や猫の言うことがわかる」と声高に宣言するときの、上田保春を同族と見間違えた相手が浮かべるわずかに常軌を逸脱した表情は、萌えゲーの少女のことを話すおたく仲間とまるで双生児のように似通った雰囲気を醸成している。自己愛の鏡像への、それと気づかぬままの言及という意味で、彼らは否応無く似てしまうのだろうと推測する。その無意識の類似からも、柴犬を愛好する自分を演出するのは他の、例えばキャンプとか草野球とかを愛好する自分を演出するよりは上田保春にとってはるかに容易なのである。本来の自分に近い形で萌えゲーおたくを隠蔽することができるのだ。これ以上の選択肢が他にあるだろうか。
 上田保春は受信したメールの差出人を確認するが、記憶を検索しても画面に表示されている名前に思い当たるものが無かった。親指でメールを開封すると「先日お会いした中学生です。覚えてらっしゃいますか」と書いてある。「至急・緊急に」上田保春に会いたい旨を、年上の者に対して書き慣れぬ敬語で記述していた。果たしてあの夜の自分は少年にアドレスを教えただろうか。これは有島浩二の仕業に相違あるまい。全く聞いていないふりでその実、上田保春と少年とのやりとりに興味をそそられたのに違いあるまい。もっとも、一瞬たりとも有島浩二がゲーム画面から視線を外すことは無かったのだが! これは彼の仕掛けた罠だろうか。有島浩二の考えることは正直言ってよくわからない。突発的なエキセントリックさでふるまうことを、他人の個性との差異を強調する意味の「キャラ立ち」と表現してはばからない感性の持ち主である彼のことだから、可能性は充分にあると言えた。だが同時に、メールでの少年の様子には作りごとではない切迫感が感じられたことも確かだった。上田保春はしばらく逡巡した後、日時と場所を指定した短いメールを返信した。携帯電話をしまういとまもあらばこそ、彼の内面に起こった惑乱を具現化したようなバイブレーションと共に、「了解しました」とのメールが入った。上田保春は、社外の知人からのメールをメモリーに残さない。中学生とは言え、少年は萌えゲーおたくの立派な予備軍である。思えば電子機器が生んだ最大の功罪は、日常には頻繁なほんの気の迷いや判断の誤りを永続する形としてこの世に顕在化させてしまうことではないか。一般人が自然に行う日常の選択を膨大な脳内シミュレーションから不自然に選択する彼にとって、思考の経路が形に残ってしまうことは自分の異常の痕跡を残してしまうことと同義であり、極力避けたい事態であった。上田保春は少年からのメールを念入りに消去した。
 待ち合わせには、太田総司のマンションから最寄りの駅にある喫茶店を指定した。会社の同僚に目撃される心配が薄いということもあったが、何より少年と自分が共通で知っている場所はここしかなかった。まず少年の側の希望を聞いてもよかったのだが、相手の方がよく知っているテリトリーに引きずり込まれることをこそ、上田保春は恐れた。それは長年の隠れ萌えゲーおたく生活で染みついてしまった、悲しい習性のようなものかも知れなかった。その意味では自宅に呼び出すという選択肢も考えられたのだが、自室に未成年を連れ込む姿を隣人に目撃されたりすることは、この社会状況の中、あってはならなかった。約束時間の三十分前に到着したのだが、少年はすでに店内に到着しており、窓際で外を眺めていた。窓越しに上田保春の姿を確認すると少年はぱっと顔を輝かせ、思わず気後れを感じるほど邪気の無い様子で大きく手を振ってみせた。店員は二人の関係をいぶかんでいるだろうなと思いながらコーヒーを注文すると、彼は差し向かいに腰を下ろす。少年はほとんど顔を赤らめながら、急に呼びつけた非礼を許して欲しいと年上への慣れぬ口調でたどたどしく言葉をついだ。店員どうしがカウンターの向こう側でこちらを見ながら、ひそひそと言葉を交わしているのを上田保春は視界の端に見たように思った。その視線が彼の萌えゲー愛好を見破ったゆえではなく、三十がらみの会社員と制服姿の少年との関係に注がれていることは重々承知だったが、それでもやはり他人の関心が特別なものとなって注がれているのを感じるのはあまり愉快な体験ではなかった。上田保春の人生の中で、他人が彼の中に見出す特別さというのはほぼ例外なくおたく的性向であり、それが好ましい反応に転じたことは一度だって無かった。他人が自分へ向ける関心とは他人が自分を迫害・糾弾する可能性と同義であり、その関連づけの馬鹿馬鹿しさは客観的に理解されていながらも、木の股を見て嘔吐できる現代人の自我、愉快ではない気持ちが沸き上がってきてしまうのはどうにもしようがなかった。他人から関心を持たれないためには、無気力や怠惰や意気消沈では全く不充分であった。積極的に他人の理解へコミットしようとする態度こそが、上田保春の望む無関心を作り出してくれるのである。事実、長い迫害の歴史の中で彼は自分の真情というよりはむしろ、場にふさわしい役割を感知し演じることに長じるようになってきていた。上田保春は軽く目を閉じると、外界からの干渉すべてを内面より閉め出すほんの一瞬の空白の後、教師か保護観察員のように振る舞うことを決める。そうすると、気が楽になった。「それで、君、悩みというのは何なんだい」と背広の上着をやや乱暴に脱ぎながら水を向ける。少年は上田保春の精神に発生した陰鬱な化学反応に気がついた様子もない。何の疑いも含まぬ真摯な瞳を彼へ向けて、言った。
 「実はついさっき、自殺志願者を募集するサイトの掲示板に書き込んできたんです。今週末に決行するグループに割り振られました。もう死ぬんだ、楽になれるんだって思う嬉しさの反面、誰にも、親にさえぼくの本当の姿を知られないまま逝くんだと考えたら、もう孤独に叫びだしたいような気持ちになって……そうしたら、頭に浮かんだのが上田さんでした」
 少年はこみ上げる感情に頬を紅潮させ、潤んだ瞳に燃えるような色を浮かべてこちらを見た。しまった、と上田保春は舌打ちする。どうやら罠に追い込まれて、ハメられてしまったらしい。そもそも、突然にメールを送りつけてくる段階でこの可能性に気がつくべきだったのだ。社内での萌え少女からこちらというもの、ずいぶんと判断の平衡を失っていたものだと、ここに至って彼はようやく気づいた。表情には出さないまま、引き出されてしまった以上は何らかの形でこの場を収束するしかあるまいと、自身の失態に罵倒したいような心持ちで考える。しかし、それにしても奇妙なことだ。萌えゲーを愛好する少年が集団自殺の掲示板に書き込みをするというのは、どこか非常にアンバランスなできごとに思えた。萌えゲーおたくとは、究極的に個別化されている存在である。眼鏡に性的興奮を感じるか、靴下に性的興奮を感じるか、妹に性的興奮を感じるか、神職に性的興奮を感じるか、萌えなどという愛らしい表現で控えめそうに希釈されて発信されるが、その正体はぎらぎらと熱された性への欲望でできている。それぞれの分類の内側は、数百、数千、数万にわたるグラデーションで階層化されており、その傾向を持たない者には精神病棟のうめき声、本当に何を言っているのかわからないことを承知で記述するが、例えば「眼鏡と妹」のように、別の分類との組み合わせも欲望の対象になるのだ。数学的素養の無い上田保春でさえ、その種類の膨大さを考えただけで、目眩に近いものを感じざるを得ない。萌えゲーおたくとは一人として同じ性癖を持つことは許されない、忌避すべき劣情のオンリーワンなのである。もはや人間という括りでの共感や同情という言葉も虚しく響く。そんな題目が通用するのなら、そもそも萌えゲーおたくは社会に受け入れられているはずである。糖蜜でできた萌えゲーという名の海へと水没し、溺死するまで甘い海水を肺腑の深く、底の底まで吸い込んで満たすことが出来ればどんなにいいかと上田保春は思う。上田保春がかつて愛好したアニメ作品のように、肺腑を満たす糖蜜が自分を窒息させるのではなく新たな現実との媒介として、この萎えた心と身体に活力をそそぎ込んでくれればいいと切望する――彼の生きる力を萎えさせる、世間に充満したあの清浄な空気のようでは無く。だが、甘い海水が肺腑の最後の一部を満たすその直前に上田保春は糖蜜の海より急浮上し、全身を波打たせると待ち焦がれていたはずのその幸福を渇いた現実の砂浜にすべて吐き出してしまうのだ。自律的な嘔吐に精通した拒食症の女性のように、上田保春は何度も何度もその幸福の嘔吐を繰り返してきた。なぜ自分がそうするのか、全く解説がつかないでいる。けれどそこに深い意味づけや、哲学的なメッセージを求めることだけは避けなければならぬと上田保春は自戒の意味で考える。この嘔吐は全くの個人的なできごとであり、人類の歴史の連なりから教訓を得ることも与えることもない、自分自身だけが苦しむことのできるパーソナルな携帯性の地獄なのだ。
 萌えゲーおたく同士が好意を抱きあうことなどあり得ない。正常の側から見れば彼らは人生の最初期に歪みを与えられてしまった者たちの総称であり、その歪みは成長すればするほど大きく目立つようになってゆく。上田保春は正直なところ、この少年に好意を寄せている。その言動はまるで過去の自分を見るようであり、少年を救済することで過去の自分をもまた救済できるのではないかというファンタジーを抱いているせいでもある。しかし、いま好意を持っているからといって、萌えゲーおたくである少年が成長するにつれ、その歪みを鼻持ちならないほど大きくさせてゆく過程で、最初に好意を抱いてしまったからこそ深く憎悪するようになってしまうことが無いとは言い切れないではないか。いま少年に自殺を思いとどまらせたとて、後になって引き留めなければよかったと思うことは必ずあるに違いない。萌えゲーおたくとは個性を究極へ押し進めた結果、理解と共感のメーターを振り切ってしまった個体群をひとまとめにして分類するために与えられた、カテゴリエラーを表す名称であり、価値を与えられないという観点から見ればどの個体も同じ様な存在であり、ひとからげに殺されて誰も悲しまない何かである。
 沈黙が降りている。少年は何らかの回答を求めているのに違いなかった。上田保春はどう声をかけるべきか、顎をさすって考える。おそらく少年が取り巻かれていると感じている、こちらからの入力を許さぬ世間とは最大公約数的な場であり、個人がそこへ齟齬を生じるのは何もその個人が特別な繊細さや感受性や才能を持っているからではなくて、ほとんど理の当然、誰もが避けられない必然なのだと言える。しかしいま周囲を見回したとき、その個人的齟齬に焦点を当てた虚構のなんと多く氾濫していることであるか。個人内にある社会集団への当たり前の齟齬なり違和感なりを、恋愛やファンタジーや探偵やSFや伝奇や宗教や、そういった名付けでコーティングして、本来は至極ありふれたものたちに丹念に意味づけをし、本来全く中立的であるはずの情報に、ほとんど重厚な芸術的陰影を与えてしまうのである。もちろん内なる齟齬を否定せよと言っているのではない。内なる齟齬を否定してはいけない。それは同一性・同質性への再帰だけを目的にした平板さと、排除の理論に終始する人生を生みだしてしまうだろう。しかし内なる齟齬を肯定することもまた、周到に避けなければならないのである。齟齬に焦点を当て、それを特別にしようとするならば、究極の押し詰まった延長線上には、現実には虚構の内包するような飛躍による解決法が用意されていない以上、自分が死ぬか他人を殺すか、その二つの袋小路にしか道はつづいていない。世界と内面との葛藤に苦しむ男が実は人類を滅ぼす力をその精神薄弱の世迷い言とともに兼ね備えていたり、世界と内面の葛藤に苦しむ女が実は数名のイケメン天使たちに囲まれる神の子の転生だったり、世界と内面の葛藤に苦しむ女が実は誰からも愛される容姿をしているのだが自身の魅力に気づいていないだけだったり、最後の例えが最も端的に上田保春が言おうとしていることを表しているように思うが、現代的な虚構の大半は被愛妄想と関係妄想を初期動機としてできあがっているという意味から、ジャンル名はすべてハーレクインロマンスとするべきである。それらの物語がいかに人間のバランスを喪失させ、植え付けられた世界認識の歪みがそれらの物語を摂取する者を現実における真の破滅へと導いてゆくかを、誰かが声に出して言わなければならないはずなのだ。しかし人間を人間と証明をする物語を物語るための外的な状況は存在せず、少なくともこの国の内側には存在せず、それゆえ誰もが通常に抱える齟齬や違和感へと物語の題材は自然逢着をし、現在のような荒廃を回避することは不謹慎を承知で言うならば、我々全員を残らず巻き込む巨大な災厄や不幸という新たな状況を迎える以外には、もはや不可能なのではないか。少年が自殺を求めるのも才能や運命というすり替えで、齟齬の特別さを刷り込まれてしまったせいなのかもしれなかった。世界との齟齬程度の凡庸さしか我々を物語へと駆り立てるものがないとは、なんという惨めな醜悪さであることか!
 上田保春の思考はまとまりを見せようとせず、それゆえ少年に何を回答すべきか見つけだすことができず、「萌えゲーおたくはすでに死んでいるのだから、二度死ぬ必要はない」と言った。最後まで面倒を見るつもりの無い以上、少年を自分へ執着させ続けておくことはあまりに無責任であろう。意味の無い発言で失望させることで少年の関心を切り離す算段だったが、この年代の若者にとっては現実に有効であるよりも、抽象度が高ければ高いほど多く重要度を含有してしまうことを、三十も半ばにさしかかろうという上田保春はすっかり忘れてしまっていた。少年は彼の言葉を聞くと、小声でそれを何度か繰り返し、少女のように長い睫毛を伏せると臍を噛んで少し黙った。少年は自分を実際に救済してくれる言葉の中身を求めていたわけではなかった。少年は他ならぬ上田保春が自分に語りかけるという、その事実のみを欲していたのである。やがて顔を上げ、さらに潤んだ瞳と紅潮した頬で見つめ返し、「上田さんがそうおっしゃるなら、今週の集まりには参加しないことにします」と誇らしげに宣言した。上田保春は少年の目を見て、当初の計画が意図とは逆の効果を生みだしてしまったことを痛感し、気持ちが沈んでゆくのを押さえることができなかった。半ば投げやりに考える。だいたい自殺などというものは、黙って一人でやればいいのだ。自殺したところで、自傷したところで、拒食したところで、引きこもったところで、それらはすべて世界の否定、自己の消滅、真の意味での死の様相を客観的に受け入れたがゆえの行動とは遠く、なるほど愛情への渇望からやってくるあなたの哀しみには覚えがあるので理解しよう、それらはすべて誰かとの関係性を求めるための逆接に過ぎないのである。死ぬ人間は黙って死ぬ。もし自分が自殺するのだとしたら――上田保春は夢想する。笑顔で世間とうまくやってみせ、完全に世界と和解した人のようにふるまい、仲間たちと馬鹿騒ぎをし、酔っておどけてみせ、卑猥な冗談に笑い声をあげ、最高に愉快なひとときを過ごし、「また明日」と陽気に別れた後、突然死んでみせるだろう。誰かに同情されたり、理解されたりなどということを想像するだけでぞっとする。理解されたいだけのことに、齟齬や死を用いる人々の群れ。虚構の提供する軽繰と、人生の持つ平板な抑揚との差に苦しみ、現実にハーレクインを求めている。ただのハーレクインを高尚な何かに転化できると思っている。上田保春は、日本橋と秋葉原を爆破したあの吊り広告の犯人のことを唐突に思い出していた。この瞬間に意識の表層へと浮上してくるとは、きっとどこか心の深い部分でひっかかりを覚えていたのに違いない。きっとその人物ならば、自分のこんな気持ちを的確に代弁し得るのではないか。家に帰ったら、あの事件について詳しく調べてみよう――その思いが関係性を希求する人々の感情と全く同じ場所から発していることに、上田保春は気づいていない。
 「本当に、いつかこの孤独と疎外感が消えてなくなる日が来るんでしょうか。ぼくは、一人で死んでゆくのが怖いんです。集団自殺なんて馬鹿なことをと思われたかも知れませんが、共感はうわべだけだっていいんです、ぼくはぼくの側でいっしょに同じ死を死んでくれる人を切実に求めていたんだと思います。自分に正直であればあるほど、友人たちはぼくの元を離れていきます。この世には、誰もぼくを本当の意味で理解できる人間はいないような気がする。この前、ある言語の最後の話し手を取材したドキュメンタリーをテレビで見ました。同胞たちは全員殺されるか死ぬかしてしまっていて、彼の話す言葉を理解できる人はこの世に誰もいないんです。彼は少しなら英語を話すこともできるんですが、それが本当に自分を表現するとは決して考えていないでしょう。彼の内面を表現するのは彼の民族の言葉以外には存在せず、その言葉を理解できる人はもう彼だけしかいない。夜になると、彼の家から歌声が聞こえてくるんです。でも、その歌は彼の民族の言葉で歌われていて、誰も何を歌っているのか知ることができない。テレビから流れるその歌声を聞いていると、全く内容はわからないのにぼくは涙が出た。彼の抱えている孤独は、ぼくの抱えている孤独と同じだと思ったから」
 少年の言葉は、徐々に嗚咽へと変わっていった。なぜこの少年の言葉は無意識の柔らかい部分をひっかくように響くのだろう。感情移入しないように椅子の背もたれに身を預け、上田保春は防衛を露わに腕組みをした。しかし、それも虚しいことを彼自身が知っている。新聞の悩み相談にあるような、典型的な十代半ばの青臭い悩みに何を心動かされることがあるのかとお思いのことかもしれない。繰り返すが、ここで間違えてはいけないのは、上田保春と少年は萌えゲーおたくだということである。これはやがて社会に生産性を加えるための、居場所を約束された若者の持つ予定調和への躊躇ではなく、社会に危機を与える種類の個性を萌えゲーによって押さえ込んだ、誰も彼に居場所を約束できない若者の悲鳴なのだ。上田保春にはそのことがよくわかっていた。そして、少年の言及した最後の話し手が歌う民族の歌の哀切な調子は、すべての知性が底流として共有する人間において他者へと届き得るが、萌えゲーおたくたちの言語はすべて人間への逆接、あるいはときに侮辱においてできあがっているので、少年の投影は実のところ的はずれで、彼の孤独が癒されることがこの先決してないことも上田保春は知っている。少年の感じている孤独は、萌えゲーおたくが自らを受け入れるために経過しなければならない、人間を捨てるステップの第一段階に過ぎないのだ。しかし、レジで聞き耳を立てているのだろう店員たちにはそうは聞こえなかったはずだ。上田保春は店員たちとの間にある長大な距離に、やるせなさを感じた。それは自分の有り様を憐れんだためというよりは、目の前に座る欠けた片割れに対する悲しみを感じたゆえだった。少年はもはや滂沱と流れる涙をぬぐおうとも隠そうともせずに顔を上げたまま小さくしゃくりあげながら、正面から上田保春を見つめている。目の前に泣き濡れる少年を見て、自分の防衛が溶かされ、伝播した嗚咽の痛みが喉に溜まってゆくのを感じた。しかし、少年といっしょに泣いてやることはできなかった。なぜなら、上田保春と少年はそれぞれ別の世代の萌えゲーに葬られてしまっているのだから。世間から十把一絡げに扱われるおたくたちの実体は相互に厳しく断絶し、絶望的に孤絶化している。上田保春は無理やり嗚咽を呑み込んで腕組みを解くと、少年の肩に優しく手を置いてやりたい衝動を押し殺して、教師が生徒を諭すように高圧的に、同情的には響かないよう慎重に意識して言った。
 「泣くんじゃない。泣いたって、しょうがない。君はまず私の世代がどう死ぬのかを見極めるんだ。私の世代は嗜好によって切り分けられる最初の世代だ。文字通り自らの嗜好と心中するしか方法が無いんだ。私の世代から先は、きっとそれぞれが個別の死を死ぬことになる。しかも人類の巨大な連続の中から、誕生日のケーキのように切り分けられて、誰にもその悲しみを理解されない、全く個別の悼まれない死を死ぬしかない。受け入れよう。その覚悟の確認をするために、私たちはいま生きている」
 もちろん、こんなことを言うべきではなかった。それは上田保春が抱えている実感と、限りなく近い位置にある言葉だったから。太田総司にも有島浩二にも言ったことのないその真情を開帳したことは、ほとんど魂の告白であるとさえ言えた。彼は場の雰囲気に呑まれてしまった自身の失態に呆れ返りながらも、どこかで安堵を感じた。それがどんなに虚しい願いに過ぎなくとも、上田保春はずっと、萌えゲーおたくであることからの救いを求めていたのだろう。少年をその救いであると考えるほどには単純でもセンチでも無かったが、彼の心の深い部分にあるその希求が、過去のうつし身のようなこの少年を死から一時的に救いあげたことに安堵を感じさせているのは間違いなかった。上田保春は内面の葛藤を悟れないよう努めてぶっきらぼうに「もう行かねば」と告げる。少年は制服の袖で涙をぬぐうと、決然と立ち上がった。上田保春が二人の支払いを済ませ、店を出る。肩を並べて切符を買い、無言で改札をくぐると、お互いが別のホームへと降りてゆくことがわかった。「また、会えますか」と少年。「会うようになっていれば、会うだろう」と上田保春。はぐらかすため、あるいは判断を保留するためのその発言は、しかし新たな感銘を与えてしまったようだった。少年は熱烈に上田保春の右手を両手で包み込むと、「必ず」と言って、ホームへと降りていった。少年は乗り込んだ電車の窓越しに最後まで手を振っていた。少年を乗せた列車が向かいのホームを離れると、上田保春は孤独を感じた。萌えゲーがありさえすれば、孤独などは何の意味も持たないはずだったのに。上田保春は少年が彼の中にある人間なるもの――あるいはその真似事をゆさぶって、はるか昔に苦しんだ苦しみを再び呼び覚ましたことに、恨みに近い気持ちを禁じ得なかった。しかしその負の感情すらも、上田保春の中に生まれた新しい希望を拭い去ってしまうのに充分ではなかった。人目のある中なので実際にそうしたわけではなかったが、上田保春の内面の盛り上がりは、望みさえすれば即座に涙を流すことができるほど昂まっていたのだった。彼は自分がナルシシスティックな高揚感に酔うにまかせた。そしてこんなふうにさえ考えた。私は次の世代に責任をとる最初の萌えゲーおたくになりたい。思えば高い代償であるが、おたく以外の人間による不断なるおたくの収奪を根絶したいと願う純粋な熱情によって、それは実現可能となるはずだ。上田保春の昂揚はほとんど革命家のそれに近かった。しかし、抽象かつ巨大なものが語られるときには注意が必要である。その語り手は自信が無いか、責任を放棄しているか、現実感を失っているか、いずれかの状態にいるからだ。そんなものに身をまかせているのは、泥船に乗るよりも足場がない。上田保春の足下にひらいていたのは、まさにその陥穽だった。だが、幸いにもと言うべきか不幸にもと言うべきか、彼の昂揚は長く続かなかった。
 その晩、母から電話がかかってきたからである。

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