タイムカードを押して、向かいから歩いてきた女子社員と微笑して会釈を交わす。この際コンマ数秒の注視によって相手の視線をこちらに向けさせてから微笑することが大切である。
上田保春は会社の女子社員に人気があった。どういう種類のものであれ、暴力の匂いをさせず、性へのあからさまな衝動を感じさせることのない清潔な男子は、その交流や感心が表面上の段階へ留まるのなら、女子に人気があるものだ。上田保春の暴力――軽く頬を張られた少女が困った顔をするのを見たい――や、性へのあからさまな衝動――初めての愛撫に恥じらう少女を乱暴に押し開きたい――は、すべて萌えゲーが引き受けてくれていたので、会社での彼の行動は女性に好意を抱かれるのに十分な範疇へぴったり収まっていた。
萌えゲーおたくを続けることで細分化された上田保春の自意識は、彼の中の反社会性に気づいた相手がそのことを意識にのぼせるよりも速く察知して、矢継ぎ早にそれを否定する情報を投げかけるという防衛において発展していったのだが、怪我の功名というべきか意図しない副産物というべきか、女性の感情の機微を繊細な柔らかさで捉えることができた。テレビを見ず新聞を読まない上田保春が深く話せる話題はあの二次元空間のこと以外に無かったので、女性と話をするときの彼の行動は自然、相づちや相手の意見を別の言葉で言い換えての支持、踏み込ませないためにする見せかけの感心の断続的表明に終始した。それはほとんどカウンセラーのやり口に似ており、休憩時間中、上田保春の元へ悩みの相談に訪れる女子社員は、口コミで部署を越え結構な数になっていた。女性には誰かに話をすることで論理的に自分の考えを整理したいだとか、相手の話を注意深く聞くことで相互の理解を深めたいだとか、そういった欲求は極めて薄いというのが上田保春の理解である。表面上の臭みを消すことにさえ注意を怠らなければ、女性との交流の中で萌えゲー愛好を悟られてしまう危険は皆無だった。彼が相談を受けたほとんどすべての女性の欲求は「私だけのために時間を割いてもらう」「私の現在を肯定してもらう」という段階に留まっているのであって、それを理解してさえいれば話を聞くという一点だけでたいていの悩みは雨散霧消し、結果として相手の好意は深まるのだった。萌えゲーには登場人物やシナリオに設定された条件のリストが存在し、各項目をどれだけ満たしたかによって主人公への好悪や話の筋そのものが変化する。一定の変化に至る最後の条件を満たしたことを俗に「flagが立つ」と表現するのだが、その複雑極まるflagの管理に周到な上田保春にとって現実の女性は萌えゲーの少女よりもはるかにエキセントリックとは言えず、彼女たちとの交流に心をすり減らす心配は絶無だった。無論、これを口にしたときに女性が感じるだろう激怒も容易に想像できるので、相談相手を前にした彼が浮かべる微笑はますますその悩ましい陰影を深めていくのだった。
また上田保春は、同僚との私的交流を極力避けるように努めている。飲み会やコンパなどへの出席は、不自然に思われない回数にとどめた。体育会系の男性社員がアルコールにまかせてする個人の性格的特徴への放言は、ときに驚くほど真実に肉迫してしまうことがあるからだ。そして何より彼はアルコールに強くないため、最初の席取りに失敗して無理やり飲まされてしまうような状況での超自我からの失言を恐れた。なぜなら萌えゲーおたくの持つ深層意識においての自暴自棄は、常にすべてご破算にしたいという願望を爆発させる機会をうかがっているからである。
ともあれ上田保春は、総じてうまくやっていたのだ。うまくやりすぎるくらいに。しかし、三十代も半ばを迎えようとする彼のモラトリアムは終わろうとしていた。女子社員が給湯室で立ち話をしている内容を偶然に耳にしてしまったことがある。職場にいる年配の独身男性に対する発言だったのだが、それを聞いたとき上田保春は心底から社会のする残酷に慄然としたものだった。その男性社員が未だに独身でいるのは性的に×××だからではないか――×××の部分を具体的に記述するのに、上田保春の自意識は繊細すぎる――、とその女子社員らは発言したのである。本人たちには無邪気な子猫の甘噛み、ぼんやりとした午後にスパイスをきかせる悪意に過ぎなかったのだろうが、上田保春は不意にこみ上げてきた嗚咽をこらえるため必死で口元を押さえなければならなかった。涙ぐんでさえいる自分を自覚したのである。上田保春の微温的な平穏が喉元にせり上がってくる水位のように塗りつぶされ、ついには彼を溺死させてしまう未来が確実な現在の延長線上に見えてしまったからだった。平穏な日常というささやかな夢も希望も、萌えゲーおたくであるという事実だけで無惨に蹂躙され、黒く塗りつぶされていく。しかしそれを塗り返すのは、萌えゲーにより排出された体液の黄ばんだ白でしかない。確実な破滅が眼前に迫っているのに、逃れるすべはどこにも存在しないのだ。それはまるで、意識のあるまま殺人鬼に解体されてゆくような絶望だった。
「もし江戸時代だったなら、自分は目覚めないままで一生を終えることができたと思う」と、性犯罪で服役する幼児性愛者が語るのをネットサーフィン中、目にしたことがある。上田保春はその発言に同情と共感を禁じ得なかった。自分が同じ立場にあってもおかしくなかったろうということと、対象の違いこそあれ彼がいまいる境遇をこの上も無いほど的確に言い表していたからだ。幼児性愛者と萌えゲーおたくはその性嗜好において極めて似通ったものを持っていると上田保春は思う。つまり、直接的な肉欲を精神的な投影が凌駕してしまう点において共通なのである。江戸時代ならば人々からの非難や制裁は社会からの根本的抹殺というレベルではありえず、現代のように徹底的に人格の根源までを破壊されつくして追いつめられることも無かっただろう。もちろん、犯罪の肯定と受け止められかねないこんな感慨をどこかへ漏らすわけにはいかないから、彼にできるのはただマウスのボタンをいつもより強く圧迫することだけである。
上田保春の心に澱のように溜まっていく何かは、ますます彼の本質を自閉的なものにしていく。その記事を目にして以来、ときどき萌えゲー愛好に目覚めなかった自分を想像してみることがある。その想像は例外なく、自殺か発狂か独房へとつながった。だとすれば、萌えゲーの実在を全く非難する筋合いはない。むしろ自分は救済さえされているのだ。しかし、その思考が気分を晴れさせることはない。なぜなら目覚める必要の無い人間たちのことを同時に、否応に考えざるを得ないからである。消極的な抑止ではなく、人格の上へ新たな犯罪的性嗜好を追加するくらいのニュアンスしか伴わないのならば、萌えゲーは社会的脅威を増大させる以外の効果を生まないことになる。そこに上田保春の得たような、潜在的犯罪者への負の救済はない。萌えゲーをプレイしない日常を想像するとき、そのモノトーンに自殺を考えないならば、ただちに萌えゲーをやめたほうがいい。もし萌えゲー以外の何かで健康な性的満足を得ることができるのならば、ただちに萌えゲーをやめたほうがいい。自分に機会が与えられるのなら、そうやって彼らに忠告してやりたいのだ。しかし、萌えゲーに耽溺する者たちが集まるワークショップなどありそうにない。ニコチンやアルコールを断つための相互互助の集まりは存在するのに、萌えゲーに対するそれは世間には見られない。萌えゲー愛好者の集まりは、例えば「実践的殺人愛好倶楽部」と同じような意味合いを含んでしまうからだろうと上田保春は推測する。どこにも表明できず誰にも届かない以上、彼の抱く苦悩はどこまでいっても人類の枠の外を旋回しているに過ぎない。上田保春の実感は永遠の村八分、流浪するオランダ人なのである。一昔前ならば最終的な受け皿の無い人間は野垂れ死にをし、社会は自然に脅威を回避していたはずなのだ。しかし、現代においてはインターネットがあまねくすべての人間の受け皿となり、すでに究極の平等を実現してしまっている。お互いに交流することのなかった社会の範疇外の異常と異常を出会わせ、その異常性を増大させる役目を果たしてさえいる。本来ならばすべての埒外で無視のうちに殺されていた自分と自分の同朋たちが、新しい脅威として人々の生活の中へと侵入していっているのだ。上田保春はそこまで考えると、頭の中で猥褻な単語を連呼することで無理に思考を中断した。自殺しないためである。
所属する部署の机に座って、周囲を見回す。清潔なオフィスの朝だ。職場のデスクトップパソコンの壁紙を萌えゲーの画像に設定し、机上に少女をかたどったプラスチック人形を並べていると公言する知人の大学職員のことを思い出し、上田保春は嫌な気分になった。だいたい、誰もが人に言えないような趣味を一つくらい持っているものだ。目の前に座っているこの一見真面目そうな眼鏡の同僚だって、家では新妻を相手にSM趣味を展開しているかもしれないではないか。だが、職場まで昨夜妻に使っていたピンク色の巨大ディルドーを持ってきて自慢げに見せびらかしたり、デスク上に陳列したり、それを使うとき妻がどんなふうだったのかを延々と説明したりはしない。一方で萌えゲーおたくはときに、社会からの絶え間ない抑圧のせいに違いない、ほとんどそれに類するネジの外れた行動に抑えがきかなくなることがある。開き直りが、理性を凌駕してしまうのだ。上田保春は実のところ、その大学職員に少しの劣等感を抱いていた。趣味嗜好を完遂できる蛮勇をうらやみ、反して己の中途半端な生き様へ自己嫌悪に近いものを抱いていたのだ。しかし、いまこの職場の清浄な空間、抑制された始業前のさざめきに身を寄せて、彼は自分の感覚の方が正しいことを巨大ディルドーの例えから確信することができた。
そうだ、同僚にピンク色の極太巨大ディルドーを強要できるような職場状況が容認されていること自体がそもそも異常なのだ。そう考えながら、上田保春は巨大ディルドーに口づけしながらこちらへウインクする経理課の田尻仁美を思い浮かべた。彼女はその面相こそ十人並みなのだが、本人が自覚しているかどうか知らない、ひどいアニメ声なので、経理課に電話する機会の多い上田保春のお気に入りとなっていた。上下がぴったりとは合わないよじれた形をした彼女の唇は一種淫猥な雰囲気を作り出しており、萌えゲーのキャラクターを見慣れた上田保春にとって新鮮に映った。唇の形状でキャラクターの容姿を書き分けする萌えゲーが存在しないことは、極めて暗示的だ。萌えゲーにおいて唇はふつう、わずかにグラデーションが加わることもあるが、一本線の長さと湾曲でのみ表現されることがほとんどである。唇に特徴を与えるということは厚みや色合いを与えることであり、それは女性の肉体的・精神的成熟と萌えゲー愛好家を直面させる結果を生んでしまう。唇とは心理学や吸茎の例を持ち出すいとまもあらばこそ、女性器の明確すぎる暗喩だからである。萌えゲーにおける愛玩の対象が二次元の少女であることを考えれば、唇への力点が周到に回避される裏には全く首肯できる道理が存在するのがわかるだろう。途中で話がそれたがつまり、萌えゲー愛好とは巨大ディルドーと同義なのだ。巨大ディルドーを繰り返し使用して婦女子の皆様方には大変申し訳がたたないが、萌えゲー愛好を開示できる場所は巨大ディルドーを取り出すことのできる場所なのだと、上田保春は自分の在り方を肯定するための思考に意気を強める。
萌えゲーや二次元に対する性愛へ向ける一般人の嫌悪はほとんど自動的なのは、教育的・教養的過程を踏んでいないからだ。つまりそこに至る論理や歴史の一切を前提としないので、彼らを説得したり懐柔したりするのは不可能なのである。上田保春は自身の経験からそれを知っている。高校生のとき、田舎から泊まりに来た祖母が彼の自室にあったアダルトゲームの紙箱――青い着物の袖を噛んで何かに耐える表情の少女がこちらを見て涙を浮かべており、販促用の帯には『今夜も不義密通』と記載されていた――を見たときの表情と、その後の反応を彼は一生涯忘れないだろう。
当時の祖母は八十五歳、その年齢に至るまで腰も曲がらずかくしゃくとし、毎朝四時に起床しての畑仕事を半世紀以上現役で続けてきた彼女が触れるメディアといえばかろうじて宗教系の新聞くらいのもので、アニメはおろか老大家による新聞四コマ以外の漫画すら見たことのない昔人であった。つまり、現在で言うところの萌えゲー的なものどもに対する教育・教養は一切無かったのだ。その反応は当然、上田保春が体験したものよりもっと中立的でしかるべきだったはずだ。しかし、祖母の反応は全く公平ではなかった。孫にこづかいをやるつもりで入ってきたのだろう、笑顔の皺に顔のパーツをすべて埋没させた祖母はパソコン机の上に置いてあったアダルトゲームのパッケージを目にした途端、たちまち表情を失って皺の底から恐ろしいほど大きく目を見開いた。それはまるでハリウッド製の特殊メイク技術を早回しで逆に見ているような劇的変化だった。祖母は怪鳥のような悲鳴を上げ、大声で上田保春を下の名前で呼ばわった。ベッドに横たわって雑誌を読んでいた彼は驚愕のあまり床へ転がり落ちた。そのあまりの大音声に、台所で炊事をしていた母親が洗剤の泡を手につけたまま飛んできたほどである。母親というものはすべからく息子の性癖を知っているものであるから、無論息子の二次元性愛傾向には気づいていたはずだ。しかし、面と向かって何か具体的なコメントを加えたことは無かった。だから自分の性癖の持つアブノーマルさについて、上田保春は思うよりも油断があった。友人の多くが週間漫画誌のグラビアを自慰の素材に使っているのを横目にしていたのだから、もちろん全く自覚が無かったわけではない。しかし、せいぜいが文化的な差異、肉食と菜食の違いくらいの気軽さで考えていたのだ――祖母に大音声で罵倒される、この瞬間までは。祖母は彼を正座させ、手にした杖でゲームのパッケージを幾度も打擲しながら実に三時間、彼を罵り続けた。昔人の語彙の中には上田保春には意味のわからないものも多くあったが、彼の理解した部分を要約すれば社会的、倫理的、道徳的、果ては神学的――お天道様、という言葉を祖母は繰り返した――におまえのやっていることは下劣極まりない、という内容だった。おまえは鬼の子である、とも言われた。そのあまりの剣幕に取りなそうとしていた母親が泣き出し、つられて意味もわからず小学生の弟が泣き出し、母親と弟を軽い気持ちの二次元性愛で泣かせた情けなさに上田保春自身が泣き出し、祖母は泣くくらいなら最初からするなといった内容を昔人の語彙でおしかぶせ、いったいその大混乱がどうやって収拾したのか思い出せないほど、それはもう大変な有り様だった。萌えゲーへの嫌悪はIt’s automatic、「どうしようもなくそうなってしまう」もので説得や弁明の余地がないと考えるのは、この体験が元になっている。
百歳を越えて祖母は未だ存命中なのだが、いまやあの頃の硬骨の人から恍惚の人へと変化してしまった。成人してからも会う機会は何度となくあったのだから、あのとき何故あそこまで激烈な反応を見せたのか一度でも聞いてみれば良かったと上田保春は後悔している。子どもの頃に通い馴染んだ商店街が大手資本の巨大スーパーにとって変わられるとき、あの町並みは確かに眼前に存在しているのに、それはもはや自身の脳裏にしか無いのだということを信じられない瞬間がある。祖母の脳細胞は着実に破壊され、萌えゲーおたくと一般人との間にある避けがたい不協和音の実在を上田保春に刷り込んだあの事件の真相も、もはや子どもの目線の高さで聞く商店街のさざめきと同じ手の届かない遠いところにあった。二次元の少女を見たとき、祖母の心の中に沸き上がった感情は、祖母を強くゆさぶった倫理観は、いったいどのようなものだったのだろう。それがわかりさえすれば、自分は世界と和解できるのではないかと思う。しかし、それがわからない以上、齟齬を齟齬のまま生きていく他はない。