制服の袖が気に入らず、いらいらと歯でしごくのをいさめながら、旧棟の一角へと向かう。変形した岩や、表皮をむきだしの丸太があちこちに転がっている。
地面にあぐらをかいた屈強な数人が、一斉にこちらを見る。いずれも、歪なほどに膨れあがった上半身を露にしている。気の弱い者なら、もうこれだけで謝って逃げ帰りそうだ。
けれど、ぼくの姿を認めた途端、たちまち皆が相好を崩した。いまや、ちょっとした有名人あつかいだ。
見覚えのある顔が近づいてくる。
「ご無沙汰です。挨拶に上がりたかったんですが、どうも入れ替わりの入院だったみてえで。傷の方はもう大丈夫なんですかい?」
愛想たっぷりな筋肉質の大男を、あまり気持ちのいい眺めとして感じないのは、おそらくぼくの偏見だろう。
「看病が良くてね」
何しろ、五人がかりだ。そのうちひとりが暴れまわるのを止めるのに、いつもひとりが忙殺されていたから、実質は三人がかりだったけど。
「そうでしょう。学園を救った人物を死なせるわけにはいきませんや」
どうやら、正確には伝わらなかったらしい。
「親爺さんはいるかな」
「朝からお待ちかねでさ。さ、どうぞこちらへ」
屈強な見かけに可能な限りのうやうやしさで、奥へと案内される。
無理に押し入ろうとする部外者あらば、たちまち打ち倒してしまうだろう若いプロテジェたちが、直立したままでぼくに敬意を表している。その目に映るメンター・ユウドは、虚実ないまぜに水ぶくれしたものに違いない。
こういうのは、すごく苦手だ。
ノックをする拳が扉を破らなければいいがと、いらぬ心配をする。制服の袖は、ほつれはじめている。今朝おろしたばかりなのに。
「メンター・ユウドをお連れしました」
「おう、入れ」
なつかしい胴間声。その響きへ安らぎを覚えるのに驚いた。ぼくはこの安心に飢えていたのだ。自分以上の人物を演じるのは、たとえ必要であっても神経を使うから。
部屋に入ると、床は足の踏み場もないほど本で散乱していた。四方の壁にしつらえた、実用一辺倒の頑丈そうな本棚は天井まで届き、すべてが本で埋まっている。
机に積み上げられた本の谷間から、気むずかしい表情がのぞく。
そのいかつい顔に、恐ろしく小さく見える鼻眼鏡がちょんと乗っているのを見て、ぼくは思わずふきだしてしまった。
「なんでえ、そんなにおかしいかよ」
子猫でもつまむみたいに、太い指で鼻眼鏡をもぎとりながら、体技科長は少し赤くなった。
「まあ、なんだ。劣等感の裏返しってやつよ。俺ァ、バカだからな」
言いながら、無造作に本の山を手ではらいのけ、ぼくたちの場所を確保すると、飼い主の命令を待つ忠実な犬のように戸口で背筋を伸ばすメンターへ、手をふって人払いを命じる。
久しぶりに差し向かいで対峙するが、なんだか言いたいことが多すぎて言葉にならない。それは、体技科長も同じだったのだろう。儀礼的な挨拶を交わすと、すぐに沈黙が降りた。
「おめえのとこに、編入させるんだってな」
会話の接ぎ穂はマアナだった。
「ええ。来月から、年少組であずかります」
制服の袖を口にふくんだままの頭に、そっと手をおく。マアナはきょとんとした表情で、ぼくと体技科長を見比べる。
「いいことだ。どんな子どもも、日常ってのにもどしてやる必要がある」
プロテジェを見るときの優しい微笑み。やはりこの人は、根っからメンターなのだ。
そして――
「俺は、今日限りで引退することに決めたよ」
いつかはやってくることだと知っていた。しかし、それは漠然とした予感に過ぎなかった。
「まだ学園長にも言ってねえ。おめえさんに、最初に伝えとこうと思ってな」
「あなたがいなくなったら、いったい誰が学園を守るんですか」
思わず、言っていた。いったん口に出したことをこの人が引っこめるとは思わない。だとすれば、引き止める言葉は体技科長を辛くするだけだ。それでも言わずにいられなかった。
「おまえがいるじゃねえか。スリッドもいる。うちの若いのもいる」
「ぼくだけでは無理でした。あなたがいなければ、今頃は学園も無かった」
「そりゃ、買いかぶりすぎってもんだ。俺たちは究極、殴りっこで負けないことだけを信条にしてんだ。 遠大な作戦なんてのとは、無縁の存在だぜ。それによ、うちの若い連中がおめえに向ける視線を見ろ。一度でもみんなの期待に応えたやつにゃ、応え続ける義務がある」
「いつかその期待が、学園を破滅させるとしてもですか。重すぎて、到底ぼくだけでは背負いきれません」
体技科長は浅く座りなおすと身を乗りだして、まっすぐにぼくを見つめた。まるで、聞き分けのないプロテジェを我慢強くたしなめるときのように。
「背負うとか、背負わないとか、そんな難しい問題じゃねえ。ただ、決して手を離さないことを決めるんだ。そして、死なないように生きればいい。生真面目なおまえさんにゃ、それだけで十分だよ」
「ぼくは、あなたからもっと多くを学びたい。なぜ今日なんですか」
プロテジェ時代、聞き分けのなさでは人後に落ちなかったぼくは、さらに言いつのる。
それが、すでに甘えであるとはわかっていた。
「スリッド、な。ありゃあ偏屈だが、言ってることはおおむね正しい。今回、俺は独断専行的にやりすぎた。その責任を取らなくちゃならねえ」
「学園を守るためでした」
「そう、学園を守るためだった」
節くれだった手で眼鏡をもてあそびながら、体技科長は少し黙った。
「あのときな」
眼前の年老いたメンターは、ふっと短く息を吐いた。
「殴りつける瞬間、失敗がわかった。ほんのわずかに、力が足りなかった。予測を誤ったのか、打撃が衰えたのか。あらかじめ頭の中に描いた像を身体が完全に追う。そうすりゃ、この世に壊せないものなんてなかったのによ」
他の二人のことには、触れようともしない。この人は、そういう人だ。どこどこまでも、己に責任を求め続ける。
「すまなかった。この通りだ」
机上に額をすりつけるようにして、体技科長が頭を下げた。
この臆病で、死にたがりで、いつも責任を投げ出す相手を探している、弱虫メンターに。
「謝るだなんて」
ぼくは胸が詰まって、何も言えなくなる。
「思い通りに身体を動かせなくなったら、それがいつだろうと引き際だと決めてきた。動けない体技科メンターなんざ、クソの役にも立たねえ。そうなったら、俺がいることで誰かが入れなくなってる場所を、きっと譲ろうってな。余力を残して、と思うかもしれねえ。迷惑をかけた分を死ぬまでつぐなえ、と責めるかもしれねえ。けど、これは俺のかっこつけだ。俺のわがままなんだよ。どうか許してくれ。他の誰かじゃねえ、おまえに許してほしいんだ、ユウド」
この人にそれを言われて、どうして断れるだろう。
想いを口に出せば、いい年をして泣いてしまいそうだった。ぼくは黙ったまま、ゆっくりとうなづく。
「ほっとしたぜ。なんせ、学園長以上の難敵をまず攻略できたんだからよ」
体技科長は、晴れ晴れとした笑顔で言った。
「安心しな。おまえさんが呼んでくれりゃ、いつでも助けにくる。義理堅いところだけがとりえでよ。俺ァこのさき、メンター・ユウドから永久に貸りてるんだ」
もし、斥候が行われなかったなら。
もし、議場の発言がなかったなら。
もし、リンの才能がなかったなら。
もし、シシュが敵を減らさなかったら。
もし、スリッドの計算がなかったなら。
もし、スウが跳躍していなかったなら。
もし、マアナが噛みつかなかったなら。
結局、ぼくひとりでは何ひとつ達成できなかったのだ。
マアナがぼくの右手をがりがりと齧っている。はげまそうとしての甘噛みなのか、本気で人間を食べてやろうとしているのか。
手のひらの感覚すらわからないほど、呆然としながら歩いた。どうやら、無意識にドミトリへ戻ろうとはしたらしい。
「あいかわらず、薄ぼんやりと生きてるみたいだな」
大きなお世話だよ。声のする方へ振り返って、仰天する。指先にまで染みこんでいた呆然自失が、血とともに逆流して脳天から飛びだしていった。
とたん、右手が痛む。この娘、本気で食べるつもりだったらしい。
「帰られていたとは、存知あげませんでした」
ぼくの身体は油の切れた蝶番のような動きで、ぼくの首を追った。
声の主は腕組みをしたまま、山のように積み上げた荷物に腰かけ(どうやって登ったのか)、実に不機嫌そうだ。
「いま着いたんだよ。あいかわらず、とっぽい男だ。その調子だと、先回りをして迎えに来たってわけじゃなさそうだな」
上下を包む真っ赤な衣服は、少なくとも旅装って感じじゃない。けど、金髪碧眼の中性的な顔立ちには、おそろしく似合う配色だ。
「近々に遊学を終えられるという情報は、ありませんでしたもので」
「ちぇっ」
ボスは子どもみたいに、露骨に舌打ちをした。実際、その外見はシャイの兄と言っても通じそうなくらいだ。
言語学科は実力第一主義である。能力が具現化するのだから、これほど序列がつけやすいことはない。極端な話、たとえ三つの子どもだとしても、能力さえ示せば明日から学科長になれる。
しかし、実は史学科長と同期だとか(これはキブの話)、地獄で悪魔を手玉にとって不老不死を得たとか、グラン・ラングで光の屈曲率を変えて幻覚を纏っているのだとか、とかく奇妙な方の噂が絶えない怪人物なのだ。
「せっかくおまえのことを心配して帰ってきてやったのに、どうにも官僚的な受け答えじゃないか。ちょっと留守にしてる間に、学園の自由な気風は失われてしまったみたいだな。それに言語学科のはしくれなら、グラン・ラングでちょいちょいと未来予知くらいはしてみせろよなー」
誰もできません、そんなの。もしかして、この人ならできるのか。
「まあ、でも、楽しいことはまだ残っているみたいだな」
ボスはわずかに目を細めて、値踏みするようにぼくとマアナ見下ろした。背筋をかけあがるのは、快感というよりむしろ悪寒だ。
「それに、少しは使うようになったみたいじゃないか。まだまだ、学科長様の半分くらいだけどな」
ということは、永遠の四分の一くらいを踏破できたというわけだ。この短期間で嘘みたいな大進歩じゃないか。
「けど、ふつうのメンターのくせに調子にのるなよな。学科長はえらいんだぞ。こんなこともできるんだぞ」
上に立つ人間のくせに、部下の成長を喜べない。負けず嫌いが玉に瑕――いや、玉はもはや元の表面を残さないくらいに瑕だらけだ。
ボスは両手の親指と人差し指で四角を作ると、崩れ落ちた東の尖塔へ向けてグラン・ラングをつぶやきはじめた。
その施術の正確さと、何より美しさにぼくは目を見張る。以前はさっぱりだったのが、くやしいことにボスの見立て通り、いまや半分くらいは意味がわかる。
半ば本気で、口の悪い金髪少年くらいに思ってた。こんなにすごい人だったのか。
音曲にも似たグラン・ラングの響きが、風に消える。
そして、時間を高速で逆回しにするかのように、吹き飛んだはずの尖塔が元通りの姿へ復元したのである。
驚愕に口を開けっぱなしにするぼくを見て、ボスは満足そうに「ふふん」と鼻で笑った。
「ざっとこんなもんだ。でも、過去の実像を投影しているだけだから、あそこに入ると大変なことになる。なにしろ、時間の流れが違うんだからな」
確かにすごい。すごいけど、いったい誰の得になるんだ、この施術は。学園に偏在する不思議スポットや怪奇現象の多くは、もしかするとこの人から発しているのかもしれない。
そして、間髪を入れず、
「わからないけどなっ」
出た、決め台詞だ。頭痛がやってくる前兆を薄く感じる。
言いながら、ボスは荷物の山から飛び降りる。間近で見れば、憎らしいくらい秀麗な横顔だ。
「とりあえず、学園長にただいまを言ってくる。それと、今夜はおかえりなさいパーティをするから、メンターとプロテジェを集めといてくれ。参加できないメンターの給与査定はゼロ、プロテジェには必修科目に及第点をやらないから、ちゃんと併せて伝えておくように」
こんなわがまま人間が戻ってきたというのに、どこかほっとしているのに気づいて、自己嫌悪に陥った。
つくづく自信のない、依存型の人間なのだ、ぼくは。
金色の後れ毛を風になぶらせながら、言語学科長は颯爽と歩み去った。
残されたのは冴えないメンターと、腹を空かせた少女と、荷物の山。
やっぱりこれは、ぼくが運べってことなんだろうな。
持ち上げた手近の旅行カバンは、いったい何が詰まってるんだというくらいに重い。その重さは、再び日常がはじまったことを改めて教えたのだった。
偉大なる永遠の補佐官、またの名を万年ナンバー2、メンター・ユウドの修行時代が再びここに幕を開けた。
いや、幕は閉じられたのかな。とほほ。
<了>