猫を起こさないように
One more final
One more final

One more final

 二階から数時間ほど聞こえてきていたかすかなうめき声が途絶える。
 テレビを消してソファから立ち上がると、洗面所に向かった。
 ぼくは手を洗うのが好きだ。清潔な泡に汚れが溶けてゆくのを見ると、その当たり前の正しさにいつだって胸がつまるような思いになる。
 流れ出る水に両手をこすりあわせながら、なぜかずっと昔に読んだ漫画の一場面が浮かんだ。
 自分の両手に血がこびりついている幻影から逃れられず、真夜中にひとり手を洗い続けるボクサーの話。なぜその男は両手を洗い続けていたのだったか。
 理由を思い出す前に、ぼくの両手はすっかりきれいになった。
 窓から差し込む陽光に手のひらを透かしてみる。
 昔、祖母がぼくの手をとって、苦労の無いきれいな手だと言ったことがあった。
 ゆっくりと両手に顔を近づけてみるが、ただ石鹸の香りがするばかりだった。
 久しぶりに玄関の扉を開いて、外に出る。
 目映いばかりの陽光に、ぼくは一瞬世界の上下が無くなったような錯覚を覚える。
 しかし目が慣れてしまえば、微睡むような昼間の住宅街が広がっているばかりだった。
 門扉に身体をあずけ、誰かが通り過ぎるのを待つ。
 しばらくして、よく太った婦人が痩せた犬を散歩させて来るのが見えた。ぼくはとびきり大きな声で婦人に挨拶をする。
 婦人は驚いたような、奇妙なものを見るような空白の後、作り笑顔で会釈をする。ぼくの噂はきっと界隈に知れわたっているに違いない。
 足早に通り過ぎようとするところへ、さらに他愛のない話題を投げかけて引きとめる。
 居心地の悪そうな表情をして早くこの場を離れたがっていることがわかったが、ぼくはことさらにもったいつけて話を長引かせた。
 ぼくの話が途切れるのに、ほっとした様子で立ち去る後ろ姿を見送りながら、あの婦人はこれから何度も今日の会話を誰かに吹聴することになるに違いないと思った。繰り返すうちに勘所をつかみ、彼女の話術が次第に長けてゆく様を想像すると、自然と微笑みがこぼれる。
 ここ数日分の新聞や広告を取り出そうと、中身に押されて蓋の浮いた郵便受けを開けた。
 足元に政党の広報誌や町内誌が散らばる。かがみこんで、そこに白い封筒がまじっているのに気がつく。
 切手は貼られておらず、表書きにぼくの名前だけが書かれている。動悸が速まるのを感じながら、封を切る。
 古風にも青いインクで手書きされた二枚の便箋が入っていた。
 「私の作り出してきたものが所属する文化は、精神の死を前提としていない。だが、肉体は死ぬ。君の苦しみの正体はそこにある。だから、死を選ぶことは間違いではない。死を生涯の前提としない文化に所属する以上、いつどこで精神を終えるかを選択することは、全く個人の決断によっている。肉体の死と精神の死が乖離している以上、生物としての終焉を君自身に追いつかせることは、醜悪な結末を見ることになるだろう。我々では、肉体的な死を許容する精神の在り方を完成させることができないからだ。少なくとも私には方法を見つけ出すことができなかった。君ならできると思うわけでもない。しかし、可能性は常に残されている。決断を下す前に、君はまず考えるべきだ。
  私は、私以外の思考がこの世に存在することをただ許せなかった」
 差出人の名前はどこにも書いていなかった。
 懺悔の聴聞僧の条件は、告白の相手と最も遠くにいること、そしてうなずきをしか知らないこと。
 ぼくは泣き笑いのように顔を歪めるが、それは手紙に書かれている文字を滲ませるには至らなかった。
 便箋を丸めて、庭の灌木へ向けて投げる。それは湿った日陰の土の上に落ちた。
 「――」
 家の中へ戻ろうとして、名前を呼ばれるのを聞いたように思った。
 振り返っても誰もいない。
 しかし、今度は確かに聞こえた。
 段差に足をとられて片方のサンダルがぬげたが、ぼくは構わず通りへ飛び出した。
 辺りを見回しても、真昼の住宅街に人気はない。
 「――」
 また。
 ぼくは声のする方へ身体を向ける。
 はたして、そこにあるのはぼくの家だった。
 玄関の扉が、内側からゆっくりと開いていく――
 姿を現したのは、母だった。
 こみあげる恍惚に耐えるように瞳は潤み、頬は薄く紅潮している。その姿は若々しく、ただ輝くばかりに美しかった。
 脳の裏側に刺さるかすかな違和感。
 絵の具のような質感で塗られた彼女の肌はまるで――ではないか。
 瞬間、目の前を光の粒子の群れがよぎった。ぼくはよろめくように数歩後退する。
 砂嵐のようなそのノイズがやがて視界から消えると、後頭部にあった棘のような違和感は完全に消失した。
 長くぼくの頭蓋を占め、人生そのものと同義になっていた綿のような苦痛は無くなっていた。
 全身が脱力するようにゆるみ、これまで経験したことのない多幸感に圧倒され、目頭が熱くなる。
 グラマラスな姿態を蠱惑的に揺らしながら、母がぼくに歩み寄ってくるのが見えた。
 そのとき、水面に急浮上するダイバーのような唐突さで、なぜか”現実感”という単語がぼくの認識を乱した。
 しかしそれは刹那のうちに消え、心は元のように凪いだ水面を取り戻す。
 これ以上ないほど優しい仕草で、母がぼくの肩に手を回す。その指先から全身に温もりが広がって、胸の内は喜びに満ちる。美しい母と仲良く寄り添うぼくの姿を、誰かに見て欲しかった。いまや何の言葉も必要なくぼくは認められ、愛されていた。
 ずっと何を勘違いしていたんだろう。まるで青い鳥の逸話のようだ。待ち望んでいた幸福は、ぼくが気がつかなかっただけですぐそばにあったのだ。
 明日からは何をしよう。ああ、明日が待ち遠しい! 明日のことを考えるだけで胸がわくわくする。この感覚こそが、自由な人間の喜びなのだ。
 そうだ。子どもの頃、毎夜布団に入る前はいつもこんな喜びに満ちていた。ずいぶんと長い間、ぼくは人としての喜びを忘れていた。しかし、これから時間はたくさんある。これまでの不幸を取り返す時間はいくらでもある。
 最愛の人に肩を抱かれて期待と希望に胸をおどらせながら、ぼくは背後に扉の閉まる音を聞いたのだった。  <了>